愚慫空論

【強欲】とは「強いられた欲望」のことである その1

もうこのタイトルだけで十分なような気もするが、それではエントリーにならないので続きを書く。

【強欲】が「強いられた欲望」だとするならば、一体、誰に強いられるのか。

答えは2つある。
ひとつは【自我】。もうひとつが【システム】。

まず、【自我】の観点から答えてみる。

人間には《自己》と【自我】とがある。《自己》とは「魂(タマシヰ)の器(ウツワ)」。あるいはインターフェース。この「器」のなかに入るのが〈他者〉だ。【自我】は〈他者〉の一に過ぎないが、特別な〈他者〉ではある。〈他者〉の筆頭が【自我】。

自己他者 (〈他者〉は一般的には(唯物論的には)《自己》の外側の外界に存在すると捉えられるが、ここでは〈他者〉は外界と〈器〉の中に跨がって存在すると考える。〈他者〉は《自己》へと貫入してくる。《自己》へ貫入したつまり〈器〉のなかの〈他者〉を特に《霊》という。《霊》は〈他者〉が外界から消滅してもなお〈器〉の中に残存する性質がある。また、〈他者〉とは〈器〉の中に入るあらゆる「モノ(物・者)」を意味する。他者∋他人である。)

(ウツワの中をウツロイ、他のウツワへもウツッテゆくモノが《霊(チ)》なのであろうか。しわさんの解釈を伺ってみたいものだ。)

《自己》は「欲求」を持つ。〈器〉が満たされたいという欲である。〈器〉が大きな人ほど欲も大きいが、充足されれば治まる欲でもある。

『無意識の構造』 【自我】が持つのは欲望である。この欲は、〈我〉の〈他者〉の筆頭として位置づけたいという欲だ。〈器〉のなかの《霊》を比較し、〈器〉のなかを【自我】を中心に序列付けたいとするのが欲望である(右掲図、西洋人の意識)。

しかし、この「欲望」は意識されることがない。無意識のうちに欲してしまっている。「欲求」は渇望すると意識され、充足すると治まり意識から消える。だが欲望は渇望していても意識されない。自身の〈器〉に意識を向けない限り意識されることはない。 これが「強いられた欲望」の意味である。通常、欲は欲求で欲望であれ、意識される。意識されていることは自発的に感じられる。だから欲は通常、自発的であり強いられていると感じられることはない。「強いられた欲望」とは矛盾した謂いに感じる。

が、実態は違う。知らない意識されないうちに欲している。意識されないから制御も出来ず、また治まることもなく、強いられることになる。

なお、意識されず強いられていることを【隷属】という。【強欲】に捉えられている人間は、意識することなく【自我】への【隷属】を強いられ、《霊》を支配しようとする(《霊》の支配は「呪い」である)。《霊》とは「器」に貫入してきた〈他者〉の一部。すなわち【強欲】は無意識的・必然的に〈他者〉をも【隷属】させようと振る舞うよう強いることになる。
友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学
【強欲】が闘争の根源というわけだ。

だが、【強欲】からの闘争は、社会が発展したこと――人口が増加したこと――で必然的に引き起こされてきた現象でもある。それは人間の脳の能力の限界から来ている。

右掲書の著者ロビン・ダンバー氏は「ダンパー数(概ね150)」というものを提唱していることで知られている。すなわち人間が「気の置けない関係」を取り結ぶことが出来るのは、たいたい150人くらいまでだということ。これは大脳新皮質の処理能力の限界からくるという説である。「気が置けない」のは処理能力の限界内に収まっているから。

この仮説と「魂―器(インターフェース)―霊」仮説を併せて考えてみる。

〈器〉のなかの《霊》は互いに関係性を取り結ぶ。《霊》が10個だとすれば、「関係性」の数は45個(右図)。ダンパー数150が〈器〉のなかの《霊》の数であるとすると、「関係性」の数は11,175。このあたり数が大脳新皮質が処理できる「関係性」の限界だと考えることができるだろう。

処理できる関係性の数をそのままに、要素(霊)の数を増やす方法がある。それは「システム化」することだ(左図)。この方法を採用すれば、単純に考えれば、同じ大脳新皮質の処理能力で11,175の要素(霊)と「関係性」を取り結ぶことが出来る。「関係性」の集中点に位置するのは、もちろん【自我】である。

