愚慫空論

非貨幣経済の難点~仕切り直し

前エントリーを続けるのではなく、仕切り直しすることにした。貨幣と「死の観念」とを結びつけるのには、まだ必要な部品が足りない。「続き」ではそこを補えそうにないので、仕切り直し。

非貨幣経済の難点を一言でいってしまえば、それは非貨幣であること。つまり「媒介形式」が存在しないこと。前エントリーでは媒介形式を「死の観念」と結びつけて話を展開しようとしたが、ここでは媒介形式の不在は経済そのものを不活性化させてしまう、という方向で話を進めよう。

 フリー、シェアの次に何がくるのか?(trans;)

僕は「貨幣経済としての」マーケットの規模は縮小するのではと思っています。だからある尺度から見ればみんな貧乏になる。でもお金がなくても出来ることや手に入れられるものや体験できることは格段に増えると思うし、それでいいんじゃないか、という仮説を持っています。非貨幣経済が成長して、給料が10分の1になっても非貨幣経済圏で得られる利便が10倍になればチャラにならないか、というわけで、結局、人々の幸せというか厚生レベルが上がり、貨幣+無料経済市場の総体は拡大し成熟するのではないか、と。


有り体に言って、今後この非貨幣経済の恩恵を受けようと思えば、自身を「パブリック」な存在にするか、あるいは「パブリック」に対して価値を提供する主体にならなければならない仕組みになってきています。つまり、そうしないと「人」を交換単位にした経済がうまく回らなくなります。


パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよここらの議論は右掲書あたりを下敷きにしているらしく、私はまだ読んでいないので的外れな話の展開をしている可能性もあるのだが、「人」が直接交換単位、つまり「媒介形式」になるとは考えられない。どのような共同体であっても、媒介形式は必ず存在する。

最小の共同体で在る家族における代表的な媒介形式は愛情であろう。規模がもう少し大きくなって部族社会というレベルになると風習や掟が媒介形式となる。それ以上の大きな社会では貨幣か、そうでなければ暴力だ。「貨幣は人間関係のなかの暴力性を一身に体現」しているのである。

非貨幣経済は貨幣を媒介形式としない経済、ということは、何か別のものを媒介形式にするということだ。

あくまでも「交換価値」の源泉が貨幣からそれ以外へと移るイメージです。


ネットは確かに新たな媒介形式を生み出している(私はそれを「電縁」と呼んでいる)。だが、貨幣よりも普遍性の高い媒介形式は考えられるだろうか。

リトルピープルの時代前エントリーで引用させてもらったブログのタイトルは『ノマドでいこう!』だった。実はノマドでいられるのは、普遍的な媒介形式が存在しそこに依拠していて、ゆえに他の小さな媒介形式から自由でいられるからである。右掲書は、そのあたりのところサブカル分析を通して提示して見せたものだ。ノマドの行き着く先はリトル・ピープルでしかないのである。そこを回避しようとすると、ノマドは定住民になっていくしかない。

ごく一部の人間は真の意味でノマドでいられるだろうが、社会の成員の大部分がノマドになったとすると、それはもはや社会の体を為さない無秩序な集団でしかない。

非貨幣経済は、その媒介形式が貨幣よりも限定されているがために、小さな経済圏になるしかない。よって非貨幣経済から得られる便益が貨幣経済のそれを上回ることはない。よって、非貨幣経済が拡大すると、総体としての経済規模は縮小し、個人が得られる便益も小さくなる。ここが非貨幣経済の第一の難点である。(第二の、それよりももっと大きな難点は混沌が露呈すること)。

だが、経済規模の縮小は必ずしも「幸福量」の縮小にはならない。

つづく。


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/612-fee03cd2

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード