愚慫空論

食べものの安全安心は商品価値ではない

安全安心は商品価値なのか。特に食品のおいて。

このように問われて何のためらいもなく「Yes」と答えるのであれは、私はモンサントを批判する資格はないと考える。

安全安心な食品に高い価格を支払うべきだ。この主張は3.11後の現在、利があるように聞こえる。しかし、私に言わせればモンサントと同じ穴のムジナである。ただ、顔を向けている方向が違うだけのことだ。

食べものの安全安心は《いのち》に関わることだ。《いのち》は【商品】とは最も遠いところにあるはずのである。ゆえに、「安全安心」と商品としての価格は、直接的には関係ない。関係ないはずのことがどうしても関係してしまうこと。これが近代社会の病理である。

 『フード・インク』 安いのに安心安全なんてあるわけない (yamachanblog)

食はそもそもビジネスではありませんでした。「いただきます」とは、いのちをいだだくという意味であり、すなわち食べるとは、循環するいのちの連鎖の中に身を置くという行為です。食が身体をつくっていきます。日本人が、収穫を祝い、神さまにお供えしてきたのは、食という行為の本質を本能的に知っていたからでしょう。それはビジネスのように効率的なマーケットとは切り離された部分です。「食の工業化」とは、食品が本来いのちであることを忘れさせるものでもあります。


その通りである。だが、だからといって「安全安心が安いわけがない」なんてことは、いえない。安全安心でも安い。安全安心だからこそ安いということもある。「安全安心が安いわけがない」などと言ってしまえるのは、《いのち》のことをほんとうは知らないのだと思えてならない。

(同じことを引用されている津田大介氏のメルマガからも感じる。)

私たち夫婦が和歌山の過疎地で暮らしていた頃。安全安心な食べものはいくらでもあった。価格は関係ない。関係ないということはそもそも価格がつかない、つまりはタダということもあった。旬の時期だとタダでも食べきれないこともあった。そういう記憶を持っている人は日本にもまだまだ多くいるはずだし、そのような環境で暮らしている人もまだ少なからずいる。

価格がつかないというのは、純粋に自然の恵みだということもある。しかし、それがすべてではない。畑で手間ひまをかけて育てられた作物がタダで回ってくることもしばしばだった。

 〈作法〉という知の形 (愚樵空論)

手間がかかっているのになぜタダなのか。商品として流通システムに乗らないからなのか。それも一部あるかもしれないが、根源的には違うと私は思っている。《いのち》に対する手間は労働商品ではない。考えてみればいい。子どもと向き合う手間は労働なのだろうか。よしんば労働と呼んだとしても、それは商品なのか。子どもが長じたとき、その手間を金銭換算して請求するのだろうか。そうではないはずだ。その労働は贈与であるはずだ。贈与に価格はつかない。つけようがない。

特に都会で生活する現代人が見失っているのは、《いのち》に自分の「時間」を割くことの大切さである。そうなった理由は単純なものだ。time is monney.都会人だけではない。農家ですらそうである。いや違う。農業という産業を営む農家だからそうなのである。投下した労働商品に見合う価格がないと農業経営が成り立たない。

私は農家の消費者が変わるべきという意見には賛同しない。そもそも《いのち》に対して生産者/消費者という区分けは無意味であろう。《いのち》を生産する農家の労働に高い価格を付けろというのは、《いのち》を商品と扱うことに他ならない。やっていることは大企業と同じ次元だ。ベクトルと規模が違うだけだ。

くり返すが、こんなことになってしまった原因は、time is money.の【システム】が全域化してしまったことにある。その基軸は偶像と化し「本質化」してしまった貨幣にある。だから貨幣そのもののイノベーションが必要だと私は主張する。貨幣2.0を主張する。ソーシャルメディアは、そのための先駆に過ぎない。

だが。そのソーシャルメディアのパイオニアである津田大介氏にしても《いのち》に対する認識はお寒い限りのようだ。海外のレストランとの比較なんてどうでもいい話である。そんなところの問題の本質があるとは私には思えない。せっかく「共感」という《いのち》と近いところを広く水平的に伝播させることができるメディアが登場したというのに、これではその真の革新性が広く知られるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

それとも「ソーシャルメディアの革新性」なんて、私の幻想に過ぎないのか。

 参考:『情と殺生、理念と殺戮』(愚樵空論)

コメント

リンクありがとうございます。

安さの理由にもいろいろあるわけで、いささか挑発的なサブタイトルを付けてしまったことは自覚しています。これは「一円でも安ければそちらを買う」という消費行動をデフォルトとして育ってきた自分自身への自戒を込めたつもりです。
それはつまり、商品の背後に人(作り手)がいるなど考えもしないこと、本来食べものが【商品】ではなく《いのち》であるということを知らないままに育ってきた自分自身への自戒でもあります。

愚樵さんの『情と殺生、理念と殺戮』の記事を読みました。
《いのち》をいただくとはこういうことですね。食べものが【商品】であることに慣れてしまったぼくは、まさにこの部分から目をそらしたいという思いがどこかにあります。読んだだけでいたたまれなくなったし、たぶんその場にいたら耐えられないであろうと思います。《いのち》を語るにはひ弱であると自分でも思っています。《いのち》のことをほんとうは知らないと言われればそうかもしれません。

