愚慫空論

ロックは、やっとロックになった

今朝は、こちらを取り上げてみるつもりだったのだが、急遽予定を変更。

ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。
  by ピート・タウンゼント


 『それでもロックが好きなんです。』(yamachanblog)

なんだか懐かしいな、このセリフ。もうひとつ、ついでに。

生きてることを喜ぶことを罪ではないと信じる
  by ブルース・スプリングスティーン


私はロックが嫌いだった。何より音が耳障り。耳障りという印象は今でも変わらないけれども、それにはそれなりの意味があるのだということは理解出来るようになった。その理解の扉は、ブログをやっていることで開かれた。ロックへの共感は、ロックに共感を持つ人への共感によって、開かれた。

 『音色に哭く』(愚樵空論)

おっと、話が少し逸れたようだ。

「悩んだまま踊るのがロケンロール」。なめぴょんさんから最初に教わったこのビート・タウンゼントのセリフに私は大いに共感するとともに、実はかすかな違和感を感じていた。その正体が今回、判明した。

今の時代、音楽雑誌が機能しているとは、あまり思えないというか。機能の仕方も変わってきている。昔は“クラスタ”って言葉もなかったし、メディアとして“熱い”ものだったと思うんだけど。うまく言葉にできないけど中央集権的という意味で。

(『それでもロックが好きなんです。』より孫引き。下線は愚樵)

そう。ビート・タウンゼントのセリフは、その内容は分権的。であるにも関わらず、タウンゼント自身は中央集権的なものを背景にして発言しているし、そのこと自体気がついていない。

現在、その中央集権的なもの、「ビッグ・ブラザー」的なものは「壊死」してしまった。

2008年。ニール・ヤングが自作のドキュメンタリー映画『CSNY Deja Vu』の記者会見でこう語った事が、ちょっとしたニュースになりました。

音楽で世界を変えることができた時代は過ぎ去った。今、この時代にそういう考えを持つのはあまりにも世間知らずだと思う。


「音楽で時代を変える」という幻想は、音楽が「ビッグ・ブラザー」として機能と夢見ていたということだ。

(ニール・ヤングは「世間知らず」と言ったらしいが、そのヤングは歴史を知らない。音楽がそもそも「ビッグ・ブラザー」として機能しえないのは、ナチス・ドイツとウィルヘルム・フルトヴェングラーとの闘争の歴史を知っている者にとっては自明のことだ。)

ロックに限らず、音楽はそもそも「リトル・ピープル」のものである。それが今ではビッグ・ブラザー的な衣装を纏っていた。フルトヴェングラーもタウンゼントもヤングも、それが衣装だったと気がつかなかっただけだ。なぜ気がつかなかったのか 。それはバイアス、言い換えれば「気分」だったからだ。現代は、この「気分」が「ガラパゴス化」したのである。

ここにおいて、ロックはロックになった。タウンゼントが示した「俺達の悩み」はリトル・ピープルの悩みであり、リトル・ピープル(≠大衆)はガラパゴスである。

今は誰もが個人として、社会に対して、いろんな責任を果たそうという意識が強くなってきたよね。誰もが24時間生活して、家族を支えること以外に、いい意味で、社会の一員としての責任を果たすべきだと思うようになったし、悪い意味ではどこか強迫観念的にそう感じるようになった。そこをちょっと批評的に捉えたい。僕自身、社会の一員として世の中で起っていることに意見しなければいけない、加担しなきゃいけないってオブセッションがすごく強い時期が10年くらい前にあって。でも、今はむしろ逆で、自分のドメインに徹したいという意識が強い。自分っていうのはポップミュージックが作り手から送り手に伝わっていく媒介として存在している。その小さなドメインに徹すること。それは結果的に社会のひとつのモデルとなって、直接的に社会の一員としてのいろんな活動を行わなくても、何かしらのヒントになりうるんじゃないかって考えてる。もしくは、社会の一員として考えているアイデアみたいなものも相似形として自分の活動の中に反映されるようなことをやるんだろうな。

これって「新しい公共」の概念ですよね。「公」と「私」の境界が曖昧になるというか、どちらも双方の要素を含んでおり絡み合っているというか有機的というか。


ドメインに徹することのなかで、「個を確立」する。リトル・ピープルは、垂直的に個を確立するのである。

4度目(笑)。

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。


「新しい公共」とは、なんのことはない、つい最近まで日本にあった地域共同体の相似形である。ただ、現代のそれは、「地縁に縛られない。「電縁」を通じて形成されていくのである。

