愚慫空論

コミュニケーションにおける水平型/垂直型

山やまさんとの対話。

個の確立における水平型/垂直型というような話を山やまさんのコメント欄に投稿したのだが。

 『ヘンリー・ダーガーの孤独(なぜ作品をつくるのか)』(yamachanblog)

山やまさんがこの記事でヘンリー・ダーガーという孤高の作家(と言えるのかどうかもわからない。本人は作品を発表する意志はなかったみたいだから)を紹介されていたのだが、そのダーガーに対して私は垂直型の個を確立した人だろうといった内容のコメントをした。

共同体の基礎理論 個の確立における垂直型/水平型の元ネタはこちら。3度目の引用。

 伊藤整によると、欧米人は個が確立しているが日本人はそれが弱く集団主義だというのは誤りで、個の確立のされ方が違うのである。欧米の個の確立は、人間である他者に対して自己を示すかたちの個の確立になっている。簡単に述べてしまえば、私はあなたとは違うのです、というふうに自己を際立たせるのが個の確立なのである。ところが日本の個の確立は違う。日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。自分の奥にある自分をみつめながら、自分ならではのものを確立しようとするのである。この精神の習慣が、自我をテーマに小説を書こうとしたとき、私小説という形式に作家たちを向かわせることになった。
 簡単に述べれば、伊藤整の提起はこのようなものである。かつての日本では、日本人は個の確立が弱く、それが近代化を阻害しているといわれたものだった。私もそういわれて育った世代である。だが疑問も残っていた。というのは日本の古典文学、たとえば『源氏物語』でも『枕草子』でも何でもよいのだが、を読んでみると、そこでは個の世界が展開している。『日本霊異記』には、山に入って修行をする「個」がいくらでもでてくる。『枕草子』などは、うんざりするくらいに自我の世界が書き込まれている。それに日記という形式はヨーロッパでは18世紀から発生してくるが、日本では『土佐日記』の時代から一般的なものである。日記は自分が自己をみつめるから書ける形式で、ヨーロッパでは近代的個人の形成とともに発生してくるのだが、日本では古代からありふれた形式なのである。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。そんな疑問が私にはあった。
 その後上野村で暮らすようになり、日本の伝統的な民衆精神について考えるようになると、そこからみえてきたものは、まさに伊藤整が語ったような精神の世界であった。欧米的な個の確立を私は水平的な個の確立と呼んでいる。水平的な人間関係のなかで、個が確立されるということである。それに対して日本の個の確立は垂直的である。自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。


そういったところから、山やまさんの次なる記事は、話の焦点が垂直型/水平型「個の確立」から「コミュニケーション」へと移ったようだ。

 『誰かのために。キース・ジャレットの旋律。』(yamachanblog)

ぼくは若い頃は「垂直型」こそが芸術であって、両者のバランスを取ったものはつまらないと思っていました。いまでも「垂直型」の作品は好きなんですが、年をとるにしたがって両者のバランスが大事だと感じるようになりました。垂直型の個を確立していくことと水平型の個を確立していくことは矛盾しないというか、垂直型の個を確立していく過程で水平的な人間(他者)とつながることはすごくいいことで、それによって新たな視点が開けたりしてまた垂直方向に自分を見つめることができるようになったり。それがまた垂直型の個の確立にも還元していくんじゃないかと。循環しているような。
たぶんその垂直軸と水平軸のバランス配分で、「気持ちいい」と感じるポイントが人によって違うんだろうなと。同じ人物でも経験や月日を通してそのポイントが移り変わっていくんだろうなと。


ここで言われている「個の確立」は「コミュニケーション」に置き換えるとスッキリする。

水平的コミュニケーションと垂直的コミュニケーションは矛盾しない。それどころか、水平的コミュニケーションは垂直的コミュニケーションを育むもの。山やまさんはその例として子育てを挙げておられますが、その通りだろうと思う。

私は残念ながら子どもはおらず、従って子育てはできないので、別の例を出すことにする。

 『アイスブレイク』(愚樵空論)