《いのち》に対する手間は贈与であり価格はつかない、という指摘には目から鱗でした。子どもと向き合う手間はまさにそうです。

それが農業や食産業とどのようにつながっていくのか、ぼくにはまだ見えません。
わが家も大家さんから野菜をいただくことはありますし、実家で採れたさくらんぼをお礼に持って行くこともあります。でもそれはたまに起こるイベント的なものであってデフォルトにはなっていない。
《いのち》に対する労働が、貨幣2.0によってどのように担保されるのか。まだうまくイメージできません。愚樵さんの言う貨幣2.0の意味がぼくはまだわかっていないようです。

ソーシャルメディアはただ「つなぐ」だけであって、《いのち》のことを教えてくれるわけではありません。《いのち》のことを教えてくれるのはおそらく《いのち》と向き合っている人だけであろうと思います。

ソーシャルメディアが生む共感とは、そういった明文化できないような人となりがベースになっているようにぼくには思えて、たとえば作り手の顔が見えるということにしても、商品に産地なり何なりのラベルが一枚貼ってあるようなものとは異なるレベルでの可視化であると思います。

モンサントと同じと言われるのは心外ですが、他ならぬ、《いのち》と向き合っている愚樵さんのおっしゃること。その意味を考えていきたいと思います。


あ、あと、津田さんのコメントはたまたまぼくが抜き出した部分であって、津田さんも海外のレストランとの比較が本質だとは思っていないだろうと思います。

こちらこそ、挑発的でした m(_ _)m

・やまやまさん、こんばんは。

安さに理由があるのは、仰るとおりです。少し前に細木数子でしたか、確か卵の値が安すぎるとTVでやって話題になったことがありましたよね。1パック100円で買えるなんておかしい。その感覚は真っ当なものです。でも...なんです。だからといって、じゃあ、1個500円の卵と比較したときに、卵という《いのち》の価値に差はあるのか、ということなんです。

それはつまり、商品の背後に人(作り手)がいるなど考えもしないこと、本来食べものが【商品】ではなく《いのち》であるということを知らないままに育ってきた

私はまだ辛うじて、そういったことを祖父・祖母あたりから子どもの時分に聞かされてきました。だからといって今のような暮らしをするとは考えてはなかったんですが(苦笑)、どういうった巡り合わせか、《いのち》に向き合うような環境で暮らすようになってしまった。でも、実は、同じような環境で同じような仕事をしているからといって、みんなが同じく《いのち》と向き合おうとしているわけではないんです。私の場合は木になりますけど、《いのち》として接しようなんて人はほとんどいませんし、私自身もそう接し切れているわけではない。それが許されない部分もあるんです。

モンサントと同じと言われるのは心外ですが

ここが最も挑発的ですね。こういった表現になってしまったのはいささか腹を立てたからですが、それは山やまさんにではなく、農家になんです。同じ一次産業に分類される人間として見たときに、これでは材木の市場価値ばかり考えている人間と同じではないか、と。ここいらのところは、私が接している現実と被ってしまう。それで余計に腹も立つわけなんです。モンサントと同じというのは確かに言い過ぎですが、しかし、別の次元とは言えないことも間違いありません。

愚樵さんの『情と殺生、理念と殺戮』の記事を読みました。

ありがとうございます。山やまさんのように知らないと自覚しておりさえすれば、必ず通じると信じています。

それが農業や食産業とどのようにつながっていくのか、
《いのち》に対する手間は贈与であり価格はつかない、という指摘

内田樹氏などが言っていることですが、贈与に価値(価格でないことに注意)を付加するのは被贈与者なんです。これは人類学的な命題とまで言っています。贈られた者はかならず負債感を負い、返礼の義務を感じる。逆に価格を付けて提供されるモノは「交換」ですね。ここで《いのち》と考えれば、《いのち》は交換できるものではない。

私の考えにおける貨幣1.0は、「交換」のための価格測定機能です。貨幣2.0は贈与に対する返礼を価値測定するためのもの。ということは、価値/価格を付けるのは贈与者/販売者ではなく被贈与者/購買者ということになるのです。これまでの常識とは逆さまです。この貨幣2.0は共感貨幣でもある。返礼義務を共感という形で受け取り、貨幣という形にして返す。そこでソーシャルメディアというわけです。津田大介のソーシャルメディアによる送金という構想に私が反応するのも、以上のような考えがあってのことなんです。

ただ、現在の貨幣環境で《いのち》に対してこうしたやり方を適用してしまうと、《いのち》がゼロ査定されてしまうことは目に見えていますよね。だから貨幣2.0は、貨幣環境そのものを変えていく必要がある。その第一歩となるであろうと考えるのが情報です。現在はデジタル情報が溢れる時代ですが、その複製原価はゼロだといっていい。ならばデジタル情報を贈与として提供し、共感を感じたなら返礼として貨幣を贈る。そういったシステムはすぐにでも構築可能でしょうし、こうしたシステムが広がってゆけば適応範囲を工業製品へ、さらには《いのち》である農産品へと広がっていく可能性も見えてくるだろう、と。そんなふうに妄想しているわけなんです。

(このあたりはhttp://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-487.htmlを参照していただけると嬉しいです。)

> ソーシャルメディアはただ「つなぐ」だけであって、《いのち》のことを教えてくれるわけではありません。《いのち》のことを教えてくれるのはおそらく《いのち》と向き合っている人だけであろうと思います。
>
ソーシャルメディアが生む共感とは、そういった明文化できないような人となりがベースになっているようにぼくには思えて

同感です。その明文化できないものを私は《霊》と呼んでいるんです。ソーシャルメディアで伝われば《電霊》ですね。

あ、あと、津田さんのコメントは

諒解です。あのメルマガは私も受信しているはずです。実はまだ未読なんですが(苦笑)。ちゃんと読んでおきます。

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