愚慫空論

「東大話法」は呪術である

原発危機と「東大話法」「東大話法」という言葉がネット上で話題になっている。ご存知の方も多かろう。

福島第一原子力発電所の事故以来、私たちは政府関係者、東京電力、あるいは立派な肩書きを背負った学者たちの欺瞞に満ちた言説を聞いてきた。そうした言説を安富歩東京大学教授が「東大話法」と命名し、それが広まった。命名が適切であったからだろう。

安富氏が「東大話法」と命名したのは、そうした話法が東大で広く観察されるためだという。が、もちろん「東大話法」は東大に限ったわけではなく、広く日本中に見られる。「東大話法」とは一言でいうならば、自分の意志よりも「立場」を優先させる生き方から紡ぎ出される話法とでもいえばいいだろうか。フクイチでの事故以来、私たちはいわゆる「原発ムラ」に所属する者たちが、いかに自身の「立場」を守るために言葉を吐き出していたかを知っている。

もちろん東大話法は東大関係者に限った話ではない。日本中に蔓延している。社会人にとって「立場」は何よりも大切なものなのだから。そしてそうした社会が東大を中心に東大を中心に構造化されている――かどうかは厳密には確認できないけれども、そうした傾向があることは間違いない――ために、「東大話法」という命名はまことに適切なものになった。

呪いの時代もうひとつ日本中に蔓延しているしているとされる話法がある。内田樹氏が指摘する「呪いの話法」だ。

内田氏が指摘するには、こちらの話法も学会という学者達の世界でよく見られたらしい。それが1980年代半ばからニュー・アカデミズムの切れ味のいい批評的知性が登場したころから際立ち、『朝まで生テレビ!』や『ビートたけしのTVタックル』といったTV番組を通じて過激化・一般化した。「ネット論壇」を席巻しているのがこの話法。

ネット上では相手を傷つける能力、相手を沈黙に追い込む能力、ほとんどそれだけが競われています。もっとも少ない言葉で、もっとも効果的に他者を傷つけることのできる人間が英雄視される。(『呪いの時代』p.14)

 (最近はこうした傾向は若干治まったように私は感じているが...)

相手を傷つけるために吐きかける言葉は確かに「呪い」である。「呪い」という表現はアナクロだが、感じは掴める。だが、「呪い」というものは、必ずしもそのように明確なものではない。もっと微妙なものもあるし、むしろそちらの方が多い。

例えば、今年の正月のことを思い出してみよう。今年の正月は「あけましておめでとうございます。」と挨拶するのが憚られるような空気があったらしい(私は知らなかった)。考えてみれば尤もなことである。日本では喪中の相手には年賀状を遠慮するという習慣がある。昨年は大災害があって、しかも未だそれが収束していない。喪中どころか真っ最中だ。そんな状況下に「おめでとう」にそぐわない。この「そぐわない」という感覚が「呪い」のもっとも基本的な感覚であろう。

言葉にはコンテンツという要素とコンテキストという要素がある。「おめでとう」という言葉は祝福の言葉であり、コンテンツは誰にとっても明確である。だが、その言葉が使われるコンテキストは必ずしも明瞭ではない。通常なら新年を迎えることはめでたいことされているから「あけましておめでとうございます。」の言葉のコンテンツとコンテキストは一致して、何の違和感もない。ところが今年はまだ「真っ最中」だ。そこに「おめでとう」ではコンテンツとコンテキストとが一致しない。そぐわない。

相手を傷つける言葉が「呪い」になるのもコンテンツとコンテキストの不一致で説明出来る。相手をバカだとなじり、相手がそれを認めればコンテンツとコンテキストは一致する。鋭い言葉に傷つくことはあってそれは「呪い」にはならない。が、相手が認めなければコンテンツとコンテキストとが一致しないことになる。一方的にコンテンツによってコンテキストをねじ伏せれば、それは「呪い」となる。

