愚慫空論

現場とは何なのか/現場とは何処なのか

これは先に書いておこう。この記事を書いてみようと思ったのは、橋下大阪市市長と山口北大教授がとある民放番組で対決して、山口教授がフルボッコにされたという噂をキャッチしたから。

テレ朝の番組で北大の山口教授が橋下市長にスーパーフルボッコにされてるとネットで話題に(2のまとめR)





「フルボッコ」の意味がよくわらないが(語感から想像はつくが)、見た感じ、橋下優勢山口劣勢なのは明らかだ。

 「現場をわかってない」にアカデミズムはどう対抗するか?(lessorの日記)

予想するに、おそらく画面上で今後も大学教授や知識人は負け続けるだろうと思う。残念ながら「論理」や「実証」をもってしても、勝てる気がしない。たとえ議論で勝てることがあっても、テレビで勝敗を決めるのは視聴者なのだから。橋下氏は、あの口調であのテンポであの表情で余裕しゃくしゃくと上から下からしゃべり続ける。「自分は現場を知っている」と主張しながら。対戦相手は熱くなれば「痛いところを突かれたのだ」と視聴者に判断されるし、冷静であり続ければ「現場と同じ目線で物を見ていない」と判断される。どう転んでも、負けた印象はぬぐえない。


なるほど、説得力がある。が、しかし、橋下市長は本当に現場を知っているのか。そもそも現場とは何なのか。現場とは何処を指すのか。私の領分である山仕事と比較しながら考えてみる。


子どもたちも森の木々も、、各々生命を宿した自然的存在である。これを〈素材〉と表現しておこう。樵を生業にしている私は木という〈素材〉を扱う現場で仕事をしている。現場とは〈素材〉を扱う場所。自然的存在である〈素材〉を育み収穫して人間社会に役立てる。樵の観点からすれば、自然と人間社会との接点が現場だ。

それは子どもという自然的存在に接する教師たちにとっても同じなのではないかと想像する。教師だけではない。人間社会に適応した大人として、例えば親として、子どもと接して育んでゆく。親と子が接する場を家庭というが、それもまた現場であろう。

だが、橋下市長の現場の捉え方は異なる。主張をよく聞いてみるといい。彼は「現場を知っている」「現場がダメだ」というが、その現場とは教育委員会・学校・教師の、社会人の世界を指して現場だといっている。
(以下、自然と人間社会の接点を〈現場〉、橋下市長のいう「現場」を【現場】と表記する。)

もうひとつ、図を提示してみよう。


産業には一次、二次、三次と分類されるのは周知の通りだが、二次産業において「現場」と呼ばれるのは通常〈現場〉という素材との関係性の場ではない(職人技の世界では〈現場〉だろうが)。工場という生産設備と作業員で構成される場が現場と呼ばれるのが普通だろう。これは素材の性質による。工場では素材を生命ある存在だとは見なさない。家畜の屠殺工場などを想像してもらえばいいが、たとえ生命ある存在であっても工場においては関係がない。そのような向き合い方をしない。この場合の素材を【素材】と表記しておくことにしよう。

第三次産業では、扱われる素材は人間そのものである。ゆえに現場は〈現場〉であり素材は〈素材〉。そして、教育を産業と考えるならば第三次産業に位置づけるのが妥当であろう。

しかるに橋下市長の現場観は第二次産業のそれである。これで果して「現場を知っている」といえるのか。子どもたちは【素材】でしかないのか。

私は詳しくは見ていないけれども、橋下市長率いる大阪維新の会が提示しているという教育条例案。これもどうも第二次産業的現場観に支えられているような気配だ。教師たちは子どもという【素材】を規格品に加工する作業員に過ぎない。橋下氏はよく民間と公務員とを比較するが、そこで想定されている民間には第一次・第三次産業分野は入っていないのかもしれない。



もうすこし続けよう。

大阪に限らずであろうが、教育の【現場】が機能不全に陥っているのは指摘の通りだろうと思う。教師たちは〈素材〉に向き合うことを余りしなくなった。橋下市長の主張に従えば、その原因は教員たちの共同体が教員達の怠慢により既得権益集団と化したこと。山口教授によれば文科省の指導で官僚組織化したこと。私は双方ともにあると思うが、さらに付け加えるならば、子ども(=生徒)自身が自発的に【素材】化したことである(このように主張するひとりが内田樹氏)。

橋下氏市長は、その現場観から教育【現場】を改革しなければならないと主張するが、その背景として用いるのが民主主義。消費者の求めるニーズに応じて製品を提供するという、大衆消費社会的な民主主義なのである。その帰結は、子どもは【素材】であり社会人は【製品】なのだが、橋下市長はそこには言及しない。主権者=消費者が自発的に需要しているのだと主張し、人気を獲得する。それが「ハシズム」と言われているものの中身であろう。

