愚慫空論

子ども義賊たちに大人は何を贈ることができるか

「子ども義賊」のネタ元はこちら。

 どう思う「子供の義賊」― 震災現場で何が起こったか?

然し、何と言っても衝撃的だったのは「子供義賊」の話だ

それによると、避難所の子供数人が無人の気仙沼信用金庫に行き、現金数千万円を持ち出し、そのお金を全て避難所にいる老人に配ったと言うのだ。これには、警察もどうしてよいか、ただオロオロするばかり。子供いわく「義援金が集まっても現地には1円もこない。悪い事とは判っていたが、こうするしかなかった。お爺さんお婆さんは涙を流し喜んでくれた」と。


もうすでに一年近く前の話だから、いくらなんでも何らかの解決がなされただろうと思う。ネタ元の記事はそこには触れられていないし、私の方もその顛末を調べてみようという気も起きない。

人間というこわれやすい種この話を読んで最初に思い浮かんだのが、ルイス・トマスだ。最近読み返したばかりだったということもある。

「人間をその本性の深いところから突き動かしている特徴は、何かの役に立ちたいという衝動である」
「たぶんこれは私たちのあらゆる生物学的な必然性のうちで最も根本にあるものだろう」


「何かの役に立ちたいという衝動」。内発性である。内発性に従って行動するのは〈良い子〉である。

子どもだからといって〈良い子〉だとは限らない。大人に評価されることを期待して自発的に行動したのかもしれない。だとすれば【良い子】だということになろう。

子どもたちは「善いこと」をした。困っている者たちを助けようとしたのだから、それは「善いこと」には違いない。ただ、自身の裡なる衝動に従って行動したのか、他者の眼差しを意識しかどうかは、微妙だが重要な違いである。

(「内発」「自発」〈良い子〉【良い子】については、こちらを参照して頂きたい
 → 「自殺は自発的な死だと定義します」 )

 *義賊を大人のルールで裁くことができるか

さて、ここまでは前置き。本題はここからだ。「善いこと」をしたのは子どもたちである。だが、私を含め、子どもたちを眺めているのは大人である。大人は哀しいかな、必ずしも良心が「善いこと」に繋がらないことを知ってしまっている。良心はいい。それが心の内に留まっているならば。だが行動を伴うと話は違ってくる。行動には結果が伴い、結果には責任が問われる。良心ゆえに免責とはいかないのが社会のルールである。良心は当人にしか、いや、当人ですらわからないのだから。

大人のルールを子どもにも適用するなら、子ども義賊たちは法に則って裁かれるべきである。警察はオロオロすることはない。子どもはいずれ大人にならなければならないのであるし、この義賊たちは「お金が役に立つ」という大人のルールの一部を理解しているわけだから、大人が適切に教えさえすれば理解できるはずである。
(これは子どもたちを大人と同様に裁けといっているのではないことは、念を押しておこう。「大人のルール」のなかには、大人と子どもは同様に裁いてはならないというのもある。)

だが、本当にそれでよいのか。そのようにして裁いて良心の呵責を感じないのか。

もし良心の呵責を感じるのであれば、警察がオロオロするのも理解できるだろう。オロオロするのは子どもの〈良心〉が理解できるから、少なくともその〈良心〉を多くの大人が理解できるだろうと推測していることからくる。子どもの〈良心〉を大人のルールで一方的に裁いてよいものではないという理解が、まだ大人の社会の中に存在していることを示している。

この理解の中心にあるのは、子どもの〈良心〉は矯めてはならないことだと私は思う。〈良心〉とはもちろん「何かの役に立ちたいという衝動」のことである。子どもを裁くことは、〈良心〉を矯めることにどうしても繋がってしまう。大人に評価されないことは善くないことだと子どもたちは考えるようになってしまう。