「呪い」は相手にかけるだけではない。自身にもかけることが出来る。「あるがままの自分」を認めないこともまた「呪い」となる。内田氏は「自分探しの旅」を「呪い」だという。過剰な自尊感情が「あるがままの自分」の承認を拒み、「どこかにあるはずの自分」を探すよう駆り立てる。そればかりではない。社会的地位が高く名誉も威信もあると見える人でも、現代は「呪い」にかかる。自身を「呪い」にかける。その代表として『呪いの時代』で取り上げられているのは安倍晋三元総理だが(p.22)、公務員やエリート企業に勤めるサラリーマンも例外ではない。

その端的な例が社会保険庁の年金問題でした。問題が発覚した段階で、全庁をあげて問題点を吟味し、そのときに区切りを付けておけば、仮に朝刊や高級官僚の首は飛んでも、ここまでの大事は至らなかったでしょう。しかし、役人たちは、「これは私の責任ではない、前任者がやるべき仕事を先送りしたのだ、だから私も責任を取る筋ではない」という不思議なロジックによって、事件化するまで案件を先送りした。自分の在任中に事件化しなければいいと不良債権処理を先送りし続けて破綻を招いたバブル末期の銀行とおなじマインドです。
「責任を先送り」できるのは、自分が現在起きているシステム上の不備を補正する「メンテナンス」の当事者であるという認識がないのです。「それは私ではなく、どこかにいるはずの『責任者』の仕事だ」と当の公務員達が(おそらく次官レベルに至るまで)思っていた。だからこそ、ここまで巨大な制度的破綻が生じた。
 ・・・
先ほど話した「過大評価された自己」と「先送り」はここで論理的に一致します。「ほうとうの私」はどこかにいる。今ここにいる私はまだ「ほんとうの私」になっていない、いわば熟果していない「前駆的な私」である。(p24.25)


「ほんとうの私」はいつまでたっても見つかることはない。まず「あるがままの自分」を認めていないから。ここにあるのもコンテンツ(「あるがままの自分」)とコンテキスト(「ほんとうの私」)の不一致であって、この「呪い」はシステムを破壊に導く。年金制度ばかりではない。同様の「呪い」は原子力行政を担う者にもかけられていた。

話を『原発危機と東大話法』の方へと戻そう。

安富氏は孔子の論語を引いて「名を正す」という命題を提示する。「名を正す」とはいうまでもないだろう。コンテンツとコンテキストとを一致させることである。そして「東大話法」とは東大あるいはその他の権威を用いて「名を歪ませる」ことに他ならない。

原子力という分野は、すべての言葉を言い換えることで成り立っています。

 ・彼らは、「危険」を「安全」と言い換えます。
 ・彼らは、「不安」を「安心」と言い換えます。
 ・彼らは、「隠蔽」を「保安」と言い換えます。
 ・彼らは、「長期的には悪影響がある」を「ただちに悪影響はない」と言い換えます。
 ・彼らは、「無責任」を「責任」と言い換えます。

こういう無数の言い換えが、この業界を成り立たせる基礎だったのであり、あの恐ろしい事故を経てさえ、今もそれが続いています。すでに明らかなことですが、「原子力安全・保安院」の正しい名称は、「原子力危険・隠蔽院」です。なぜなら彼らの仕事は、原子力の安全性を確保して保安することではなく、原子力の危険性を隠蔽して、あたかも「安全」であるかのように見せかけることだからです。(p33.34)



なぜこんなことになってしまうのか不思議で仕方がないが、こうした「東大話法」は私たちが実際に目にし耳にした事象である。ある一群の人間がおしなべて同じ事象を示すのであるから、その背後になんらかの原理が作動していると考えるのが合理的だろう。そして安富・内田両氏の分析は、それぞれの表現こそ違うが、同じ現象を分析して同様の結論に達していると見て良さそうだ。

「東大話法」とは「呪い」の話法に他ならず、その呪術によって日本というシステムそのものが呪われてしまっている。

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