愚慫空論

非貨幣経済の難点

[書評]働かざるもの、飢えるべからず(elm200 のノマドで行こう!)

本書で残念な点があるとすれば、ダン・コガイが経済=カネと考えていることだ。実際には、経済とカネはイコールではない。経済とは人間にとって価値あるもの(財)を生産・分配・消費する過程のことであり、それはカネ(貨幣)が発明されるはるか以前から行われていた。かつて農民は、自分たちが消費するためだけに農作物を生産した。そこにカネは媒介しなかったのだ。やがて都市に貨幣経済が興り、周辺の農村に浸透していった。経済全体が貨幣を媒介とする商取引に絡めとられるようになったのはここ数百年のことにすぎない。経済の全面的な貨幣化(monetarization)である。


経済が全面的に貨幣化したカラクリについては、自説を述べた。

 【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その1
 【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その2
 【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その3
 【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その4

貨幣経済においては【強欲】がデフォルトになってしまっている。この【強欲】を私たちはなんとかしなければならない。

いま IT が社会にもたらしている大変化は「経済の非貨幣化(demonetarization)」とでも言うべきものだ。それは砂漠化が砂漠の周辺から、緑地を浸食して砂漠に変えるように、非貨幣的な IT 経済の周辺から、貨幣経済を浸食して非貨幣化するのだ。


ITテクノロジーの進歩によって、経済の非貨幣化が進行しているという見立てには同意する。非貨幣経済が貨幣経済を侵食しているという意見にも。貨幣経済の【強欲】をなんとかしなければならないと考えている者には魅力的に見える。が、非貨幣経済が貨幣経済を凌駕することはないし、またあってはならないと考える。なぜなら、貨幣とは「媒介形式」だからである。

貨幣とは何だろうか

貨幣は通貨ではない。貨幣は、通貨的側面をもつが、それにつきない。


貨幣と通貨との違い。それは本書によると「死の観念」である。通貨とはモノやサービスの交換を円滑に行なうための「ツール」だが、貨幣はそれに留まらない。狭義の経済秩序のみならず、もっと広い意味での秩序を担保するもの。「媒介形式」とはそういう意味だ。

しかし死の追放は不可能である。合理化の制度が高度に発展して死の痕跡を消し去るように見えても、死の観念はあくまで制度のなかに貼りついて離れない。死の観念は、貨幣の形式、貨幣の観念性のなかに潜んでいる。なぜなら後で説明するように、貨幣は人間関係のなかの暴力性を一身に体現し、いわば関係のなかの犠牲者になり、そうすることで貨幣形式、つまりは関係の媒介者になるからである


社会の中から「媒介形式」を排除してしまうと、混沌が姿を現わすことになる。貨幣の中に潜んでいた暴力性が露出してくるのである。『貨幣とは何なのか』では、そうした貨幣の正体が2つ「貨幣小説」を分析することを通じて暴き出されている。ゲーテの『親和力』">ゲーテの『親和力』とアンドレ・ジッドの『贋金つくり』である。

  

ここから先は、松岡正剛センセーの文章をお借りしよう。

 松岡正剛:千冊千夜1370夜 今村仁司『貨幣とは何だろうか』

 ゲーテの『親和力』は、二組の男女が対角線的に入れ替わっていく物語である。青春時代の恋愛相手とようやく結ばれたエドワルトとシャルロッテの夫婦が、オットー大尉とオッティエリの登場によってその関係を崩壊させる。その後にエドワルトとオッティエリ、オットー大尉とシャルロッテというふうに相手を入れ替えて、それぞれにふさわしい愛の相手を見いだす。そこで新しい結合が見られるはずだったのに、それらはともに悲劇的な結末を迎えるというふうになっていく。
 一見、恋愛と結婚の話を扱っているような物語だが、それらは貨幣が人間社会にもたらした制度性に似て、恋愛と結婚が制度という“変換”によって切断されていたことが暗示されている。その融合と切断を“見えない力”で動かしているのが、ゲーテのいわゆる親和力だった。
 それは今村によると、貨幣の“見えない力”と相同的なのである。その相同的な作用を『親和力』は、ミットラーという人物に可視化させている。
 ミットラーは世間的な知識をいっぱい詰めこんでいる凡庸な人物で、他人の言うことにはほとんど耳を傾けない。いまふうに言うなら、世間的なコンプライアンス(法令遵守)のことしか重視していないような人物だ。それでも世話好きだから、けっこう好人物だと思われている。
 そのミットラーにとっては結婚こそが世間と人生を安心もさせ、安定もさせるすばらしいものであるのだが、それは社会の経済価値観が貨幣があることによって成立している制度のようなものである。それがなければ物々交換と同様に、恋愛と結婚だって足したり引いたり、交換したりすることができなくなっていく。
 社会というもの、どこかで結局は貨幣のような制度的様式が必要なのである。つまりは貨幣的なるものこそが親和力なのである。ということは、ミットラーこそは人間の姿をとった貨幣様式だったということなのだ。ゲーテはそのことをミットラーという名に刷りこんでいた。そもそもミットラーとは「媒介者」という意味でもあった。