だが私たちは本当に子どもを【素材】化し、自身を【製品】化することを望んでいるのだろうか。

ハシズムの行き着く先は、惑星メーテルかもしれない。





コメント

東から西へ

愚樵さん、はじめまして^^

橋下さんの考えは、8割方賛成します。面白い議論でした。
鹿児島にいた頃、埼玉の志木市の市長さんが教育委員会はいらないと
いう話をされて、地元の教育委員会と議論したことがありました。
役場も教育委員会も、地元の雇用につながるポストとして存在する
ところも多々ありますから、たいして仕事をしていません。
同じ仕事をこなすのに、3分の1以下の人数で足りるほどでしょう。
色んなことを勘案しますと、仕組みを変える必然性はあると思います。

こんにちは。初めてコメントをします。

橋本市長は何かをしてくれるかな、という期待感はありますが、教育に対する考え方には危ういものを私は感じています。

教育を無責任な官僚から国民の手に取り戻すべきだという彼や維新の会の考えには賛成ですが、去年の10月に維新の会の大阪市議のインタビュー記事を読んだのですが、その市議は、「人格形成だけでは人は生きていきてゆけなく、グローバル社会に十分に対応できる人材育成を」「格差を受け入れてでも、秀でた者を育てる必要がある」などの発言に、私はそれは違うのではないかと思いました。

むのたけじ さんというジャーナリストが、教育というのは人間一人一人を人間であることにおいて大事にするということが土台であるべきなのに、中教審が1970年頃から教育に対し、人的資源の開発という言葉を使うようなったが、そこから教育の中にまで資本主義が入ってきた、と本に書いておられます。

橋下市長もこの大阪市議も、その中教審の考え方のように、子ども達を将来の労働力とみなし、それを開発するために【現場】を変えなければいけないと考えているとしたら、それは違うと私は思います。
【現場】を変える必要はあると思いますが、それは決してエリートを量産するためだったり、子どもを"商品"のように考えて、いかに効率よく有能なものを作るためであってはいけないと思います。

教育はとても大切なことなので、効率にとらわれてものごとを進めてほしくないです。
(親戚が大阪に住んでいますが、その人は橋本市長の教育に対する姿勢には反対しています。)

前回のブログに書かれていた『希望のつくり方』、買いました。読むのが楽しみです。

上下が逆ですね!

こんばんは!

なんか呼ばれたような気がしますが…夜中なので簡単に…

おっしゃる通り、今の世の中は、2番目の図の様な意識が大勢を占めている気がします、てかそう実感します。
だから、橋下氏や河村氏が当選したりするのでしょうね…

ただ、図の中に「子ども達」が居るだけマシですね…
実際には「子ども達」すら居ない事が多い気がしています。
そこにあるのは「親の満足」であったり…おっと、これは割と裕福な家庭の場合ですね…
裕福で無い家庭の子どもは「無視」されます…その子達は「無駄」なんですね…この図の流れからすら外されようとしてます。
金を払えない人には「商品」は渡りませんから…

てかココのところは愚樵さんが既に書かれている点ですね…すいません。

「子ども達」を一番上に「文科省」を一番下に…
図の上下反転して思いを馳せるだけでも、少しは考え方も変わるとは思うのですが…
なかなか難しいようです…

先ずは自分が言った通り、置いてけぼりの「子ども達」を迎えに行って、この図の中にすべての「子ども達」を乗っけることから始めなくてはいけませんね。

はなさかすーさん、ようこそ!

はなさかすーさんはブログ『大師山 花森 11  DAISHIYAMA / HANAMORI ONZE』のはなさなすーさんですよね? 趣の深いブログです。最近になってからですが、訪問させていただいてます。

で、橋下市長ですが、私は8割この人物が嫌いです(^_^;

といって、さすがに好き嫌い「だけ」で判断するのはよくないと思っています。大阪府知事から大阪市市長へ転身し府と市の二重行政を撤廃しようとする試み。これなどは非常に感心して眺めております。「口だけ」では決してありません。そこのところは十分に評価しておくべきです。そして、そのビジョンが明確であるということも。

今回の記事は橋下氏へ批判記事ではありません。橋下氏のビジョンへの批判のつもりです。国も地方も行政に無駄が多い。はなはだ多い。そこを有権者からの付託を受けて改革していく。その手法が強権的という批判もありますが、私はそれもありだと思っています。有権者の付託である限りは有権者がいつでも取り上げられる。その意味で民主主義的です。行政主導よりはよほど。

が、それはやはりトップダウンの民主主義だと言わざるを得ない。それが向いているところもあります。行政改革などそうでなければ不可能でしょう。が、教育がその手法に向くとはおもえません。ボトムアップ型でなければならないと考えます。それはやはり〈現場〉から組み上げられていくものだと考えます。

橋下氏は「教育は2万%押しつけだ」と主張しているようです。教育には、押しつけにあたる「教」の部分と主体性を育てる「育」の部分があると私は考えます。橋下氏の教育観は「教」のみの甚だ偏ったものに思えます。そしてその偏りは教育以外の分野にも見られるようです。私が橋下氏に好印象を持たないのは、その偏りに対して確信犯的なところです。決して自覚していないわけではなさそうなのです。

愛希穂。さん、ようこそ!

愛希穂。さんは、ブログ『きっと誰かに愛されている』の愛希穂。さんですよね。それと、「。」はつけた方がよろしいのでしょうか?

