愚慫空論

フラジャイル/インドラの網/一般意志2.0

昨年はいろいろと本を読んだが、著者別でいうと最も多く読んだのは松岡正剛だった。また松岡正剛の本ではなくても、千冊千夜にはずいぶんお世話になった。これからもなるだろう。「知のインタープリター」として今の日本では最上の人ではないかと思う。

(ただ困るのはいろいろな意味でついていけないこと。知的な営みには時間もエネルギーも必要だけども、樵をやっていたのでは賄いきれないところがある。そんなときは樵であることが恨めしいが、しかし、私にとっては樵でいることはいろいろな意味で重要なことなんだよなぁ。)

そんな松岡センセーに(勝手に)乗っかって出合ったものはたくさんあるが、今日はそのなかで「フラジャイル」と「重々帝網」を簡単に。

「フラジャイル」は "fragile"。 脆弱なとか、壊れやすいとかいった意味。松岡正剛にはズバリ『フラジャイル』という名の著作もあって大変面白いものだけれども、今日は触れない。

それよりもスティング。



そして、ルイス・トマス。

人間というものは、自分のことを自分の記憶だけで埋めようとしていない。自分にとって憧れたいもので自分を埋めようとしている。だからこそ、自分を超えた何かを求めるのであり、だからこそ自分という人間は世界でいちばんフラジャイルなのである

自分を埋める自分以外の他者。これは私に言わせればインターフェースのなかの〈霊〉ということになるのだけれども、そして残念ながら〈霊〉には〈悪霊〉もあって、それに人間は大いに苦しめられるのだけれども、それゆえになおのこと人間はフラジャイル。

人間をその本性の深いところから突き動かしている特徴は、何かの役に立ちたいという衝動である
たぶんこれは私たちのあらゆる生物学的な必然性のうちで最も根本にあるものだろう

生命の均衡発現をデフォルトに最適発現へ向かおうとする「構え」

(蛇足をしておくと、私はスティングのこの曲を聴くとなぜかJ.S.バッハの『シャコンヌ』が被ってくる。バッハの方はヴァイオリン一挺のインストゥルメンタルで雰囲気も全く違うのだけれども。もし聴きたいのなら、youtubeにも音源はあるが、パブリックドメイン・クラシックにある著作権切れの古い音源だけれども、なかでもエネスクがオススメ。フラジャイルな趣が色濃く出ているように感じる。
J.S.バッハ→無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調→ジョルジェ・エネスク→第5楽章シャコンヌ
と進むとよいが、直接行くならココをクリックしてもらってもよい。)

エヴェレスト


次は「重々帝網」だが、これはブログタイトルでは「インドラの網」としたもの。宮沢賢治にこのタイトルの童話があってネットで読むことができる。本なら数ページのごく短いお話だ。

宮沢賢治というと「法華の行者」で知られているが、「重々帝網」もお経にでてくる話。法華経ではなく華厳経らしいが、どちらでもいいだろう。この上なく壮大なイメージである(賢治の童話では説明されていないので、念のため)。

まず「帝」だが、これは帝釈天。仏教的空想の世界、須弥山の山頂の住むが、その宮殿の天井には無数の宝珠が編み上がった「網」がかかっている。その宝珠はひとつひとつが他のすべての宝珠を映しこみ、煌びやかに光の乱反射させて――ということで「重々」。「重々無尽」とか「相即相入」とか「融通無碍」とか他にもいろいろ呼び方があって、仏教の世界観の基礎である「縁起」の集大成ともいうべきイメージだ。もちろん、ひとつひとつの宝珠は「私たちひとりひとり」に相当すると考えるべきだろう。

この壮大なイメージは非常に「強い感じ」がする一方で、「弱い=フラジャイル」な感じも惹起する。重々無尽のイメージ――小さな折り合いが織りなす大きな世界――から自己を外して客観的に観るならばそれは神のごとき視座となるが、その中にたった一個の宝珠=自己という視点をを入れ込むと途端にフラジャイルになる。

もう一度引用してみよう。

人間をその本性の深いところから突き動かしている特徴は、何かの役に立ちたいという衝動である

因陀羅網


さて、三つ目、「一般意志2.0」。これは東浩紀が創出した概念だ。
一般意志2.0
なぜそんなものが「フラジャイル/インドラの網」と並べられているのかということだが、実は並べた私自身にもよくわからない。

ルソーが提唱した一般意志からの(著者の表現によると)二次創作で一般意志2.0を作り出した。ここでは新たな政治の形が提案されているが、だがまだ「弱い」。この「弱い」はフラジャイルではなく不明確ということだが、それでも重々無尽なあるいはフラジャイルな「形」が見えるような感じを受けなくもない。有り体に言えば“一般意志2.0”と名付けられた「考え」がそのような方向へ発展していって欲しいという私の願望でしかないのかもしれない。