私は大人に評価されることが悪いことだと言いたいのではない。それはそれで良いことである。大人になるということは大人の評価に適応するというであり、子どもはいずれ大人にならなければならない。大人の評価は常に正しいとは限らないけれども、そうしたことも含めて、子どもは大人の評価に適応して大人にならなければならない。子どもは大人の評価を気にする【良い子】を経て自発的に大人へと成長していくのが順当ではあるのだ。

 *教育は取引ではない

だが、その過程で〈良心〉を矯めてしまうのはこの上なくもったいない。何かを犠牲に何かを得るなら、それは取引である。子どもが大人になっていく過程のなかで何ものをも失わないということはあり得ないにせよ、教育が取引であるとするならば、それは哀しいことだ。というのも、私たちは教育とは贈与だと信じているからである。

では、私たち大人は、子ども義賊たちに何を贈ってあげられるのだろうか。
私は大人として〈普通〉のことをすればいいと思う。それには2つある。

1.は、子どもたちを〈よい子〉だと認めてやることである。子どもたちは純粋に〈よい子〉ではなかったのかもしれない。他者の評価の眼差しを意識した【よい子】であったのかもしれない。おそらくはその両者が入り交じっていたことだろう。それを承知の上で〈よい子〉であったことを評価してやること。

2.は、子どもたちの行動がもたらした結果責任を引き受けてやることである。だが、義賊たちが盗んだのは数千万円。とても引き受けきれるものではないと考えるのが【普通】だろう。そうすると、お金は銀行へ返却するということにならざるを得ないだろう。そして「なかったこと」にしてもらう。大人の社会の現実的な対応としては、おそらくそれが最善だろう。

だが、これでは子どもたちへの贈り物にはならない。大人が子どもたちの責任を引き受けきってこそ、贈り物になる。さらに言うならば、この2.の贈り物が贈りきれないならば、1.の贈り物も不完全なものにしかならない。子どもはバカではない。自身の行為が「なかったこと」にされてしまっては、いくら〈良心〉をお褒めの言葉を頂いても、それは言葉だけのことだと受け取ってしまうだろう。

もちろん、そうすることで〈良心〉には限界があるのだと教えることは悪いことではない。しかし、それより他に手はないのだろうか。

 *贈与は巡る

生きる技法そう考えたとき、ヒントになるのはこの本だ。

 「助けてください」と言えたとき、人は自立している。

子ども義賊たちの責任を大人は引き受ける。だが引き受けきれない。だから「助けてください」とメッセージを発する。

さらに考えてみよう。

もしそうしたメッセージを受け取ったとしたら、私たちは助けずにいられるだろうか。人間の本性から突き動かすという「役に立ちたいという衝動」を感じずにいられるだろうか。

「助けてください」と言えたとき、人は自立している。なぜそう言えるのかは、この『生きる技法』を読んでもらえれば理解できるだろう。そこからさらに言えるのは、「助けてください」のメッセージを受け取って、助けてるべく行動する者もまた自立しているということである。内発的な「役に立ちたいという衝動」に従う者は自立しているということである。ということは、実は子ども義賊たちこそが自立した者であるということだ。

この論理を奇妙だと思われるかもしれない。だが、そう思うとしたら、それは社会に適応してしまった大人の論理に染まっているからだ。大人の論理から自由になりさえすれば、この論理こそが〈生〉の論理であることが理解できるはずだ。

〈生〉の論理でいけば、子ども義賊こそが自立者である。私たち大人は、実は子ども義賊から贈与を受けたのである。彼らの盗みという行為は大人に対する贈与なのである。

私たち大人がその贈与を正しく受け取るならば、子どもたちに対して返礼をしなければならない。それが子どもの「責任を引き受ける」ということだ。自立した大人は「助けてください」とメッセージを発することでその責任を果そうとするが、これもまた贈与である。というのも、そのメッセージは受け取った者の自立を促すからだ。

この流れが実って子ども義賊たちの行動の責任が大人によって果されたとき、それは大人から子どもたちへの贈与となる。子どもたちの自立にさらなる力を与えることになる。これが〈生〉の流れである。

子どもたちは考えることをしないがために、本能的に〈生〉に従う。大人は考えることができてしまうがために、本能的な〈生〉を取り逃してしまう。なぜか。それは取引としての教育に適応することで「考える」ことを修得したからだろう。〈生〉と引き替えに考える技術を得たのである。この取引にもっとも行なった者たち――日本では東京大学に集まる――が〈生〉の論理を疎外する「東大話法」を駆使することになったのは、当然の帰結であると言える。

「東大話法」とは〈生〉を失った者たちの、〈生〉への「呪い」なのである

(「呪い」の構造については『ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛』がとても参考になることを書き足しておく。)


コメント

ひとこと

こんばんは。

>子供いわく「…お爺さんお婆さんは涙を流し喜んでくれた」と。

該当の記事のまま信じるのであれば、すぐさま子どもに「こんな大金どこから用意した!」とならなかったところで、この子らのしたことの妥当性が証明されている気がしますね。

短くてすいません。

〈良心〉の限界

おはようぎざいます

リアルではどうか、、、と、ぼちぼち考えているのですが、「息子」の〈良心〉を認めて伝えたうえで、【アカン】ということになる気がします。このアカンは本質ではなく、やはり法に触れ苦労することになる、のを子どものうちは避けさせてやりたい、という親心で、その法が【社会】にある法である、という、つまりは自分に返ってくるアカンであることは解っています。
他人の子どもであれば、〈良心〉だけを誉めたたえることもありますが、息子にはなかなかアクロバティカルになれない、自分を認めざる得ません。
はてさて〈良心〉の限界が「法」のことか、否かはまた問題になりそうです。

この話、たとえば、銀行襲撃ではなくて、老人たちの話し相手になったとか、身の回りの手伝いをした、ってほうが問題提起にはならないかもしれませんが善いでしょう。わざわざ銀行襲撃をしたってのは、単に問題提起のためだけで嫌らしさを感じます。
問題提起という意味であれば、話し相手や身の回りの手伝いでなく、銀行襲撃をさせた大人が悪いという結論になるのではないか、と思います。

ということでアカンの理由は「金で解決するなぁ」かもしれません。まあ、これも〈良心〉の限界ってほうの話になるんでしょうが。

>>子供いわく「…お爺さんお婆さんは涙を流し喜んでくれた」

第一感では、こんな老人いやじゃ!! です。駄目ですか? っていうか、問題提起のために涙を流して喜ばしたのかな?

話がとんですみませんが、子どもの〈良心〉を認め、育てよ、ってのは加藤繁美あたりの、幼児教育書あたりには頻繁にでてきたような気がします。ということで、ワタシの昔のエントリーではよく言ってた気がするんだけどなぁ。。。どこで【社会】に対して保守化してきてしまったんだろう???

「実行」

避難所にいて、説明会に行くたび「東電」の答え方には殺意をおぼえました。
「頭の中」で何度も東電や政治家をダイナマイトで吹き飛ばしました。
それは現在も繰り返しています。一度も「実行」はしていないだけです。
無人の銀行からの現金集めも同じです。頭の中で何度もかっぱらいました。
それらを周囲で、冗談半分の本気で口にする人もいましたから、
子供たちも聞いていたはずです。

被災地のコンテキスト

・すぺーすのいどさん、毒多さん、おはようございます。

すぐさま子どもに「こんな大金どこから用意した!」とならなかったところで

それが当時の被災地のコンテキストだったわけですね。平常時のコンテキストであれば「こんな大金!」になったはずです。

毒多さんが法ということを仰いますが、これは平常時のコンテキストです。震災直後の被災地では法は機能していなかったのでしょう。少なくともそれが被災民達の「肌感覚」なのではなかったのでしょうか。
(でも、お金は通用するという感覚は残っていたんですね。ここは興味深いところです。)