「アイスブレイク」とは心の氷を砕くこと。つまり水平的コミュニケーションを円滑に行なうことができるようにすること。私がアイスブレイクを体験したのは、森との交感を体験してみようという講座においてだった。「森との交感」はいうなれば垂直的コミュニケーション。垂直的なコニュニケ-ションが為されるようになる条件は、十全な水平的コミュニケーションが為されていること。なぜそうなるのはかはわからない。人とはそのような生き物だというしかないだろう。アイスブレイクは、そうした人の性質を経験的に識っているインタープリターたちによって編み出されていった「技法」である。

もう少し言葉を継いでみよう。アイスブレイクは大人を子どもへと還すのである。独りで還るのはなかなか難しい。だから集団で還る。周りの人に心を解き放つことができるようになると、人は子どもへ還る。すると「センス・オブ・ワンダー」が発動する。繰り返し言うが、人間とはそのような生き物である。

ただし、ここでの水平的コミュニケーションはハラスメントを孕んだものであってはならない。創発的コミュニケーションである必要がある。

ところで。

私は人間の垂直的コニュニケ-ション能力を「霊性」と呼称したいと考えているわけだが、そうすると、垂直的コミュニケーションを発動させる水平的コミュニケーション能力をなんと呼べばよいのだろうか。思い浮かぶのは「アニミズム的霊性」だ。

ということは、「シャーマニズム的霊性」というのも存在することになる。一般的に「inspiration」と言われるものは、こちらだろう。何かの折りに“降りてくる”。あるいは“湧いてくる”。山やまさんが取り上げておられるキース・ジャレットがそうだ。

明日のコミュニケーション ところでところで。

私がソーシャルメディアが活性化させると期待しているのは、このアニミズム的霊性である。創発的コニュニケ-ションには「共感」が欠かせない。そして、ソーシャルメディアにおいては、共感は共通通貨である、という(右掲書によると)。「関与する生活者」による共感。その共感は、古代の人類が日々の営みのなかで育んだアニミズム的霊性に近いような気がする。

そんなふうに想像を巡らせていると、本当に面白い。人類はここまで来た。いや、還ってきたというべきか。「一般意志2.0」もアニミズム的霊性で読み解けるような気がするが、それは今後の課題。いずれにせよ、もう一段と「還る」には、「貨幣2.0」が必要だと思う。これは私の根拠のない直観だが。

コメント

>日本では自己を極めることが個の確立であった。だから自己を確立しようとすると、人間としての他者はむしろどうでもよいものになり、ひたすら自分の内面を掘り下げていこうとする。

わざ(技、業、藝)という言葉で代弁されると思います。材料や道具、ひいては泥や苔と対話をしてきた日本人の生き方そのもの。日本の外にもこういう感性を持ち合わせた人たちがたくさんいるでしょうが、国民的にこれをやってきたのが日本人なのではないでしょうか。

そこから「個」を考えると、創発的コミュニケーションとは為された「わざ」を通しての霊の邂逅、と勝手に解釈してしまうのですが、こんな日常があった日本はなんと美しく崇高な世界だったのでしょう。

ヘンリー・ダーガー

ヘンリー・ダーガーは好きで絵も見たことがあり(回顧展は行けませんでしたが)、画集も持ってます。
ドキュメンタリー映画も観に行きました。

自分だけのための神話を創り出そうとした人ですね。

こういうタイプの人は「アール・ブリュット」と呼ばれる絵描きに散見されます。アドルフ・ヴェルフリとかアロイーズ・コルバスとか。
彼(女)らは精神病院に収容されることもあり、治療の一環として絵を描かせると独創的な作品を作ります。そして薬物投与等により症状が緩和されると絵からその特性が失われていくようです。

ダーガーは毎晩自室で、一人二役で対話する形の独り言を喋っていた(他者の口真似を相手に話していたので、大家は来客があるのかと思っていた)そうですから、他者との対話を放棄したわけではなかったんでしょうね。
ただ、彼のコミュニケーションの作法に適応できる人間がいなかった。

会話という形式でダーガーと交流できる人が稀であっただけで、彼の精神世界そのものが世界から孤立していたわけではないと思います。
実際、死後回顧展が日本でも開かれ、映画にもなり、こうして私は画集を持っている。
普遍性があるからでしょう。様々な国の人たちが彼の遺産に触れている。