私の橋下氏への批判ははなさかすーさんへの返答で述べたとおりです。愛希穂。さんとほとんど変らないようですね。

子どもたちに勉強は必要です。大人にとっても子どもに勉強させることは必要です。これは矛楯することではないはずなんです。でも、現実は矛楯しがち。『希望のつくり方』の玄田氏は「勉強っていうのは、わからないということに慣れる練習をしているんだ」と、この矛楯しがちなところをうまく表現しています。

私が橋下氏から感じるのは「矛楯が当たり前」という確信です。その矛楯を大人の都合で正当化しているように感じる。矛楯を克服でき者は商品価値が高く、出来なかった者は商品価値が低い。この現実を受け入れて自身の商品価値を高めるために競争せよ。

この競争でもっとも徳をするのは競争の勝者ではありません。競争の上前をはねることが出来る者たちです。多分、橋下氏はそのことも知っています。橋下氏を支持する人たちが知っているかどうかはわかりません。年齢の高い世代の人は薄々知っているかもしれません。「若い人たちにがんばってもらわないと、私たちの老後が心配」。

嫌な社会です。

すぺーすのいどさん、ようこそ!

かつての日本は子どもたちの楽園だった。私の大好きな渡辺京二著『逝きし世の面影』には、日本の子どもたちが他のどの国よりも生き生きとしていることに驚いた外国人達の報告が記されています。私くらいの世代でもその面影を実際に体験している記憶がほのかにあります。

現在でも子どもは大人たちに大切にされています。でも、仰るように、それは「大人達の都合で」です。自分の夢を子どもに託す。子どもたちはその重荷を背負って【よい子】になる。昔だって【よい子】はいたでしょうけれども、数はさほど多くなかったはずです。が、現在は【よい子】がデフォルトになった観がある。子どもたちが自発的に【よい子】でなければならないと感じているフシがある。

もっとも、これは子どもたちに直に接してみての感触ではありません。私はそうしたあまり機会に恵まれませんので。すぺーすのいどさんは、どう感じますか?

現在、世の中は変革期です。子どもたちは【よい子】ではやってられないと気がつきつつある。また、時代の変化に敏感な意識の高い大人もそう唱えつつある。そしてその声は2つに別れている。【よい子】はやめて確信的に【悪い子】へ。もしくは、【よい子】から〈よい子〉へ戻ろう。

ネットを巡っていて声が大きいと感じるのは前者です。有名なところでは『Chikirinの日記』とか。『はてな』を覗けばそうした意見が溢れている。みんな善意です。【善意】です。それが社会を良くすると本気で信じているようです。『けいおん!』に好感を抱きながら。

私には不思議です。私が『けいおん!』から受け取るメッセージは、【よい子】から〈よい子〉へ戻ろうです。〈よい子〉こそ子どもの本来の姿だと思う。【悪い子】は確信犯的な大人です。子どもは半人前の人間だとする考えが「大人」であり【悪い子】です。

ことよろ

ここでは今年初コメですので、遅ればせながらよろしく。

解りやすく、面白い記事だなぁ、とコメントしようとしている間に、他の人からコメントが入ってました。他の人のコメントが入ると引っ張られやすいので、入るまえにコメントしようと思ったのですが、でおくれてコメントするために他の人のコメントに、、、そうこうしているあいだに新たなエントリーが、、、まあ、いいや。

とにかく〈〉【】に嵌ってますから、これが的確に使われるだけで面白いと思うのは個人的な事情かもしれません。この記事を読んで面白いと思ったので、橋下批判をしているだろう「史実派諸氏」のエントリーも探してみたのですが、どれをみてもここのほうが面白い。ワタシもいよいよそういう人間になってしまったのだろうか、と思う今日この頃(笑)。

いずれにしろ橋下は、ヤバいヤツという肌感覚があり、橋下がヤバいから今の【教育】制度を認めるわけではないのだけど、今の【教育】制度がヤバいから橋ゲの【言い分】を認めることにもならない、ということでしょう。ヤバさ度合いの二択なんか意味ないよなぁ。
ワタシの周囲という狭義「実感」では、「現場」は「伸び伸びと楽しく」やってますよ。子ども達はみんな素直だしさ。たまたま環境がいいのかもしれないのだけど、一括りにしては言えないということでしょうね。
日の丸、君が代の不起立が話題になっているようだけど、あれも【現場】の世界だねぇ。子どもたちの〈現場〉にとっちゃ、どっちだろうが知ったこっちゃない、、だろうな。おっと、もうそぐ卒業式だ、、、どうしたもんか、ガハハハ、爆!!

ところで、2段落目で「諸氏」と「」で書いたのは、最初【諸氏】と書いて書き直したわけで、「諸氏」のなかでは〈諸氏〉なんだろうだろうなぁ、と思うのね(「捏造派諸氏」も捏造派諸氏のなかでは〈捏造派諸氏〉)。で、その〈諸氏〉が俯瞰すると【諸氏】になってしまう危うさが見えてしまう。〈諸氏〉になるか【諸氏】になるかは、おのおのが自覚による部分も大きいかもね。

橋ゲが【】を自覚して逆説的に、過渡的に、反面教師的に、やっている可能性はないとはいえないが、、、やはり、ないでしょうねぇ。

どうでもいいようなことを、ながながとすみません。

毒多さん、ようこそ!

