愚慫空論

世界はこんなにも美しいのに

別のテーマを考えていたのだけれども、予定変更。理由は2つのブログ記事を読んだから。

 『地域格差は、娯楽の格差/なぜ東北の人々はパチンコに並ぶのか』
   (デマこいてんじゃねえ!)


 『世界はきっと思っているよりも美しい』(hiyokoluv’s blog)

どちらの記事も書き手は私よりもずっと若いはずだ。若者らしい自信に溢れる文章。中年オヤジの私が読んでも好感が持てるし、自身を若者とカテゴライズしている者たちには大いに共感を呼ぶだろうと想像する。それはいい。

だが。オヤジとしては言いたいことがある。気に入らない部分がある。若者が自信に溢れるのはいいが、傲慢なのはいただけない。

東京や大阪、名だたる大都市で数え切れないほどの娯楽と競合し、勝ち残ってきたエンターテインメントだ。パチンコはいわば娯楽界のスーパーエリート。そんな「めっちゃ面白い遊び」が、それまでろくな娯楽のなかった地域にある日突然やってくるのだ。郊外型のビジネスとして最適だからという理由で。

パチンコ中毒になるな、というほうが無理だ。

(デマこいてんじゃねえ!)


大人をバカにしている。バカな大人がいないわけでは、もちろんない。だが、大人がみんなバカなのではない。

娯楽とは所詮は暇つぶしである。大人はそのことを知っている。この若者もわかってはいる。だが、そこがわかっていればパチンコ中毒になどなりはなしないということは、わかっていないようだ。パチンコ中毒にはまってしまう大人は、暇を潰すしか仕方がない者たちだ。仕事を奪われた大人たち。

おっと。「仕事」を「稼ぎ」とを混同してはいけない。「仕事」とは文字通り“事に仕える”ことだ。

 『人間はどうして仕事をするのか』(愚樵空論)

以前、私が紀州で暮らしていた頃には周囲にパチンコ大好きな大人たちが沢山いた。山の仕事は雨の日は休みになる。そして雨の日は、畑もできなければ釣りも鉄砲にも具合が悪い。「仕事」に向かないのである。そんなとき、彼らが向かうのがパチンコ。数十キロも車を走らせて、パチンコ屋に向かう。哀しいかな、人間は無為に絶えられないように出来ている。

無為といえば、仕事場へ往復する車の中も(運転手を覗けば)無為な時間だった。そこで「暇つぶし」が為されるわけだが、そのやり方がパチンコの話、ということも多かった。何が出てくるとリーチでとか、何々が出てきたのに連チャンにならかったとか、単発がどうの、時短がどうのと、延々繰り広げられる。パチンコに興味のない私は正直閉口していたものだった。

それで私はあるとき一計を案じて、パチンコ好きのジジイたちに別の娯楽を提供することにした。


このような音楽を車の中で流してみたのだ。果して、往復2時間の車中は「歌声喫茶」となった。

私自身の趣味としては、モーツァルトかJ.S.バッハでも聴きたいところである。だが、それではジジイたちの暇つぶしにはならない。パチンコの話を延々とされるよりは、モーツァルトに比べて低俗な音楽で妥協しよう――と、最初はそんな具合に考えた訳だけれども、ジジイたちと接しているうちに「低俗」といったような区分けこそが低俗だと理解した。ジジイたちは「仕事」のなんたるかに知悉しており、娯楽はあくまでも暇つぶし。娯楽に高尚も低俗もない。仕事を識っているということは「世界の美しさ」を識っているということであり、それこそが文化なのである、

地方には娯楽がない、人々は刺激を求めて都市部に出ていく、すると消費者が減るため、維持可能な娯楽がますます絞られ、多様性を失っていく。その結果、地方にはますます娯楽が無くなる。どんなに仕事があっても、娯楽の失われた地域に人はいつかない。東北は復興特需に沸いている「はず」だという。では、東京からボランティアに行った若者のうち、一体何人が東北に残っただろう。たとえ必要とされる仕事があっても、「楽しいもの」が無ければ人は去る。文化が砂漠化してしまったら、そこに花は咲かないのだ。

(デマこいてんじゃねえ!)


