愚慫空論

簡素化して「声」を聴く

今回はアキラさんの記事からネタを頂戴する。

 自主性とか個性とかの向こう側(光るナス)

語りかける花

こんど石垣へ行った夜、織物をしている方々が私を歓迎してその夜、織物に関する舞踏を舞って下さった。
苧麻(ぷーひき、あさ糸)という踊りは、紅型(びんがた)の美しい衣装をまとった人々が、苧麻(ちょま)糸をひく動作をこの上なく優雅に舞うのだった。
布さらしという踊りは藍のすがすがしい絣の衣装をつけた人々が織り上った布を海にさらす様子を舞うのである。

いずれも仕事をする女の人の仕事に対する愛情と畏敬が見事に表現されていて胸を打たれた。今の我々にこのような姿勢があるだろうか。
糸を、布を捧げもって自然の神々に礼拝しつつ舞う姿は、失いつつある私達の仕事への謙虚な思いを痛切に思いしらされたような気がした。

石垣島で織をする女性が私達は今もあの踊りと同じ気持で仕事をしていますという。
そして、織物の中に必ず一ヵ所、魂の抜け道をのこしておくのです、という。
すべてを自分がしている仕事ではない。神様にゆだねる部分を魂の抜け道としてのこしておくというのだ。

それとよく似ているのは、ナヴァホのインディアンは美しいブランケットの一隅の小さい三角を織らずにのこしておく。
最後の仕上げは神様にしていただくというのである。
自主性とか個性とかの向こう側にもう一度これらの言葉を浮かび上がらせて新しい仕事の方向性を私は考えてみたいと思ったのである。


志村ふくみの著作から引用したアキラさんは、「簡素化する」ことを目指したいという。
整体入門がぞう
(アキラさんは、野口整体という技法を修行されている術師さん。開設されているfacebbookページが充実しているのでご覧あれ。)

「簡素化されたこと」というのは、簡素に簡略に見えますけれど、それは「そのように見える」というだけですよね。その背後に、膨大な動きと時間(歴史)が隠され、かつ 常にうごめいている。


「膨大な動きと時間」を隠すわけではないのだけれども、余計なものが削ぎ落とされて見た目には簡略に映る。そういった方向に向かって丁寧にやっていきたい、と。一見対立するように思える「簡素」と「丁寧」の二項同体。そうするとそに「何ごとか」が感得される。自我が“ちょっとになって”謙虚になるのだ、と。
連塾 方法日本Ⅱ 侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力
私はここに松岡正剛がよくいう「負の想像力」というものを連想し、コメントをした。石垣島で織をする女性達が必ず一ヵ所残しておくという魂の抜け道。あるいはナヴァホたちが神様に仕上げを託して残す、ブランケットの片隅。余分なものを削ぎ落として、ついでに自我も削ぎ落として、そこに働く想像力。その産物としての神様や魂。そうした想像力の産物は「簡素」と「丁寧」の二項同体のなかから見出される

「すべてを自分がしている」わけではないという事実。

によって裏付けられる。

(「負の想像力」というのは、禅寺の枯山水の庭の“水を感じたいから水を抜く”というやり方。水は水のない庭を見る者の心の中にある。)

コメント欄での対話はなぜか道具の方へと展開する。

ちょっと違う話になるのかもしれませんけれど、優れた日本刀などはその典型だと思いますが、昔の日本の道具って、「誰が使ってもちゃんと充分に機能する」ようには出来てないと思いませんか?
その道具を使いこなす人間の側の技と道具自体とが相まって、初めて道具として機能するようにできている。
「バカでも切れる」ようには出来てないと思うんですよ。

あちら側とこちら側とが相まって、初めて「それ」が充分に機能する。
こういう感覚のところで、道具というものが作られている、育まれてきているような気がするんですよね。
こんなのも、「余地を残す」やり方と軌を一にしている感じがします。


あちら側とこちら側、つまり道具と人間とが一体になって、初めて十分に機能するように作られている。そんな道具を使いこなすには、道具の「声」を聴くことが必要なんだ、と。

ここにもやはり「負の想像力」が出てくる。

現代の私たちの常識で考えれば、道具は「声」を発しない。現代の私たちのスタンダードな想像力は「正の想像力」である。「正の想像力」は、道具の「声」からそこに【霊】を想像する。例えば「炎の魔神イーフリートが変化した炎の剣」とか。オカルトである。