余談ですが、Natalie Merchantという知る人ぞ知るミュージシャンが“Henry Darger”という歌を歌っています。
よい曲ですよ。
http://www.youtube.com/watch?v=kVsvTJuMmQQ

愚樵さん、拙いブログを取り上げていただき、またさらにそこから言葉を紡いでくださりありがとうございます。「シャーマニズム的霊性」「アニミズム的霊性」「センス・オブ・ワンダー」また興味深いキーワードが出てきました。まだよく理解できていません(思考が追いつかない)が、感覚的になんだかわくわくするお話でした。

キース・ジャレットは「シャーマニズム的霊性」でメロディが天から降りてくるという素養がありながら、あのアルバムではたったひとりのために音を慈しんでいて。そこに「アニミズム的霊性」が宿ったのか、あるいはもともと彼が持っている「シャーマニズム的霊性」が散見したのか。いずれにしても両者は縦糸と横糸のように有機的に絡み合っているのだとの思いを強くしました。アイスブレイクの話しも興味深かったです。

〈術〉

・あやみさん、おはようございます。

わざ(技、業、藝)という言葉で代弁されると思います。

私は同じことを〈術〉と表現しました。
『〈学〉と〈術〉』http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-484.html

創発的コミュニケーションとは為された「わざ」を通しての霊の邂逅、と勝手に解釈してしまう

いえ、その解釈でいいと思います。というより、そうした解釈が成り立つように逆算して想定したのが〈霊〉という概念なわけです。

創発的コミュニケーション、魂、インターフェース。これら〈霊〉を支える概念は、すべて安富歩東大教授のものを借用しています。

こんな日常があった日本はなんと美しく崇高な世界だった

ごめんなさい。私にとっては「崇高」はキライな言葉でして(苦笑) かつて左翼を自認していた頃、日本国憲法9条の規定をよく「崇高」ともてはやしていました。私はいまでも9条堅持派ですが、もはや「崇高」とはおもっていません。「当たり前」だと思っています。かつての日本の生活も「当たり前」だった。少なくともそうした日常に暮らしていた者たちにとっては。

嘘か本当かはわかりませんが、そうした「当たり前」の暮らしをしていた日本人を、ムスリムが「これこそ真のイスラームの生活だ」と絶賛したことがあると聞いたことがあります。絶対の神の存在する世界、絶対の神は存在しない世界、どちらも追い求めていけば、行き着く先は同じなのかもしれません。

趣味が違うなぁ

・黒い時計の旅さん

いつも思うのですが、黒い時計の旅さんと私とは、ほんとに趣味が違いますよね。それだけに、黒い時計の旅さんのコメントにはちょっと緊張してしまいます。もちろん、心地よい緊張です(^o^)

こういうタイプの人は「アール・ブリュット」と呼ばれる絵描きに散見されます。

「アール・ブリュット」は初耳です。が、なんらかのカテゴライズがされていても不思議ではありませんね。

ただ、彼のコミュニケーションの作法に適応できる人間がいなかった。

ほう。なんだか、子どもの〈対話〉ですね。

思うのですが、ヘンリー・ダーガーたちの対話というのは、ラカンの分類でいうと「想像界」の対話である、と。言語を使った対話、それも抽象概念を用いる対話は「象徴界」ということになるのでしょうが、アール・ブリュットな人たちは、そうした「象徴界」的な能力には器質的に欠けているのかもしれませんね。替わりに「想像界」的能力が発達した。

さらに連想するのは、上のあやみさんへの応答で提示した〈術〉のエントリー、そのなかで引用した「きつねに騙された日本人」です。これも、コミュニケーションが成り立っていたとするなら、どう考えても「想像界」的コミュニケーションでしょう。そして、そうした日本人の「個の確立」の在り方は垂直的。ダーガーとつながってゆくと思います。

彼の精神世界そのものが世界から孤立していたわけではない

もちろんです。私はむしろ精神世界は「想像界」にあると考えます。もっとも、これは日本的かもしれません。一般の欧米人は「象徴界」にあると感じているでしょう。

〈子ども〉であるということ

・山やまさん

感覚的になんだかわくわくするお話でした

ははは、そう言っていただけて、何よりです。私の話は論理ではなく「跳理」ですので、感覚的に捉えていただくのがよろしいかと思います(笑)

いずれにしても両者は縦糸と横糸のように有機的に絡み合っているのだとの思いを強くしました。

はい。改めて考えてみれば、どちらも同じ人間の精神作用です。アミニズム的傾向が強い者、シャーマニズムの素養に恵まれた者、個体差はあるでしょうけれども、同じ人間。シャーマニズム人間とアニミズム人間が別個に存在しているわけではない。絡み合っているのが自然な姿のはず。

アイスブレイクについては、山やまさんはおそらく普段の生活のなかで、つまりは子育てにおいて、無意識的に実践し、また逆に実践されているんだと想像します。が、それを意識的に技法として捉えてみると、いろいろと参考になるかと思います。もし機会があれば、そうした講座を受講してみられるとよいかも、です。「ファシリテーション」というような名前でやられていることが多いようです。

ラカンを読んだことがないので愚樵さんが用いている術語に相乗りしてしまうのは気が引けるのですが少々。

「想像界的」コミュニケーションというのは、人間が犬や猫とコミュニケーションする際の作法のようなものと捉えてもいいんでしょうかね。犬猫や鳥などとコミュニケーションする際、大概は抽象概念を用いてコミュニケーションしているわけではないですから。

また話が逸れてすみません。
昔マリア・ドーキンスの『動物達の心の世界』という本を読んだ際、西洋の科学では動物の心の有無が議論の対象となっているという事実が随分奇異に感じられました。現状、動物に心があるとは科学的に立証できていないので、「心は無い」という仮説が優勢になっているようですが、こういう発想が自分には全く無いというか昆虫にも心があるのが当たり前という感覚が染み付いています。
しかも人間との間にある種の交感があるとすら感じているので、こうした発想のズレそのものが「想像界」「象徴界」の差異であるとするなら納得が行きます。

そこでまた思い出すのがヘルツォークの『キンスキー 我が最愛の敵』という映画のラストシーンで、本作はクラウス・キンスキーに焦点を当てたドキュメンタリー映画なんですけれども、ラストシーンでキンスキーが蝶と戯れるんです。
一匹の蝶がキンスキーに犬みたいに纏わり付いて飛び回り、キンスキーがいかにも愉しげにその相手をするんです。
これは極端な例ですが、蝶や蜂が掌を伸ばすと寄って来たり周りを飛び回ってこちらに関心を示したりするのはそう珍しくはないですよね。いや珍しいのか? 他の人はどうなんだろう。

話を戻しますが、現代人のコミュニケーションというものが「象徴界的」コミュニケーションに特化しすぎていて、それが世界との交感を限定的なものにしているのではないかなという気もします(術語の使い方が間違っているかも)。
ダーガーみたいな人が「弾かれて」しまうのも、そういう状況と相関関係があるように思います。
ダーガーは人間を描き人間の物語を作っていたので、人間に興味がある人だったはずです。
でも人間の社会から弾かれてしまった。それはコミュニケーションのありように問題があるからで、私はそれがダーガーの側だけの問題とは思えないんですね。

彼の作品は死後多くの人に受容されたけれども、それを生み出した彼自身の人格は疎外されたまま終わってしまった。
私にはそれが貧しいことのように思われます。

似て非なるもの。

ダーガーと同じ、「アール・ブリュット」の画家としてマルク・ラミーという人が知られています。
画風に関しては個人的にはラミーの方が好みなんですが、それはさておき、この人は不眠と幻聴を患い精神病院で絵を描いていました。
こんな絵を描いています。
http://www.quebecweb.com/edlingallery/Gallery/Lamy/index.htm

上記のサイト(英文)にも書かれているように、ラミーは描く行為に催眠的な効力を感じていたそうです。また(資料本を探すのが大儀なのでうろ覚えで記しますが)、描くことを一種の「行」もしくは「務め」のように捉えていたようです。