だが。

人々がたがいに憐れみを抱き、感情移入しあうことで公共性が担保される世界。かわりにあらゆる理念やイデオロギーを私的領域(趣味の世界)に押し込め、社会設計からは慎重に隔離する世界。徹底した相対主義の、あるいはあらゆる「主義」から無縁の世界。リチャード・ローティはそれを「リベラル・ユートピア」と呼び、現代社会はその理想に向かって進むべきだと論じた。そして本書の構想もまた、あらゆる熟議を私的領域に閉じ込め、公共性を大衆の無意識によって確保する点で、このローティの理想に近づいている。(p.220)



期待はまったく的外れでないと思う。

もうひとつ期待の材料。それはインドラの網が一部可視化されつつあること。

宮沢賢治は童話のなかでインドラの網を「見えるが見えないもの」と表現している。インドラの網など想像上の産物でしかないのだから、それは的確であった。だが、その想像上の産物がテクノロジーの進化で見えるようになってきている。

たとえばツイッターだ。ツイッターの世界を構成するアカウントひとつひとつは宝珠に相当すると考えても、さほど無理はないだろう。想像の重々無尽と比較するなら、その宝珠はまことに不完全ではある。ひとつのアカウントが他のすべてのアカウントを映し出すところには全く至っていない。大きな宝珠もあれば小さな宝珠もあって、いびつな姿をしているかもしれない。しかしそれでも、重々無尽なことには間違いない。そしてそれを見ることができる。実際に見ることが出来るのは自分のアカウントに流れてくるデジタル情報の流れだけだが、そこから重々無尽を想像するのは難しくない。

その「想像」が一体、どういった変化をもたらすことのなるのか。

ここから先は続きにすることにしよう。

コメント

とくに題はありません。

"Fragile"と聞いて私が思い浮かべるのはこの辺の曲です。

Mt. Sims / Fragile Breaks Fragile
http://www.youtube.com/watch?v=sVqm9BYCiD8

Nine Inch Nails /The Fragile
http://www.youtube.com/watch?v=ytH7SLznGzE

どちらもfragileという語感から隔たっている気がしますけれども、それはあくまで日本人である私が英語の語感から受ける印象と欧米人がこの語に対して抱くイメージの差なのかもしれません。

奥本大三郎はパスカルの「人間は一本の葦に過ぎない。自然のうちで最もか弱いものである云々」という箴言を採り上げ、概ねこのようなことを書いています。
葦はフランス語でroseau、この語自体に「か弱い」というニュアンスがあり、後半の「か弱い」(faible)と馴染む。
しかし日本語の「葦」という言葉には「か弱きもの」などというイメージは特にない。子供のときにパスカルのこの言葉を聞いて、何のこっちゃと思った。私(奥本)にあったのは百人一首の「蘆のまろやに秋風ぞ吹く」という寂しい感じだけであった、と。

以前鉱物標本の展示即売会で外国人から標本を購入する際、"Is this specimen fragile?"と尋ねたら全く相手に通じず、fragileをsoftと言い換えたら簡単に通じたことがありました。単に私の発音が悪かっただけかも知れませんけれども、鉱物にfragileという形容が馴染まなかった可能性もあります。
そういった「言葉のニュアンス」というのは結構厄介で、愚樵さんのブログで「霊」という言葉で表されているものについても、もっと具合のいい言葉があればなあと折々に感じます。「霊」にはあまりにもポップオカルト的な色が付きすぎているように感じてしまいます。

とくに題はありませんの2。

とりとめのない話が続きます。
昨年末に帰郷する際、小田原から在来線に乗りました。隣は大学生の2人組で、会話から察するにそれなりにランクの高い大学の学生のよう。一方の学生がCOP16や京都議定書の話などをしていたのですが、そのうち話は橋下市長に及び、「自分はこれまで海外就職志向であったが、橋下が守旧派を相手に果敢に戦っているのをみて感化された。国内で頑張ろうという気持ちになった」などと話していました。
彼らはその後も他大学の学生との人的交流の話題など交わしつつ、東田子の浦あたりにさしかかるとスマートフォンで富士山の写真を撮ってその場でいそいそとツイッターに掲載したりしているんです。

愚樵さんの説く「電縁」の世界と、橋下流の聖域なき自由競争と拡大志向の世界とが若い世代の中にごく当たり前のように同居している。別にそう不思議なことでもないんですが、電縁の世界は一方で従来のシステムに依拠した「人脈」のような競争のためのネットワーク作りをする若者にも開かれているところが面白いと思います。

どうもまとまらない話ですみません。今年はもう少しコメントに工夫をしたいと思います。

・黒い時計の旅さん、今年もよろしく、です。

私は語学がダメダメなので、fragile といってもピンとこないのですけれども、松岡正剛経由で仕入れた「フラジャイル」のイメージでいうと、『fragile breaks fragile』も『The Fragile』もあまり違和感を感じません。特に「fragile breaks fragile」の言い回しは(音楽とのマッチングは把握しきれないのですが)、「フラジャイル」の特質をうまく言い表しているように思います。「フラジャイル」は「か弱い」だけではないんですね。