一見、どうでもいいようなことでも歓迎です。いや、違う。どうでもいいようなこと“こそ”歓迎です。というのも、そういったコメントの方が閃きを生み出す可能性が高いんです。私のこれまでの経験上からすると。

橋下氏をヤバイと感じる感覚。その感覚が「ハシズム」という言葉に集約されるわけですが、ちょっと下品な感じがしないでもない。でも正鵠を射貫いているような気がしてならないんです。

ヒトラーは一面では当初は素晴らしい政治家だった。世界恐慌からドイツを救った。ヒトラーほどの手腕を発揮した政治家は空前絶後です。持ち家政策を推し進め、大衆車を増産させ、アウトバーンを建設。国民の生産性を上げて余暇を持って暮らせるようにしようと目標を立てた。たっぷりとある余暇にアウトバーンを車で駆けて郊外の別荘へ。それを「レーベンスラウム(生存圏)」という概念でもって提唱した。日本では戦後に「所得倍増計画」なるものもありましたが、それよりずっと色彩豊かな観がある。でも、生存圏はあくまでゲルマン民族のためのもの、だったんですね。

ヒトラーの政策・理念がいうなれば「外向き」であったのに対して、橋下氏のそれは「内向き」です。また実際、敵も内側にいますよね。第一次大戦後のドイツの敵はベルサイユ条約でしたが、現下の日本の場合では公務員です。それが真実かどうかは別として、ヒトラーも橋下氏もそのように主張し、戦い、そして戦果を挙げている。

が、その戦果はいったい誰のためのものなのか。公務員と敵対する庶民のためなのか。ここのところがいささか怪しい。確かに公務員はケシカラン。税金を支払う者が辛い思いをしているのに、税金でメシを喰っている者たちがのうのうと暮らしている。腹立たしい。でも、敵の敵は味方とは限らない。

私が当記事を書きたくなったのは、橋下氏に批判を加えているのが主に左陣営というのもあります。左とアカデミズムは親和性が高いでしょう。でも、それでは橋下氏には勝てないという感触はあった。山口教授との対決はその感触を実感させてくれるものでした。アタマデッカチでは勝てないということですね。

橋下氏とアカデミズムの対決は「ベタ」と「ネタ」の対決なんですよ。だったら「ベタ」の方が強いに決まってる。そう捉えれば、勝つにはより「ベタ」になればよい。ところが教育のある方々はどうしても「ネタ」に走ってしまうんですね。それこそがアイデンティティだから。高等教育を受けて「偏差値が高い」からこそ「ネタ(理念)」を駆使できるという思い込み。橋下氏はそうした思い込みからは自由なので、その分、強いんです。それに庶民はそういった「思い込み」を本能的に嫌いますしね。


【よい子】はなかなか止められない!

愚樵さん、なんかハイテンションですね。

>かつての日本は子どもたちの楽園だった。

私は知らないですが「楽園」とまで言われると「本当かな~?」という気がしますが…
まあ、確かにある側面ではそうかもしれませんね。最大公約数的な「希望」が存在していた側面から。

私の関わりのあるのは学童保育の子ども達が主なので、あからさまな【良い子】がデフォルトになった様な実感はしないです。
ただ、小学校生活も長くなりPTAの役員等をするようになったりして、学童保育以外の子どもや親の知り合いが増えてくると、間接的にですがいろいろな子どもの話も入ってきます。
「間接的」にと書いたのは、やはりそういった子どもたちやその保護者は、私の立ち位置からは見えにくい位置に居ると言う事です。

例えば、学童保育は近年需要が高まっており、全国的には利用者が増加傾向ですが、名古屋市ではジリジリと利用者が減っています。
もちろん大都市名古屋で需要が無いわけはなく、利用料の高さと保護者の肉体的精神的負担の多さに避けられているのが現実でしょう。
ですから本来なら学童保育で保護されるべき子ども達が居るはずなのですが見えないのです。
私からすれば、その子達はシステムから「無視」されていると思います。そしてその子達と関わるのはとても難しい事です。

【よい子】はなかなか止められない!2

>【よい子】はやめて確信的に【悪い子】へ。もしくは、【よい子】から〈よい子〉へ戻ろう。

子どもは最初はみんな〈よい子〉です。
そして親や社会の要請で〈よい子〉→【よい子】に変化してしまいます。
でも直感的に【よい子】が胡散臭いと感じる子どもも少なくない。そんな子どもたちは〈よい子〉のままで頑張る子と【ニセよい子】になることで【よい子】になる事を避ける子もいるわけです。

もちろん環境にもよりますけど、〈よい子〉のままでいる事の方が【ニセよい子】になるよりも大変です。
【ニセよい子】から〈よい子〉に戻るのも結構大変かもですけど、一旦選んでしまった【よい子】を止めて〈よい子〉に変化することは相当大変だと思います。程度にもよると思いますけど、かなり無理があるんじゃないでしょうかねぇ。

だから少し【よい子】を止めたいと自覚した【よい子】は【よい子】を止めるために【悪い子】を選択せざるを得ない、そんな悲しい状況なのかもしれません。それが【よい子】が【よい子】になる事を要請した大人に対する、せめてもの反抗なのかもしれないですね。

