愚慫空論

生命の最適発現/均衡発現/過剰発現

謹賀新年。 平成二十四年最初のエントリーです。今年もよろしくお願いします。

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・自然からの贈与

それはたとえば、稲穂の稔りだ。

実りの秋


一粒の籾は何十倍何百倍にも増殖する。生命力の発現である。

生命は常に持てる生命力を最大限発現させようとする。それが生命というものの性質であり、最大限発現することが個々の生命にとっては最適なこと。だから生命の最適発現とは最大発現のことである。

しかし、無数の生命が組み合わさった生態系においては個々の生命の最適が最適ではない。

人間が管理している水田の場合には、稲が最適に生命力を発現させて生まれたもののほとんどが収穫として人の生命を維持するために費やされることになる。もし仮に人間が管理していなくても、発現した籾のすべてが次世代に引き継がれるわけではない。その多くは他の生命を支える糧となるはず。生態系のなかでは、稲は最適発現よりもずっと小さな生命しか生存することができない。生命の均衡発現である。

生命の最適発現と均衡発現の差分。これこそが自然からの贈与である。そのように受け止めたとき、私たちの心の中には悦びが湧き上がってくる。一方で、この差分は弱肉強食な自然の摂理による当然の帰結であると観ることもできよう。この観方であっても悦びは湧くが、しかし、贈与と観たときの悦びとは少し違うものがある。人間が管理する水田だと、予定していた収穫を予定通りに収穫できたという安堵の気持ち。コストを掛けリスクを冒して得たゲイン。贈与を受ける〈悦び〉とゲインを得る【悦び】は、同質のものではない。

・最適発現の〈善〉/【善】



もちろんのことながら人もまた生命の「現れ」の一である。
特別な現れではあるだろう。生態系の頂点に位置するという意味でも、自身を省みる自意識をもつという点でも。

その特別な自意識は、生命力を最適発現を「善」と捉える。
だが、ここには落とし穴がある。「善」が〈善〉ではなく【善】となってしまうことがある。【強欲】な現代社会は、まさにこの罠の中に落ち込んでしまっている。

一個の生命としての「人」。その「人」の生命最適発現の「善」が〈善〉であるためには、「人間」としての生命発現のデフォルトは均衡発現に置かれていなければならない。「人」からすれば均衡発現は最適発現よりずっと小さい。「人」としてのデフォルトは最適発現に置きながら、同時に、「人間」としてのデフォルトは均衡発現に置いておかなければならない。この差分を贈与として差し出す「構え」を保っていなければならない。

人の特別な自意識はこの「構え」を〈美〉と観る。「善」が〈善〉であるためには〈美〉の下支えが必要なのである。

現代社会では「人間」としてのデフォルトもまた最適発現になってしまっている。ゆえに差分が生じることはなく、贈与を為す「構え」も生まれない。最適発現はまさに最適なものとして【システム】のなかへ組み込まれていく。その結果、現代社会は生態系においては過剰発現になってしまっている。

過剰が限界に突き当たるのは当然の帰結であるし、過剰で限界を突き破ろうとしても手痛いしっぺ返しを喰らうだけなのもこまた当然。その当然が、最適発現が【善】となり【常識】となってしまったがゆえに見えない。ここに現代社会の病理がある。

原発事故


・最適発現の〈内発〉/【自発】

自発性は社会への適応から生じる。

【強欲】な現代社会に適応した現代人は自発的に自身の生命を最大発現させようとする。自身を社会のメンバーであると自認したい。【自我】を確立しアイデンティティを確立したい。ゆえに社会から社会人と承認を得るために自発的な最大発現を行なうとする。社会からの承認を得ようとすることがすでに社会への適応。だがこのこと自体は「善」であろう。

内発性は社会適応から生じるものではない。社会への適応以前に一個の生命として内在させているものである。また、社会以前の生態系のデフォルトは均衡発現である。このことは「善」でも何でもない。ただ「真」というべきことだ。

社会へ適応という「善」が「真」を疎外するとき、「善」は【善】となる。「善」が「真」を保っているなら、それは〈善〉であり〈美〉。つまり、【自発】が〈内発〉を疎外することがなければ自発性もまた〈善〉なのである。

社会への適応が上手く行かなかった者の中には、特別な自意識でもって前もって均衡発現を是としてしまう者もいる。努力は発現だが、それが報われることの少ない社会ではそうした者も否応なしに増える。これも社会適応の在り方のひとつではある。だが、この適応は「人間的」であっても「人的」「生命的」ではない。このような適応者が増える社会は病んだ社会である。

〈内発〉であろうが【自発】であろうが人は最適発現を追求する。最大発現が追求できる社会は「善き社会」である。だが〈善き社会〉とは限らない。【自発】が重んじられ〈内発〉が疎外される社会は【善き社会】であり、すでに病んだ社会への道を踏み出してしまっている。現代社会は末期症状を呈している。

