愚慫空論

これって、ガラパゴス。

本日は毛色を変えて、とある陶芸展のご紹介。といっても、普通の紹介ではないことはいうまでもない。

実は私の義父義母が陶芸倶楽部を主催していたりする。会員数は30人に届かないくらいだろうか。倶楽部では日々会員達が思い思いに作陶に取り組んでいる。私はと言えば雨で仕事が休みだったりするとよくお邪魔するのだが、本当にお邪魔で、お茶をするくらいのもの。手を出したのは、主催の義父から“炭化焼きに松の木が欲しいんだよな”と言われて、現場から調達したくらいのもの。

雄央窯 その倶楽部が毎年12月、作陶展を開く。そこで感じたことをちょいとばかし記してみようというのが、今回のエントリーの趣旨というわけだ。

倶楽部はもちろん、素人の集まりである。プロの作家は、主催の義父義母を含めて、いない。プロ作家を目指している者ものいない。あくまで自分たちの楽しみのための倶楽部。とはいえ、一応、作陶展に際してはみんな「作品」を作る。それは「お約束」みたいなものというか、いくら好きでやるとはいっても、そのような「構え」は必要というか。


   ← こんな作品とか、あるいは ↓ こんな作品とか。













正直なところ、私には「作品」の良し悪しはわからない(とはいえ、素人目にはかなり上等なものに見える)。私に感心があるのは、むしろこちらの方。

 


ごちゃらこという感じで「作品」ではなく「商品」が並んでいる。

いくつかズームアップしてみると、

   

   

こういった“ごちゃらこ感”が、なんだか「ガラパゴス」という感じがして仕方がない。それも、「元祖」と接頭語を付けたくなる。

ものに生命を与える日本人

ブラウン 江戸時代のデザイン文化は多彩だったでしょう。
松  岡 とても多様多彩多技でした。
ブラウン それがなくなったのは、大量生産になったからなんでしょうね。聞いた話ですが、明治時代、たとえば焼物屋さんや金属細工師は芸術的にレベルの高いも のをつくっていたけれども、海外に向けてたくさん売りたいということで、つくりやすいものをスタンダードにしてしまった。それが当時、日本に来た外国人が非常に残念がったことなんです。
松  岡 マスプロダクト、マスセールの問題だねえ。
ブラウン そう。当時、来日したヨーロッパ人は、日本の技術の高さに圧倒されたんです。日本の細工のレベルは、ヨーロッパの人にとっては母国では見られないほどにすぐれていたんですね。残念ながら、明治のころから日本の経済システムはグローバリゼーションの勢いで、すぐれた細工技術を置き忘れてしまいました。


この倶楽部作陶展で並べられた商品の数々は、江戸時代・明治初期の多様性、技術水準には到底及ばないだろう。けれども、その面影を想像することはできるのではないのだろうか。このごちゃらこと並んだ「商品」の塊に。それぞれに作り手の創意工夫が込められている。ひとつとして同じものはない、ガラパゴスな塊。当時日本を訪れた異邦人達は、そんな「塊」がそこここに目撃したのではなかったのだろうか。

当時と今とで最も異なるのは、しかし、多様性や技術水準ではあるまい。このガラパゴスな「塊」が出現した経緯であろう。「塊」を形成するひとつひとつの品物には一応価格が付けられていて、「商品」の体裁が取られてはいる。が、それはあくまで体裁。倶楽部はもとより利潤を追求しているわけではないから、企業経営的に成り立っているわけではない。仮に「商品」がすべて売れたとしても元は取れない。この「塊」は、あくまで作り手達の趣味・道楽から出現したものだ。だから、ガラパゴスであることは当然であるとも言える。

しかしかつてのガラパゴスは、企業経営的な営みの中から出現したものだった。しかも経済的に余裕のある富裕層を対象にした経営ではない。対象はふだんは懐が寂しい庶民を相手にしたものだった。だからこその“ごちゃらこ”だったはずだ。そんな商売で大きな利潤が上がったはずはなかろうが、それでも再生産できるくらいの儲けにはなったろう。そうでなければ経営的に成り立つはずがない。

そうした経済の在り方の豊かさ。私が想像したのはそこだ。現在のように次々と買い換えられていくほどに【商品】があふれかえっていたわけではなかっただろう。現在の水準かすれば【商品】の物資量は圧倒的に少なかったはずだ。だが、物質的なモノに付随して〈世界〉を巡っていた精神的なモノ――私はこれを《霊》と呼ぶが――はどうだろうか。昔のほうが圧倒的に豊かだったのではないだろうか。

倶楽部の《商品》には作り手の《霊》が込められている。何も作り手はそのように意識したわけではあるまいが、《霊》というのは《仕事》がなされていれば知らずにのうちに憑依するものだ。そしてその《霊》は、商品に価格が付けられることで作り手との繋がりは断ち切られている。