私は現代美術が好きでちょこちょこその手の展覧会に足を運びます。
現代美術の主流は<学>と言っていいと思います。概念を視覚化する営為となっている。それも、他者が手をつけていない領域に着目し提示することが重視される。これはアメリカ現代美術が美術界の主潮となって以降ほぼ一貫しています。「新発見」に価値がある。

ラミーはそういった主潮とは全く別の文脈から出現してきました。「アール・ブリュット」という概念をデュビュッフェが提示しなければ浮上することはなかったかも知れないという点において、こういった作家も現代美術の枠内で解釈され適当なポジションを与えられていると言えなくもない。

言えなくもないんですけれども、そう言ってしまうことに抵抗がある。
何故でしょうかね。愚樵さんのいう<術>の感触を自分が求めているからかもしれません。

ダーガーもラミーも、自分の中の断片化した世界を回復するために、世界を取り戻すために絵を描いているように見える。「切実なもの」を感じる。
その切実さが<学>を越えたところに私を運んでくれるように感じます。
現代美術の<学>というのは、どこか表現のための素材探しをしているように見えてしまうんですよ。面白いし好きですけどね。

最後に、タイトルの「似て非なるもの」とはダーガーとラミーの差異です。
ラミーの絵は、ダーガーと同じカテゴリーに組み込まれているけれども、ダーガーよりもずっと「人間」から切り離され隔たっている。
鉱物的なディティールを持っている。まあそこが気に入っているというか、つまるところそれだけの話なんですけどね。

想像界で想像がふくらんだ? (^o^)

・黒い時計の旅さん

>西洋の科学では動物の心の有無が議論の対象となっているという事実が随分奇異に感じられました。

同感です。そしてその議論を自身の感性に問うことなく、そのまま受け入れてしまう日本的知識人にも奇異を感じています。

私たちにとって「心」というのは、どうしても「想像界的」です。

蝶や蜂が掌を伸ばすと寄って来たり周りを飛び回ってこちらに関心を示したりするのはそう珍しくはないですよね。

ほう。黒い時計の旅さんは虫にまで個別的に「感じる」わけですか。それは珍しいかも。でも、「あり得なくはない」という感はありますよね。植物ににすら、そうした「感じ」を抱く人もたしかにいます。

東方地方の猟師、マタギと言われている人たちは、動物と戯れるわけではないが(猟師ですので)、人間と同じように捉えて、騙したりする技法を身につけると言われますね。アメリカン・ネイティブの人たちも、同様の技法を持っているらしい。そうした技法が動物にも「心」があると前提するかどうかは「心」の定義で異なってきますが、でも、定義がどうのという議論そのものが象徴界ですから、どうしても私たちの感性とは相容れないところはありますよね。

話を戻しますが、現代人のコミュニケーションというものが「象徴界的」コミュニケーションに特化しすぎていて

まったく同感です。問題はコミュニケーションの在り様の方にもある。むしろそちらの方が大きいと感じます。

私も正直なところ、ラカンのことはあまりよくわかっていません。ですから「象徴界」「想像界」という術語が正しくラカン的なのかどうかはわかりません。まあ、でも、それで良いと思ってます。少なくともココ(黒い時計の旅さんとの〈対話〉)には齟齬はありませんから。でも、このいい加減さは東電と通じるものがなくもない(苦笑)

いずれにせよ、私は、よくはわからないけれども、直観的でしかないけれども、ラカンは間違えていると思っています。というか、偏っている。。精神分析そのものを精神分析してみる必要があると感じています。その地点から、ダーガーやラミーへの「アール・ブリュット」なるカテゴライズも、捉え直して見るべきかなと思うのです。

ダーガーと同じ、「アール・ブリュット」の画家としてマルク・ラミーという人が知られています。

このフォルムは凄いですね。ティンガティンガを連想しました。
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC&hl=ja&client=firefox-a&hs=tTR&rls=org.mozilla:ja:official&prmd=imvns&source=lnms&tbm=isch&ei=6pnSTr2rJY_LmAWVtYnEDQ&sa=X&oi=mode_link&ct=mode&cd=2&ved=0CCcQ_AUoAQ&biw=1272&bih=739

描くことを一種の「行」もしくは「務め」のように捉えていたようです。

日本的に表現すると「道」ですね。華道、茶道、武道、野球道(笑)