そういった意味で「けいおん!」は、登場人物が高校生になっても〈よい子〉のままでいる希少性が人気を得ている理由なのではないでしょうか?
でも登場人物の希少性のバックボーンであるリアルな家庭環境などは描かない、そんなもの描いたらあっという間に夢から醒めてしまう、そんな気がします。

【よい子】はなかなか止められない!3

それから、エントリの最初にある橋下氏の映像ですが、私は観てもいないし観る気もおきません。
今までのいろいろな言動をみれば相手を「フルボッコ」にしているのでしょう。
この事から橋下氏は自分の意見と違う意見を持つ人を「フルボッコ」にするであろう、と判断されてもしょうが無いですよね。
今後大阪市民は生活のなかで橋下氏に「フルボッコ」にされないように、ドキドキしながら過ごすことになるのでしょうね。

禁止キーワード

すいません。
禁止キーワードですと言われて、解んないので分割してコメントしました。
結局最後の「映像」の所にあった「どうが(漢字だよ)」というワードに引っかかってたみたいです。

「偏差値が高い」

温かなレスありがとうレス。
もう消してしまいましたが、ワタシ自身のブログ紹介ここで「偏差値が高い」という表現がでてくるまえから、「偏差値低めの低学歴・・・でも生きている」でした(笑)
ただ、実際のエントリーでは意識せず「アカデミック」で「ネタ」な「偏差値が高い」を目指してやってきたような気がします。まあ現実はホントに「偏差値が高い」ブロガーから失笑でしたが、、、爆!!

ハシゲは、曲りなりにも、なんて言ったら失礼かもしれませんが、「弁護士」なんですよね。聴くところに拠ると弁護士というのは国家試験があり、それなりに偏差値が高くなければ、なれないということらしいです(笑)。
ここで言う「偏差値が高い」というのは現実に行われてきた試験による「偏差値」ではなく、トータル的な思考性の高さを示すものなのでしょうか?
(ハシゲ、コイズミなんかは)学歴上、偏差値の高い者が「ベタ」な振る舞いをしている、ということでしょうか? それは計算によるもの? 本能によるもの?

勝つ、負ける、でいけば、「ネタ」重視の人はそのプライドから「ベタ」にはなれない、表面的に「ベタ」という振る舞いもできない、のでしょうか?
「ネタ」な人が「ベタ」に振る舞うことができるのは「才能」かもしれません。普通は自問自答に陥りますから、自律神経のニ、三本切れていなければできないでしょう。
あれ?でもワタシも「ベタ」な記事でありながら、ちょいと「ネタ」を匂わすエントリーにしようとしているな、ということはワタシにもハシゲのような「才能」と「神経切れ」の要素があるのかしら(笑) でも、ハシゲと違うところは常に「自分が間違っているかもしれない」と心がけようとしているところかもね。勘違いはしません。そんなワタシは政治家にはなれません(キリッ)

またまた下らないコメで、ごめんね、ごめんねぇ~。

お手数をおかけしてしまったようで、申し訳ありません

・すぺーすのいどさん

ええ、「動画」は禁止ワードに登録してあります。“その手”のTBが不快だったので。でも、禁止ワード適用そのものを外しておいたはずなんですが...? 

私は知らないですが「楽園」とまで言われると「本当かな~?」という気がしますが…

本当かどうかはわかりません。ただ、日本に訪問した異邦人達がそのような感想を持ったということですね。こちらのページにそのあたりの記述の一部が掲載されています。
http://renzan.org/columnist/takahashi/omokage4.html

でも、是非とも『逝きし世の面影』は手にとってご覧になってください。今ではとても信じられない日本の姿が記述されています。が、でも、自身の内側を探ってみると、その「面影」がわずかなりとも残っていることが発見できると思います。私が『けいおん!』を受け取ることができるのもその「面影」のおかげだとすら思っています。

子どもは最初はみんな〈よい子〉です。
そして親や社会の要請で〈よい子〉→【よい子】に変化してしまいます

少し付け加えさせていただきますと「親や社会の要請で“自発的に”」ですね。だから【よい子】なんですね。

そんな子どもたちは〈よい子〉のままで頑張る子と【ニセよい子】になることで【よい子】になる事を避ける子もいるわけです。

【ニセよい子】というのはちょっと私には想像できませんが...。この「ニセ」というのは自覚的に【よい子】として振る舞っているということなのでしょうか? つまり、キャラを演じている。そういった能力を子どもたちが身に付けている。だとすると、それは病的な発達ではないのかな? 大人だって「キャラを演じる」なんてのは大変なことですが、それでも

もちろん環境にもよりますけど、〈よい子〉のままでいる事の方が【ニセよい子】になるよりも大変です。

ふ~む。

【ニセよい子】から〈よい子〉に戻るのも結構大変かもですけど、一旦選んでしまった【よい子】を止めて〈よい子〉に変化することは相当大変だと思います。

ええ、ですので、私はこの〈よい子〉への再帰を「アクロバット」と呼ぶんです。これは子どもだけに限ったことではありません。自身の【自発】的な社会への適応を放棄して、自身の〈内発〉的な裡なる要求に従うことを選択すること。やってしまえば簡単なんだけど、簡単にやれない。