しかし「負の想像力」は違う。道具の「声」というのは、実は道具を使う者の「声」である。優れた道具はあたかも人間の身体の拡張したように、つまり人間の身体の一部となって機能する。そのように作られている。道具が人間の身体と一体になったように感じられるのは、人間と道具とが〈創発的コミュニケーション〉を行なっているからである。

生きるための経済学

最初に、あなたがモノと向き合っている場合を考えよう。あなたがモノに働きかけると、そのとき、モノはあなたに反応を返す。たとえば、ハンマーでモノを叩くと、ガキンという鋭い音がする、という具合に。
 こうやって何度もハンマーで叩いていれば、その反応の具合から、あなたはモノの様子やその変化を知ることができる。このとき、あなたはモノの中に「潜入」していき、そのモノに「住み込んで」いく。ハンマーを振るうあなたとモノとを含み込んだ、一つのフィードバック回路が形成され、その回路の作動そのものが、あなたが「モノを理解する」という創発を生み出す。
 この回路は、固定した同じ運動をくり返す回路ではない。なぜならあなたはモノとの「対話」のなかで、自分自身のモノへの認識を深め、作り変えていくからである。それにともなってモノも、受動的ではあるが、モノ自身の性質に従って変化していく。たとえばこのモノとの対話が、工芸品の製造過程であれば、この運動の発展の結果「魂のこもった」美しい製品が出現する。「魂がこもっている」というのは手続的計算によって表面をとりつくろったのではなく、創発的計算によって計算量爆発を乗り越えた深い計算量によって処理された、という意味である。この回路の作動はまぎれもない創発の過程である。


 (参考:〈霊〉について 〔再掲載〕身体性=脳の拡張性

「モノを理解する」ということは「対話」であるのだから、「声を聴く」ということと同じである。この「対話」を起点として「対話の相手」を想像したとき、そこの〈霊〉を感じる。この〈霊〉は実在しない。人間の心の中、魂の外側の「インターフェイス」の中に存在する。

 (参考:霊魂

話を続けよう。

私は、以上のような「負の想像力」から〈霊〉を想像するような方向性が日本的な霊性なのではないかと思っている。人間はあらゆる存在と〈創発的コミュニケーション〉を行なうことができ、ゆえにあらゆる存在に〈霊〉を想像することができる。その想像の行き着く先が「山川草木悉皆成仏」であろう。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

 宗教の研究者たちは、教義を中心にして宗教を考察する傾向が強い。「大般涅槃経」に記された「一切衆生 悉有仏性」が中国で、人間が成仏で着るなら、その人間を支え関わりをもっている自然の生命も成仏できる、という思想を芽生えさせ、それが日本では、草木それ自身が仏性をもち、成仏を約束されていると、つまり人との関わりがあろうがなかろうが成仏すると変った。さらに石や岩も成仏を約束されているとなっていく過程に、最澄を経て中世に確立していく天台本覚思想をみるのである。そしてここに仏教がひとつの極限にまで深化した姿と仏教の自己否定を見る。なぜ自己否定なのかといえば、もしも現実にあるすべてのものが仏性をもち、成仏が約束されているとするなら、あるがままに生きればよいのであって仏教もまた必要ではなくなる可能性があるからである。

 しかし、このような考察はあくまで研究者のものである。私が重視するのは本覚思想をきいたとき、「なるほど、そのとおりだ」と思った民衆の側の精神である。この精神がなければ、中世にこれほど本覚思想がひろまるはずがない。そして宗教とは、つねに民衆の側にあるのであって、民衆のいだいていた信仰的思いが教義によって言葉を与えられたとき、宗教は宗教として誕生する。


対して「正の想像力」の果てに〈霊〉を見出すという在り方もある。その〈霊〉が唯一神へと収斂していくのは容易に想像がつく。一神教的な霊性である。

西欧から発達した近代の学問は、「正の想像力」が基盤になっている。

アテネの学堂


その基盤から霊性が抜け落ちたとき、正の想像力によって築かれた壮大な体系は欺瞞の体系と化す。今話題の「東大話法」とは、もともと「負の想像力」に霊性を見出していた日本人が、西洋の学問体系を形だけ学んだために生じたミスマッチから起きた現象だろう。

共同体の基礎理論

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。
 もっともこのようなかたちでの個の形成は、精神世界だけでおこなわれるとはかぎらない。技を極めるというようなかたちでも、個は形成される。かつての人々は自分の技を深め、高めることに熱心だったが、それもまた日本的な個の形成のかたちだったのである。自分ならではの世界を極めるのが個の確立である以上、精神世界を極めることも、技を極めることも「個の確立」なのである。


