愚慫空論

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』

《自己》とは関係性のアーカイブである――というようなことを、考えさせるアニメだ。


今年の4月から6月にかけての放映で、人気を博したらしい。泣けるアニメ。

私も泣いた。

この略称『あの花』と呼ばれるアニメは空気系ではないが、空気系の延長線上にあるものだと思った。空気系を掘り起こしたもの、とでもいえば良いか。

空気系の代表的作品『けいおん』で描かれていたのは「仲間と同じ時間と場所を過ごす」ということだった。そんな大切だがあたりまえのことを、高校生になってやっている。「なってから」なのか「なって」なのかは定かではないけれども、私のような世代からすれば、そんなことは小学校くらいで卒業して高校生になったら大人への準備でしょ、せいぜい大人になるまでのモラトリアムでしょ、とスルーされていくはずのことが、されずに大きな主題として描かれている。

『あの花』も主人公達は高校生である。しかし『けいおん』のような小学生じみた高校生ではない。私のようなオッサン世代が普通に想像してしまう高校生たち。

Wikipedia より引用。

あらすじ

幼い頃は仲が良かった宿海仁太本間芽衣子安城鳴子松雪集鶴見知利子久川鉄道ら6人の幼馴染たちは、かつては互いをあだ名で呼び合い、「超平和バスターズ」という名のグループを結成し、秘密基地に集まって遊ぶ間柄だった。しかし突然の芽衣子の死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、それぞれ芽衣子に対する後悔や未練や負い目を抱えつつも、高校進学後の現在では疎遠な関係となっていた。

高校受験に失敗し、引きこもり気味の生活を送っていた仁太。そんな彼の元にある日、死んだはずの芽衣子が現れ、彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。芽衣子の姿は仁太以外の人間には見えず、当初はこれを幻覚であると思おうとする仁太であったが、その存在を無視することはできず、困惑しつつも芽衣子の願いを探っていくことになる。それをきっかけに、それぞれ別の生活を送っていた6人は再び集まり始める。


幼い頃は仲良しだったけれども、少し大人になるとバラバラ。むしろ大人になって幼い頃の記憶から解放された後に、つまりは自意識がはっきりして、自身で選択することで出来た友人が本当の友人でしょ――というのが私などは「ふつう」の友人関係の在り方だと思ってしまうし、それからすると主人公たちの「それぞれの別の生活」は「あたりまえ」。でも、そんな「あたりまえ」だけが「あたりまえ」なわけではない。『あの花』は、それを教えてくれる。

めんま(本間芽衣子)は、小さい頃に死んだ。高校生になった主人公たちに現れるのは幽霊だ。じんたん(宿海仁太)にしか見えないめんまは、最初はそのじんたんにすら受け入れられない。マイナスの、もう一段マイナスからのスタート。それから まずじんたんがめんまを受け入れ、めんまを受け入れたじんたんを他の仲間が受け入れ、そしてめんまの「お願い」をみんなが受け入れる――といっても、実はそのめんまの「お願い」は、めんま自身も知らない。めんまの生前、その「お願い」はたしかにめんまの中になった。でも幽霊になって忘れている。めんまの「お願い」を受け入れるということは、めんまのお願い探しにつきあうことでもある。その過程でかつての「関係性」の記憶が掘り起こされていく。

ところで、「願い探し」というテーマは、『魔法少女まどか』と共通するものがある。それも、単に「願いを探す」というだけではなくて、探し当てられる願いの「形」までなぜか似ている。『まどか』の場合、それは母から受け継がれ拡大・純化された『希望の純粋形』だった。『あの花』も同じく、めんまの「願い」は母から純粋に引き継がれている。そして、その「願い」すると成就すると消滅してしまう(成仏する)ところまで、まどかとめんまは同じだ。

この共通性――希望を守ろうとする母性――は、「関係性」のアーカイブを掘り起こし《自己》を確立しようとする人間の〈魂〉の営為にどこか深いところで繋がっているのだろう。さらにはコミュニケーションにおける水平型/垂直型を繋ぐ鍵を握っている。

 『コミュニケーションの水平型/垂直型』(愚樵空論)

