愚慫空論

『希望のつくり方』を読んでみた

希望のつくり方

一番いいたかったのは、希望は与えられるものではなく、自分で(もしくは自分たちで)つくりだすものだということでした。この本の冒頭に「かつて、希望は前提だった」と書きました。現代の希望は、もはや前提ではなく、それ自体、私たちの手でつくりあげていくものなのです。(p.213)


かつて希望が前提でありえたのには理由がある。希望は人それぞれで異なった方向性をもつものだが、社会全体としては一方向へ収斂する。少し前まで、社会の希望は貨幣経済の拡張だった。環境にはまだ人間経済を拡大させる余地があったし、技術革新も進んだ。なにより、希望は貨幣という目に見える形で裏打ちされていた。

 【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その3

現代、希望が前提でなくなったのは自然環境に貨幣経済拡大の余地がなくなってきたからだ。

著者の専門は経済学のようだが、本書に以上のようなことが書いてあるわけではない。【まともな】経済学者はこんなことは言わない。だが、この著者は「まとも」から少し外れているような感じがする。

 経済学は何を学ぶか
 私はこれまで経済学を勉強してきました。以前につとめていた大学では、一国全体や地球全体といった広い視点で経済問題を考えるマクロ経済学などの授業をしていました。
 そんな授業で、入学したばかりの一年生の学生に対して、四月の最初の授業をするとき、つねにいい続けてきたことがあります。
「お金をたくさん儲けられるようになるために、経済学部に入学した人もいるかもしれません。けれども、残念ながら、経済学を勉強するだけではお金持ちにはなれません」。
 では何のために経済学を勉強するのでしょうか。経済学を学ぶ目的は何なのでしょうか。
「どうしればみんなが今よりも少しでいいから、ハッピーに暮らすことができるか。そんな社会をどうすればつくれるか。そんなことを、バカみたいに真剣に考えるのが、経済学なんです。」
 唐突に思ったのでしょう。私が「ハッピー」というと、学生の中には声を出して笑う人もいました。でも、本当にそう思っているのですから、笑われても気になりません。
 なかには嘲笑に近いものもあったかもしれません。みんながハッピーになるなんて無理だよ、と。でも、無理かどうかはやってみなければわかりませんし、経済学者の多くは、その可能性を信じて研究に取り組んできました。「同じように努力する人たちの間でなぜ所得が異なるのか? そのような違いを公正だと評価することができるのか」。私の師匠である経済学者・石川経夫はこの問いこそが、19世紀の英国の経済学者であるジョン・スチュアート・ミル以来の経済学が答えるべき課題だといいました。(p.166~167)


原発危機と「東大話法」この「私」、つまり著者の玄田有史氏は現在東大にお勤めのようだが、今話題の「東大話法」とは縁の遠いところにいるような気がする。それは本書の平明な語り口からも感じられることだ。

本筋から外れるのだが、もうひとつ著者の「構え」を紹介しておこう。

中学生の、「なんで勉強って、しないといけないんですか。勉強して将来の役に立つことが、本当にあるんですか。自分には勉強する意味がわからないから、する気がしない」という直截な質問に対して、「学校で勉強していることで、社会に出てそのまま役に立つことなんて、ほとんどない」と正直に答え、勉強が好きじゃなくてもいいという。

「それでいいと思うよ。勉強っていうのは、いろいろなことが、わかるようになるっていうこともあるけど、本当をいえば、わからないことだらけだよね。でも、勉強っていうのは、わからないということに慣れる練習をしているんだ」(p.161)


こんな言葉を東大の偉い先生から直接聞けた中学生達はラッキーだ。「わかっていること」の量を競って社会のポジション争いをする「構え」とは全く正反対。

そんな著者だから、希望学なるものを志向するようになったのも納得がいく。「わからないこと」を追いかけているうちに出会ったのだろう。希望は出会うものだと著者はいうが、その言葉は著者の人生から出てきたもののように感じる。希望学が著者の「希望の形」。これこそ学者の本道ではなかろうか。

本書「希望のつくり方」は、タイトルだけを見るとHowTo本のようだが、そこは岩波新書。具体的な「こうすればこうなる」というような方法論の提示はない。人間はどのような状況にいるときに希望を抱くのか。それを統計的にあきらかにして、希望のつくり方への提示する。214ページにはそのまとめがあるので引用と、プラスアルファ。

1.希望は「気持ち」「何か」「実現」「行動」の四本の柱から成り立っている。希望がみつからないとき、四本の柱のうち、どれが欠けているのかを探す。(p.39)


 Hope is a Wish for Something to Come True by Action.

英語でいうと何となくカッコイイ? その発展形である次のセンテンスはもう一段カッコイイ。

 Social Hope is a Wish for Something to Come True by Action with Others.

社会的な希望は、他人と共有することで生まれてくる。そう聞くと共感社会への希望が生まれてくる。

2.いつも会うわけではないけれど、ゆるやかな信頼でつながった仲間(ウィーク・タイズ)が、自分の知らなかったヒントをもたらす。(p.86)


ただ、現代社会ではウィーク・タイズを作るにはカネも時間もかかる。ウィーク・タイズが社会のヒエラルキーの問題と直結しているというのは、今日の社会学的見解でもある。

3.失望した後に、つらかった経験を踏まえて、次の新しい希望へと、柔軟に修正させていく。(p.107)


4.過去の挫折の意味を自分の言葉で語れる人ほど、未来の希望を語ることができる。(p.112)


5.無駄に対して否定的になり過ぎると、希望との思いがけない出会いもなくなっていく。(p.128)


6.わからないもの、どっちつがずのものを、理解不能として安易に切り捨てたりしない。(p.153)


7.大きな壁にぶつかったら、壁の前でちゃんとウロウロする。(p.200)


最後に本書を読んで考えたこと。それは希望にも水平型/垂直型があるということだ。

 コミュニケーションにおける水平型/垂直型

本書のはじめの方で、仏教とキリスト教の希望に対するスタンスの違いが紹介されている。仏教においては希望とは棄てるもの。それは煩悩の源泉であって、持たずに暮らすことが出来るのならばそれに越したことはないと考える。一方、キリスト教では希望は善なるものであり、信仰と愛と共に「三位一体」を為すものだと捉えられる。

端的に言ってしまえば、仏教は希望を水平型と捉えて否定する。キリスト教は垂直型だと捉え肯定する。

(参考:『外国語って難しい、と思ったこと』(月明飛錫)

そして、その観点から見ると本書が提示する「希望のつくり方」もまた垂直型――とまでは断言できないが、その色合いが濃いのである。このことは「まとめ」再度、上から順に眺めてみるとよく感じられる。1.2.は水平型でも言えることだが、下へ下っていくに従って垂直型の色合いが濃くなっていく。

上で私は、かつて希望が前提であったのには理由があると記した。「かつての希望」とは水平型だったのである。そしてその拡張が行き詰まった。だから今度は垂直型。

かつてのかつては、垂直型の希望はありふれたものであったはずだ。キリスト教や仏教といった宗教が世界に広く行き渡っていたのがその証拠。私たちは近代に入り【強欲】に支配されてしまってそれを忘れてしまったのである。ならばもう一度思い出せばいい。本書は現代的な装いでそのヒントを与えてくれている。

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