だが《霊》そのものがなくなってしまったわけではない。購入者は《商品》にやどった《霊》を自分のモノとして《生活》を豊かにするのに役立てることが出来る。

かつての〈世界〉は、そうした《霊》に満ちあふれていたのだろう。私はそんなふうに想像した。

コメント

モノとワザとカネ

たまりませんねえ、こういう記事(笑)。

江戸時代、生産・製造業は儲からなかったでしょう。
富を得ていたのは流通業。主力の流通品はコメ、塩、小豆、海産物、醸造品で「製品」は繊維ぐらいで、つまり製造業は貨幣活動にそれほど関わりがなかった。
流通業者の富は歌舞音曲や絵画・工芸を育てました。作品とはいいませんが遊郭なんてのも同じです。
「ものつくり」たちはカネの動きに頓着せずにモノやワザと向き合っていたのでしょう。

わが国は道祖神や便所神だけでなく、臼や茶碗にまで神様が宿っているとされていました。粗末に扱うとばちがあたる。では割れた茶碗はどうなるのでしょう、それは製陶業者が回収し、二級品として再生されます。資本主義のルールが全く通用しない、誰も儲からないけどみんな幸せ。これが昔の日本ですね。
トルコでこの話をすると「神は一つだ!」と叱られます。でも神ではなく霊という言葉に置き換えて話すと「そんなのあたりまえだ」というので面白い。

>かつての〈世界〉は、そうした《霊》に満ちあふれていたのだろう。

静かな力が漲る、素晴らしい世界です。

陶器はわりと好きです。

愚樵さん、こんばんは。
調子にのって彼方此方に出張っています。(^^ゞ

陶器の感触はわりと好きです。
素焼き部分のザラザラ感とか、うわぐすりの透明感とか、重さとか、冷たさとか、危なっかしさとか…
決して詳しいわけではなく、なんとなく好きという程度ですが。

このエントリを読んで思い出したのは私自身の子どもの頃の事です。
私は義務教育の期間の半分くらいは、この国に居ませんでした。
私が住んでいたのは(http://africanartmuseum.jp/)←この博物館にあるようなものが周りにあふれている国でした。
もちろん私が目にしていたのは【商品】としてのこれらですが、これらの作品から発せられるメッセージが幼かったあの頃の私に何の影響も及ぼさなかったとは考えにくいです。

精緻な日本の工芸品の方向性とは全く違いますが、これも「ガラパゴス」ですよね。

たまりませんねえ、こういうコメント(笑)。

・あやみさん、おはようございます。

江戸時代、生産・製造業は儲からなかったでしょう。

そもそも儲けようというアタマがなかったのかもしれません。

「ものつくり」たちはカネの動きに頓着せずにモノやワザと向き合っていたのでしょう。

頓着せずにいられたのですね。

誰も儲からないけどみんな幸せ。これが昔の日本ですね。

儲け=稼ぎと幸せとは関係ない。

トルコでこの話をすると「神は一つだ!」と叱られます。でも神ではなく霊という言葉に置き換えて話すと「そんなのあたりまえだ」というので面白い。

ホント、面白い(笑)。

そもそも日本には GOD はいないのですね。spirt しかいない。マレビトである神を GOD の訳語に当てたことがそもそもの間違い。日本では、神も仏も、般若も翁もぜんぶ sprit です。

あやみさんにコメントを頂いて思い出しましたが、先日、トルコ人陶芸家の作品を見る機会がありました。
http://g-min.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/09/post_dda8.html

所変われば品変わる。同じ陶器でも、これまた日本のものとは全然違うのですね。それがまた面白い。

Re: 陶器はわりと好きです。

すぺーすのいどさん、おはようございます。

調子にのって彼方此方に出張っています。(^^ゞ

へぇ~、そうなんですか。いいですね。もっと調子に乗って下さい(^o^)

>陶器の感触はわりと好きです。

私はもともとは、好きではなかった。というか、ぜんぜん興味がなかった。陶器であろうがメラミンであろうが、器は器でしょ、という感じでした。今でも基本的にあまりキョーミはないんですが(だから詳しくならない)、でも、好きにはなりましたねぇ。

これらの作品から発せられるメッセージが幼かったあの頃の私に何の影響も及ぼさなかったとは考えにくいです。

そう。そうなんです。私はもうオッサンですけど(^_^; 知らずのうちに「メッセージ」を受けているんですね。Sence of Wonder はまだ残っている。

私は義務教育の期間の半分くらいは、この国に居ませんでした。

へえぇ、そうだったんですか。そう言われれば得心するものがあるなぁ。すぺーすのいどさんは「アタマデッカチ」とは無縁な感じですものね。すぺーすのいどさんの世代はちょっと想像付かないんですけどね。

私がまだ幼かった頃の日本は、そうした「メッセージ」がまだそこいら中に溢れていました。《霊》ですね。大阪で生まれ育ちましたからトトロやコダマはともかく、モノノケはいそうな感じが「闇」があちこちにあったんですね。今は「都会のエアスポット」のようなところはあっても、そこに危険な感じはしても、不気味な感じはないんじゃないかな。

精緻な日本の工芸品の方向性とは全く違いますが、これも「ガラパゴス」ですよね。

ガラパゴスって、アニミズム的霊性の発露なんですよね。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/575-ef677e40

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード