愚慫空論

時刻と貨幣

ゆめさんからのコメントで、またふと思いついた。

〈クラウド世界〉=不定時法の世界、〈システム世界〉=定時法の世界

そうだった。私が〈クラウド〉と呼んでいるもの、これは「クラウド・コンピューティング」の「クラウド」のイメージと「不定時法」のイメージとが合体してできたものだった。

 〈システム〉と〈クラウド〉(愚樵空論)

「クラウド」という言葉は、ネットにアクセスする者なら誰もが目にしたことはあるだろう。「クラウド」はいうまでもなく「雲」の意味だが、ここでいう「クラウド」は「クラウドコンピューティング」というIT技術の呼び名から派生拡大し、現在では、IT技術によって実現されているネット空間そのものを指して「クラウド」と呼ぶようになってきている感がある。

ゆえに、と言ってよいかどうかはわからないが、「クラウド」には明確な定義付けは未だにない。「クラウドコンピューティング」なら明確に定義できるのだろうが、「クラウド」はなかなかそうはいかない。にもかかわらず、ネット空間を「クラウド」と呼び習わす慣習はますます広がりそうな気配。ということは、「クラウド」がネット空間の在り様を的確に表現しているということだろう。

が、私は〈クラウド〉という表現を、ネット空間の意味で用いたのではない。自然を含んだ共同体という〈クラウド〉。ネット空間と自然とはまったく相容れない別世界だが、その在り様は、IT技術の進歩ゆえだろう、似たものになってきている。これはもちろん、私の直観である。


〈クラウド〉というのは、情報編集にあたっての「基軸(=集約点)」がない世界のことを指す。対して〈システム〉は、何らかの「基軸」がある世界。経済ではそれは貨幣だし、現代の日常では「時刻」がその「基軸」になっている。

この時刻という「基軸」は、ずっと過去からあったわけではない。時刻という概念は過去からあったろう。が、私たちは長い間時刻を共通なものとして認識するための手段を持たなかった。時計というものは昔からあったが、時刻を共通の「基軸」として認識させる手段になったのは、機械式の時計が広く普及してからのことだった。

時刻という「基軸」に慣れきっている――依存している――私たちには、なかなか「基軸」のない世界をイメージすることはない。する必要がないから。またイメージしようとしても、なかなかできない。「基軸」からの依存を脱するのはなかなかに難しい。でも、やってできないことはない。それを試みてみたのが、以下のエントリーだ。

 『不定時法の世界 (1)』
 『不定時法の世界 (2)』
 『不定時法の世界 (3)』
 『不定時法の世界 (4)』
 『共同体のイメージ』

前置きが長くなってしまった。冒頭で「思いついた」というのは、このようなことを「思い出した」というだけのことでは当然ない。貨幣も「基軸」。時刻も「基軸」。そして貨幣は散逸構造という「現象の本質化」であった。ならば時刻も――時刻もまた散逸構造といえるのかどうかは私の科学的な知識と能力では判定できない――「現象の本質化」といえるのではないか。

時刻が「基軸」でなかったころ、時刻は〈折り合い〉で決まっていた。たとえば、仲間と巳の刻にどこどこへ集まろうと約束したとしよう。このとき、巳の刻というのは目安でしかない。各々が自然現象と照らし合わせつつ、それぞれの感覚で時間を計る。太陽が真上にいけば正午だから遅刻。太陽の高さを見て、ぼちぼちだなと思ったら集合場所へ赴く。

極端に言えば、巳の刻という時刻は仲間がみんな集まった瞬間のことを指す。「巳の刻に集合」→「集合した時刻が巳の刻」へと転化する。これが〈折り合い〉というものだが、時刻という「基軸」を前提に思考してしまう私たちからすればあり得ない感覚。私たちは、時計が指し示す時刻に従うべきだと無意識のうちに前提してしまっている。

合理的という尺度で測れば、軍配が上がるのはもちろん「基軸」のあるほうだ。が、人間の「自立」という尺度で測ればどうか。私たちは時刻という「現象」を「本質」として見てしまっている。しかもその「本質」はシステマティックであり、依存し従属することが合理的。だが、それで「自立」と言えるのだろうか。各人の身体的時間感覚を〈折り合い〉って、時刻と見立てる方が「自立」という尺度では勝っているように思える。

このことは当然、貨幣にもいえる。モノ・サービスの価値判断を貨幣が測定する「価格」に依存することは、合理的ではある。だがそれは「自立」ではないだろう。

先頃ブータン国王の来日という出来事があった。ブータンといえば、連想するのは「国民総幸福」という概念。これは貨幣によって測定された「国民総生産」に対するアンチテーゼであることは、誰もが知るところだ。だが、「国民総幸福」はなかなかピンとこないものでもある。「国民総生産」のアンチというのはわかりやすいが、さりとて「国民総幸福」そのもののイメージはつかみにくい。

私はこのイメージしにくさと「不定時法の世界」あるいは〈クラウド〉のイメージのしにくさとは、同根であると思う。私たちは明確な「基軸」に慣れきってしまっている。ゆえに不明瞭はイメージを居心地悪く感じてしまう。「国民総幸福」はわりにくいというよりも、そのイメージにどこか居心地の悪さを感じてしまって、目標として据えるのに違和感を憶える。それが「わかりにくさ」の正体だろう。

これは明瞭すぎる「基軸」への依存から脱して「自立」ができさえすれば治癒してしまう、一種の病のようなものだろう。不幸への病である。「自立」なくして幸福などあるわけがない。

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