だから少し【よい子】を止めたいと自覚した【よい子】は【よい子】を止めるために【悪い子】を選択せざるを得ない

おわかりだと思いますが、必ずしも【悪い子】というのは反社会的存在という意味ではありません。「ひきこもり」とか「ニート」と呼ばれる存在は、誰にでもわかるという意味で反社会的な【悪い子】ですけれども、もっと深刻なのが社会に高度に適応してしまう【悪い子】なんです。私が「偏差値が高い」とか「アタマデッカチ」とかいう、霊性の低い人種です。こういった人種は今話題の「東大話法」を駆使したりする。

そういった意味で「けいおん!」は、登場人物が高校生になっても〈よい子〉のままでいる希少性が人気を得ている理由なのではないでしょうか?


まさに仰るとおり。私もそう感じています。〈よい子〉のままでいられるというのが希少だからこそ、そしてその希少を希求しているからこそでしょう。私たちだって熱血少年少女アニメに見ていたのは、この「希少への希求」だったじゃないですか。

でも登場人物の希少性のバックボーンであるリアルな家庭環境などは描かない、そんなもの描いたらあっという間に夢から醒めてしまう、そんな気がします

『けいおん!』は空気系と呼ばれますね。よくは知りませんが空気系は概してそのようです。空気系の前のセカイ系の代表作は『エヴァンゲリオン』でしたが、あれはまさに「親の抑圧」の物語でした。ところがセカイ系と空気系の転換点に当たるとされている『涼宮ハルヒ』では一転して親の存在は排除されたんですね。『けいおん!』のその系譜なのでしょう。

しかしですね。面白いことにアニメは進化しているんです。昨年何度も取り上げた『魔法少女まどか☆マギカ』ではちゃんと家庭が描かれていましたよね? まどかを最後に後押ししたのは母親でした。『あの花』でも親の姿は重要な位置を占めていました。これは興味深いことです。

私は『けいおん!』から、若者達が〈社会〉を再構築し始めているのではないかと想像しています。もう少し正確に言うならば、新たな〈社会〉の「想像」を始めていると想像しているわけですね。想像があって、創造が始まり、構築に至る。その最初の一歩です。

社会を構築していくのに、家庭は不可欠な要素です。もし仮に私の想像が当たっているとするなら、若者達の想像のなかに家庭も、つまり親の姿も出てこなければおかしい。それがたとえ理想化されたものであったとしても。

空想が行きすぎかもしれませんが、私は『けいおん!』のキャラたちを眺めながら、彼女たちがどんな母親になるのだろうと想像するんです。非実在のキャラにそんな想像を働かせても無意味かもしれませんが、もし想像が創造へ至るのなら、どこかで繋がるかもしれない。それに、そういった想像をさせるキャラたちなんですよね。私はこの自身の想像の動きにどこかしら〈内発〉を感じていて、そしてそれが本当に〈内発〉的なものなら、同じ人間、意識せずとも共有するところはあるだろうと。

まあ、仮定の上の仮定の、そのまた上での仮定の話ですが。

「偏差値が高い」だけじゃない

・毒多さん

他人にはオノレを「省みろ、自省せよ!」なんていうくせに、「ネタ」「ベタ」の件ではあまり自省はしていないなと、毒多さんのコメントをみて反省。

で、よくよく考えてみれば、そもそもネタ/ベタの分類が変ですよね。そういった言葉が一般的になって、そういった分類も一般的になってしまいましたが、やっぱり違和感はある。まあ、私だってネタな香りを漂わせることしばしばなんでしょうが、けれど、樵やっててネタってなんなのよ? って感じじゃないですかね。んでもって、そういう「感じ」は毒多さんにもあると思うんですが。

...と、自己弁護をしておいて σ(^_^;

ここで言う「偏差値が高い」というのは現実に行われてきた試験による「偏差値」ではなく、トータル的な思考性の高さを示すものなのでしょうか?

トータルな思考性の高さにを表すにはいい言葉があります。「地頭が良い」。橋下氏は間違いなく地頭もいいですよ。その上、おそらく確信犯的。だから「ベタ」になれるんでしょう。これが恐い。

「ネタ」というの別の言葉でいうと、自己乖離的とでも言えばいいんでしょうかね? 自分の意見と自己とを切り離してみる「構え」ですよね。客観的だともいえる。アカデミズムには必要不可欠な「構え」です。その乖離から自己を見つめ直すのが自省であり、これは「ネタ」から「ベタ」ということになる。

「ベタ」というのは逆に自己乖離をしないということ。あるいは出来ない。悪い印象の言葉ですが愚民やB層などとカテゴライズされる人たちは、たいてい「ベタ」で生きています。で、実際はそのカテゴリーは多数派なんですね。だから「ベタ」になれる橋下氏が支持される。小泉元首相と同じ。

でも、これは自省ではない。「ネタ」に自己乖離したまま「ベタ」を演じられるということ。これは間違いなく才能です。自分を意識的に騙せるんですね。芸能人にはこういった才能が必要とされます。あと、詐欺師にも。