ただ、被災地といえども、いつまでも非常時のコンテキストであり続けるわけではない。徐々に平常時のコンテキストに戻っていきます。子ども義賊たちの行為が問題が顕在化するのはこの時点。非常時のコンテキストでは正しいと判定されたことが、正常時のコンテキストで裁かれることになるわけです。

そのことの是非は私は問うていません。すぺーすのいどさんも同じ態度のようです。ですが毒多さんは異なるようですね。あくまで平常時のコンテキストを基本に物事を考えておられる。

ここでなぜ義賊が子どもだったのかということを考えてみる必要があると思います。逆に言えばなぜ大人は義賊になれなかったのか。それは、大人ほど平常時のコンテキストへの適応度が高いためではないのでしょうか。だから実際は法が機能していないにもかかわらず、法が機能しているコンテキストと同様の行動しかできない。適応のために「肌感覚」が鈍っている。別の言い方をするなら「正常化バイアス」でしょう。

わざわざ銀行襲撃をしたってのは、単に問題提起のためだけで嫌らしさを感じます。

はっきりと言わせたいただくと、私はこの文章に嫌らしさを感じます。自身の正常化バイアスへの自省が欠けている。自身の立ち位置は揺るがないという前提に立ち、子どもたちの問題提起がその立ち位置を揺るがす。その感覚を「嫌らしい」と表現してしまうことは、自身の立ち位置の依存を正当化しているようで嫌らしい。子どもたちの方がよほど自立しているのではありませんか。

すぺーすのいどさんも毒多さんも、現代社会の平常時コンテキストがいつまでも持続することはないと考えておられると思います。また、そのコンテキストに乱れが生じ始め、年を追う毎に大きくなっているのも感得されているでしょう。「東大話法」を駆使する者たちの心の奥には、そうした乱れへの怯えがあるのではないかと私は考えています。なぜなら彼らこそ現在のコンテキストから最大の利益を経ている者たちだからです。また逆に、奇異なことですが、現在のコンテキストからは疎外されているにもかかわらず、そこへ縋り付こうとする連中もいます。例えばネトウヨと呼ばれるような人種です。これも怯えゆえにでしょう。

こうした者たちに共通するのは、自身の怯えから、未来よりも過去を重視するということです。現在を未来への出発点と捉えるのではなく、過去からの終着点と捉える。いうなれば大人の視点であり、その視点からは必然的に子どもの視点は見えなくなります。子どもは未来に属する未来の生き物だからです。

私たちの求められている「アクロバット」とは、煎じ詰めれば「過去からの視点」を「未来への視点」に改めることなんだと私は考えます。

忍耐力

・「爆破作業員」さん、こんにちは。

せっかく名乗って頂いたNHですが、勝手に「 」をつけさせていただきました。

コメントを拝見してその忍耐力に頭が下がりました。

「東電」やその仲間達への殺意は私ですら感じます。避難所で接する「東電」へのそれはその比ではないはず。にもかかわらず「実行」は思いとどまっておられる。すごい忍耐力だと思います。

そうしたなか、子どもたちの「勇気」はどのように映ったのでしょうか。蛮勇でしかなかったのでしょうか。あるいは正真正銘の勇気だったのでしょうか。もしくは大人達に褒めてもらうための計略だったのでしょうか。

怒りの無尽蔵

怒りは無尽蔵です。
でもさすがに東電の「無主物」を持ち出してきた時には
あの裁判所で爆破の「実行」寸前まで行きました。
つまり「無主物」には「実行」以外にないと思ったのです。
もちろん周囲の誰かが止めてくれたのでした。
子供たちの行為が「勇気」なのか「蛮勇」なのか、
大人たちの無意識を感知しての短絡的実行なのかはわかりません。
怒りの無尽蔵が「わたし」をかろうじて制御しているように、
子供たちの「実行」は、そのこと(怒りの無尽蔵)の無知から来ていると思います。

オロオロ

こんにちは

警察のオロオロは「良心の呵責」か、「本当に悪いのは誰か」という迷いの現れでしょうか。
いずれにしてもこのオロオロのおかげでまだ日本も腐りきってはいないという気がしました。

