愚慫空論

クラウドな想像力が創出するもの

前エントリーでは華厳経の「重々無尽」とソーシャルネットワークを重ねてみた。

私は以前からこのようなイメージを「クラウド」と呼ぶことにしている。この名辞はもちろん「クラウド・コンピューティング」からのものだ。



「クラウド」という蠱惑的な言葉を生み出した言語感覚。誰かは知らないが、改めて素晴らしいと思う。それは、愚樵というHNでネットに出入りする人間としてより、樵という世界で生きている人間としてより強く感じる。「クラウド」は『不定時法の世界』に近い。これはもちろん私の直観であって、うまく説明することがなかなかできない性質のものだ。

想像の共同体だが先日、この直観を言い表している言葉に出会った。それはベネディクト・アンダーソンの著作のなかにあった。

我々自身のもつ同時性の観念は、長期にわたって形成されてきたもので、その成立は確実に世俗科学の発展と結びついたものであったが、この成立の過程についてはなお十分に研究されているとは言い難い。とはいえ、この観念は、ナショナリズムの成立にとって決定的な重要性をもつので、これを十分に考察することなしに、ナショナリズムのあいまいな起源を探査することは難しい。中世の時間軸に沿った同時性の観念にとって代わったのは、再びベンヤミンの言葉を借りるならば、「均質で空虚な時間」の観念であり、そこでは、同時性は、横断的で、時間軸と交叉し、予兆とその成就によってではなく、時間的偶然によって特微付けられ、時計と暦によって計られるものとなった。
こうした変容が国民という想像の共同体の誕生にとってなぜかくも重要なのか。これは、一八世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つの想像の様式、小説と新聞、の基本構造を考察することで明らかとなろう。というのは、これらの様式こそ、国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術的手段を提供したからである。(p.49~50)



均質で空虚な時間。この言葉が惹起させるのは、その反対の「均質でなく空虚でない時間」。こうした「時間の流れ」を私は樵として自然と相対しているときにも感じるし、ソーシャルメディアの中にいるときにも感じる。
一般意志2.0

これが意味するのは、ツイッターのユーザーは、いま世界でなにが起きているか、世の中でなにが話題かを気にかける必要がまったくないということである。たとえば外部で戦争が起きようが革命が起きようが、自分のタイムラインさえ平穏なのであれば、彼もしくは彼女は、すべてを無視していつまでも少数の友人とおしゃべりに興じ続けることができる。それは、かつて「想像の共同体」の要としての国民国家の統合に大きな役割を果した、新聞やラジオやテレビのような二〇世紀型のマスコミとは対極にあるメディア体験である。新聞やテレビは、ニュースが強制的に視聴者の生活の中に入り込んでくる。ネットにはそれがない。(p.224)


マスメディアが「均質で空虚な時間」を可視化したとするならば、ツイッターが可視化しているのは「空虚でない時間」である。とはいえ、空虚でないがゆえに「島宇宙」を作り出して傾向がなきにしもあらず。けれども

けれどもツイッターは他方で、そのようなしまう中を横断し、ユーザーをそれぞれの小さなコミュニケーションの外部に半ば強引に連れ出す機能もまた備えている。


連れ出された者に流れる時間が均質であろうはずがない。

ソーシャルメディアと自然との差異にまず言及しておくと、自然の場合は「半ば強引」ではなく「連れ出し」はデフォルトである。もう少しいうと、だからこそ「絆」というものが内発的に惹起されてくるのだが、話が大きく逸れるのでここでは止めておこう。

自然との大きな差異は未だ厳然と存在するにせよ、それはネットという人工環境の宿命であるにせよ、流れる時間の感覚は空虚でも均質でもない。

ここから先は、また直観に戻ろう。

均質で空虚な時間の流れと、コンテンツとしての言葉がもたらした「想像の共同体」。私はこれを「象徴界の共同体」ではないのかと思う。アンダーソンが国民国家以前に存在していたと指摘している宗教共同体なども同じ。

不均質で身体的な時間の流れと、コンテキストとしての言葉がもたらすかもしれない共同体。これは「想像界の共同体」。そして内山節がいう自然を含めた共同体というのは、こちらである。


また、この直観に従うならば東浩紀が再解釈したルソーの一般意志もまた想像界的なものだったと考えられなくもない。想像界の共同体の意志としての一般意志。私は東の記述を読みながら、宮本常一の『忘れられた日本人』にある「寄合い」の記述を思い起こしていた。

ルソーの思想は、一般には、個人の自由、感情の無制約な発露を賞揚するものとして知られている。たとえば『学問芸術論』と『人間不平等起源論』は、自然状態にいる「野生の人」の自由と幸福を謳いあげるところから始まっている。また『エミール』では、できるだけ子どもを自発的に育つままにしておくこと、その内発性を社会の悪から守ることを理想の教育の柱としている。ルソーは次のように記している。「自然の最初の衝撃は常に正しい。[・・・・・・]初期の教育は、だから、純粋に消極的であるべきである。それは、徳や真理を教えることにあるのではなく、心を悪徳から、精神を誤謬から保護するところにある」。(P.26~27)


ルソーが理想としたところは動物化した人間だったのかもしれない。だとして、それを可能にするのは象徴界的想像力がもたらす【想像の共同体】ではないだろう。想像界的想像力による〈想像の共同体〉だ。

あくまで私の直観である。

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