愚慫空論

「低線量被曝は心配ない」が信じられない理由

放射線の低線量被曝が身体に与える影響については、私はなにもわからない。にもかかわらず、低線量被曝を心配し怖れている。

低線量被曝の影響は不明だから、注意を払っておいた方が合理的という考え方もあるし賛同もするが、しかし、心配や不安は情緒的な問題であり、合理的に生じるということはない。低線量被曝を合理的に心配しているわけではないのだ。


では、心配の源泉はなんなのだろうか。不信である。「ヤツラ」に対する不信。「低線量被曝は心配ない」を信じることが出来ないのはその主張がヤツラにとって都合がよいから、である。

原子力業界が安全委24人に寄付 計8500万円

 東京電力福島第一原子力発電所の事故時、中立的な立場で国や電力事業者を指導する権限を持つ内閣府原子力安全委員会の安全委員と非常勤の審査委員だった89人のうち、班目(まだらめ)春樹委員長を含む3割近くの24人が2010年度までの5年間に、原子力関連の企業・業界団体から計約8500万円の寄付を受けていた。朝日新聞の調べで分かった。

 うち11人は原発メーカーや、審査対象となる電力会社・核燃料製造会社からも受け取っていた。

 原子力業界では企業と研究者の間で共同・受託研究も多く、資金面で様々なつながりがあるとされる。中でも寄付は使途の報告義務がなく、研究者が扱いやすい金銭支援だ。安全委の委員へのその詳細が明らかになるのは初めて。委員らは影響を否定している。



「委員らは影響を否定している」だって? 信じられるわけがないではないか。可能性としては否定できない。論理的にいえば、寄付と国や電力事業者への指導は別次元の話だから。が、私たちは識っている。自身も含めてほとんどの者がカネに対して合理的に振る舞うことが出来ないことを。それを識っているからヤツラに不信を抱く。

不信を抱かせる記事へのリンクをもうひとつ貼っておこう。

 『長周新聞』 2012年1月1日(日曜)。3面。「人はなぜ御用学者になるのか」

ヤツラへの不信と科学的知見とは切り離すべきだという意見もあろう。それが理性的な態度である、と。が、私はこのような態度を理性的と考えない。こうした理性的態度には「自省」という重大な要素が欠けている。人はカネに対して中立的でいられないという、理性を自身に向けてみればすぐに判明する事実を無視している。科学的知見を提出する者がカネと無関係であるという証拠などない。それより関係していると見る方が理性的だ。科学的知見が真に客観的普遍的なものとなるには歴史の淘汰が必要だが、低線量放射線被曝についての科学的知見は、まだその淘汰を受けたとは到底言えない。

このことは、国際的なICRPと市民的なECRRの対立に象徴的に現われていると見ていいだろう。

科学的知見が歴史的淘汰を受けていない現時点では、科学的知見は真に科学的ではない。ゆえに信頼するに足らない。科学的な知識に乏しい一般市民が現時点でできるのは、人間を信頼することである。信頼できる人間が発信する情報を信頼すること。これ以外にない。自身の立場から見て信頼できる人間の情報を信じるしか術はない。未淘汰の知見をあたかも真の科学的知見がごとく発信される情報など、信じる必要はない。

ただこれには悩ましい面があって、それはそうした一方的で全面的な信頼が科学の歴史淘汰を妨げるよう作用する場合が多いということ。だから、一方的で全面的にならないように、淘汰された結果を受け入れることができるように、どこかに「保留」を保持しておくことが必要。とはいうものの、そうした「保留」を保持したまま、その情報に頼って決断するというのは難しいこともあって、どうしても「保留」はなしに、つまり全面的な「安全安心」を求めてしまうことになる。

だがそれは、ないものねだりでしかない。ないものはない。この現実を受け入れ、あとは自己責任で行動するしかない。

(ツイッターのTLを眺めていると、フクイチ4号機が危機的状況にあるのではないかという情報が散見される。もし情報の流れが危機的状況から本当に危ないというところへ変化したとき、どのように対応するか。考えておく必要があるかもしれない。)

コメント

1/0思考は危険かも

はじめまして(…じゃないか?)