「金で解決するなあ」と、大人が子供に言えるのでしょうか。だって、常に金による解決に振り回され続けているのは大人で、その愚かな姿を子供たちに見せつけ、将来的に子供たちにもそれを押し付けようとしているのも大人、そのために子供を「東大」に入れようと躍起になるか、それがダメだと判ると勝手に「負け組」と決め付けるのも全部、大人です。あ、ついでに、借金苦のあげく強盗により解決を試みるのも大人です。

子供は国の宝です。人を傷つけた訳でなし、子供の犯したこんな単純な間違いは国が責任を取ればいい。それこそ金で解決しろという問題です。それよりも少しでも胸が痛むのなら、もっとましな世の中をつくるよう心がけるしかないのです。

お年よりはお金に涙を流したのでしょうか。想像でしかありませんが、本当は子供たちの思いに胸を打たれたのではないでしょうか、そう思いたいです。

o(^▽^)o

あやみさん

>お年よりはお金に涙を流したのでしょうか。想像でしかありませんが、本当は子供たちの思いに胸を打たれたのではないでしょうか、そう思いたいです。

私もそう思いたいです。つよくつよく。


まあ、そんなもんだな

>子どもたちの問題提起が

ワタシのなかでは、「子どもたちの問題提起」とは思えず、この「つくり話」をつくったのが「大人」だという判断があって、その大人への嫌らしさを感じたってことを言いたかったわけで、そうとう舌足らずだとはおもう。まあ、こんな言い訳をしたとこで、アナタの指摘がアナガチ間違っているわけではない。アタシは(特に自分の)子どもに対して【社会】にまかれろ、とはいわないが、やはり【(被災地でない)社会】的に保守的である部分が多々あり、そんな自分を自覚していて、そのことへの葛藤のなかにいる。簡単に綺麗事がいえないというのが正直なとこだ。もちろんネット上綺麗事を演じきることもできるのだが、根がバカなので正直に言うしか無い。アタシャあんたが期待するような人間じゃないよ。

>爆破作業員さん
ほんとにすみません。離れたとこに住んでいるとほんとリアリティないんです。あなた方の気持ちを蔑ろにするつもりはないのですが、ワタシには被災者のみなさんの心情が「解る」などと言えない。また「解ってない」ワタシのつまらぬコメントが被災者のみなさんを傷つけるのではないか、という危惧はしてますが、今回はいきがかりじょう書き込みました、すみませんでした。

あれっ?

なんか変な感じですね。

どくたさんは本当に正直な人だとおもいますよ。だから人気がある。

そして僕は「綺麗事野郎」です。
だからココのエントリの最初のコメントで「該当の記事のまま信じるのであれば…」と言い訳しています。
ズルイですよね。(^^ゞ

僕だって実際この「該当の記事…」は、眉唾だなぁと思いますよ。
大体新聞記事なんてそれくらいに割り引いて読まないとすぐ騙されるでしょう?
でも、きっと全くの嘘でも無いのでしょう。

要するに判んないんですよ。
そうゆう事実があったかどうか?そりゃ今よりある程度詳しく調べる方法はあるだろうけど、実行するわけじゃなし。
ホントはもっとドロドロした部分もたくさんあるんでしょうね。きっとね。

その「過去」にどんな意味があるか?なんてわからない。でも、あるのは「過去」を積み重ねた「今」です。
この場所は、いろんな「過去」の欠片を眺めては、いろんな事を出来るだけたくさん考える。
いわゆるそうゆうゲームコーナーみたいなもんですよ。

だからね。いろんな切り口あって良いんじゃないかな?

愚樵さんは、私が思うに恐れ多くも「綺麗事大王」様なのです(愚樵さんごめんね)。
僕も「綺麗事」が好き。他にも「綺麗事」好きがやってきて綺麗事コンテストやってる。

どうせ「机上の綺麗事」を持参しても現場で泥まみれに汚れるのはわかってるけどね。

どくたさんも好きな「綺麗事」あるでしょう?
例えば「憲法前文」とか「9条」とか…すきですよね?