山やまさんの記事には、「ハシズム」についても触れられているので、私も言及しておこう。

「橋下イズム」と「ティーパーティー」その同時代性 - ニューズウィーク日本版より

まず、橋下新市長が「どうして日の丸・君が代にこだわったのか?」

「日の丸・君が代」で攻めれば「敵はきっとイデオロギーから反発して感情的になる」だろうというのが彼等の「狙い」なのです。そうして「庶民の生活レベルの話や、大阪全域の経済再建」などの実務的な、具体的な政策論を説く代わりに、イデオロギー的な橋下批判に彼らが専念すれば「シメシメ」という作戦です。

 イデオロギー的にカッカすることで、「反独裁」とか「反ファッショ」などという絶叫しかできない場所に追い詰められ、それが正義だと我を忘れた「反橋下」陣営を見ていると、中間層は選挙戦の展開を見ながら、これでは自分たちの民生向上にも閉塞感打破にも「全く役に立たない」という風に見てしまったわけです。

こうなると完全に橋下氏の「思うツボ」です。一旦自分たちがモメンタムを獲得してしまえば、反対派が「反独裁」を叫ぶということは「漠然と橋下支持を固めた中間層」に対して「お前たちはバカだ」と見下しているということになり、「叫べば叫ぶほど票が逃げていく」無限の循環に陥るからです。


つまりだ。「ハシズム」とは「アンチ・アンチビッグ・ブラザー」なのである。ビッグ・ブラサーが(気分的には)「壊死」した現代において、「橋下徹」を「ファシズム=ビッグ・ブラザー」だと見なしそう叫ぶことは、かえってリトル・ピープルへと「解体」しつつある大衆の「アンチビッグ・ブラザー」気分を呼び出すことになってしまう。「ハシズム」はそこを見透かし、「気分」で票を獲得した。そういう話だ。

(この「手法」はもしかしたらかつての自民党的な方法なのかもしれない。つまり、共産党という「アンチビッグ・ブラザー」を利用して、票を獲得するという手法。自民党にとって共産党は、自身の「気分的」存在意義を浮かび上がらせる存在だったということだ。「ハシズム」は、それを拡大適用した。)

(アンチビッグ・ブラザーがかえってビッグ・ブラザーを呼び出してしまうという議論は、右掲書における萱野稔人氏の国家主権を巡る議論と同型である。)

だが、この「ハシズム」もいずれ見透かされるだろう。どうしようもなくビッグ・ブラザー幻想を囚われてしまった「古い世代」はいざ知らず、リトル・ピープルの自覚を持つ「若い世代」には通用しなくなるだろう。
(言うまでもないが、「古い」「若い」は年齢のことを指しているわけでない。)

これまで民主主義は、多数決と少数意見の尊重という相反する要請をアウフヘーベンするものだと捉えられてきた。つまり、少数意見をビッグ・ブラザーに繰り入れることが民主主義だと考えられきたわけだ。だが、リトル・ピープル時代の民主主義は必ずしもそうではない。少数意見は、「少数」としてではなく、独立した見解として独自(政府とは独立して)、政治を執り行っていく。その可能性を示唆したのが、東浩紀氏の最新書ではないかと私は捉えている。

もっとも、その可能性があるからといって「一般意志1.0」によって駆動されるナショナリズム的政治(1.0)の意義が消滅し、置き換わっていくということではない。たとえば原発問題などは、どうしても健全なナショナリズムを機能させなければ解決できない問題だ。ただ、民主主義=政治の概念がもっと拡張され、政治へのコミットメントの機会がずっと広くなるという話。

それは、ロックがロックとなった時代、それぞれの悩みはそれぞれに共感を得つつ解決するしていく、「リトル・ピープルの政治」であろう。

コメント

リトル・ピープルの時代における共感のカタチ

愚樵さんおはようございます。やっぱり一般意志2.0につながっていきますよね、同感です(まだ読んでないのではやく買わねば…)。
それと、自民党にとって共産党、という指摘にも頷きました。「ハシズム」という言葉の気味悪さって、共産党への微妙な違和感とまったくリンクします。

>ロックへの共感は、ロックに共感を持つ人への共感によって、開かれた。

こことてもおもしろいですね。この感覚こそが、リトル・ピープルの時代における標準というか。じぶんが理解できない他者への態度(ノルウェーのテロ後における同国首相の発言にはしびれました)。つまり多様性への寛容な態度こそが民主主義2.0の礎になるような気がしてて。ソーシャルメディアでわかったことは、自分とちがう人がこんなにたくさんいて、それぞれがそれぞれのタイムラインを生きていて、交わったり交わらなかったり、それでいいんじゃん、と。それがおもしろいんじゃん、って。

愚樵さんのコメント欄はいろんな人が交わる場になっていて、みんなちがうんだけどそれぞれが尊重し合ってる感じがとても素敵だなあと思います。だからぼくも臆せずに書き込めるようになりました。


蛇足ですが、実はぼくも哭きのギターみたいなのは苦手です。90年代のロック少年にとっては、グルーヴ感が肝だったりします。だからその後ぼくは打ち込み系の音楽にはまって行っちゃった。でもそれってRockっていうよりRollの部分で(RockとRollは、こないだの対話にあった縦軸と横軸と捉えてもいいかもしれません)。さいきんRockを聴きたい気分に回帰してきたのはブログを書くようになったことと関連しているのかも。
「悩んだまま躍らせる」…ぼくらの世代ではニルヴァーナを外しては語れないでしょうね。

キュレーションの時代

山やまさん、おはようございます。

はい。やっぱり一般意志2.0へと繋がっていきます。いくと思います。繋げていきたいと思います。

>ロックへの共感は、ロックに共感を持つ人への共感によって、開かれた。

この感覚こそが、リトル・ピープルの時代における標準というか

はい。佐々木俊尚氏のいう「キュレーション」でしょうね。

つまり多様性への寛容な態度こそが民主主義2.0の礎になるような気がしてて。ソーシャルメディアでわかったことは、自分とちがう人がこんなにたくさんいて、

多様性許容の軸は「人そのもの」になるだろうと思うんです。これまでの多様性受容はコンテンツの多様性が想定されていた。ひとり一人がどれだけ多様なコンテンツ(理念とか主義主張とか)を許容できるか、そんな方向性だったと思います。

が、ソーシャルメディアの時代では、多様な人がまず先。コンテンツの多様性はそのあとから必然的に付いてくる。

交わったり交わらなかったり、それでいいんじゃん、と。

そう。それでいい。交わらないのも「多様な交わり方」のひとつです。
重要なことは、交わらないことも選択肢のひとつになったということですね。多様な人が発信する情報の流れが可視化されることで、交わらない選択肢もまた浮上した。これ、ある種の共同体なんです。

比較のために他の例を持ち出しますと、全校生徒1000人の学校。同じ征服を来ていれば同じ学校の生徒だとわかる。それが1000人いるともわかる。この1000人の塊は「想像の共同体」ですが、それがネット空間の中に出現したということです。それも多様な形で。

これまでの現実世界に縛られた共同体の在り方だと、1000人の生徒にとっての共同体は1種類でしかなかった。ところがソーシャルメディア上では、1000種類の「想像の共同体」が存在することになる。この変化は非常に大きなもののはずです。

愚樵さんのコメント欄は

ははは。これはごく最近の現象です。山やまさんと対話をするようになったのと、同時期です。

その前までは、コメント欄はちらほら。ずっと以前は賑わっていた時期もありましたが、荒れてしましたね(苦笑)。

>90年代のロック少年にとっては、

う~ん、私は「ロック少年」ではありませんでしたので、その当たりはよくわからないんです。今はロック「も」聴くようになりましたが、やはり青春時代(?)に浸り込んだものへの思い入れは強くて...、そのなかに残念ながらロックははいらないんです。

さいきんRockを聴きたい気分に回帰してきたのはブログを書くようになったことと関連しているのかも。

それは大いにある話だと思います。

「悩んだまま躍らせる」…ぼくらの世代ではニルヴァーナを外しては語れないでしょうね。

ニルヴァーナは少しだけども、聴いています。好きです。でも「外して語れない」かどうかはわかりません。ここは是非とも、山やまさんのブログで語っていただきたいものです。

雑談

交わらないのもある種の共同体っていう考え方はおもしろいですね。選択肢が増えるっていうのはいいことだと思うし、そのぶんリトル・ピープルの自由と責任が問われるっていう意味で、そういう意味での自己責任なら歓迎です。

>ははは。これはごく最近の現象です。山やまさんと対話をするようになったのと、同時期です。

めっちゃ最近じゃないですか(笑)でもなんか、ぼくがふだん交わらないような方々がいらっしゃるので緊張しつつもたのしいです。別のコメント欄で仰っていた「雑談」っていうニュアンスがいいですね。

あとニルヴァーナはロック史的には外せないですが、ほんとうのところぼくは好きだけどそんなに熱心に聴いていたわけではなくて、むしろ彼が自殺の直前に聴いていたというR.E.M.のアルバムのほうが大好きだったりします。

Re: 雑談

・山やまさん

交わらないのもある種の共同体っていう考え方

共同体といっても、極端にいうと2種類あるんです。1.の極は家族ですね。顔見知りどころか、生活を共にして、メンバーのことを知悉している(もっとも最近は知悉の度合いはぐっと低くなりましたが)。もうひとつの極は国民です。国家という虚構の元で暮らしているという、「想像」によって支えられた共同体。例に出した1000人の学校は、中間形態ですね。

「交わらない選択」というのは、家族で考えてみればよくわかるんじゃないですか。子どもが幼い頃はなるべく多く交わった方がよいでしょうが、長じてくればあえて交わらないのも選択のうちに入ってきますよね。でも、国民のような共同体だと、共同体といっても交わりようのないメンバーばかり。知らないから交われない。

ソーシャルメディアで出現しつつある共同体とは、家族のように互いを知悉しているわけではない。かといって知らないわけでもない。メンバーが発信した情報においてしか知るしか出来ないし、交わることも出来ない。限定されているが、それでも知ってはいるんですね。ここに交わる/交わらないの選択の可能性が出てくる。

あとはこの可能性がどのような未来を切り拓いていくかです。そこを想像するのは大変に面白いですよね。

別のコメント欄で仰っていた「雑談」っていうニュアンスがいいですね。

いいでしょう(^o^) こういった内容のブログですから、コメントはどうしても固いものが多くなるんです。それは仕方がない。でも、だからこそ「雑談」でいきたいというのもあるんです。雑談はアイスブレイクがないとなかなかできないわけですからね。アイスブレイクの先、「アニミズム的霊性」が立ち現れれば――これは私の夢なんです。

R.E.M.のアルバムのほうが大好きだったりします。

R.E.M.! マイケル・スタイプがこれまたカッコイイんだ。

ロックはごっつい産業でもあった

お久しぶりです。
大昔からの繰り言をとりあげていただいてありがたいやら恥ずかしいやら。

>タウンゼント自身は中央集権的なものを背景にして発言しているし、そのこと自体気がついていない
タウンゼントは自覚的だったと思ってます。つうか本気で「ロックンロールにより双方向かつ大規模のコミュニケーション」を信じていた節もあります。ただしその信念は「ライフハウス」というプロジェクトの失敗に終わったのですが。

気分であったこと、それは確かです。
なぜそんな気分になったかっていうと、ロックンロールが最高に売れた音楽であったからです。
初期衝動をあまねくすべての人に届けたい。エルヴィスが開いた道は、ビートルズやストーンズやディラン(このおっさんはちょっと種類が違うのだけど)たちによって、ある程度叶ってしまったんです。良くも悪くも、ラジオTVが届ける資本主義の発展という時代に奇跡的にシンクロしたのですね。
そしてロックンロールは母なるブルースのように、一人っきりで凛と立つことには耐えられないさびしがり屋の甘ちゃんの音楽だったのです。ミュージシャンも、聴いてる我々ボンクラも。

でもそういう時代は終わりました。ロックンロールの役割のひとつは終わって、自分に切実に必要なことを淡々と、ホールドアウトしていく音楽になりました。相変わらずカネの匂いは燻ってますが、それはポップというすけべえなジャンルの宿命です。
で、「降りてみてみると」、楽しいんですわ。CDもめっきり売れなくなって、ミュージシャンの活動領域はレコードよえいライブに移ってきている。必要なことを楽しんで演じる人から、必要なことを受け取る人々への、クローズドな場でのコミュニケーション。

客席から呼ばれた竹中直人がチャボ・公平と踊る昨日の麗蘭ライブは歓びに満ちたものでした。

ダラダラと書きましたが、愚樵さん、REMお好きですか!!
今年とうとう解散しちゃいましたが、毛玉まみれのホーレン草色のセーターで日本の音楽誌のインタビューに現れたインディーズ出身のこのバンドが辿った歴史は、上に書いたロックの変わり方を体現していたと思います。

なめぴょん師匠

師匠、ご足労痛み入りやすですm(_ _)m

この分野に関しては私はなめぴょんさんを師匠と仰いでいますので、ご説に余計な言葉を付け加えることは致しません。

いや~、思い越せば、R.E.M.ですよ。Green Dayの『American Idiot』に撃たれた後、その熱が冷めやらぬうちに教わったのが『Accelerate』でした。その頃は貧乏で(今もですが)、このCDを買うのは大いに逡巡したんですよね。でも買って良かった。このアルバムから感じたものをすぐには言葉に出来なくてずっといままで放置状態なんですけど、放置したためにかえって膨らんでしまったかもしれない。

インディーズ出身のこのバンドが辿った歴史

ロックが集権的な産業としての役割を終え、リトル・ピープルのものとなるトドメの一撃を刺した――と勝手に意味づけております。

必要なことを楽しんで演じる人から、必要なことを受け取る人々への、クローズドな場でのコミュニケーション。

ここで仰る「クローズド」は決して「排他的」という意味ではありませんよね。開かれたクローズド。ロックはオープンなものからクローズドでもなお開かれたものへと「進化」したのではないでしょうか。

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それでもロックが好きなんです。

ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。 by ピート・タウンゼント 至言ですね。「悩んだまま踊らせる」?なんなんですかそれは。でもそれがロックンロールだよなあ。少なくとも、ぼくが心...

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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