愚慫空論

『文明の災禍』

文明の災禍 現代文明の在り方に行き詰まりを感じ取っていると自覚している者なら、読んでおいて損はない。読んでおくべき。

序文(供養――死者と向き合う)から読み進めていくと、「魂の次元」などという言葉が出てくる。私はこういった言葉を好むので特に違和感はないが、現代文明を論じるのに「死者」「魂」では抹香臭いアナクロニズムを感じてしまうかもしれない。実際、本書がアナクロなのは確かである。

しかし。

3.11以降、私たちは「アナクロ」に対してどういった言葉を対置できるのだろうか。少し前なら「ハイテク」であったろう。原発もその「ハイテク」のカテゴリーで括られるもののひとつだった。だが、今はどうか。「ハイテク」にどこか「アナクロ」な感じを抱かないだろうか。

リトル・ピープルの時代 本書が提起しているのは、そういった意識の変化。その意味では宇野常寛著『リトル・ピープルの時代』と共通するものがあるが、『リトル・ピープルの時代』が知的な斬新さを感じさせるのに対して、本書はやはりアナクロ感がある。というのも、議論の基調が「身体」だから。そしてそれは知性の限界を語ることでもある。

(もっとも20世紀哲学において「身体論」は、最新の分野のひとつなんだけれども)

 さて、もう一度東日本大震災に戻ることにしよう。テレビから流れてくる津波の映像はみつづけていた私たちが受けた衝撃、それは「意識の衝撃」だけではななかった。眼をとおして身体もまた衝撃を受けていた。さらには生命そのものも危険を感じ、衝撃を受けた。仮に「意識の衝撃」を「知性の衝撃」と表現するなら、私たちは「知性の衝撃」と「身体の衝撃」「生命の衝撃」 を同時に受けたのだろう。
 そこに私たちの気持ちが説明できないかたちで重いもうひとつの理由がある。「知性の衝撃」は時間がたって冷静さを取り戻せば、その中味を考察することも、分析し整理することもできる。そうやって自分なりの対応方法もみつけだすことができる。ところが「身体の衝撃」や「生命の衝撃」は知性の力では処理することができない。何が問題になっているのかを明確に語ることができないのである。私たちは晴れないものを抱きつづけることになった。(p.31~32)


 近代以降の「民衆の時代」は「情報の公開」と一体的な関係を持っていたのである。あらゆる情報の公開は、民衆の時代=その意味で民主主義の時代の重要な要素、社会の要としてとらえられた。
 ところが東日本大震災以降の現実のなかで私が感じたものは、情報を大量に受け取ると人間は逆に適切な判断ができなくなる、あるいは判断自体がつかなくなる、という現象だった。そしてそれは、インターネット時代にはすでに発生していた現象でもあった。(p.68)


 自然から提供される情報は、その量がどれほど多くても、判断能力を失ったりバーチャルな情報に変わることはない。その情報を身体が受け取って判断するからである。
 東日本大震災以降私たちが受け取った膨大な情報は、このようなものではなかった。正確に述べれば、震災後に漁民や農民たちは、身体で受け取る情報もえていたのだろう。だから初めに述べたように、漁民たちはこれからも海とともに生きると、力強く宣言することができた。この言葉は知性によって発せられているが、この言葉に確信を与えているものは、その多くが身体の判断だろう。(中略) 身体は、いままでどおりに生きることが困難になった状況をも判断していたことだろう。だが、それでも、やれると身体は判断したのである。
 テレビや新聞やインターネットなどで情報を受け取った人々はそうはいかなかった。知性は怯えた。予測できない事態が展開したことに対して。(中略)。
 そして想定を超えた事態の展開が、映像からリアリティを奪い、多くの人たちはまるで映画をみているような気分になった。さらに膨大な情報が知性を埋めつくしたとき、その情報を処理できずに判断ができなくなるという事態も生み出された。(p90~91)


正直なところをいえば、この内山氏の議論にはある種の「バイアス」を感じなくはない。そのバイアスは例えば、

『ドイツに脱原発ができて日本にはできない理由』(ビデオニュース・ドットコム)

と比較してみると、宮台氏が繰り返し主張している知識社会への「バイアス」とともに、見て取ることが出来る。ここでは知性は怯えてなどいない。社会が受け入れられないリスクは受け入れるべきではないと、知性は明確に分析し、理性的に否定している。怯えているのは日本的知性である。

この両者の違いは、私は欧州と日本の霊性の在り方の違いから来るのだと考えているのだけれども、そして、近代社会でスタンダートと捉えられているのは欧州のそれだけれども、そうはいっても日本人として生まれ育ってきた私たちは、いまさらヨーロッパ人にはなれない。育んだ「バイアス」を今さら修正することなどできない。仮にできたとしても、数百年といった歴史的な尺度での年月が必要とされるだろう。明治維新以降の150年あまり、日本は例外的に順調に西欧化を進めてきたけれども、それでもこの体たらくなのである。

現代文明の行き詰まりとは、西欧文明の行き詰まりでもある。近代以降の西欧文明はもともとが欠陥品だと私は思っているけれども、それでも西欧の域内で留まっているならその欠点は克服されたかもしれない。だが、不幸なことに西欧文明はグローバル化した。ゆえにもともとの欠陥に加えて、「バイアス」の齟齬から生じるさまざまなミスマッチを生んでしまった。そのことが現代文明を終末的なものにしてしまった。

「バイアス」を持つことは悪いことではない。「バイアス」を自覚できないことが悪いことなのである。現代は、その「悪」が露呈し始めた時代だということもできるだろう。

その意味でいうなら、本書は知性の書だ。日本人の「バイアス」を示しているのだから。それがアナクロになる理由でもある。

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