愚慫空論

冬の枝打ち

枝打ちというのは冬の仕事だから、特に“冬の”とする必要はないのだけれども。

それには理由があって、枝打ちというのは、樹の身体の一部を削いで傷つけてしまうわけだから、身の縮こまった季節の方がいい。樹は春になると根から水を吸い上げて成長を始めるが、その時期は樹の身体には水分がたっぷりで、少しの傷でも傷みやすくなる。その前に枝を打っておいてやると、樹は春になって樹は順調に傷を癒す。

順調というのはあくまで人間の都合で、樹にとっては迷惑千万な話だろうが。寒い冬の間、傷を寒風にさらしたままではさぞ痛かろうと思わないではないが、そんな感傷に浸っていては林業はつとまらない。


そんなわけで、枝打ちは冬と決まっているのだが、それでもわざわざ冬としてみたい感じがある。その感じを表現してみたくて、この文章を書いている。

冬は樹も寒かろうが、人間だって寒い。特に朝はつらい。手先、足先が痛い。枝打ちはさほど運動量の多い作業ではないので、少し厚めに防寒をして、ヤッケのフードを頭からすっぽりと被って、少し意識的にカラダを動かす。そうして手足にも血が巡って暖かくなり頭に被ったフードも邪魔だと感じ始めると、訪れてくるのである。冬の気配が。


「訪れ」は「音連れ」。何か気配を感じる時、それは音に聞こえるように感じる。しかし冬の山は実に静かだ。風がなければほとんど音はしない。ノコギリを引く音と、パサッと切り落とした枝が落ちる音がするくらい。だが、聞こえるような感じは間違いなくするのである。

おかしなことを言うようだが、「聞こえる」のは、本当は聞こえていないからなのだろうと思う。聞こえるような気がするだけである。だが、この「気」は確かにある。たぶん、私の身体から出ている気だ。それが縮こまっている木々に反射して、私自身に「聞こえる」。新芽が萌え出る春になると、木々や草花が発する気でかき消されてしまって聞こえない。それが、この季節だと聞こえるのである。

もしかしたら、これが「冷え寂び」というものなのかもしれない。
だとしても、「氷ばかり艶なるはなし」というところまでは到底至らないけれども。

それと。

「おとづれ」が自身の「気の反射」というのはあくまで比喩であり、それは心象風景、いや心象音響のようなものである。だが、それゆえに、反射をなす相手への心理的な信頼がなければ「おとづれ」もまたなかろう。これがもし放射能に汚染された環境であったなら、「おとづれ」は聞こえるかどうか? 聞こえたとしても、もっと別な聞こえ方をするだろう。

3.11後では、こんなようなことも考えずにはいられない。



ここから先は、少し身の回りの愚痴をこぼしてみよう。

この枝打ち作業をノコギリで出来るのは幸いだ。本当は枝打ちはナタでやるのが一番だが、枝が太くなり過ぎいてナタではかえって樹に傷を付ける。そうなると、効率的に作業をするには小型のチェーンソーを使うのがいいのだが、それは使わない。事業の発注者――ここは山梨の県有林、未だに恩賜林といわれるが――がそのように指示しているからであろう。そうでなければ事業を受注した経営者は効率的な方法を選択するに違いない。私の「冷え寂び」など斟酌するはずがないし、経営者がそう選択すれば、雇われの身である者はそれに従うより他に選択肢はない。

発注者は他にも指示は他にもある。指示というより事業内容だが、枝打ちなら2mあるいは4m。もっと高い場合もあるが、高さは必ず指示がある。これが私にはまったく面白くない。

樹は一本一本違うのである。針葉樹林は樹高さはほぼ同じになるが、枝打ちをするくらいの樹齢だと成長の違いはわりと大きい。小さな樹はいずれ枯れる。また、太さはバラバラ。だから、その樹ごとに枝打ちすべき高さは異なる。そもそも枝打ちの目的のひとつが葉の量を調整して、つまり受光量を調整して樹の太さを揃えることにあるのだが、2m、4mという指示ではそういったことは全く考慮されていない。机上の設計があるだけ。

この指示は、経営者の立場で考えるならば、当然守るべきものだ。2mなら2m。それ以下なら役所の検査が通らないし、それ以上は無駄な作業になる。だが、こういった「効率的な考え」は、私には全く持ってつまらない。だから反抗をする。

といって異議を申し立てるのではない。作業をしながら、お気に入りになった樹には、経営者の立場からいえば余分に、樵の立場からいえば適正に枝を打ってやるだけのこと。“ところどころ良い樹を高い目に枝打ちをしておくと、いかにも樹を良くみているみたいで検査にも好印象だろう”と大義名分を述べたりしながら。いや実際、「よく見ているみたい」じゃなくて「よく見ている」のだが。また、そういった「構え」がないと「よく見られる」ようにはならないのだが。


それにしてもお気に入りの樹ほどたくさん枝を打ってたくさん痛めつけるとは、矛楯した酷い話ではある。だが、その矛楯を引き受けることが「生命と向き合う」ことに他ならない。その観点からみれば、指示通りに、効率的にという「構え」は、犯罪的であると私は思っている。命に対して無責任なのだ。

机上で設計ばかりしている「偏差値の高い」者たちにはこの犯罪性はとんと理解出来ないし、そういった環境に適応する者たちは無自覚のうちに犯罪を犯す。そして、そうした冷え冷えとした環境に身をおいていると、かえって自身の「気」がより際立って感じられてしまう。

これも「冷え寂び」と呼んでよいのかは、わからないけれども。

コメント

困った人たち

とても共感します。
枝を打つ高さを現場も見ないで数字で指示する連中は、「直ちに影響はない」とか「食べても大丈夫」などと平気ではなす官僚や学者と同じ環境で育ったのでしょう。「感じる」機能が徹底的に虚勢、いえ打ち払われている。そう考えると罪がないようにも思えてしまうからヘンな話しです。

痛い思いをしてまで育った木々、大事に使わないと叱られそうですね。寒い中、お気をつけください。

日本人ではないと言いたいくらい

・あやみさん、おはようございます。

そういえばあやみさんも「現場の人」ですよね。

官僚や学者と同じ環境で育ったのでしょう

その通りです。いや、それよりも質が悪いかも。というのも、彼らは同じ環境で育ったにもかかわらず「偏差値が低い」のですね。なので「偏差値の高い」連中にコンプレックスを抱いている。よって、より「偏差値が低い」者に対して常に見下す態度の出るわけですね。自身で自身の可能性を狭めてしまっている。可哀想なものです。

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