愚慫空論

技術進歩の流れに抗う

人類は自らが開発した技術の進歩ととも発展してきた生物だけれども、現在はその「流れ」に抗うか否かの大きな転換点にさしかかっているのだと思う。

3.11の影響で引き起こされた「フクシマ」はその「転換点」を可視化した。いや、以前からそれは見えてはいたのだ。「ヒロシマ」「ナガサキ」「スリーマイル」「チェルノブイリ」。見えていなかったわけではなく、見なかっただけ。未だに見ない振りを決め込んでいる者も多いけれども、しかも日本の場合は社会エリートの大半がそちらに属しているようで、そこからも日本社会の末期症状が露わになっているのだけれども。

さて、しかし、今回言いたいことは、そちらの話ではない。

  東野圭吾氏ら作家7人、書籍スキャン“自炊”代行業者を提訴(INTERNET Watch)

作家達の言い分はわからなくはない。法的には通るのだろうし、そもそも通るように話を構築したのだろう。弁護士当たりと相談して。

が、この「事件」が呼び覚ました波紋は、訴訟で問題とされたところに留まらない。電子書籍の在り方について議論が広がっている。

電子書籍は、その衝撃ほどに日本では普及していない。作家達の起こした「事件」(この言い方は公平とは言えないんだけども)、「衝撃」から期待されたほどの現実なっていない読者の不満を反映しているのだろう、時代の流れに逆行するかのようなイメージで捉えられているようだ。

私もそのひとりである。もっとも、私は今のところ電子書籍に関心はないが。

ここで考えたいのは、「時代の流れ」と技術進歩の関係だ。原発の場合、時代の流れは技術進歩に抗う方向になっている。ところが電子書籍の場合は、技術進歩の方向と時代の流れとが一致している。訴訟を起こした作家達の言い分には理があるし、それを支持する知識人も多いようだ。また出版業界の実情から電子書籍には現段階では障壁が多いといする意見も目につく。それでも、長い目で見るならば情報の電子化の流れは止らないだろうということは、誰もが感じているはずである。

そう。長い目で見る立場からいえば、作家達の訴訟は時代の流れに逆行する「事件」なのであり、その意味で原発推進と同じと見ることが出来る。

では、技術進歩と時代の原発における齟齬、電子書籍における一致、この差異は一体何なのだろうか。

結論は、既に言い古されていることである。脱工業化。情報化社会。工業化社会への技術は時代に反すると感じられ、情報化社会を実現する技術の進歩は時代と一致する。この時代感覚の差異が一方では技術の進歩に抗い、一方では技術の進歩を歓迎する。もう少し言うならば、情報化社会への技術が提示するパラダイムが工業化社会へのパラダイムを駆逐しようとしている。ただし、まだこのパラダイムは明確な形を取っていない。兆しとして現れているだけで、体系化にはほど遠い。作家達の「事件」とそれを支持・擁護する主に知識人たちの意見は、旧来の体系に根ざしているがゆえに、かえって新たなパラダイムの「兆し」を捉え損なっているのだろう。

実際、作家たちが提訴したその言い分は工業化社会の体系に根ざしている。彼らは自身の著作物を工業製品のように認識している。工業製品である書籍を破壊して、そのなかの「情報」のみを取り出すことは許されないというのだ。情報はあくまで書籍と一体であるべき。知識人たちは、工業製品-商品という前提に根ざす経済体系を根拠に作家たちを支持する。だが、情報化社会のパラダイムでは情報は工業製品ではないし、商品ですらなくなりつつある。技術進歩がそうした事態をもたらしたのだ。

この流れに抗う著作権者たちは、自身が生み出す商品としての価値が棄損されると創作のインセンティブを失うという。それはその通りだろうし、そうした意見に多くの者が賛同せざるを得ないが、これこそが旧来のパラダイムの縛」であって古い「絆」なのだ。現在、問われつつあるのは、そうした「インセンティブの在り方」であろうと思う。

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大雑把に情報の商品化の流れを俯瞰してみる。

まず、文字がなかった時代。この時代の情報は口コミのみである。現代でもそうだが、口コミ情報は商品にはならない。口コミ情報に大きな価値があることを否定する者はいないだろうが、商品化は不可能である。だから、価格が付けられることもないし、またそれゆえに価値があると言うこともできる。