「綺麗事」って、エネルギーになると思うんですよ。


また、支離滅裂な文章になりましたね。

まあ、今後ともよろしくお願いします。

Re:怒りの無尽蔵

・「爆破作業員」さん、おはようございます。

「怒りの無尽蔵」という表現、素晴らしいですね。

怒りの無尽蔵が「わたし」をかろうじて制御しているように、

すごい表現です。そして子どもたちの「実行」はそのことの無知からきている、と。この視点は、無尽蔵な怒りに飲まれてしまったのでは出てこないでしょうね。

Re:オロオロ

・あやみさん、おはようございます。

いずれにしてもこのオロオロのおかげでまだ日本も腐りきってはいないという気がしました。

同感です。もっともこの話が作り話でなかったならですが。

本当は子供たちの思いに胸を打たれたのではないでしょうか、そう思いたいです。

すぺーすのいどさんと同じく、です。

「胸を打たれる」といったような感情の価値は、フィクション・ノンフィクションに関係がありません。感情そのものに価値があります。

期待するのは止めません

・毒多さん、おはようございます。

子ども義賊の話がどこまで本当なのかはわかりません。ことの些細はどうでもいいし、ネタ元の筆者も伝えていない。が、「衝撃を受けた」というのは本当だと思います。この記事は「衝撃を受けた」のを受け止めることから出発しています。

もちろんその出発点を疑うことは自由です。そのことに良いも悪いもありません。ただ、話は噛み合わなくなるでしょう。実際に噛み合っていません。

簡単に綺麗事がいえないというのが正直なとこだ。

う~ん。これが正直かどうか、私は判断しかねます。「簡単にいえない」ということについては正直だと思います。が、そのように言明することで「いいたい」という内発を隠蔽していないのでしょうか。

ここも正直に申し上げておきましょう。「簡単にいえない」には「何を今さら」と思います。そんなことはこれまでも繰り返し言いってきたことです。私だけではなく毒多さん自身も。「思索をするのはエネルギーを要するのだ」と。

アタシャあんたが期待するような人間じゃないよ。

いやはや、です。期待を持たせたのは毒多さんです。「思索をするのはエネルギーを要するのだ」という双方の同意があったから私は期待をするようになった。それを私が勝手に期待を寄せたかようにいう。この態度は卑屈でしょう。

先のコメントでの私の指摘は毒多さんを傷つけただろうと思います。別に傷つけたいと思ったわけではないけれども(そんな動機は私のなかには見当たりません)、そうならざるを得ませんでした。私はそうならざるを得なかったことを毒多さんに詫びるべきでしょうか。

これまでの関係を維持することを優先し、ことを簡単に済ますのならそれがもっとも適切な判断かもしれません。が、これは【大人】の判断でしょう。

リアルな自分を直視しつつ、なお綺麗事を吐くのも「アクロバット」でしょうね。

私はこれからも期待することをやめません。それは何も毒多さんに限ったことではなく。綺麗事を吐くことと期待することとはセットです。私は私自身に期待しているから、いや、期待したいから綺麗事を吐く。そして、もはや自身に期待しつつ他者には期待しないという態度を取ることはできない。

すみません。偉そうに言いますが「もはや」です。かつては他者に期待しないで、というより、他者を貶めることが自身に期待をかけることだった時期もありました。が、もう、そこへは戻りたくありません。

綺麗事大王です( ̄ー+ ̄)

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

綺麗事大王という表現、思わずニヤリとしてしまいました。上の毒多さんへのコメントも、いかにもそれらしくなりましたね。いやはや。
(それにしても、大魔王といわれなくてよかった...)