(私は右上図を〈クラウド〉と呼び、左図を〈システム〉と呼んだ
    → 『再度、〈システム〉と〈クラウド〉』(愚樵空論)

銃・病原菌・鉄 人類社会が発展して血族集団(バンド)から部族社会(トライブ)へ、首長社会(チーフダム)、そして国家(ステート)へと移るにつれ、「器」のなかの構造も〈クラウド〉から〈システム〉へと移行していかざるを得なかった。これは脳の限界からくる「適応」であり、「適応」とは意識せずに強いられるものでもある。

だがしかし、この「適応」は人間の本来的な社会性に沿わないところがどうしてもある。人間の社会性はそもそも〈クラウド〉志向だからである。〈システム〉ではどうにも〈器〉は満たすことができない。〈器〉のなかの《霊》が多様な関係性を保ってこそ、〈器〉は満たされる。しかし、否応なしに〈システム〉型への「適応」は強いられる。そこで少しでも「関係性」を増やそうとより多くの《霊》を支配しようとする。能力限界まで増やそうとする。

紀元前5,6世紀に相次いで誕生した世界宗教は、こうした〈システム〉と〈クラウド〉の矛盾を解消するために生み出されたのかもしれない。この際に世界宗教が採用した方法が【自我】を滅すること。

西洋型一神教は、超越的な絶対他者(=GOD)を想定することで、特別な〈他者〉である【自我】を筆頭の位置から引きずり下ろそうとした。そして絶対的他者との比較で【自我】を相対的に小さくしていこうとした。この方法論が「神の前では平等」、つまり人権理念を生み出し、今日の民主主義にまで繋がっている。

東洋型多神教は、仏教を例に取ると、【自我】を「空ずる」方法を選択しようとした。

いずれにせよ、強大な〈システム〉適応圧の前に余り成功したとはいえないようだ。特に「近代」以降、社会がますます〈システム〉化するにつれ、神も仏も過去の遺物と化し【強欲】が蔓延るようになってしまった。

以下、その2へ続く。その2では、【システム】が強いる【強欲】について、答えてみることになる予定。

コメント

ウツワとチ

愚樵さん

こんにちは。

遅いレスになりました。

名詞の語源を探るのはとても難しいので、思考実験的なものになりますが…

ウツワとは、ウは「熱、転じて生命の根源となるEnergy(気よりも原初的、根源的なもの?)」、ツは「中心へ収束し運動が続いている」というような意味合いがあり、ワは「”日出、南中、日入、夜中”、”春、夏、秋、冬”、”東、南、西、北”といった、自然の中の巡りの基準点(時間と空間の軸?)が定まり整っている状態を表していますから、ヲシテ的には、「生命を集め続け自然の巡りの中に納める概念」というような意味になりますか。

土器という道具は、彼らにとってまさにそういうモノだったのではないかなぁ…なんてことを文章を作りながら思いました。また、土器というウツワと人というウツワに、当たり前のように通じるモノを観ていたのではないかと。

チは、ウツワの中をウツロイ、他のウツワへもウツッテゆくモノが《霊(チ)》なのだと思います。チが放出されていくことを「チル(散る)」と言います。散ったモノは、やがて何らかの形で世界に受け入れられて、またいずれかのウツワの中に移っていく。そういう世界観が当たり前であったのかなぁと思いました。

遅レスありがとうございます

・しわさん

皮肉ではありません。スルーせずに、よくお答になってくれました。ありがとうございます。

ウは「熱、転じて生命の根源となるEnergy(気よりも原初的、根源的なもの?)」
ツは「中心へ収束し運動が続いている」というような意味合い


なんとなくイメージできるなあ。

ワは自然の中の巡りの基準点(時間と空間の軸?)が定まり整っている状態を表しています

いま「日本語が蠱惑的」なんて話をしてますが、私はどうもその根っこにヲシテがあるような気がするんですよね。いずれ追いかけてみたいと思っていますが、まだそういう「時」が巡ってきていないような気もしています。

土器という道具は、彼らにとってまさにそういうモノだったのではないか

これ、松岡正剛もどこかで言っていたように記憶してます。が、何処だったかは忘れましたσ(^o^;

チが放出されていくことを「チル(散る)」と言います

なるほど、なるほど。

散ったモノは、やがて何らかの形で世界に受け入れられて、またいずれかのウツワの中に移っていく。

これ、『千の風になって』のイメージですよね。

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