普通に「ベタ」な人は「ネタ」な人には勝てません。特に民主主義社会では。「熟議」などという厄介なものが要求されますから、「ベタ」な人は苦手なんですね。冷静に人の意見をよく聞いて、なんて言われる。そういうのは「ネタ」な人が得意。では「ベタ」な人は「ネタ」な人を純粋に尊敬しているかというとそうじゃない。どこかで屁理屈と思っているわけです。言い負かせないから従っているだけ。そこへ「ベタ」でありながら「ネタ」な人を言い負かすような人物が現われるとどうなるか。実際に言い負かす必要はないんです。言い負かしているように見えさえすればよい。

支持は集まりますよ。その意見が正しいからではなく。「ネタ」な人へ鬱屈から。

某所で私はナショナリズムというのは「アンチ」なんだといいましたよね。鬱屈が「アンチ」へ結びつくのは簡単なことです。小泉・橋下の両氏はそのことをよく知っているのだと思います。

自殺は自発的な死か否か

こんばんは。

禁止ワードに関しては気にしてません。
ただ不自然にコメントを分けることになったので一応説明入れとこうかなと思った次第です。

>少し付け加えさせていただきますと「親や社会の要請で“自発的に”」ですね。

私も「自分で選択…」とかを付けようか迷ったんです。
確かに物理的に強制される訳ではないので、その言い方でも間違ってはいないとは思います。
ただ例えば「自殺」とかはどうでしょう?
物理的には「自らを殺す」訳ですが、実際は「追い詰められてそれしか選択肢がなかった」というパターンが多いのではないでしょうか?

「〈よい子〉→【よい子】」も実際はどうでしょうか?
「自発的に選択」した様に見えるように強制した、というのがほとんどじゃないでしょうか?

昨今「やさしい虐待」という言葉もありますが、これはとても厄介ですね。
愚樵さんの元コメントにも「…みんな善意です。【善意】です。…」ってありますよね。
…「やさしい虐待」≒【善意】による躾…ってな感じがしています。


>【ニセよい子】…

最初、【ニセよい子】のところは【悪い子】って書いてたんです。
でも読み返したら違う気がして、ちょっと考えて【ニセよい子】としました。
でも【ニセ悪い子】でも良いかもしれません。
状況はお察しのとおり「キャラを演じる」が近いと思いますが、そんなにビックリされる事でも無いとおもいますよ。

人間誰でも表と裏がありますよね、オフィシャルとプライベートという言い方でも良いですけど。そしてオフィシャルでは誰でも少しは「キャラ」作ってるんじゃないですか?

家族内とかは裏側というかプライベートな面の筈なんだけど、そこにも【善意】が溢れてきちゃうと、そこでも「キャラ」作らなきゃいけなくなる。

何処か一部でも(例えば親戚とか親友とか近所の大人とか)プライベートな面で存在して居られる場所があれば少しは良いのですが…
それが途絶えてしまうと〈よい子〉は死に至るほかは無く、本物の【よい子】【悪い子】(または物理的な自殺でそれを阻止する)になっちゃうのかなぁ?って気がしています。

>>〈よい子〉のままでいる事の方が【ニセよい子】になるよりも大変です。
言葉が全然足りないですよね。すいません。
当然まわりから【よい子】になる事を要望される環境で…という条件での話です。要望が無ければ〈よい子〉のままが楽に決まっています。


>私はこの〈よい子〉への再帰を「アクロバット」と呼ぶんです。

なるほどです。
ただ私はこの「アクロバット」の貢献度については、ネガティブというか、あまり大きな期待を持てなくて。
結局【よい子】【悪い子】の発生を抑えて根絶する以外はまやかしの様な気がします。
それにはやはり世代交代が必要だと思うわけです。

「自殺は自発的な死」だと定義します

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

ただ例えば「自殺」とかはどうでしょう?

いい質問です! なんていうと上から目線のようで気が引けますが、でも、ほんとに良質の問いかけです。助かります。

これは「自殺が自発的か否か」の問題ではなくて「自発的」という言葉の定義の問題なんです。〈 〉だとか【 】のカッコを使った表記法を思いついたのも、その問題意識からです。言葉というのは人それぞれで持っているイメージが微妙に異なる。具体的なものについてはそう変りませんが、抽象度が高くなるに従って差異は大きくなる。だから話がなかなか上手く通じないんですね。理解力のある人というのは「他人の言葉」を理解できる人のこと。これ、「偏差値の高さ」と必ずしも一致しません。逆に「偏差値の高い人」ほど「自身の言葉」を正しいと思いこんでいる傾向が強いですから、話をすると「相手の言葉」の否定、討論になる。自分の言葉を否定されないように「史実」なんかを持ち出すようになるんです。

おっと、話が逸れました。

「自殺は自発的な死である」。このように定義することで「自発的」という言葉をフィックスするんです。そうするとご指摘にように、

物理的には「自らを殺す」訳ですが、実際は「追い詰められてそれしか選択肢がなかった」というパターンが多いのではないでしょうか?

という疑問が湧いてきますね。ということはです。自殺とは、人間が自発的に「何か」を追い込んだ結果もたされる死ということになる。そうすると必然的に、では、この「何か」をどのように名称付ければ良いかという疑問が浮かぶことになる。そこで「内発的」という言葉が思い浮かんでくる。自殺とは自発的に内発性を抑圧した結果としてもたらされる死、とより詳細に定義付けできることになるんですね。と同時に、自発性と内発性とを区別することで、【自発性】=的/〈内発性〉=身体的というイメージも出来上がってきます(カッコの使い方に留意してくださいね)。

さらに。自発的な内発性抑圧は必ずしも死をもたらすとは限らないということを考えてみる。それは最悪のケースですからね。最悪に至るまでのグラデーションがいろいろとあるはずだと。

〈よい子〉→【よい子】→【悪い子】

への遷移はそのグラデーションを表現しているんです。つまり〈よい子〉とは内発性に従順な子ども。【よい子】は、自発的に内発性を抑え込み始めた子ども。【悪い子】は完全に自発性に飲み込まれた子ども――というぐあいに色分けできることになります。

(この場合、【ニセよい子】はどこに位置づけられるのでしょう? 【よい子】と【悪い子】の間でしょうか?)

ただ私はこの「アクロバット」の貢献度については、ネガティブというか、あまり大きな期待を持てなくて。

同感です。だからこそ「アクロバット」という少しアイロニカルな表現を採用しているんですね。できる者にはできるが、できない者にはできない。それがアクロバットでしょう。努力する才能も含めて個人の資質によるところが大きい。私は「アクロバット」至上主義は採用しません。

そうなると、考えるべきは仰るように自発性による内発性抑圧を発生させないようにするにはどうしたらよいか、という話になります。また、そんなことが可能なのかと。そこで『逝きし世の面影』という著作の話になる。ここで描写されている世界がその理想像に近いと思うわけです。

面影はもはや再現できません。が、面影の具体的なイメージを知ることは無駄ではない。それは目指すべき理想像の具体的なイメージを思い描くのに役に立つ。想像→創造→構築の、最初の想像の足がかりになるんですね。

人は其々違う言葉を話している

愚樵さん、こんばんは。

>言葉というのは人それぞれで持っているイメージが微妙に異なる。…

そうですね。
私は愚樵さんの話が理解したいし理解出来る気がする。時間はかかると思いますけど。
そして、愚樵さんはきっと私の支離滅裂な文章を読み解いてくれる、読み解こうとしてくれると勝手に信じています。


>〈よい子〉→【よい子】→【悪い子】

少しわかりました。
前回までの私の理解では
〈よい子〉→【ニセよい子】→【よい子】→【悪い子】
でした。つまり
(愚:【よい子】)≒(私:【ニセよい子】)
(愚:【悪い子】)≒(私:【よい子】)
てな感じで認識していました。

私たちはみんな、〈よい子〉の部分、【よい子】の部分をもっていて、それはそれで必要な事です。
あとはバランスの話で、【よい子】が〈よい子〉を凌駕するような状態が【よい子】で、【よい子】が適切に管理されている状態が〈よい子〉なのでしょうね。

愚樵さんお勧めの「逝きし世の面影」、読んでみようか悩み中です。
きっと良い本なのでしょう。
ただタイトルから「昔は良かった…」的なイメージがあり、そこで躊躇しています。
読まずキライです。(^^ゞ

ですから〈対話〉をしましょう、と。

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

そうなんです。人はそもそも違う言葉を話している。でも通じるんです、だいたいは。この「だいたい」を足がかりに互いの言葉を一致させていく。これが〈対話〉なんだと思っています。

「私の言葉を理解せよ」。この「構え」では〈対話〉にはなりませんね。【討論】にはなっても。【討論】の構えは、

   私の言葉は正しい → ゆえに、あなたの言葉は間違えている

「あなたの言葉は間違えている」というのは、「呪い」なんですね。言葉というものには恐ろしい力が宿っているんです、たぶん。

【よい子】が適切に管理されている状態が〈よい子〉なのでしょうね

【よい子】を適切に管理するための知が、俗にいうところの「知恵」なんだと思います。また、私が霊性と表現しているのもそれ。【よい子】の管理能力のことです。

ただタイトルから「昔は良かった…」的なイメージがあり、そこで躊躇しています。

や、それは理解出来ます。「面影」という言葉にそういったイメージがあるんですよね。まあ、でも、異世界への旅くらいに考えてみてはどうでしょう。スペースのいどさんはベトナムへ行ってこられたそうですが、そこだって異世界でしょう。空間的に異なるか、時間的に異なるかの差に過ぎない、と。

異世界に旅行に行って楽しもうとすれば、どういった「構え」が必要か。たとえば何もかもを経済発展の基準で比較してしまうとどうなるか。そんな「構え」で接するなら、ベトナムなんて楽しめないんではないかと思います。

異世界を楽しむには外形的基準なんて邪魔なだけでしょう。空っぽの自分自身しか基準にならない。この部分は共通しているな、この部分は違うな、いろいろ差異は感じてもその基準はあくまで自分でしょう。だから異世界への旅は、自分自身を発見する旅でもある。

『逝きし世の面影』の読書は、そうした「自分自身を発見する旅」になります。少なくとも私にはなった。だからお勧めしているんです。

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