ただ、これはやはり「私のイメージ」であって、指摘されるように「霊」という言葉の使い方と大差はありません。これは私のクセというか流儀なんですが「言葉のニュアンス」を敢えて自己流に改変して使うところがある。一般的な言葉のイメージ(といってもあくまで私が一般的と感じているに過ぎないのですが)を敢えて別のイメージに置き換えてみることによって生まれてくる差異から思考の切り口を拓くというのが、私のやり方なんです。ですのでどうしても「言い換え」を多用することになる。「霊」もあくまで言い換え可能な言葉でしかないのですけれども、そしてそもそも言葉というのはそういったもののはずなのですけれども、そのような前提で文章を読む人というのは残念ながら少数派のようですね。

「霊」にあまりにもポップオカルト的な色が付きすぎているというご指摘はその通りで私も意識はしているのですが、そういった既成のイメージに引きずられる人はどうせ他のところも読むことはできないでしょうから、いうなれば確信犯的に使っているというのもあるんですね。

とはいうものの「霊」を言い換えてみたいという欲求はありまして、そうなるとどうかな? スピリット/ファントム/ゴーストあたりから組み立て直してみようとか、そうなると下敷きは『Ghost in the Shell』だなとか、あるいは「レイニイテンレイ」というのもありだなとか、思いつきだけはあったりします。

おっと、私のほうもとりとめのない話になってますね。コメント欄でこれをやるのは結構好きだったりするんですけど。

愚樵さんの説く「電縁」の世界と、橋下流の聖域なき自由競争と拡大志向の世界とが若い世代の中にごく当たり前のように同居している。

この雰囲気は私も感じていて、そして危惧しているところなんです。別に不思議なことではありません。ある程度年齢がいくと社会に適応していくのは自然なことで、優秀な者ほど社会への適応度が高く、その適応ゆえに「電縁」と【自我】拡大志向とを結びつけてしまうのは当然といえば当然なのです。あの原発事故があってもなお社会の基調自体は拡大志向であって、そのことにあまり大きな変化はないようなんですね。フラジャイル志向ではなく、ストロング志向なのです。脱原発は経済成長することで達成されなければならない、――宮台真司あたりがその先頭を走っているわけですが、彼らにとってはそうした主張は説得力を持つのですね。なにしろ彼ら自身のキャリアとの齟齬が生じないわけですから。誰だって「努力の成果」は大切なんです。まして自身の努力なら、なおさら。

でもねぇ、私に言わせれば、こういったのはやっぱり「アタマデッカチ」でしかないわけでして。この拡大志向が金融危機という形で現れているのに、そうしたところは「見えない」んですよね。

世界は諸行無常なのに。

そうそう

スティーヴ・エリクソン著『黒い時計の旅』、読んでみました。行きつ戻りつしながら読んだので、かなり時間がかかってしまった(^_^;

刺激的な時間でしたが、「感想をまとめる」というような作為が拒否されているというか、簡単に何かを言えそうにありません。

それでも敢えていうとすると、村上春樹の『1Q84』やアニメで流行になっているパラレルワールドは、もうずっと前にここに描かれていたんだ、ということくらいかな...

 愚樵さんとは知への姿勢が根本的に異なるため二度と書かぬほうがよかろうと考えておりましたが、ひとつだけ。

 宗教について知ったかぶりはせぬことです。「無」や「空」と書いたところでそれを観たこともない人間には言葉遊びにしかなりません。「無」や「空」は概念ではなく絶対的体験だからです。
 経典に書かれた言葉は宗教体験がない人間には「知ったかぶり」しかできません。知への不敬を行ないたくなければ宗教への言及は避けたほうがよいでしょう。私には恥辱の自己アピールにしか見えません。読む私のほうが恥ずかしく感じます。

知ったかぶりをしてますよ?

あかまさん、ようこそ、と言いたいところですが、正直歓迎しかねるご訪問ですな。

文章をよく読みましょう。私は松岡正剛の著作からここで取り上げた宗教概念を知ったわけで、そう書いてありますね。「無」や「空」は観念ではなく体験だというのはそうかもしれませんが、だからといって概念的にイメージとして捉えていけないという法はないでしょう。

そういった書物は世の中に山ほどあるはずですが、あかまさんはそれらにいちいち文句を付けてまわっておられるのですか? まさかね。

まあ、早い話が大きなお世話ということです。読んでいて恥ずかしくなるというのなら、二度と読まなければ良いだけの話。誰にでも見られるように公開した文章ですが、別にあかまさんに見てくださいとお願いしたわけではない。余計な忠告はご自身の絶対的体験とやらを振りかざしているだけにしか見えません。

というわけで、さようなら。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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