 ジッドの『贋金つくり』は、かつてぼくが瞠目させられた小説だった。読んだきっかけは25歳のときに東販に頼まれて高校生向けの読書新聞「ハイスクールライフ」を編集していたとき、「私の一冊」を野間宏さんに頼んだところ、『贋金つくり』が指定されてきたことによる。
 急いで読んだが、心底、びっくりした。その狙いの凄まじさに圧倒されたと言ったほうがいいかもしれない。
 モチーフはそうとうに入り交じっている。いくつもの「父」とその隷属者が登場する。しかもそれらがすべて、人格・愛情・言語・価値観において、「ほんもの」と「にせもの」を争っている。なんという小説かと思った。メタフィクションなどというありきたりの手合いではない。もっともっと魂胆が凝っていた。だからたまげたのだ。
 主要な父のプロフィンタンディウーは、物語のなかでも「奇妙な名前」と呼ばれているのだが、実は「神を利用して利潤を上げる」という意味になっている。そのことはのちにあきらかにされるので、われわれにはわからない。そのかわり、息子のベルナールがこの父が「義父」であり、「偽父」であることを発見する。だとしたら息子もまた私生児であるのだから、「贋の息子」だったのである。
 裁判官のモリニエは社会的には「法の父」にあてがわれているが、子のジョルジュはこの権威を失墜させたい。折よく愛人からの手紙を盗み見て、不倫の父が「贋の夫」であることになる。二番目の息子のオリヴィエは作家志望で、まともな息子に見える。
 ところが、オリヴィエは驕慢な貴族パッサヴァンにおだてられ、くだらぬ前衛雑誌の編集長の空ポストを信じて、社会のドラ息子になっていく。物語の後半、オリヴィエはどんどん「にせもの」になっていくのである。悪貨パッサヴァンが良貨オリヴィエを駆逐したわけだ。

 このような「ほんもの」と「にせもの」が交錯する出来事を淡々と観察しているのが、この小説の語り手のエドゥワールである。
 ほとんど物語のなかでは観察者として以外の行動は見せないけれど、ところが彼はホモセクシャルで、妻のローラとはなんらの交換もしていない。二人はまさに擬似夫婦だったのだ。ということはこの物語の語り手そのものがニセの語り手だったのだ。
 実際に偽造貨幣をつくっているストゥルーヴィルーも、むろん登場している。クリスタルガラスにせっせと金のメッキを施しているのだから、この男はさしずめ「贋金の父」であろう。しかし贋金つくりは贋金を使えない。そんな危険なことはできない。贋金つくりの本質は「贋金つかい」によって実証されるのだ。
 その贋金つかいの手先になるのがストゥルーヴィルーの甥のゲリダニゾルで、このはしこい甥は、やがてストゥルーヴィルーがパッサヴァンと組んでいることを知る。そして、自分は「贋金つかい」だが、叔父たちはニセモノの文学によって「価値を偽造しているのだ」と見破っていく。
 こうして物語は複雑にからまりつつ進んでいくのだが、ジッドがこの小説によって何をあらわしたかったかは、もはや明瞭だ。言語と貨幣の相同性を徹底化させることで、金本位制が崩れていった近現代ヨーロッパの価値観の狂いを凝視しつづけたのだった。


つづく。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/611-1298cc01

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード