愚慫空論

ほんとうに聞きたかったこと

とある医療関係のブログで私が発した質問がちょっとした話題になっているそうだ。⇒コチラ。その話題の元がコチラ

こんなことを書いていいのかなと思いつつ、ここで私が本当に聞きたかったことを告白しておく。私が本当に聞きたかったことは、実は、医者が高給を取っているなんてことじゃない。はっきり言っておくが、ほんとうは私にはそんなことはどうでもいい。誰がたくさん給料をもらうかなんて、私には全く関係がない。いいな、と思いはするけどね。
でも、そんなことが私の行動の指針にはならない。金はあくまで私にとっては価値判断の一方法に過ぎない。それがどれほど世の中のモノサシであるとして、広く強く信じられていようともね。

では、そんな私がなぜ、医者は給料取りすぎなんじゃないっすかぁ? なんて聞いたか。 真意を説明したい。

まず、その説明にあたって、私がどういう人間かということを少しでも理解してもらった方がいいだろうと思うので、少し私自身のことを説明する。


一言で言うなら、私は大変に傲慢な人間だ。自分でつくづくそう思う。なにせ、金であろうが地位であろうが、そんなものは関係ない、とやってしまうのだから。もちろん、医者であろうが弁護士であろうが、総理大臣であろうが、そんなの私には関係ない。私にとって価値があるのは、ひとりひとりがどういう人間であるか、だけだ。

偉そうなことを言うと思われるかもしれない。実際、偉そうなことを言っていると思う。けど、仕方がない。なぜか、これが私なのである。付き合い辛いことこの上ない人間だ。自分で自分に付き合うことすらシンドイ。だから、樵(きこり)風情がお似合い(笑)。

偉そうついでに言っておくか。私は望めば医者にだってなれたと思う。私の同級生には医者が何人もいるが、学業成績はそうしたヤツには負けなかった。勝てなかったヤツもいるけどね。けど、私には医者になるつもりなんてサラサラなかった。
まあ、これくらいなら別に珍しくもないかもしれない。ほかにも進路はあるからね。けど、私はどの進路にも進む気はなかった。私が学校を出た時分はバブル真っ盛りだったから、就職案内なんてこれでもかというくらい、来た。名の知れた一流どころからね。同じような経験をなさっている方も、かなりいらっしゃるのではないかな。私の傲慢&自慢は、それらの案内に一切目を通さずに捨てたこと。別に研究職へ進もうとか公務員になろうとか、そんなことを考えていたわけでもない。ただ、エライ人になりたくなっただけ。金とか地位とか、そうしたもので身を飾る人間になりたくなかっただけのこと。要は裸の人間として勝負してやる、オレはできる、なんて思い上がっていたわけだ。

しかしそうした傲慢さの報いはすぐにやってきた。山ばかりほっつき歩いていたのを、とある縁で知り合った零細企業の社長の所で働くことにしたが、そこで自分の傲慢さを思い知らされた。(社長、もう連絡も取ってないけど、元気かな。あの時はご迷惑おかけしました...)
あの時、社長にしてみれば私は掘り出し物に見えたでしょう。実際、そうした言葉も頂いた。元来私は体を動かすことが嫌いではないし、弁もそれなりに立つ。事務処理だって人並みにはこなす。よく見えたでしょう。でも、使ってみたら使い物にならなかった。
仕事がうまく行かなくなって会社を辞めざるをえなくなる少し前、私は社長に言われました。「オマエは、だれにでもタイタイでいく。オレにだってタイタイでくる。それがイカン。卑屈になれとは言わんが、もう少し腰を低く出来んか」
ね? 傲慢なんですよ、私。そのとき学習したのは「人類みな平等」なんてスローガンは大嘘であるということ。みんな、オレはエライと思ってる。そのエライのを証明したいがために地位や金を求める。権力を求める。時には暴力を振るう。世の中なんて、そんなもんだ、と。そして、心からそれを認めなくても、すくなくとも認めるふりだけはしなければならない。それが「世渡り」というものである、と。

で、私は諦めた。世の中で「普通」に
「世渡り」することを。そうしなければ「普通」に生きて行けないのなら、「普通」でなくて結構。で、今、樵(きこり)です。


さて、前置きが長くった。やっと本題に入って「なにがほんとうに聞きたかったのか」ということだが、最初の記事、お医者さんの

・・・・絶句
准看護師のほうが医師より年俸がいいのか・・・。

にひっかかった。なぜ、医師より准看護士の方が年俸がよくなければダメなの? ってね。

まあ、こんなのは常識。そんなことは私だって言われなくても知っている。けれど、私はお医者さんのこの言葉の中にどこか、医者は准看護士よりも無条件でエライんだ、と気持ちが無意識に紛れ込んでいるような気がしてならなかった。上の長い前書きを読んでくださっていれば、私がどういうレベルでの「エライ」を疑っているか、わかりますよね。そう、人間として無条件に「エライ」と思っているのではないかと。

これは私の傲慢さからきた思い違いかもしれない。実際、病院という組織の中では医者のほうが看護士よりも「エライ」んだから。またエラクなくてはいけないんだから。
でも、患者にとっては、医者に無意識にエライと思われいるのは非常に恐ろしいこと。場合によっては命を握られるんだから。そういう視点に立つと、医師は准看護士よりもエライという人は、どうなんだろう? と疑問を抱いてしまう。

それで私は探りを入れてみることした。
あっと、こういうと私がまるでブログ主のお医者さんを性質の悪い人かと疑っているようだが、そうは思っていない。これは断言する。おそらくこの方は患者と相対するときに、医者としての権威を振り回すような方ではない。それは文章からも出ていると思う。そう思うけれども、聞いてみたかった。どうしても。

けれど、こんなこと、いくらなんでも真正面から質問できない。質問したところでなかなか正面から答えられる類の質問ではないし、第一、失礼だ。で、変化球を投げてみることにした(変化球でも失礼でしょうけど...、スミマセン)。それが“医者は給料取りすぎなんじゃないっすかぁ?”になったのである。その受け止め方から本音が垣間見られるのではないかと思ったから(嫌らしかったかな...)

多くの方から回答を頂いたのは驚きだったけれども、皆さん、マジメなんだということはよ~くわかった。さらにもう一段、食い下がってみたけれど、やはりそれは変わらず。ホッとしていたのだけど、気になる記事を見つけてしまった。⇒コチラ

こちらの記事は、意地悪な見方をすると、日本の奇跡的ともいえる医療制度を支えていたのは「医師の異常な「献身」」であると断定しているように見える。そして、やがて日本にも「普通」のことが起こる、つまり「これまで当たり前のように享受した医療は思い出話に変わり果てる」という。

なるほど、論旨はわからないではない。今の世の中では受け入れられやすい議論だなと思う。だが、私は違うと思う。「普通」のあり方が、私の考える「普通」と違う。

まず、「医師の異常な「献身」」をしていたなんて話がウソだ。医師はちゃんと報酬を受け取っていた。考えてみればいい。どれだけの人間が正当な報酬なしで「異常な献身」を続けていられるというのか。この論でいうと昔の医師は皆、聖人といえるような人だったという話になるのだが、そんなことがあったわけはないのである。医師はちゃんとその働きに見合う報酬を受け取っていた。それが今は見えなくなってしまっただけのことだ。

その報酬とは「心の所得」である。この「心の所得」という言葉は先頃有罪が確定したとある県の知事が提唱した概念なのだが、要するに労働からはお金以外にも所得がある、という観念論だ。

ちなみに私はその「心の報酬」に騙されて樵を始めた。この“騙されて”は文字通りの意味ではないのだが、それはコチラを見てくださればわかる。

ここで私は「心の所得」などという戯言を押し付けるな、といって批判しているのだが、昔はそうした「心の所得」が、誰からも押し付けられるわけでもなく、ごく「普通」に皆の心の中にあったことは間違いない。医師であろうが樵であろうが百姓であろうが、みなそれぞれに「心の所得」を得ていた。
医者は治療を施した患者からの感謝の念に支えられて、それを誇りとし、「心の所得」としていた。それが「普通」だったわけであり、医師はその報酬に支えられて献身をしていたはずなのである。

その「普通」を普通でないようにしたのはだれか? ことは医療に関してだけの問題ではない。けれど、命の関わる医療という仕事は、この「普通」が他の職種にも増して厳しく問われなければならない宿命にあると言ってよいだろう。医師はそうした「覚悟」をもって医師を志したはずだし、患者の側もそうした「前提」があるから医師に命を預けられる。

だが、悲しいかな、この「前提」が崩れ始めている。崩したのはだれか? 医師だけがそれを崩したとは言わない。が、医師は全く崩さなかったとも言えない。「これまで当たり前のように享受した医療は思い出話に変わり果てる」のを「普通」に置き換えていくのなら、その者にはやはり「前提」を崩した責任はあると私は思う。


要は「普通」のあり方が大きく変容してしまったことが根本にあるということだ。「心の所得」が「普通」であるような社会にどっぷり浸かっていられれば、私とて、最初の「・・・・・絶句」に引っかかることは、きっとなかっただろう。

9月16日 追記:
もともとの発端になった医療関係ブログに、また新しいエントリーがアップされていた。あちらではこの問題はまだ引きずっていたようだ。
『天国へのビザ』から「誹謗中傷コメントと心あるコメント」
これを読んで、なんだか大変申し訳ない気分になってきた。自分の変化球が心無い誹謗中傷を誘発したことになるからだ。ここまでは考えていなかった。けれど、考えるべきだったのだろうな、こんな時代だから。
あちらでも、やっぱり「心の所得」のことに触れられている。私はこの記事に最後に医師批判のニュアンスを滲ませた文章を書いてしまったが、医師の側から見れば患者から「心の所得」をもらえなくなった、ということだろう。
医師が「心の所得」を受け取らなくなったのか、受け取れなくなったのか? 「心の所得」は明確な基準があるものではないだけに、その判定は難しい。また判定してみたところであまり意味もなさそうだ。

だが、「心の所得」を受け取れずに激務を強いられる医師は気の毒だ。金銭に換算された報酬より「心の所得」を欲する人ほど命を扱う責任を重く感じるだろうから、その激務から逃げられない。それで追い込まれていく。追い込んでいるのは私たちなのだろうな、やっぱり。なんといっても医師は少数、患者は多数なのだから。

コメント

やれやれ、愚樵さんは、全くやっかいなひとです。
裸で歩き回られては世間も困惑します。
そんな人には、山の中で暮らしてもらうしかない。

さて「普通は」、活動力の交換を、金銭の媒介は有るにしても、共同体意識をもてる範囲で行っていました。

自己の活動の成果を体感できることで、そく、満足感にもつながります。

体感できなくなれば、抽象思考能力が自己満足するにも必要になります。

自己の職業に対する意識の高さが要求されたりするのもむべなるかなです。

医療制度の経済的な危機に関しては、年金制度と同様、年寄りの数に驚くことはありません。
日本ほど「生産性」の高い社会では人口の2割くらいが働けば何とかなりますから、後は政治(これが大変ですが)の問題です。

早雲さん

まったくもって、やっかいなもんです。疲れます(自嘲笑)。

経済的な問題、なかんずく、そのパイの大きさの問題に関しては、実のところ、私も心配などしていません。仰るとおり、再配分の問題だけです。
医療、年金もそうですが、自給率40%と言われている食糧問題だって日本には充分に解決できるポテンシャルはある。今の経済体制&政治は、そのポテンシャルを生かせないだけの話です。

美しい日本

この記事、前の内田式格差論の続きとして理解さしてもらいました。
仕事の値打ち(大事さや重要性)は社会的地位や金儲けとは関係ない。これはもう日本人の常識として広く定着している。(以前の日本は)
しかし世界の国の内でも文化的に一番近い韓国の知識人達でも日本人のこの常識は非常な驚きらしい。

仕事に貴賎はないが日本の常識。しかしグローバルスタンダードは明らかに貴賎がある。
そして新自由主義主義の跳梁跋扈の現在、日本の美しい常識に代わって世界基準の小泉式格差社会の到来と職業の貴賎(稼ぎ高による貴賎)がはびこりだした。

職業に貴賎がないのは当たり前なんですよ。世界が間違っているんですよ。
日本一国が正しいんですよ。
どんな仕事でも、其の仕事をする人々が仕事を拒否すればどうなると思いますか。?
社会全体が可笑しくなる。一つの仕事でも欠ければ社会全体が麻痺する。
大阪の松原市で清掃業者と行政当局がトラブルを起こし市役所前に糞尿入りバキュームカー数十台が集結。
汲み取り業務自体はボイコットしていないから市民は迷惑していないが、完全にストライキに入れば如何でしょうか。?
たった一つの仕事でも無くなれば普通の市民生活が営まれなくなる。

もともと社会とは、職業に貴賎が有っては成り立たない。
職業に貴賎がなければ賃金格差は、其の職業に付く為の学業や職業訓練にかけた日数や使った労力、努力、資金等で決定される。
医者になるためには最低6年間の医学部での学業、授業料は私学だと年間1500万円にもなり、幼稚園小学校からの塾の授業料を入れたら莫大な額になる。
投資したら元を取り返さないといけないので必死に働き稼ぎまくらなければならない。

Re:美しい日本

>前の内田式格差論の続き
そう捉えて頂いて結構です。

職業に貴賤がない、美しいニッポン。こないだ泣きべそをかいていた誰かさんのスローガンでしたけど、本当に少し前までの日本は美しい国でした。海外の常識からすれば「奇跡」としかいいようのない「献身」が、医師のみならず、そこかしこに「普通」に見られたのですから。この「献身」なくして日本の復興はなかったでしょう。

>職業に貴賎がなければ賃金格差は、其の職業に付く為の学業や職業訓練にかけた日数や使った労力、努力、資金等で決定される
その決定方式ですと、一昔前の日本の格差の少なかった賃金体系は、妥当なものとなるわけですよね。終身雇用制における年功序列賃金も。

格差のない、美しいニッポン。もともとは格差の少ない日本でも、数少ない格差の中で育った人が言ったのでなければ、この言葉はもっと真実味をもって受け入れられたのかもしれません(今から思うとご当人はそれなりに真剣だったみたいですが)。内田流格差論が、発言する人の為人で反発をまねているのと同様に。

なかなかコメントしにくいなぁ

愚樵さん、おはようございます。
 元の医療ブログの方の記事と愚樵さんの質問と、真面目な医師の方々の多大な応答をざっとよみました。あの医師の方々の反応の多さと「熱」に驚きました。これも愚樵さんの質問のなさるわざなのでしょう……、ちゅうかパンドラを突っついたということなのかな(?)。でもワタシにも「ほんとうに聞きたかったこと」があの質問では全然わかりませんでした。変化球過ぎます。大リーグボール911号って感じです。
「心の報酬」ですね。いいですね。ただワタシは自分の仕事に「金の報酬」以外の期待はあまりしてません。割り切ってます。取り敢えず凡才のワタシが流されるように得た仕事で、それしかできず、それで喰っていくしかないな、って感じです。「心の報酬」は仕事以外のとこで得ています。
 以前は仕事での「心の報酬」と「金の報酬」はワタシのなかでシーソーのようにギッタンバッタンしてました。「金」が価値を計る尺度と洗脳されてきたからかもしれません。どうもワタシには「心」と「金」は相容れない。これが社会の脅迫なのか個人的資質なのかはわかりません。おそらくは社会の脅迫を個人的資質を向上させて、はねのけなければならないのでしょう。
 で、その個人的資質を向上させることは、自分でしんみりすることなのか、他人に呼び掛けることなのかも良く解りません。
 いつもながら頓珍漢なコメントで申し訳ないです。

偉い、偉くない?

>・・・・・絶句
>准看護師のほうが医師より年俸がいいのか・・・。
 ここから職業の貴賎に話をもっていくのは、いかがなものかと思います。職業の貴賎と報酬の多寡は全く別のものじゃないでしょうか。あなたにとってはそれで良いのかもしれないし、それはそれで構わないと思います。しかし、そうじゃない受け取り方をした医者達のコメントを解釈するに当たっては、あなた自身の視点から論ずるだけではなく、相手方の立場にたったらどうなのか?というところにも(もっと)配慮していただきたかった。
 労働時間であるとか課される責任であるとか、それとは別個に医者という職業者の需要供給関係であるとか、そういうことで医者の給料は決まるべきなのだと思います。そういうバランス感覚で考えたとき、今の勤務医の待遇はどうなのか?と皆思っているのです。そこがうまくいかないから勤務医がいわゆる「逃散」におよぶ。
 医者だって社会生活を営んでいます。家族だっているのです。理念的、観念的に云々したところで、現実を無視するわけにはいかないのです。そこから自由でいられる人(家族がいても理念理想を貫ける人や、立場的に気にしなくとも良い人)にとっては違うのでしょうが、医者の大多数は違います。仕事して結婚して子供を作って・・・普通に生活しているのですから。
 乱文乱筆失礼しました。

こんにちは。
この間のエントリーとコメントのやり取りをみて随分考え込んでいました。

・・・・・絶句
准看護師のほうが医師より年俸がいいのか・・・。


そもそものきっかけはこの表現から愚樵さんの限りない(?)こだわりが始まったようです。
が、
私は実は上の表現には全然、不可解を覚えていません。
なぜなら、医者が医者になるために労した時間とかけた費用、また准看護士のそれとは自ずと違います。
価値とか使命感とかとかはかることの出来ないもので報酬が決められるのではありません。
その資格習得にかけた時間と費用で決まるものと考えています。
そうしたとき、医者の現状の報酬はかなり低賃金ではと私は思います。
「こころ」とか「やりがい」とかとかはレイヤーが違うのではないでしょうか?
むやみに議論の対象を広げることは結局、何がいいたいのか曖昧になり問題の本質がみえなくなります。

愚樵さんは「ほんとうはなにがいいたかったの?」
こころの報酬が危ぶまれ、当たり前の何気なさが薄っぺらになってきた世相を憂いているのですよね???
私は医師の方も患者の方も『プロ」であればいいと考えています。
これは医師だけの問題ではありません。
教師、カウンセラーや裁判所、労働基準局、、、、
諸々の職業にいえます。
「心の報酬」はプロであることの次についてくるものです。
私たちは、ここで何が討論できるかというと、
医師やその他の人たちが各々の場でプロになることが保障されるそんな環境作りではないでしょうか???

ご批判は甘んじて受けます

dr.stoneflyさん、ぺがさすさん、コメントありがとうございます。

ご批判は甘んじて受けます。そのつもりでこの記事をアップしました。いやなら、こんなこと書かずに黙っていればいいんですけど、それもなぜか、できなかったんですよね。お医者さんに、ああいう不躾な質問をせずにいられなかったのと同様。

変化球は過ぎたかな、と反省はしてます。というか、そもそもああした「疑念」を抱いたことからズレているのかも。また、そういう意識があるから、ながながと前置きを書いたんですけどね。

一度投げた球は元には戻りません。変化球か、直球かは関係なし。投げた以上、せめて批判ぐらいは受けなきゃならんでしょう。

こだわりのもと

瀬戸さn

私だって、医師が准看護士よりも高給であって叱るべきだと思っています。一般的な基準としては当然のことです。
ただ、いつ、いかなる場合でも、そうでなければならないかは疑問です。そこにはいろいろと組織の事情もあるでしょうから。
ブログ主の方は、その組織の事情に疑問を投げかけています。それは正当な疑問だと思う。

ですが、あの「絶句」です。主が医師でなければ私も何とも思いません。主が医師であったことが引っかかったのです。どういう基準でもって「絶句」したのか? 「絶句」した主が医師である以上、患者である私たちと同じ基準であるとは考えにくい。では、どういう基準か? それが気になった。だから、“そもそも医師の報酬は?”という質問になったのです。

他にもいろいろ考えましたよ。この関係が、官僚でいうキャリアとノンキャリならばどうか、とかね。資格習得という観点から言えば、キャリアは勤続年数にかかわらずノンキャリよりも高給でなければなりません。しかし現実はそうではないし(だからキャリアが天下りしたがるのでしょうが)、そうなっても批判はあるでしょう。どうした報酬基準がよいかなんて、そう簡単には判定できないはずなんです。少なくと私はそう思っているんですね。

けれど、だからといって、私の抱いた疑問が誰もが抱く疑問ではないことは承知しています。それを承知した上で、敢えてこの記事を出しました。上のコメントにも書きましたが、私の基準に対する批判は甘んじて受けます。

あなたが投げた変化球についての説明を読んで、先ほど書き込みをさせていただいたわけですが・・・
 人は誰でも、内心で何を考えようが自由です。他人に迷惑をかけるわけでなし、思索に耽りたいだけ耽ったら良いのです。しかし、一旦それを表に向けて発してしまったら違います。
>一度投げた球は元には戻りません。
その通りです。もちろん、言論の自由は保障されて然るべきです。しかし、こういう場面でああいう言葉を発したからには、投げかけられた疑問や指摘に対し、あなたには返答する責任(返答することを周囲に期待されていて、それに答える責任とでも言いましょうか)が生じているように思うのです。誰が強制するものでもありませんので、従いたくないのであれば従う必要はないと思います。しかし、もしそれをしないのであれば「言いっぱなし」のそしりを受けることになるでしょう。
 せとともこさんの指摘と同じく、あなたが行っているのは議論の撹乱というか、拡散させてうやむやにする行為だと思います。同意できるならその旨を、できないのであればその理由を、ここに書くことは出来ませんか?