「アール・ブリュット」という概念をデュビュッフェが提示しなければ浮上することはなかったかも知れないという点において

なかったかもしれない。鋭いですね。「カテゴライズ」が上位。まさに象徴界的です。

現代美術の<学>というのは、どこか表現のための素材探しをしているように見えてしまうんですよ。

そうなんでしょうね。私は美術にはまったく疎いのでよくわかりませんが、西洋音楽もまったく同じ傾向を示していると思います。現代音楽、12音セリーといった技法で組み立てられた音楽は、感覚的な美しさが剥ぎ取られてしまっていて、聴いていてぜんぜん楽しくない。とても好きにはなれません。

ラミーの絵は、ダーガーと同じカテゴリーに組み込まれているけれども、ダーガーよりもずっと「人間」から切り離され隔たっている。

ふ~ん、そうかなぁ? 私には「人間的」に感じられますけど。もしかしたら、このあたりの感覚はロボットアニメを見過ぎかもしれない。そうそう、『まどか☆マギカ』にでてくるシュールな魔女もアール・ブリュット的なんですよね。

たとえば、こんなのとか。
http://blog-imgs-43.fc2.com/e/b/o/ebonywind/20110311140336a56.jpg

黒い時計の旅さんはじめまして。
ラミーという人の絵をはじめて見ましてが、これまたすごいですね。ぼくは曼陀羅を連想しました。(そもそも曼陀羅が何なのかよくわかっていませんが…)

ありがとうございます。

>山やまさん

私が美しいと感じるものに対し、賞賛(というか驚嘆?)の気持ちを表してくださり、ありがとうございます。
自分が愛しているものを肯定してもらえるということは、純粋にうれしいものです。
曼荼羅は「宇宙」を2次元で表したものなんですが、微細なモチーフの連続が集まり拡張していくところは、ラミーの絵と通じるところがありますね。
というか、「アール・ブリュット」と呼ばれる画家にはこうした同一のパターンが連続的に大きく拡張する絵を書く人が何故か多いんですよ。あと、モチーフが唐草文様的に入り組んで広がっていくタイプの絵も。

たぶん、人間が原初から持っているイメージの顕れなのではないかと思います。世界観の顕れみたいなね。

ありがとうございますの2

>愚樵さん

昆虫に心があると強く感じるようになったのは、2~3年ばかり前こんなことがありまして。
ベランダで洗濯物を干していたら、ミツバチが2匹飛んで来て、私ののど元に羽ばたきの風が当たるほど間近を、もう触れんばかりの距離を5分間くらい飛び回っていたんです。
私を蜜を出す花と間違えるでもなく、警戒するでもなく興味を持って観察しているようでした。
今秋もオオスカシバ(蜂のような飛び方をする蛾の一種)が一匹、花屋の前をブンブン舞っていたので掌を伸ばしたら、指先に風が当たる距離まで飛んで来ましたよ。
こちらに好奇心を抱いて接近してくると感じる。やはり「心」があるように思えるんですよ。
そんなことが時折あります。文章に起こすとそれだけの話なんですけどね。

ティンガティンガは今年の夏に新宿の紀伊国屋書店が小さな展示を催したので生の絵を何点か見ました。ティンガティンガも山やまさんへの返信で書いたようにモチーフの連続・拡張が見られますね。とてもヴァイタルな、気分を高揚させる力のある絵だと感じました。

現代音楽はミニマル・無調音楽・ミュージックコンクレートなど、結構好きなんです。キース・ジャレットがパイプオルガンで即興演奏をしているCDなども。
12音セリーというと、メシアンとかの辺りですか? このへんも嫌いではないです。でも聴いていて楽しくないというのは分かります。耳に加虐的な、人間の生理に楯突くような音楽ですよね。拷問的内容というか。
たぶん自分はこういう加虐的な音楽を「感覚を拡張させる」ために摂っているのだと思います。
ただのノイズにしか聴こえなかったものが、ある瞬間を越えると「音楽」に聴こえるようになることがあるんです。自分の感覚が押し広げられる。音楽は変わらないですから、自分が変わるんでしょうね、何かのきっかけで。