ここからは前エントリーでの議論を引き継ぐ形で考えてみる。

右図は、前エントリーでの図(左)の発展形。複数の《器》に同じ他者が関係している形になっている。『あの花』に即していうと、〈他者〉に相当するのはめんまであり、《器》はじんたんやそれ以外の仲間たちということになる。

幼い頃、彼らが「超平和バスターズ」なるものを結成していた頃は、彼らの関係は互いに右図のような形になっていた。ところがめんまがいなくなり、それぞれがバラバラになると、関係図は次のように変化する。

めんまは居なくなった。すなわち「外界」から消滅した。だが、めんまの像はそれぞれの《器》の中に《霊》として残っている。とはいうものの、もはやめんまは居ないので、それぞれの《器》の中に残っためんまの《霊》は仲間たちをつなぐことができない。『あの花』の物語はこの状態からスタートして、上の状態へと回帰していこうとするものだ。

もちろん一端存在しなくなった者が再び復活することはあり得ない。だからめんまは幽霊である。いかにもアニメ的な「設定」だ。アニメやマンガをSF小説のようなものを鑑賞する際、このような「設定」の意味を問うてはいけない。問うべきはその「設定」が何を訴えようとしているか。『あの花』では、幽霊であるにも関わらず以前と同じ仲間として受容すること。ここの意味を見出さなければならない。

このめんまの「受容」は、当然のことながら主人公たちの内面に変化をもたらす。それは、めんまの《霊》と再び――めんまの死によって一度封印されてしまった――コミュニケーションを始めることでもたらされる。各々の《器》のなかのめんまの《霊》とのコミュニケーション。これは垂直型である。主人公達は、各々で垂直的にコミュニケーションを始めた結果、その結果を共有せずにはいられなくなる。各自バラバラにめんまの《霊》を抱えていることができなくなる。水平的コミュニケーションが自ずから生じてゆくことになるのだ。

このコミュニケーションにおける垂直/水平転換は、めんまが幽霊として「設定」されたからこそ明瞭に浮かんできたものだ。多くの場合、めんまに相当する存在は外界にまだ存在している。そのためにかえって《器》のなかの《霊》を発見できない。《霊》を発見できなければ垂直的コミュニケーションも生じない。水平的コミュニケーションは内発性を失って形骸化してゆく。現代社会に蔓延している病である。

「空気系」アニメはコミュニケーションが形骸化した現代社会において、水平的コミュニケーションの重要性を描き出す役割を担った。『けいおん』が示したのは、何らかの明確な目標・実現しうる目標を持つことを持つことの重要性よりも、コミュニケーションを目的とするコミュニケーションの重要性だった。だが、そこのはコミュニケーションの内発性までは描かれてはいなかった。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』には、それが描き込まれている。

すなわち、『あの花』が示したのは、「共同体の作り方」である。“共同体は作るものではなく、育てるものだ”というが、その意味するところは、「明確な目的としての共同体」は建設できない。共同体建設目標は、共同体を生まないということだ。共同体は、メンバー各々の垂直的コミュニケーションの結果として内発的に生じる水平的コミュニケーションによって作り上げられる。垂直的コミュニケーションは同時に各々の《器》のなかの「関係性」のアーカイブを掘り起こすことになるから、共同体の成立と各自の自己確立とは同時並行で進むことになる。

このことは、『あの花』の物語から容易に想像がつくだろう。めんまが成仏した後、主人公たちは彼らの共同体を再建するだろう。同時に、彼らは「自身の個」をそれぞれ確立するに至る。「個」であることが共同体のメンバーたる資格なのである。

アニメが示したこの結論は、個と共同体とを巡る凡百の議論を超えていると私は思う。個が先か、共同体が先か、ではないのである。個と共同体とは社会的な動物である人間の、両面なのだ。人が人間という生き物になったときの、一面が「個」であり一面が共同体なのである。「個」が共同体たり得たとき、言い換えれば《器》のなかの《霊》を治めることができたとき、人は「人間」になる。政治とは、個と社会とに関わりなく、《霊》を治めようとする営為に他ならない。