娯楽が多様であるに越したことはないだろう。暇つぶしであってもその選択肢が多数あることは悪いことではない。だが勘違いしてはいけない。「仕事」と「稼ぎ」は同じではないし、暇つぶしとしての娯楽の多様性が文化度の尺度ではない。高尚さと文化度の高さとが比例しないのと同じように。それは少なくとも、日本を下支えしてきた「百姓」たちの文化の在り方ではない。

日本はサムライの国などではない。貴族の国でもない。百姓の国なのである。
(百姓というのは、百の仕事をするから百姓なのだという。)


娯楽の多様性が文化度の尺度であるという考えそのものを誤りとはいわない。だが、そうした方向性からは見えないものもある。見えないことに気がつかずに自信満々でいられること。これを傲慢という。

福島で原発が事故を起こし、膨大な放射性物質を撒き散らした。その影響で広大な農地が汚染された。そのことを儚んで自殺した農家の人がいたという。広く報道されたからご存知だろうが、傲慢な若者にはこの農家の文化度の高さは理解できまい。

自殺について是非がある。善悪を論じる余地がある。だが、その行為が人間の文化度の高さゆえに起因することには議論の余地はあるまい。自殺は、ある意味究極の文化的行為である。

自殺した農家の人の自殺の原因が「美しい世界」が穢されたと感じたからであろうことは容易に推測できる。娯楽の少なさに絶望したわけではあるまい。人間はそんなことでは絶望したりはしない。「美しい世界」へと向かう「一生懸命」を否定されたときに絶望する。「一生懸命」が「一所懸命」でもあるのは、日本の百姓文化の一側面だ。

「一生懸命」この言葉を聞いてみなさまはどんな思い出を振り返るでしょうか。部活、受験、恋愛。様々な形こそあれ、その多くはおそらく何らかの価値を持つものであるように思えます。では、僕らの思い出のあっちこっちに付随するこの不思議な言葉~一生懸命~そもそもこれはなんなのでしょうか。

僕は一生懸命とは自分の存在理由を自分以外に置くことだと思っています。

(hiyokoluv’s blog)


いいね。いいところへ行っていると思う。だが、少し違う。「一生懸命」とは、自分の文化度を命懸けで高めることだ。だから存在理由というならば、自分以外にはない。ただ人間は、他者を媒介することによってしか自身を発見できない。構造的にそのように出来上がっている。

世界はこんなにも美しい。それは自明なことだ。遠くへ旅などしなくても耳を澄ましさえすれば、自分のすぐ足元で見つけることができる。とはいうものの、「耳を澄ます」ようになれるには遠くへ旅をしてくる必要はあるかもしれない。「耳を澄ます」ことを阻むのは不信である。自身に信頼が置けないように他者にも信頼が置けない。この不信のループから抜け出すのに旅は有効な方法ではある。

世界の美しさを見出したいのなら、ただ信じればよい。「ただ信じる」という無為にも似た行為を実践すればよい。ところがこれが難しい。無為に似ているからこそ人間には難しい。

私に樵の技を教えてくれたジジイたちは、「仕事」という有為を通じて「無為に似たもの」をも教えてくれた。山仕事はある意味で暇である。身体は忙しい。だが頭のなかのある部分は暇になる。それを無為だと思うと退屈で時間が長く感じる。しかし「無心」になるとすぐに時間が経つ。無心と無為は似ているが違う。ジジイ達は無為の時には暇を潰そうとするが、無心の時間はとても大切にしていた。無心に過ごすことが仕事だと言ってもいいくらいだ。そして無心を大切にするジジイ達は、例外なく信心深かった。ジジイ達には「美しい世界」を見ていたのだ。少なくとも私はそう思っている。


「美しい世界」で思い起こしてしまったので、貼り付けておく。あくまで私の趣味として。
美しく、そして優しい世界の姿だ。


(宮崎駿『もののけ姫』を彷彿とさせる。特に出だしのところ。)

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