幸せでなければ生き残れない

収穫の悦び


生命は自身の生命力を最適に発現できたときに幸せを感じる。それは〈内発〉からのものであっても【自発】からのものであっても同じである。贈与を受けたとき、あるいは贈与を与えることが出来たときの〈悦び〉。また、コストとリスクを超えてゲインを得たときの【悦び】。上述の通りこれらは異なるけれども、それでもどちらも「幸せ」と呼ぶに値するものであることは間違いない。

【自発】は【自律】を経由して【他律】なるが、病んだ現代社会は【他律】に満ちた社会である。価値は自身のあずかり知らぬうちに他所で定められて押しつけられる。自発的に価値を見つけようとしても、それはもはや困難だ。競争に勝ち抜かないことには自発性すら発揮できない社会になってしまっている。なまなかな【自発】は等価交換の原理に飲み込まれ、瞬く間に交換可能なものへと変換されてしまう。そんな社会のなかで凡夫は生き残ることすら困難になってきた。既存の【他律】を跳ね返して新たな【他律】となる強力な【自律】を生み出すことが出来、【悦び】を得ることが出来る人間以外は怯えながら暮らさなければならなくなった。これは最適発現がデフォルトとされてしまった人間社会の帰結である。

そうした社会で生き残ることが困難になった凡夫は、否応なしに自身の社会適応をリセットするというアクロバットを演じなければならなくなった。

だがアクロバットは難しい。アクロバットは凡夫にはできないからこそアクロバットなのである。

だからアクロバットは凡夫には〈希望〉にならない。フクイチが事故を起こしたとき直ちに避難するというアクロバットを演じた人は少なからずいたが、多くの人には出来なかった。社会に適応していたからである。

社会に高度に適応して自発性を発揮できる者たちにとっては避難は決してアクロバットではなかった。だがそうではなく、標準的な適応でしかなかった人たちにとってはアクロバットだった。この年末年始、そのことを実感している人も多いはずだ。アクロバットが長い目で見たときに正しい選択であることは次々と明らかになりつつあるが、それでもアクロバットはアクロバットなのであって、その事実は変らない。

その事実ゆえに、福島で生まれていると伝え聞くのは奇形な希望。福島が除染されて住み続けることができるようになるという【希望】である。それは不可能でないだろう。多大な犠牲を払うのであれば。

福島だけではない。小沢一郎や橋下徹に寄せられる希望もまた【希望】でしかない。

ではどうしたらいいのか。道標はないのだろうか。

追記:〈 〉【 】の表記についてはアキラさんの記事をご覧あれ。


コメント

今年もよろしくお願いします。

御意!
・・としかいいようのない魅力的なエントリーです。

それはそうと、愚樵さんの「素晴らしいエントリー」は年末年始に特に多いような気がするのは、僕だけでしょうか。 (^o^)

明けましておめでとうございます。

・アキラさん

評価を頂きありがとうございます。

でも、ちょっと不満なんです。前半に比べて最後のまとめがあからさまに不出来。もう少し推敲できたのでしょうが、「エントリーはなまも」が信条ですので。私の力量はこの程度です。

でもでも。「最適発現」「均衡発現」という概念から「真」「善」「美」にまで持って行けたのは我ながら上出来(^o^)v

で、年末年始に良いものが出る? そうかなぁ? だとしたらなんでだろう? 「予祝」効果?


そうですかね。 (^o^)

最後はそうなのかもしれませんが、後半部分だって、
「生命は自身の生命力を最適に発現できたときに幸せを感じる。それは〈内発〉からのものであっても【自発】からのものであっても同じである。

アクロバットは凡夫にはできないからこそアクロバットなのである。
だからアクロバットは凡夫には〈希望〉にならない。

アクロバットが長い目で見たときに正しい選択であることは次々と明らかになりつつあるが、それでもアクロバットはアクロバットなのであって、その事実は変らない。」

こういう細やかだけど、認識し分けておくことがとても大事だと思われることが、きちんと表現できているところなど、素晴らしいと思いましたよ。
そうなんですよね、「それでもアクロバットはアクロバット」なんですよね。
では凡夫はどうするか、どうできるか。
ここは悩みどころだと思われます。

うれしいですねぇ(^o^)

・アキラさん、こんにちは。

細やかに読んでいただけて、大変ありがたい。うれしいです。

そうなんですよね、「それでもアクロバットはアクロバット」なんですよね。

ここのところにもう少し言葉を連ねたかったんです。〈希望〉の言葉を、誰よりも私自身のために。 でも、それをしようとすると、どうしても長々ながながと書かなきゃならない。だから断念したんです

「断念」はやっぱり悔しいじゃないですか。

まあ、今の社会で〈希望〉を端的に語れるはずもないのですけどね...

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