>「絶句」した主が医師である以上、患者である私たちと同じ基準であるとは考えにくい。
 1.「医者」が絶句すると、なぜ基準が違うと考えるのでしょうか?
 2.「患者である私たち」という括り方は妥当でしょうか?
 自分の視点が独特であると認めるような発言がある一方で、自分は多数者の代表であるかのような書き方をしていますね。独特であることを理解しているのであれば、あなたは発言のスタンスを「私たち」的な表現から改めるべきではないでしょうか?

>一般的な基準としては当然のことです。
 「一般的な基準」とは何でしょうか?あなた以外の凡百にとっての基準ということですか?

 色々な人が色々な考えを表明できるのが、ネットの良いところだと思います。それ自体を否定するつもりは毛頭ありません。しかし、例えば何かを批判するようなことを書く時には、最低限の下調べをしてからにするとか、何かを書いた時には当然読み手がいるわけですから、その人の視点にたったらどんな感じか考えてみるとか、そういう作業は必要じゃないでしょうか。出来なさそうな人にこういう要求はしません。

ぺがさすさん

私が返答する義務から逃げようと思っているわけではないことは、ご理解いただけるようですね。逃げるつもりなら、最初からこうした記事は書きません。もっとも、最初は春野さんのところに知らせる勇気はなかったのですが...。

まず、瀬戸さんとの話ですが、瀬戸さんとは、実は長らくそうした議論を続けているのです。瀬戸さんは、この種の議論を「「こころ」とか「やりがい」とかとかはレイヤーが違う」「本質を曖昧にするもの」として認識されていて、その延長で「プロであるべし」と持論を述べられていますが、それに対し私は今まで、「「こころ」といった問題がことの本質である」という話をずっと続けていて、その議論は未だ決着はついていないのです。最初の方のコメントに布引さんが「前の内田式格差論の続き」と指摘されていますが、それがそういうことなのです。

ぺがさすさんが瀬戸さんの意見に同意なさるのは当然でしょうが、瀬戸さんとの話はもう少し根の深いところにあるものなので、私はここで俄かには同意できないのです。そうしてしまうと、私の持論はなんだったんだという話になってしまう。
もちろん、私は私の持論を守るためにこんなことを言うのではありません(弁解がましく聞こえるかもしれませんが)。私には私の本質的疑問があって、春野さんへの質問はそこから派生したものなのです。

さて続いて、「一般的な基準」ということについて。

>発言のスタンスを「私たち」的な表現から改めるべき
それはそうかもしれないですね。迂闊でした。私の頭の中では単純に医者vs患者という構図があって、私はまぎれもなく患者のほうですから、何の考えもなく「私たち」という言葉を用いました。
けれど、ぺがさすさん、私はこの指摘の要旨が今ひとつ理解できないのです。「一般的な基準」とは、医者が准看護士よりも給与は高いという、世間一般の(だと思われている)基準です。凡百というなら、そのとおりです。なにせ私は傲慢ですから。

この議論は、私の独自性をしっかり認識しろといい、その上で話の相手のことを考えろという、矛盾した構造になっているように思います。私が私の独自性に立てば立つほど相手のことは理解しにくくなるのが道理というものでしょう。ぺがさすさんはそうしたジレンマを超えろと仰っているようで、また、それを私に向ってできると評価はしてくださっているようですが、私としても自分の独自性は検証・批判されなければならないと考えていて、ゆえにこの記事なのです。繰り返しますが、だから自分の独自性の所以を長々と書いたわけです。私だって自分の傲慢さをさらけ出すのはあまり気持ちのいいものではありません。けれど、このくらいのことでもしないと、来るであろう批判に逃げ腰でしか対応できないだろうと思って、そういうことも書いたわけです。

独自性と他人の気持ちというジレンマは、コミュニケーションを通じてしか解消できないと、私は思います。相手がどう思っているかなんてことは、誰にもわかりません。けれど、それを少しでも埋めようとする行為がコミュニケーションでしょう。私は、私の発した大本の疑問が、他人様の内面に向けた疑問であることを自覚していたつもりですので、自分もここで自分のあまり好まぬ内面の一端を披露しました。もちろんそれを免罪符に使うつもりはありません。そうした私の独自性を攻撃してもらっても構いません。批判は甘んじて受けるというのは、そういう面も含みます。
ですから、ぺがさすさん、「その人の視点にたったらどんな感じか考えてみる」なんて遠まわしなことを仰らずに、私の視点ではこうだ! とはっきり仰ってください。これも本文で吐露しましたが、私は「その人の視点にたったらどんな感じか考えてみる」フリができないのです。そうしろといわれても、やっぱり「わかりません」としか答えようがない。事実、わからないのです。コミュニケーションをしなれば、わからない。

私は本文に追記を加えました。あれは春野さんの続いての記事を読んで、自分の考えを少しなりとも改め、書かねばならんと思って書いたものです。私にとっては、あの記事も春野さんとのコミュニケーションです。一方的であっても、そうです。あの記事で春野さんの思いがより明確につかめたと思い、それで悪いことをしたとも思ったわけです。
こうしたやりかたは、早雲さんが仰るように「街の中を裸で歩く」ようなことかもしれません。きっと春野さんも困惑されたことでしょう。

原因と結果

 留守の間にいろいろ論争が起っていますね.遅ればせながら参加させてください.医師たちの反応も読んでみましたが,愚樵さんの「裸で走るような挑発」を「高給へのヤッカミ」と取っているようですね.
 さて,『「心の所得」とは他人やお上から言われる筋合いのものではない,それは庶民一人一人が昔は自然に「得ていた」ものである.今や,医師の所からも庶民一般の所からもそういう価値観が失われていく』,という趣旨の現時代への嘆き,ですね?
 ここまでは同じだと思います.しかし,その先が異なります.原因と結果が逆と言ったらいいでしょうか.
 私が思うのは,患者が医師を攻撃し,医師が患者のことを放り出す,そのような危うい状況は,いきなり始まるのではない,と言うことです.医師たちのブログ等を見る限りでも,医師たちだってやはり強い使命感とともに,「心の所得」を得たがっているのだと強く感じます.また,庶民が医師の「高給」を攻撃したくなる心性,それも初めからあったわけではなく,昨今の社会状況を強く反映している結果でしょう.
 つまり,この危険な状況はあることの「結果」なのだということです.あることとは,「すべてのことをお金で測る社会システム」ですが,瀬戸さんの言葉を借りれば,あらゆる業界・社会で「プロになりきる」ことができない社会です.
 医師はそれ相当の報酬の下に,最善の医療を行っていけばいいのですが,「お金をもらいすぎる!」,「もっと働け」・・・などと,企業原理で動かざるを得なくなっている状況,その必然の結果と捉えたいのです.
 これはそう,「格差社会」の原因と結果論に通じます.そのようなゆがんだ社会設計そのものが,今日の状況を生み出しているということ.決してその逆ではないと思います.「衣食足りて礼節を知る」の好例ではないでしょうか.

 ところで,コミュニケーションのことを上のぺがさすさんへの回答に書かれていますが,必ずしも愚樵さんと医師たちのコミュニケーションはうまく行ってるとは思えません.その原因(の一つ)は愚樵さんにもあるような気がします.愚樵さんは何しろ,言葉や概念,観念が相手を構わず翔んでいきますから.ひょっとしたら,相手にわかるかどうか,ということは重視してなくて,自分がわかればいい,というのではないですよね・・・(すみません^o^;私が常々,言葉を共有できない,というあの嘆きです)

>この議論は、私の独自性をしっかり認識しろといい、
 ちょっと違います。独自性を認識することは当然の前提です。非常に大雑把に言うと、何か発言をするにあたってあなたが使うべき主語は「我々は」ではなく「私は」じゃないのか?という指摘です。
>その上で話の相手のことを考えろという、矛盾した構造になっているように思います。
 ここも違います。事象を独自の視点で観察し考察すると同時に、他者の立場から観察するとどうであるか、ということにも思いをはせるべきである、と言っているのです。独自の視点から観察して「私はこう思う」で終わってしまったら、それは単なる日記帳です。それで良いのなら、それはそれで構いませんが・・・。

>「高給へのヤッカミ」と取っているようですね
 そこまで単純には捉えていないと思いますよ。議論に参加している人たちは、こういうのに慣れている方ばかりです。そこまで表面的に考えてはいないでしょう。そういう要素が一因としてありうる、という程度の指摘ではないでしょうか。

ひとつ指摘を忘れました。
>私の頭の中では単純に医者vs患者という構図があって、
 医者と患者を対立するものとして論じることを当然のように考えてしまう人が多すぎます。私は「陰謀論」とでも言いましょうか、現場や患者の抵抗をかわしつつ現行の医療システムを破壊・縮小させるための方策として、現在のような状況が意図的に作出されていると考えるものですから、こういう思考パターンに陥る人が多いのは、直接的にはマスコミの、間接的には霞ヶ関、そして更にその背後の黒幕は政治家や官僚に顔の利く大資本のせいだと思っています。医療への株式会社参入を目論んでいる人々、いるでしょう?自然な社会の流れとして議論するよりは、そう理解した方がわかりやすいと思いますよ。為政者だって、こうなることをまるで予期できなかったわけじゃないんでしょうから。何か「必要性」が生じて、その手段として「何か」が行われ、その結果として医療現場が大変なことになっているんです。「必要性」は、おそらくそういうお金儲けにまつわることだと思います。世の中の大事件は大体においてこういう理解が成り立つんじゃないでしょうか?

Re:原因と結果

私には医師を攻撃しているつもりは全然ないんですけどね。しかし、そう受け取られても仕方がないのだとは思っています。金銭報酬の多寡の問題は、どうしても「やっかみ」と縁が切れませんからねぇ。仕方がないです。

医師たちが「心の所得」を強く得たがっている。そういう方々もまだ多くいらっしゃるのには、同意です。けれど、もう「心の所得」を切り捨ててしまわれた方も多いのではないか? そうも思っています。最初に質問をした春野さんのところでは、私もホッとしました。「ここに質問してよかった」とアチラにも書きましたが、あれは偽らざる気持ちなんです。けれど、あの質問で広がった波紋を追いかけていくと、どうも「切り捨てた」人もかなりおられるように思えてしまった。

>そのようなゆがんだ社会設計そのものが,今日の状況を生み出しているということ.
>決してその逆ではないと思います
には、私は異論がありますが、ここでの議論はやめますね。ただ、一言、医師はどちらかといえば追い込まれている側ですが、決して医師は100%被害者というわけではない。いつも言うとおり、ひとりひとり皆に責任はあると思っています。本文もそういう趣旨になっているはずです。

あと、コミュニケーション云々ですが、このpapillonさんのご指摘は、耳が痛いです。私がなんとか越えなきゃいかんと思っている壁なんです。だから余計、コミュニケーションなんてことを言い立てるのかもしれません(苦笑)。
どうも言葉の使い方がズレているという感覚は、あります。でも、決して独り善がりでいいやと思っているわけではない。こうしたブログの場で公開する以上、やはり理解してもらいたいし、私も他人様の意見を理解したい。「これは独り言です」みたいな素振りは、嫌いです。
そもそもの発想が私と他人とではズレているとするなら、それは長所であり短所であるはずなんですよね。短所を補うには表現を磨かねば、と、一時考えたこともあるのですが、今はそれは違うと思っています。別の私の考えを皆に押し付けたいわけではない。ペテンにかけたいわけではないんです。
だとすると、あとはやはりコミュニケーションでしょう。その結果、私の発想法も単なる独り善がりであることが判明するかもしれない。それは受け入れるしかない。けれど、そうなったからといって実りが全くないとも思えません。まあ、「裸で走るような挑発」を受ける人はご迷惑でしょうけど。スミマセン m(_ _)m

いまさら日記帳なんていいません

>あなたが使うべき主語は「我々は」ではなく「私は」じゃないのか?という指摘

これについては迂闊だったと申しました。ただ、実は私、この迂闊さはさほど目くじらを立てるべきものだとは思っていません。医師と患者の対立構造は、厳として存在するものだからです。

>医者と患者を対立するものとして論じることを当然のように考えてしまう人が多すぎます。

この批判の正当性を認めるに吝かではないですが、医者と患者の対立構造が存在する以上、それをしてはいけないというのは、ぺがさすさんの独自の視点でしょう。陰謀説なるものが存在するのかどうか、私にはわかりませんし、一般的な認識でもないでしょう。そうしたことが考えられるという点については、「そうですか、勉強になります」とお答えしますが、それをもって医者と患者の対立構造がないとするのはおかしい。それはべがさすさんのいう、議論のかく乱になりはしませんか?
昔は確かに医師と患者の対立が表面化することはすくなかった。けれどそれは、対立を包容する能力が高かったいう話で、対立がないということではありません。

>事象を独自の視点で観察し考察すると同時に、他者の立場から観察するとどうであるか、ということにも思いをはせるべきである

議論が堂々巡りになりそうですが...。
一般論としては、仰るとおりです。具体論としては、私はこの場合、他人様の内面にまで言及したという思いから、それは「わかったふり」をしませんといい、相手とのコミュニケーションで理解を深めたいんだという趣旨のことを申しました。そして、実際、コミュニケーションはとれていないわけではない、という趣旨のことも申し上げました。
ぺがさすさんが再度、「他者の立場から観察」ということを言ったということは、私の返答に満足されなかったということでしょうが、では、具体的に、私は誰のどのような立場を想像すべきだったのでしょうか?
誰は、医師で間違いないでしょう。では、どうした立場でしょうか?

医師にも生活があるんだということを仰ってましたが、それは医師でなくても皆同じ。医師の社会生活が、一般人よりも余計に費用がかかるというわけでもないでしょう。
では、やはり「絶句」についてでしょうか? 医師として、あの状況は「絶句」せざるを得なかったことを理解しろ、ということでしょうか?
もし、そうであるとするなら、私とぺがさすさんとはうまく話が噛み合っていませんね。私はあの「絶句」が理解できなかったから、疑問を持ったのです。すべての出発はそこです。断っておきますが、理解したくないと思ったのではないですよ。理解したいと思ったから、変化球とはいえ、疑問を投げかけた。そして、かなり満足できる答えは得られたと思っています。

私には見逃している点や考え違いをしている点があるでしょう。よければご指摘ください。

 「医者と患者の間には対立の構造がある」ということと、「医者と患者の間に対立の構造があるのは必然である」というのが違うのは、おわかりと思います。私が言いたいのはそういうことです。医者が患者の治療をするにあたり、対立しなきゃいけない、なんてことはないのです。
 陰謀論については、まあこれからの情勢を観察していって、もし納得していただけたらそれで良し、そうならなくてもそれはそれで構いません。
 医者の生活云々に関して、あなたは報酬面に重きをおく傾向が感じられます。医者の側としてはむしろ、人間らしいゆとりある生活がしたい、というのが先で、それがかなわぬのであれば、それに見合った報酬を、という風に理解していただいた方が良いように感じます。もちろん色々な人がいるとは思いますが、医者がこういう件で文句を言うときに「給料あげろ」とは言いません。何日も24時間拘束が続いたり、院内に3日も4日も続けていなくてはならなかったり、ということを改善して欲しい、と要求していることがもっぱらだと思うのですが、どうお感じになりますか?