が「大王」は言い過ぎです。私もまだまだ「野郎」です。何ごとも上には上がいます。トマス・ルイスや安富教授こそ、私から見れば大王です。そしてその安富教授は小出裕章氏やマイケル・ジャクソンやガンディーを大王と見ておられるらしい。その姿(大王がまた別の大王を見ている姿)がいいんです。エネルギーになる。すぺーすのいどさんにも私を通り越して私の「大王」を眺めて頂いきたいものです。その方が私は気楽だ(笑)

そうそう。いつも思うんですが、すべーすのいどさんの文章は支離滅裂ではありませんよ。謙遜なさっているのはわかりますが。

自分の思ったとおりのことを書いた文章は支離滅裂にはなりません。もっとも思った通りのことを書くのはなかなか難しい。これは私も日々実感しているところです。で、この難しさが自身の文章を支離滅裂と思わせてしまうのですね。

表面がいくら整っていても、内容が支離滅裂な文章はいくらもあります。

大魔王

最初は私が「大王」で、愚樵さんが「大魔王」だったんですが…(笑

>すぺーすのいどさんにも私を通り越して私の「大王」を眺めて頂いきたいものです。その方が私は気楽だ(笑)

私もさすがに愚樵さんオンリーラブじゃないですよ。いろいろ眺めては居るつもりです。
ただ私は文章を書くのも読むのもあまり得意じゃなくて、特に長いのは…
と言うわけで、私、ほとんど本読まないんですよね。読んでもナナメ読み。
だから他の人とは吸収の仕方が少し違うのかもしれません。

それとやはりこんな「綺麗事」全開のやりとりが出来るのはリアルとネットあわせてもここしかないですよ。
少なくとも僕には。リアルではやっぱこっ恥ずかしいですよね。w
てか、だれもついてきてくれそうにない。


>で、この難しさが自身の文章を支離滅裂と思わせてしまうのですね。

これは全く当たり!です。
もうなんか自分の書きたい事は溢れてくるのに、思うように書けない…ってのが…
思いつくこと思いつく度に書いてると、順序が前後になってグルグルしちゃいます。
まあ仕方ないです。元々その能力は低いようなので。
とりあえずどうしても書きたい事はがむしゃらに書くしかないですね。

これからもナゾナゾみたいな文章書きますのでよろしくお願いします。

やっぱり大魔王だったのか(苦笑)

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

私もさすがに愚樵さんオンリーラブじゃないですよ。

ははは。そりゃそうでしょう。ただ「大(魔)王」と言われたもので。

こんな「綺麗事」全開のやりとりが出来るのは

私にだってリアルで綺麗事を全開できる場なんてありはしません。それだからこそこの場は大切。でも、だからといって手放しで全開にはしたくない。お花畑にしたくはない。私が愛してやまない森は〈綺麗事〉の世界ですが【綺麗事】は一欠片もありません。そして、人間が【綺麗事】に堕ちていかないようにするためにはどうしても「理性の刃」を常に自分に向けている必要があるんですね。ここが辛いところです。

改めて考えなおしてみると、この辛さと〈綺麗事〉の快感はアキラさんが仰る「空腹の快感」に似ているのかもしれませんね。

もうなんか自分の書きたい事は溢れてくるのに、思うように書けない

それわかります。私もあるんです。1つのことを書いていると数珠つなぎに次々と書きたいことが出てきて、かえって書けなくなるんですね。そんなときは削ることです。

文章を書くときって、なんとなくですが「行き先」みたいなものが脳裏にありませんか? そこへ向かって言葉を積み上げていくという感じなんですが、ひとつの事柄にいつも書きたいことが数珠つなぎに出てきて、それにこだわってしまうといつの間にか「行き先」が解らなくなってしまうんですね。それでいいやって突っ走ることが出来るときもありますが、たいていは「道に迷う」。すぺーすのいどさんのいう「支離滅裂」ってのはこれのような気がします。

だもので、今は書きながら削りながら、で書き進めていることが多いです。書いてみて「おっと、こっちへ進むと迷うな」と感じると、戻って(削って)書く方向を検討し直す。パソコンで書くというのは、その点、便利ですね。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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