私は愚樵さん以上に低線量・長期被曝についての見識があるとは到底言えないものですが…
ただ、その危険性を推し量る場合、「ヤツらの言っていることだから」信じないというスタンスの取り方は、私にはできません。
それは、科学とは別の地平における二分法を、科学の利用に持ち込むことにつながるからです。

低線量・長期被曝の問題は、これから作られる知見に待つしかないんじゃないかと、少々諦めにも似た気持ちでいます。
救いがあるとすれば、「原発安全神話」が壊れたこと。
それにより、これまで封印されてきた科学的知見が表面にでてくること、これから科学的知見を得るための所為が容易になることを意味するからです。

新年早々まとまりのない※ですみません。

とりあえず

仕事があるのが恨めしい限りですが、定期預金下ろして、逃げる用意しておきます。

バイクを動かせない(バッテリ切れ?自賠責保険切れ)ので、そのときはとりあえず山梨に立ち寄らせていただいてよろしいですか?中央線で一本なので…

選択は1/0でしかありえない

・とみんぐさん、ようこそ。

はい。危険性を推し量るのが直接「ヤツラのいうことは信じない」ではいけませんね。

そういえばタイトルが「信じない」になっていますね。「信じられない」にするべきでした。修正しておくかな。

それは、科学とは別の地平における二分法を、科学の利用に持ち込むことにつながるからです。

私が信じられない理由は、科学的といってきた当人達が「別の地平」を持ち込んでいるという疑義があるからです。この疑義は人間性に深く根ざしたところにあるので「影響がありません」というだけでは到底信じられない。

科学は、科学と名乗り、あるいは科学者の衣装を纏えば直ちに科学になるのではないはずです。3.11以降の専門家=科学者達の醜態はそのことを白日の下にさらして、科学者にこそ良心が必要だということを浮き彫りにしたと思います。科学的知見の正誤と良心は別次元の話ですが、その知見が淘汰を経ていない場合には頼りにできるのは、結局良心しかないのではないか。そこを別次元と退けてしまう「1/0思考」は危険ではないのか、ということです。

選択はいずれにせよ「1/0」です。完全な知見があるなら選択は容易ですが、そうでない場合には決断をしなければなりません。ここで「1/0思考は危険」という助言があってそれに従うとするのなら、残るのは必然的に日常ということになる。正常性バイアスに従うことになってしまいます。平常時はそれで良いのでしょうが、問題は、今は平常時なのかどうかということです。

それにより、これまで封印されてきた科学的知見が表面にでてくること、

封印されていたのではなく、見なかったのだと思います。一般庶民だけではなく、専門家も含めて。それが現実を突きつけられて、見ざるを得なくなった。が、尚、目を背けているのが「専門家」であり、「低線量被曝は心配ない」はその拠り所に映ってしまうわけです。

緊急時

・ろろさん、おはようございます。

緊急時には、利用できるものは何でも利用しましょう。
歓待はできませんが、仲間がいればこちらも心強いです。

諦観

ううむむ
タイトル変えられましたか。
これならば、納得です。

で、問題は…
現況が非常時なのか否か。
非常時だとして、それを変えられる(正常時に戻すことができる)か否か。
この点について、愚樵さんは変えられると考えておられる。
その前向きな姿勢は敬服に値すると思いますが、私はその点において悲観的なのです。
というより、この状況がなし崩しに「平常状態」となっていく可能性が高いのではないかと疑っています。
であるからこそ、なおのこと「1/0」思考は回避するべきではないかとも思うのです。
言い換えるなら、目の前に提示された「1」あるいは「0」という選択肢、それしか選択肢がないのか、第3の道はないのか?
今のような時であるからこそ、一旦立ち止まって周囲を見渡す余裕を、意志的に持たなければならないときなのではないかと危惧する次第です。

一旦立ち止まって周囲を見渡す余裕

・とみんぐさん、おはようございます。

今のような時であるからこそ、一旦立ち止まって周囲を見渡す余裕をもたなければならない。その通りだと思います。ただ「意志的に」というのにはちょっと疑問。次のエントリーでも指摘しましたが、それは特権的正論だと私は思っているんですね。今、現にがんばっている者に「もっとガンバレ!」と声を声をかけているような感じがする。

自分を省みて思うんですが、それでもっとがんばれる人というのは、並外れてがんばれる人かあるいはまだ余裕のある人のどちらか。

そしてもうひとつは、余裕を持てというメッセージそれ自体が、緊急時ではないというメッセージになってしまうということ。「緊急時だからこそ余裕を」というのは正論ですけど、その余裕は正常化バイアスになっていくと思うんです。「それではいけない」は平常時に言えることであって、緊急時には「そういうものだ」という現状認識を優先させるべきでしょう。

だから、敢えて「信じられない」でいいと思うんですね。そして自分の立ち位置から信じられるものを探せばいい。そこから余裕を作り出すことができる方向へいけばいいと思うんです。とはいえ、ここには落とし穴がたくさんあるわけなんですけどね。バズビー博士のサプリメントのような。悩ましいところです。