最後はただの雑談になってしまって、本当にすみません。
それと、ネットを通してですが、愚樵さんや毒多さん達と出会えてとても良かったと思っています。ありがとう。
皆さんを通して、自分が変わるきっかけを貰っています。

愚樵空論のHTT化\(^o^)/

・黒い時計の旅さん、おはようございます。

黒い時計の旅さんの仰る「雑談」が、繋がるためのもの、あるいは繋がっていることの確認のためのものなら、ぜんぜんウェルカムですよ。

HTTというのは、お分かり頂けると思いますが(笑)念のために記しておきますと、アニメ『けいおん!』で主人公たちが結成するバンドの名称。正式には「放課後ティータイム」です。

エントリーにも取り上げましたが、ここで繰り広げられているのは「雑談」なんです。HTTというバンドですら、主人公達にとっては「繋がるための手段」に過ぎない。バンドは目的ではない。「放課後ティータイム」という名が体を表していますよね (^_^)

ブログ界の元祖HTTといえば『dr.stoneflyの戯れ言』なんですが、ここのところは残念ながら開店休業状態ですね。また開けてくれれば「雑談」をしに押しかけるんですが。

文章に起こすとそれだけの話なんですけどね。

HTTにおいては、そのような自虐的なセリフは基本的にNGです。自虐されたらツッコミを入れられない。そこは些細なところでも、大袈裟に感情を込めるのがGOOD。もっとも、そういう私も大袈裟な感情表現は苦手なんですけどね (^_^;

さて、マジメな「雑談」に戻りましょうか。

12音セリーというと、メシアンとかの辺りですか?

そうです。元祖はシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンあたりの「新ウィーン楽派」ですが、特に初期のメシアンは12音技法をさらに究めたらしいです(らしい、というくらいにしか私も知りません)。

たぶん自分はこういう加虐的な音楽を「感覚を拡張させる」ために摂っているのだと思います。

おっと。これは鋭い。自虐的になるわけだ。

12音音楽というのはそもそも、「感覚が異なる」人たちの音楽なんです。具体的にいうと、絶対音感保持者のための音楽。

12音というのは、ピアノの鍵盤を想像してもらえばわかりますが、ドの音からオクターブ上のドまで、白鍵黒鍵含めて12のキーがある。それらの音をすべて等価に扱うという原理なんですね。でも、これは生理的な相対音感からは決定的にずれています。

1オクターブというと、周波数でいえば1:2。ドとソでは(平均律では微妙に違うのですが)2:3。ドとファは3:4。こうした数学的な調和が人間の耳にも調和のあるもの(美しいもの)として感知される。

ここを基準にすると、12音音階の1:2を均等に12等分するなどというのは暴挙なんです。2音間の周波数比は2の1/12乗の数値になります。これは無理数なんですね。

ところが、幼い頃からのトレーニングによって絶対音感に感覚を改変された人間にとっては、12音音階は秩序あるものに聴こえる。らしいです。彼らは、たとえば私たちが普通に交わす会話や身の回りの音もすべて「音楽」に聴こえるらしい。というか、意味のない「ノイズ」というのが存在しないらしい。そんな人たちにとっては、それなりの原理で組み立てられてある音楽は、より「音楽」なのですね。

ですから「感覚を拡張させるために摂る」というのは、
目的としては実に合理的です。

ドラえもんのうた

12音音楽の面白い例を見つけましたんで、よろしければご一聴のほどを。

http://www.youtube.com/watch?v=Ef7d5sU209o

ラミーの絵は

>黒い時計の旅さん

驚嘆で賞賛です。素直にすごいと、美しいと思いました。こういうのは自分にはぜったいに描けない(飽きっぽい性格なので耐性がない)ので。。。

>「アール・ブリュット」と呼ばれる画家にはこうした同一のパターンが連続的に大きく拡張する絵を書く人が何故か多いんですよ。あと、モチーフが唐草文様的に入り組んで広がっていくタイプの絵も。

へえ、おもしろいですね。執拗に同一のパターンをくり返すという点ではミニマル系の音楽にも通じるものがありそうですね。鉱物的っていう点でも。

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