愚慫空論

『天辺の糸』

誰かのために。

この「誰か」は、もちろん 特定の「誰か」。特定される理由が、その人だからという以外に見つからないような「誰か」だ。

中途半端なアニオタの愚樵が(笑)、連想してしまった「誰かのために」を描いた話。今回はその紹介&ちょっとした解説をしてみたい。

漆原友紀原作の『蟲師』。その第19話、『天変の糸』。

ストーリーの粗筋は...、他所様の記事を読んでいただくくことにしよう。

 『蟲師 19話』 (JUNK KOLLEKTER)

真性アニオタ(?)の方々がこうして詳細な記事をあげて下さっているので、こういったときには本当に助かる。

(なお、ネット上に動画そのものもなくはないようだ。時間と興味のある方は(自己責任で)探してみて下さい。)

ストーリーのクライマックスは、いなくなった(見えなくなった)吹を思いならが、清志朗が夜空を見上げているシーン。ギンコに「誰よりあんたが、今の吹を受け入れられずにいるんだな」と鋭く指摘されるが、しかし、清志朗にしてみればふたりの結婚を認めてもらうために懸命に努力をしていたつもり。にもかかわらず、とうとう吹は見えなくなってしまった。途方に暮れながら夜空を見上げる清志朗は、かつての吹との会話を回想する。

 吹 「だから、明るくなってくるとなんだか寂しくなる。
    だんだん数が減っていって、気がつくとひとつもいなくなっている。
    みんな、昼間はどこへいってしまうんだろか。」
 清志朗 「バカだな、吹。
    昼間だって星は、ホントは空にあんだぞ。」
 吹 「ホントに?」
 清志朗 「本当だよ。
    陽の光が強いからみえなくなるだけで、本当はちゃんと空の上にあるんだ。」
 吹 「どこにもいかないんだ。
    見えなくても、ずっと空にいるんだ...!」

清志朗は、「誰かのために」はどうしたらよいか、気がつく。

ここで、『「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ』で交わしたアキラさんとの対話を。

「手入れ」というのは、自覚的(意識的)なものであるにもかかわらず、どこか謙虚さを身にまとってる気がします

ここで〈霊〉の考えを導入してみますとね。

手を出す対象を認識するとインターフェースの中に〈霊〉が生成されます。対象に手を出すと相手は変化しますが、その変化は〈霊〉という「像」をより精密なものにしていきます。で、〈霊〉が精緻になればなるほど、手出しもまた微妙なものになってゆく。謙虚なのは〈霊〉に従うからでしょう。

逆に傲慢になるのは、〈霊〉を【自我】に従わせようとするときですね。インターフェースの中に生成された〈霊〉を【自我】が勝手に改変してしまう。この「改変」に従って手を出してしまうと、相手からのフィードバックを受け付けなくなります。


清志朗ははじめ、己の【自我】に従い、吹に「手出し」をして「改変」しようとしていた。清志朗が吹を嫁にと欲し、吹はその申し出を悦んで受け入れたけれども、「吹を嫁にする」というのはあくまで清志朗の【自我】でしかなかったわけだ。清志朗はそのために吹からのフィードバックを受け入れられなくなっていた。ギンコが指摘したのは、まさにそのこと。

『天辺の糸』の話は、すんでのところで清志朗が吹の〈霊〉に従うことに気がつき、ハッピーエンドとなる。

まあ、それにしても。あくまで一般論だし、アニメの作り話を引き合いにするのもおかしなことだが、男は本当にどうしようもない。清志朗の振る舞いは、典型的に「男性的」と言っていいだろう。

本当に、男はバカだ。

コメント

本当に

男はどうしようもないですね。
同感。 (^o^)

違った意味で、女のどうしようもない狂気みたいなこともありますけど、男のどうしようもなさは、まさに【 】のつくいろいろな類いのものですね。

アキラさん→『北の国から』という連鎖回路

・アキラさん

違った意味での、女のどうしようもない狂気。それは、男が〈霊〉を支配しようとするのに対して、女性は容易に〈霊〉に支配されてしまうところにあるのでしょう。その従順は、主体性のある謙虚とは異なりますね。

女の狂気で思い起こしたのが、『北の国から』、純と蛍の母親の令子です。これも作り話ですが、令子は男のメンツのようなものに命を奪われてしまいましたよね。令子の新たな恋人の上司が紹介した病院の、医療過誤でした。それとわかりながら、そこに殉じてしまう。

この蟲師の話の吹にも、やはり同じような側面があるようです。男に命じられるまま、その命令が自分の状態を悪くしていくことに気がついていても、逆らえない。男の命令でなくても、女性はなにか〈霊〉的なモノに主体を奪われてしまう傾向があるようです。

女性的国家日本は、もしかしたらそんな「傾向」から抜け出せないでいるのかもしれません。

おなじく中途半端なアニヲタ

愚樵さん、こんにちは。

愚樵さんは、ほんとう色んなアニメを観られていますね。私はいま、機動戦記ガンダムUC(ガンダムの最新作です)に夢中です。

テレビにアンテナを繋がなくなって久しいのですが、以前は特に深夜に放映されているアニメは片っ端から観ていたほどのアニメは好きです。

さて、蟲師は好きなアニメのひとつで、思わずコメント。

原作の漫画の方も好きなのですが、アニメはアニメで原作の持っている雰囲気、独特な質感、例えば[静寂(しじま)]、あるいは[間(マ)]というようなものを、とてもうまく表現していて、好きだなぁと思った記憶があります。

何もないだろうところに[何か]、漠然と[間(マ)]の存在を感じるのも、そこに愚樵さんが言うところの<霊>が生じているからなのかな、なんてことを思いました。


ところで、[イノチ]と[タマシヰ]の違いなどについては、いまモヤモヤと考えていますので、気長にお待ちください(笑)

忘れた頃になるかも知れませんが、コメントさせていただきたいと思っています。

『蟲師』はいちばん好きかも

しわ、こんにちは。

しわさんがガンダムですか(笑) ちょっと意外な気もしますが、そうでもないような気もします。
>

>原作の漫画の方も好きなのですが、アニメはアニメで原作の持っている雰囲気、独特な質感、例えば[静寂(しじま)]、あるいは[間(マ)]というようなものを、とてもうまく表現していて、好きだなぁと思った記憶があります。

「しじま」「ま」ですか。その表現はいいですね。『蟲師』の雰囲気をよく表していると思います。この作品は宮崎アニメのなかの、トトロ―もののけの系譜を、ぎゅっと濃縮したような感じだと思っているんですね。そう、あのコダマが『蟲』。コダマのヴァリエーションとでも言えばいいのかな。

この『天辺の糸』はハッピーエンドですが、実はハッピーエンドは少ない。物悲しい余韻を残す話が多いところも惹かれます。

何もないだろうところに[何か]、漠然と[間(マ)]の存在を感じるのも

そうなんですよね。万物に〈霊〉が宿り、〈霊〉に満ちた世界が表現されているようにも感じます

ところで、[イノチ]と[タマシヰ]の違いなどについては、いまモヤモヤと考えていますので、気長にお待ちください(笑)

それは楽しみです。しわさんのヲシテ的解釈は聞いてみたいものです。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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