そうなんです

>その余裕は正常化バイアスになっていくと思うんです。「それではいけない」は平常時に言えることであって…

ご指摘のとおりです。
そこのところに異議申し立てをするか、諦めて飲み込まれていくか…
私は後者の方に流れつつあるということです。

話はがらりと変わるようですが、中島みゆきという人の「吹雪」の一節に
 疑うブームが過ぎて
 楯突くブームが過ぎて
 静かになる日が来たら
 予定どおりに雪が降る
という歌詞があります。
今の流れは、「静かになる日」を誰かが待っているようで不気味です。

4号機の不思議

去年暮れからセシウムの数値がすごく高くて
スキー場から急ぎ帰ってきました。
今年に入っても「福島」は高いです。
4号機の燃料プールの補修もむなしく
先日の震度4の地震で危険な状態にあるらしいのです。
もう一ヶ月も4号機に照明が当たっていて何なのか不思議なのです。
4号機が倒壊したら、全員退避でしょうから
そうなれば6号機まで全滅で、日本のどこに逃げても同じですね。
再臨界らしいウワサがこちらはいっぱい。
心配性の私は気が狂いそう。


Re:そうなんです

とみんぐさん、おはようございます。

なんだかお疲れのようにお見受けしますが...

私は「異議申し立てをしろ」というようなことを言いたいのではないのですね。
そういったことは左翼の方々にお任せしています(笑)

生命のリズムを取り戻そう。そういう話をしたい。この記事もそういった話の一環のつもりなんです。
(それにしては話の筋はあまりよくないですね。ちょっと反省。)

正常な時の正常化バイアスはいいんです。それがリズムになっているならですが。
正常でない時にもリズムは必要です。正常化バイアスはそのリズムを取り戻そうとする内発的な動きですが、今回のような事態があると、正常化バイアスが以前のリズムに戻ろうとして、かえってリズムが悪くなることがある。そんなときは意識的にリズムを一旦「切る」も必要になってきます。そんなとき「1/0思考」は役に立つと思うのですね。

そうだ。私も今、気がつきました。だから私は最初は「信じない」と積極的に書いたんですよ。「信じられない」ではなくて。「切る」ために。

こういったことも必要だとお思いになりませんか。

Re:4号機の不思議

・けいそくきさん、ようこそ。

4号機のことはわかりません。が、

http://sun.ap.teacup.com/souun/6458.html

に掲載されている@Happy20790さんのツイートによると、噂ほどではなさそう。でもやっぱり、現場を直に見ることの出来ない私たちにはよくわかりません。

心配するのは、生き残るのに必要なことです。でも、心配のエネルギーを費やしてしまって、いざというときにエネルギーが残っていないのでは話になりません。

こんなときだからこそ生活のリズムを整えましょう。

「ヤツラ」をもう信じません

お久しぶりです。
ここ2ヶ月ほど、自身の訴訟の準備書面作成にかかりきりになっています。
相手方の反論は、嘘で固められているので、それを、根気よく一つ一つ剥がしてゆく作業の連続です。そのため、嘘には、もう辟易してます。

 政府や関係省庁は「帰宅困難地域」と変な名を付けて、帰宅不可能な地域がさも無いような呼び方をするなど、今や、詐欺師同然です。
有名になった「ただちに健康に影響はない」のごとく、影響がないものでないという真実が含まれるという遠まわしな嘘が日常化している現実から自身を護るには、やはり疑うことは大切です。
やはり、私ごとき凡人にとって、いつも疑うということは疲れるものですから、
一度でも重大な嘘を付いた者を、二度と信じないと云うことで対処するしかないのですが。

東大話法

・いごっ草さん、コメントありがとうございます。

ご苦労をなさっているようですね。

政府や関係省庁は「帰宅困難地域」と変な名を付けて

そういうのを「東大話法」というらしいです。

『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』
http://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E7%99%BA%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E8%A9%B1%E6%B3%95%E3%80%8D%E2%80%95%E5%82%8D%E8%A6%B3%E8%80%85%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86%E3%83%BB%E6%AC%BA%E7%9E%9E%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%AA%9E%E2%80%95-%E5%AE%89%E5%86%A8-%E6%AD%A9/dp/4750335169

こうした「話法」をつかうのは何も東大に限ったわけではなく、日本の【システム】のさまざまなところに蔓延しているらしいです。いごっ草さんの相手もそういった「語法」の使い手なのかもしれませんね。

疑うことは大切です。でも仰るとおり、いつも疑うというのは出来るものではない。そんなふうに人間はできていませんよね。ですから

一度でも重大な嘘を付いた者を、二度と信じないと云うことで対処

というのは、生きる残るための知恵です。もっとも、深く反省していると認められれば信じてやってもいいとは思いますが。

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