愚慫空論

「バズビー疑惑」が示すこと

前エントリーのようなことを書いたのであれば、こちらも取り上げておかなければなるまい。

 『バズビー氏の疑惑を暴く~全てを疑えというリテラシー』(モーリー・ロバートソン)

実は前エントリーを書くことになった下敷きには、バズビー博士のこの「疑惑」があった。

国際的なICRPと市民的なECRR。バズビー博士はECRRの代表的人物だが、いかにも「市民的」な疑惑だ。

この疑惑が真実なのかどうかについては、ここでは触れない。私にはそのようなことを吟味する能力がないから。が、ひとつ言えることがある。この疑惑が真実であれ、またはいずれかの陰謀であれ、低線量放射線被曝が危険であるという仮説の説得力を削ぐには、その情報を発信している人物の信頼性を貶めるのが一番だということ。結局のところ、科学的知見を直接的に検証することが出来ない私たちには、人物を信頼するしか方法がないということなのだ。

ちなみに、記事を取り上げたモーリー・ロバートソン氏は、記事を読む限りでは信頼に値するように思われる。記事の内容に責任を持つという姿勢。そのために、慎重に情報を吟味するという姿勢。この姿勢が「バズビー疑惑」の信憑性を高める。本当は、こうした「姿勢」と「事実」とは直接的な関わりはないなずなのだが。

「事実」に直接コミットできない私たち。いやロバートソン氏だって直接コミットしているわけではない。だからこそ、その「姿勢」を「事実」へと繋げてしまうし、ロバートソン氏だって繋げようとしている。「事実」に直接コミットすることができない者以外は「事実」に言及すべきではない――驕った専門家が吐きそうな台詞だが――とでも主張するのでなければ、こうした「姿勢」と「事実」の、間接的で不明瞭はコミットメントを認めるしかない。その上で、いかに熟議積み重ねていくのか。この熟議は科学の名の下に行なわれてはならないが、しかし、科学を強力に支えるものとなるはずだ。科学的知見の歴史淘汰を推進する原動力となるはずだ。

それには、科学の立場からではなく自身の立場から、自身が支持する主張を明確にする必要があると考える。ただし「保留」付きで。熟議は明確な支持と「保留」との差異から生まれてくるのだ。必ずしも「すべてを疑う」ことから生まれるのではない。

「すべてを疑え」と言う者が見落としているのは、すべてを疑うことができるというのは特権であるという事実である。「すべてを疑え」は正論ではある。しかし、特権的。この特権は個人の資質か、もしくは社会的なポジションによって左右される。不安定な生活を強いられている者に「すべてを疑え」などというのは、酷なこと。正論だからといって適切とは限らないのだ。


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