ただしこの時代にも、例えば古事記を口伝していたと言われる稗田阿礼のような人物は今日的にいえば商品価値があったと見ていいだろう。長大な情報を文字に記さず記憶に留めておくことは特殊技能であり、それは人そのものが情報を載せるメディアであったということだ。この流れは、平家物語や太平記などを語り歩いたという琵琶法師へと受け継がれ、現代にも落語や浪曲といった形で引き継がれている。また新たに情報を創作する者も、今日と変らず商品価値があったと見ていいはずだ。作家はいずれの時代であろうと価値はある。そこは不変である。

文字の発明・伝播は、情報の記憶という特殊技術の価値を低下させた。それは情報を載せるメディアが人間から外部化したためである。情報の工業化の流れもここから始まったと見てよい。

初期は文字通り手工業の時代であった。文字は人間がその手で書くしか方法がなかった。この時代、書籍は非常に高価なものであったというが、当然のことだろう。まず文字を書くことが出来るということ自体が特殊技能だったし、書き写すという作業も大変な労力を要する。手の込んだ手工業製品が高級品だったのと同様に、書籍も高級品だった。

近代からは工業製品が普及品になったとの同じく書籍も安価になり、社会に広く普及するようになる。そして現代。情報化社会が幕を開け、電子書籍の時代がやってきつつある。

情報化社会のいちばんの特徴は、情報を載せるメディアの進歩である。情報は工業製品ではなくなった。IT技術の発展により、口コミと同じところへ「発展的回帰」をしたのである。発展的回帰というのは、情報の記憶という特殊技能が必要なくなり、デジタル技術によって補われるようになったこと。どんなに膨大な情報であろうとも、その複写はいまや一瞬で完了してしまう。この技術は、工業製品としての書籍の価値を低下させてしまう。これはIT技術の普及とともに必然的に進行してしまう事態だ。

そうなると、残るのは情報発信者としての創作者の価値だけ、ということになる。ここだけは時代がどのように変ろうと不変である。

ところが、時代の価値体系はまだそこに追いついていない。工業化時代の価値体系が未だ強く残る現代では、創作者のたちは、工業製品である書籍の価格を通じてしか担保されない。そしてそのことは電子書籍でも変らない。IT技術は情報の近代的商品性ですら奪いつつある。つまり、旧来の製品としての著作権概念を侵害しつつある。このことに対しては、著作権関係者を中心に、いろいろ対策を施そうとはしている。だが、それらは所詮対症療法でしない。情報化社会技術が広げていく新たなパラダイムのなかに古いパラダイムを残そうとするものでしかない。

もう一度、歴史の流れを概観し直して見よう。

無文字時代、特殊技能を持って情報メディアとして商品価値のある人間は権力者によって庇護されていた。それが、文字が普及し工業化社会が進展、平衡して商品経済社会が進展。結果、情報メディアは人間の外へと外部化し、外部化したメディアの商品価値が情報創作者の価値を担保するようになった。つまり、情報創作者は実は誰からも直接的には庇護されていない。直接的な庇護は、貨幣価値によってなされているのである(これはなにも作家のような人たちに限った話ではない。あらゆる労働者が同じである)。

ところが時代は情報化社会技術の進歩で、無文字時代の状況へと発展的回帰した。文字が溢れる社会でありながら、いや、文字が溢れる社会になったがために、文字は人間の内部へと回帰していこうとしている。情報の価値は外部メディアには見いだせなくなっていく。メディアは人間そのものになっていく。この流れに逆らうことそのものが、「技術進歩の流れに抗う」ことである。

こうなると、外部メディアの商品性を経由して創作者の価値を担保することが不可能になってしまう。かつての権力者がしたように、直接「人間メディア」を庇護するしかなくなる。ただし現代は、絶対権力を一部の者が握っているような時代ではない。民主主義の時代である。権力は民衆にある。

これは、出版の話で言うならば、作家を庇護する権力者は読者であるということだ。不特定多数の読者が直接作家を庇護する。

話がなにやら現実離れしてきた。そう、こういった問題の難点は、技術的に可能かが検討される以前に実現されるべき状態が想像困難なことにある。貨幣を経由せずして、どうやったらそんなことが可能なのか。ほとんどの人がそんなふうに考えるだろう。

またしても問題は貨幣へと収斂する。私の結論を言えば、貨幣を介さずには不可能。だから、貨幣の性質を変えなければならない。貨幣2.0である。

貨幣2.0の考え方は基本的には単純である。文字が人間の外部から内部へと回帰するように、貨幣も人間の外部から内部へ居場所を変える。希少性を前提に【物】の世界観を支えていた貨幣1.0は、逆の自由性を前提に《情報》的《現象》的世界観を支える貨幣2.0へと発展していくことになる。

参考記事:貨幣は必要か?

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