現代社会は、治めるべき《霊》が存在しない乾いた世界。【強欲】が支配するのも当然の成り行きだ。

コメント

また見ちゃいそうです。

こんばんわ。また見ちゃいそうです。(^^ゞ
多分みちゃうでしょう。
でも未だ見て無いのでなんともコメントしにくいのですが、

愚樵さんって、オネアミスの翼 見た事あります?
昭和の映画ですからかなり古いと言えば古い映画です。

私はすごく好きな映画です。
愚樵さんもご覧になっていたなら、是非ご意見を聞いてみたいです。

見てみて下さい

すぺーすのいどさん、おはようございます。

興味を持ったなら、見てみて下さい(^o^)
私が大袈裟に書いてあることがバレるでしょう(^_^;

まあ、それはともかく、人気を博するってことはそれなりの理由があるんですよね。

で。『オネアミスの翼』ですか。知らないです。
調べてみたらDVDレンタルでありますね。近いうちに観てみますね。

ちょっとわかったような…

愚樵さん、こんばんわ。

このエントリ、実は難しくて何回か読まないと入れませんでした。(^^ゞ

>共同体は、メンバー各々の垂直的コミュニケーションの結果として内発的に生じる水平的コミュニケーションによって作り上げられる。

僕は今その真っ只中に居るのかも知れません、てか、居ます。多分。
すごくリアルに実感した気がします。
なんか今楽しいんですよ。な~んとなく。いわゆる仕事以外の時間とか人間関係が。
面倒なこともたくさんあるんですけどね。

私は多分【システム】構築側には絶対にまわれない人なのだと思います。
だから、【運動】的な行動がちゃんと出来ない、やりたくない。

う~む…相変わらずワケワカなコメですいません。m(__)m

気付いた

自分のさっきのコメ

>私は多分【システム】構築側には絶対にまわれない人なのだと思います。
だから、【運動】的な行動がちゃんと出来ない、やりたくない。

ちがうね。僕は偏差値が足らないのですね。
つまり「やらない」のではなく「やれない」のですよ。
きっと。

あーよかった。

偏差値の高い言い回し(^_^;

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

わけのわかんない記事を何度も読んでいただいて、恐縮です。

共同体は、メンバー各々の垂直的コミュニケーションの結果として内発的に生じる水平的コミュニケーションによって作り上げられる。

こういうのって「偏差値の高い」言い回しということになるんでしょうかねぇ...
でも、それでピンとくるすぺーすのいどさんは?

僕は今その真っ只中に居るのかも知れません、てか、居ます。多分

(^-^)

私は多分【システム】構築側には絶対にまわれない人なのだと思います。

システムにも、血肉の通ったものとそうでないものとがあるんですね。というか、何とかとハサミは使いよう。【システム】とは、血肉の通わないもののことですね。

私のいう「霊性」とは、上で言った「血肉」のことなんです。で、日本人の場合、システムに血肉を通わせるのが苦手。これは民族的霊性の在り方に起因しているのだというのが私の考えなんです。「偏差値が高い」といって揶揄するのは、日本人はお勉強してシステムを志向すればするほど霊性が低くなっていってしまうから。

これはやっぱり、絶対神に馴染みが薄い所為なんですよ。絶対神というのは端的に言ってしまえば「血肉の通ったシステムの象徴」なんですね。でも日本人はそれを信じていないでしょう。

すぺーすのいどさんも、どうしようもなく日本人なんでしょうね。

どうしようもなく日本人

愚樵さん、こんばんは。

>わけのわかんない記事を何度も読んでいただいて、恐縮です。

いやいや、私は本当に読解力がお粗末で、愚樵さんの文章で無くても理解に大変な時間を要するので、恐縮なんてしないでください。
それより「難しい」って書かない様にしようと思っていたのに書いてしまいすいません。

>こういうのって「偏差値の高い」言い回しということになるんでしょうかねぇ...

垂直的な…、水平的な…、のエントリは過去にいろいろ上がっていますよね。
それらのエントリを読んで積み上げてきたものが、スッと、しみ込んだ感じがします。
ずいぶん、時差ぼけです。(^^ゞ

>共同体は、メンバー各々の垂直的コミュニケーションの結果として内発的に生じる水平的コミュニケーションによって作り上げられる。

ご存じと思いますが、私は名古屋で学童保育所の役員をしています。
名古屋市の学童保育は保護者による運営の施設がほとんどです。
それはまさしく「共同体」運営そのものなんですね。

私の所属する学童の「共同体」は私が入所した時点でも、あまりシステマチックでない雰囲気があり、それはそれで好きだったのですが、やはりそれだと何かと無駄が多く発生します。つまり同じ苦労を毎年やる羽目になるんですね。合理的でない。

そうなると、私もそうですが、みんながもっとシステマチックにしていくべきじゃないか?という選択を望む訳ですよ。そこでシステムを考えるんですけど、机上でシステムを構築するのはそんなに難しくないんですよね。そして「それ良いね」って話になる。
だけど実際に運用しようと思うと結局そうはうまくいかない。システムを構成する歯車がバラエティに富んでいて、一つのシステムとして機能させるには、何処か局所的に負荷が掛かっちゃう。それと「これさえやれば良い」といった感じに「内発性を失って形骸化」していくんですね。

いろいろやっていく中で、一時期本当に疲れ果ててたんですけど、1年前くらいからツイッターを本格的に嵌まりはじめて、ネット上ですが新しい人や価値観との出会いがあり、やっぱり人と関わるのは楽しくて、楽しむってこと忘れてたかなぁ、と思っていたころに、愚樵さんから「けいおん!」薦められて観て、確信しましたよ。「みんなで楽しもう」って。

今はあんまり頑張っていません。
先ずはみんなで楽しくやろう!やるべき事もイヤイヤやるんじゃつまんない。
でも、たのしくするための手間は惜しまない。でもムリしない。

そしてみんなにとって「ココ」を楽しくて大事な、守るべき場所、にしていく。

すぐには全部うまくいくわけじゃないですけど、全員が同じ位置にいる訳じゃないけど、なんかそんな風なものですよね。良い雰囲気の「共同体」って…

>すぺーすのいどさんも、どうしようもなく日本人なんでしょうね。

そうなんでしょうね。
私は日本が好きですよ。そこに居ない自分ってのもすいぶんしっかり感じましたからね。

ただ、愚樵さんの言う「日本人」的な在り方は、かつては、つまり「絶対神」が生まれる前はグローバルスタンダードだったんじゃないですかね?
そして「日本人」は、その後の世代で「絶対神」ツールをとりこまなかったにも関わらず、近代になって「絶対神」ツールを取り込んだ人たちが基本を作った【システム】ツールを取り込もうとした。合理的だという理由で。

そこのところの不整合というか矛盾が、今の「日本人」を不幸にしているのかも知れないですね。

Re: どうしようもなく日本人

すぺーすのいどさん、おはようございます。

学童の話ですね。

みんながもっとシステマチックにしていくべきじゃないか?という選択を望む訳ですよ。

ありがちですね。

机上でシステムを構築するのはそんなに難しくないんですよね

いや、まったくその通りです。
毒多さんのところで私はさんざん「権力」批判をしましたよね。あれは詰まるところ、簡単な「机上のプラン」を押しつけようとすることへの批判なんです。

オレはたくさん勉強をして競争を勝ち抜いて「偏差値が高い」。そのオレが構想したプランは正しいに決まっている。だからオレの指示に従え。

現に権力を握っている者も、理屈をこねくり回して権力を批判する者も、同じなんですよ。システムを回すのにいちばん苦労するのは現場なんですね。

何処か局所的に負荷が掛かっちゃう

ということになる。現場を知悉するとこういう「勘所」がわかる。でも「机上のプラン」を練っているときには解らない。アタマデッカチじゃあ、肝心なところが抜けるんです。

「みんなで楽しもう」って。

昔の共同体には、いちばん辛いところをみんなで楽しむための知恵がいろいろとあったんですね。お祭りをするなんてもそうでしょうね。

山仕事では「木遣り歌」なんてものがあったんです。機械動力のない時代、大きくて思い材木を山から引きだしてくるのは人力だったわけですね。大勢で力を合わせて引っ張り出してきた。そのときの歌が木遣り歌。歌い手が木遣りを歌いながら、みんながそのリズムに合わせて「力を合わせた」んです。

山の地形は複雑です。ですから、場所によって力の入れ具合にも緩急があるわけですよ。その音頭を歌で取った。名人が歌うと、ずっと楽に仕事が出来たといいます。基本はおもしろおかしく、なんだそうです。決まった歌詞があるわけではなくて、集落の噂話なんかを題材にして適当にリズムを付けて歌う。それでいて「急所」はちゃんとみんなに伝わるように。

そうやってみんなで「力を合わせる」体験を通じて、

みんなにとって「ココ」を楽しくて大事な、守るべき場所、にしていく。
『けいおん』は、明確な目的意識があるわけではないけれども、この「急所」を上手く描き出していますよね。

「日本人」的な在り方は、かつては、つまり「絶対神」が生まれる前はグローバルスタンダードだったんじゃないですかね?

それぞれにローカルであったことも「グローバルスタンダード」といえるのなら、そうです。自然をも含んだ「共同体」と水平/垂直にコミュニケーションを重ねることで、それぞれの「霊性」を育んでいったんですね。これには長い年月の積み重ねが必要だったはずです。

それを近代以降、急速に一神教型のツールを採り入れだした。そこに「霊性」が伴わないのはどうしようもないことなんですね。欧州は、そうした「霊性」を身につけるのに膨大な犠牲・対価を支払ったんですね。西欧型民主主義は「闘争の末の平和条約締結」なんですから。こんなの、形だけ真似できるはずがない。お勉強してペーパーテストに合格したくらいで修得できるはずがないんですよ。

やっぱり見ちゃった

「あの花」見ましたよ。評価は難しいですね~(^^ゞ
悪くは無かったけど…11話でまとめるには…というか…最後はちょっと強引?、いや良いラストだけど、途中の描き方がちょっと下手っぽい…ですかね。
子どもの頃の日常の描写がもう少しあれば、成長してからのそれぞれの中のそれぞれの〈霊〉にもう少し感情移入できそうな気がします。
あれ?こんな番組評価する所じゃないですね。(^^ゞ すいません。m(__)m

もう見ちゃいましたか

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

いやいや、なかなかに興味深いコメントですよ。

11話でまとめるには…というか…最後はちょっと強引?

その評価は正当だと私も思います。が、一方で、

こんな番組評価する所じゃないですね。

笑。わかっておられる。でも、それでいいんですよ。

すぺーすのいどさんが評価に走った理由は、要するにハマらなかったということですね。ハマって見ると、後半の強引な表現がかえって良かったりする。私はハマったし、人気を博したということはハマった者は多かったということでしょう。

でもすぺーすのいどさんはハマらなかった。かといって、すぺーすのいどさんがアニメ全般にハマらない人というわけではない。『けいおん』にはハマったわけでしょう? ということは、すぺーすのいどさんがハマらなかったのには理由がある、ということになる。

『けいおん』にしても『あの花』にしても、もとより視聴者を有無を言わさず惹き込む力を持った「作品」ではないわけです。だいたいアニメなんて、「そんなもの」でしょう? 『魔法少女まどか☆マギカ』は例外だと思ってますが、所詮はアニメなんて「消費されるもの」ですから。だからこそ「消費のされ方」に時代が見える部分がある。

私が勝手に憶測するに、すぺーすのいどさんがハマらなかった理由、というよりハマる必要がなかった理由、それは『けいおん』を観たこともあってここのところ楽しいと仰っていたことと関係あると思うんです。

私は『あの花』を「共同体再建の物語」と捉えました。しかし、この評価は作品としての完成度の評価とまったく関係ないんですね。すぺーすのいどさんもお気づきのように。つまりですね、『あの花』は「共同体再建の物語」を必要とする者の欲求を満たす形で消費されたということなんです。作品の良し悪しとは関係なく。で、すぺーすのいどさんは、そうした消費をする必要がなかった。共同体再建の欲求は既に満たされているから。

これはとてもいいことですよね。私の憶測が当たっていればの話ですけど。

悔しかったのかもしれない

こんにちは。

でも、ある意味ハマったのかもしれません。
ゴルフはしませんが、例えれば、長いパットを微妙なラインでアプローチして、入るのか?と思ったのに、カップのフチをなぞって蹴られた感じです。
なんか悔しい。
ラストはもっと泣きたかった。

ナイス、コメント!

・すぺーすのいどさん

わはは、そうでしたか。ちょっと笑ってしまいました。

笑ってしまっては負けですね。って、何が負けかよくわからんけど(笑)

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