人間らしい生活

>医者の側としてはむしろ、人間らしいゆとりある生活がしたい、というのが先
>それがかなわぬのであれば、それに見合った報酬を

そうでしょうね。それが普通の順序だと私も思います。

>何日も24時間拘束が続いたり、院内に3日も4日も続けていなくてはならなかったり

私も勤め人であった頃には、そうしたことを続けていたこともあります。バブル期の建設業界でしたのでね。納期に追われて一週間程度の“拘束”はざらでした。完徹もしばしば。そんなときは、やはり金よりも時間でしたね。買えるものなら金を出しても時間を買いたかった。
医師のように、命を扱っているという重みはなかったにせよ、そうした重圧感は想像できないわけではないと思います。

ただ、なかなか他人に理解してもらえなかったのも事実。それだけ働けば残業代すごいね、とか。そう言われてガックリした憶えもあります。

ぺがさすさん、すみません。他人の立場とはそういうことだったんですか? 議論の方に集中すると抽象的なことにばかり神経がいってしまって...。

そういえば、医者をしている同級生からそうした愚痴を聞かされたことを思い出しました。さほど深刻ぶった様子なかったので、「いやなら、辞めろよ」と軽く流しましたが。「人間、何をしても喰っていけるぞ」と続けると「お前のようにはなれん」と...。

 殊本件はきわめて個別具体的な問題についての議論ですから、抽象論はほどほどにすべきではないでしょうか?抽象論で議論を成立させるのは大変なことです。言葉の定義からはじめないとすぐ食い違います(実際ズレまくってますね)。
 他人の立場という言葉は多義的です。医者について論じるのであれば、当然「医者の立場」も考えるべきでしょう。一般論を語るのであれば、曖昧ながらも「一般人の立場」を考える必要がありますね。あなたはあなた自身の「独自論」と社会全般における通念のような「一般論」をごちゃまぜにしているように見受けます。区別できない人と意図的に混同させる人がいて、あなたは後者じゃないかと思ったので再三の指摘に及びました。
 これら混同の反射的な効果として、自分の独自性をあえて我々に指摘させ、悦に入っているようにも見えるのです(失礼)。あなたは様々なテーマについて語っていますが、実はそれに媒介させて真に主張したいことは、こっちじゃないかと。その点ここの常連さんたちはうまくやってるようです。
 あくまで推論です。違ったらすいません。

准看護師のほうが医師より年俸がいいのか・

私に言わせれば、この発言のヌシは単なるアホですよ。
アポで無いなら悪党か詐欺師の類い、何れでもないならお坊ちゃま過ぎて下々の道理が判らないのか。

言語に絶する過重労働による疲労困憊と極度のストレスによる脳機能、判断能力の低下現象でしょうね。

準看護婦の方が医者より給料が高いはデマか嘘の類い。
これは安倍晋三医師より麻生看護士のほうが稼ぎが多いことを否定している訳ではないが、そのような特殊個人事例を一般例扱いにするなどは言語道断。

大体、同じ病院勤務とは言え医者(医療)と看護士(看護)の関係を、医者(将校)看護士(兵隊)のように指揮命令系統のある縦関係とみなしている。これが間違いの元。
より良い医療現場とは医師と看護士が主従関係ではなく御互い助け合う並立関係が望ましい。

今地方は極度の医師不足で国家試験に受かっただけのペーパードクターでも年収1200~2000万以上で家(宿舎)等を確保し裏金提供も時々発覚する。

超低賃金労働で超加重労働の医師の話ですが本当です。
今の都市の救急現場は過労死寸前の低賃金医師によって支えられています。医療事故が起こらないのが不思議なくらい。

準看より研修医の給料が安いのは元々の賃金体系が違うのです。
研修医が安いのではなく元元以前は無給だった。ただ働きに対して金を渡しているのだから当然安くなる。

準看制度は戦後の看護士不足を補う為臨時に設けた日本独自の制度ですが、法改正で無くなりました。順次試験を実施して正看に昇格していきます。
準看は中卒で2年間の看護学校での学習と都道府県免許。正看は高卒で3年間の看護学校と国家試験の違いが有ります。高等看護学校のレベルは短大より遥かに上で3年間の勉強漬けが要求される。

昔昔の職人は徒弟制度によって支えられていた。職人に成る為には、親方について見習いから始まり修業を長年積み重ねて初めて職人に成れた。一人前の職人に為って初めて一人前の賃金をもらえる。
見習い<職人<親方と言う年功序列に一見、見えるが実質的に実力主義の徒弟制度が社会の隅々まで張り巡らされていた。
見習いに良く似ているが違うものに『手伝い』制度があり『手伝い』は最初から職人よりは低いが其れなりの賃金を受け取ることが出来た。しかし『手伝い』は何十年経とうと『手伝い』のままで永久に職人には成れない。
「見習い」の医師が、『手伝い』の準看より賃金が安いのは歴史的に物事を見れば理の当然。
日本の医師の養成はいまでも徒弟制度に頼っている。

心の報酬

トラックバック送ろうとしたのですが、なぜか送れませんので・・
遅ればせながら記事引用させていただきました。
http://blog.m3.com/Visa/20070921/1

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医師の報酬についての雑感

医師と報酬について,身近な例を参考に考えてみたい. 今はもう十年以上前になるだろうか.その頃までは個人の開業医,歯科医は同級生達も含めて,多くは別荘やクルーザーを所有していた.(したがって,彼らは高報酬を得ていたわけだ).しかし,実は本人達の日常は激務で

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