太字で強調した意味はご理解頂けるだろうと思う。

 参考:〈学〉と〈術〉



コメント

愚樵さんのブログは深いですね。
昨日頂いたコメントを読んで、改めてそう思いました。
語彙の乏しい私にはうまく表現できないのですが、今日のこの記事も、もう目からウロコです。


> すべてを自分がしている仕事ではない。神様にゆだねる部分を魂の抜け道としてのこしておく
> 自主性とか個性とかの向こう側にもう一度これらの言葉を浮かび上がらせて新しい仕事の方向性を私は考えてみたい
> 「すべてを自分がしている」わけではないという事実。

私も(と言っていいのでしょうか)、このメッセージを読んで「謙遜」ということを思いました。
そして、そんな人間が「声」を聴くことができる、と言っていいのでしょうか。

今日の愚樵さんのブログはまだ消化できていないので、こんなことしか今は書けませんが、何度か読み返すとまた新たな発見がありそうです。

(私の今日のブログに愚樵さんから頂いたコメントで紹介されていた一節を書かせて頂きました)

アキラさんの記事もご覧になってくださいね

・愛希穂さん、おはようございます。

深いのは拝借したアキラさんの記事ですね。この記事は、そこへ私の勝手な思考を載せただけ。

軸は仰るように謙虚だと思います。アキラさんの次の記事もまた同じ構えで書かれていて、これもまた味わい深い。

『千の桜には千の色がある』
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/52118303.html

愛希穂さんの記事へコメントで紹介した、小林秀雄の文章も通じるところがありますね。

「天才はむしろ努力を発明する」。天才を信仰者に置き換えて、「信仰者はむしろ努力を発明する」

ここも軸は謙虚でしょう。努力して自身を深めるほどに謙虚になることで、さらに努力を重ねていく。

小林秀雄はあの後につづけて、「努力は五里霧中のものでなければならぬ」と言っています。

「努力は計算ではないのだから。これは、困難や障碍の発明による自己改変の長い道だ。いつも与えられた困難だけを、どうにか切り抜けてきた、所謂世の経験家や苦労人は、一見意外に思われるほど発育不全な自己を持っているものである。」

ありがとうございます

ご紹介、ありがとうございました。

特にコメントすべきことはないのですが、仰るとおり日本人的感性というのは、こういうことに「なるほど、そのとおりだ」と思いやすいんだと思います。
それがヘンな思い込みの世界へと突っ込んでいかないようにと願うばかりですが、僕たちの言動をそういうことを感じ・考えるきっかけにしてもらえるといいなぁ、なんて思ってます。

続けて失礼します。

>小林秀雄はあの後につづけて、「努力は五里霧中のものでなければならぬ」と言っています。

「努力は計算ではないのだから。これは、困難や障碍の発明による自己改変の長い道だ。いつも与えられた困難だけを、どうにか切り抜けてきた、所謂世の経験家や苦労人は、一見意外に思われるほど発育不全な自己を持っているものである。」

これにも、拍手を送りたいです。

アキラさんのブログも訪問してみます。

ヘンな思い込みの世界

・アキラさん

それがヘンな思い込みの世界へと突っ込んでいかないようにと願うばかりです

大方同感なんですが、私には微妙なところもあります。というのも、思い込みであったにせよ、そこで完結できればいいわけですから。「ローカル」というのはある意味、そういうことですよね。

問題は「ヘンな思い込み」という時の基準です。たとえば世に言う「グローバルスタンダード」を基準にしたとしてそれがいいことなのかどうか大いに疑問だし、また、科学を基準にするといっても科学の普遍性も限定的でしかない。

そうこう考えると、私は「ヘンな思い込み」と思うようになった経緯の方に何かしらの問題があるのではないかと感じているんです。その経緯を追いかけていけば「ミスマッチ」も詳らかになるのかな、と。

僕たちの言動をそういうことを感じ・考えるきっかけにしてもらえるといいなぁ、なんて思ってます。

ここは文句なしにそう思います。といういわけで、これからもアキラさんには絡ませていただきますので、よろしく。 (^o^)

愛希穂さん

続けてのコメント、ありがとうございます。

アキラさんの方は、私などと違って実践的な意味でもいろいろ役に立ちます。特に「お母さん」としては有用じゃないかな、と。

是非とも日々の生活にお役立てください。

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