愚慫空論

「あめつちの祈り」とクルアーン詠唱

ツイッターにもつぶやいてみたのだけれども、それだけでは物足りない感じなので、ブログにも挙げてみることにした。



 『あめつちの祈り』(ゆめやえいこ ゆめがたり)

最初に聴いたときは冴えない印象だったんだけど、何か引っかかるものがあって、再度聴き直してみたら、これは music というより chant だな、と思ってしまった。「祈り」と題してあることもある。

chantというと、思い浮かぶのがクルアーンの詠唱。これがまた美しいのだ。



学校の歴史で習うのはイスラムといえば「右手にコーラン、左手に剣」、つまり「改宗か、しからずんば死か」だったわけだが、そんなのが嘘っぱちだったということは、この詠唱を聴いただけでも直観できるだろう。過去、イスラーム帝国が強力な軍隊でもって領土を拡張していったのは事実だろうけれども、ムスリムへの改宗の理由は強制ではなく、この「美しさ」にあったのだろう。なにしろクルアーンは神が作った書物なのだから、完璧なのである。詠唱すれば美しいに決まっている。ムハンマド(文盲だったらしい)はこの美しさこそが神がクルアーンを作ったことの証明だと言ったらしい。そうではないと思うのなら、クルアーンを超える文章を作ってみよ、と。

私はアラビア語なんてまるでわからないから、クルアーンの美しさと言っても本当のところはわからない。が、とにかく美しいとは思う。そして、chantとしてみてみたとき、『あめつちの歌」は素朴だ。洗練度で天と地ほどの開きがある――あちらは神のものだから――といってもいいだろう。でも私は、この素朴な「祈り」に心惹かれるものがある。自身の日本人としての「原型」のようなものに触れるような気がする。



この写真は昔、紀州の山で仕事をしていたときのもの。伐採を始める前に、このようなものをつくって「山の神」にお供えをした。板きれに「大山神」と書いて、その前に男の陰物と酒や塩、食物をそなえる。塩はないし、食物も本当は海の魚がいいんだけど、そういうところはいい加減。また、私なんかは「大山神」は「大山祇神」「大山祇命」と想像するんだけど、だとすると、これは男の神なので陰物はおかしい(笑) 大山祇命は富士山の木花咲耶姫や浅間山の岩屋姫の父上にあたると神話ではされているから。でも、そんな「細かいこと」は関係がない。へっちゃら。

この、でたらめな素朴さ。なんでもいいのである。とにかく祈れば。「神の完璧」なんて、眼中にない。もちろん、日本人にだって洗練された神の祈りがないわけではない。伊勢神宮あたりでは格式の高い儀式が現在も執り行われているだろう。また皇居のなかでも行なわれているだろう。でも日本人として、神に近いと感じるのは、いや、かつて感じていたのは、このでたらめな方だという気がしてならない。

ムスリム達は日に五回、何処であろうが彼処であろうがメッカに向かって礼拝をするわけだけれども、やはりより「神に近い」と感じるのは壮麗なモスクのなかで行なう金曜の礼拝だろうと想像する。その点、日本人とは正反対だ。

日本でも昔は伊勢参り・熊野詣で・富士講と「格式の高い神」に詣るのは盛んで、それは今も続いているけれども、神に近い「本当のところ」は現代は失われてしまっている、と思う。歴史的にいうと、明治政府が廃仏毀釈とともに「素朴な祈り」を国家神道へと統合させてしまうことで、打ち壊してしまったのである。

では、日本人の「素朴な祈り」への性向が全くなくなったのかというと、そうではないと思う。上の写真のでたらめな「祈り」に私が遭遇できたのはど田舎だからだったわけだけれども、それをなぜか「ほんもの」と感じてしまう、私自身。そして「感じてしまう」ことから、自身をどうしようもなく日本人なんだと捉え直してしまう。

ゆめやえいこさんの『あめつちの歌』にも、同じような「気」を感じる。このヘタクソな音楽(ごめんなさい!)は、洗練されていないからこそかえって、自身の持つ心性に近いように感じてしまう。つまり「神に近い」感じを受けるのである。素朴な人たちの素朴な収穫の感謝の祈りだ。

コメント

chantに嵌まりそう!

ゆめやさんの声は、透明できれいですよ!

イスラムとなると必ずBGMで聴こえてくるクルアーンの詠唱!
改めて聴くと、なるほど心打たれます!

音楽として聞いたら不敬罪に問われるでしょうか?
(自分で祈るのは苦手だから、CDでごまかすとか!・笑)

エンヤ

・amerieさん

おはようございます。

ゆめさん、いい声ですよね。

話が混乱しそうなので本文の方では書かなかったのですが、エンヤに通じるものもあると感じてもいるんです。
あれも chant という感じが強い。

ゆめさんのCDはどんな感じなのか、聴いてみたくなっています。

音楽として聞いたら不敬罪に問われるでしょうか?

さあ、どうなんでしょうねぇ(笑)
虫の声ですら聴きようによっては音楽なのだから、別にいいんじゃないでしょうか。

虫の声と一緒にすると、それこそ不敬かな?
でも、一緒なんですよね。我々日本人には。

クルアーンの読めないムスリム

愚樵さんこんにちは。

私の住むトルコはイスラム圏ですが、トルコ語をはなし、表記文字は英語とほぼ同じアルファベットです。
90年前の革命まではアラビア文字を使って書いていました。西欧諸国に追いつくための変革でしたが、アラビア文字を捨てたがために人々はクルアーンが読めなくなってしまったのです。お経とはちがって生活規範や社会の約束事が全部書いてあるのがクルアーン。だからこれから遠ざかってしまうということは実は大変な問題なのです。つまり「イスラム」が【イスラム】になった。

明治維新で人々が「日本」から切り離されたのとよく似ているんです。

これを含む一連の改革の結果、トルコは即物的な世俗国家への道を歩むことになりました。この改革自体が英仏による愚民化政策でした。(911以来ある種の覚醒がおこりトルコはイスラム回帰をはじめました)

ある民族の意識を壊してしまうことは実にたやすくその逆は容易でないですね。エントロピーはこんなところにも生きているということでしょうか。

仰るとおり、預言者ムハマンドは読み書きができせんでした。天使がはじめて神の預言をもたらしたときに文盲である自分にどうしろというのだと三度問い返しました。天使は三度目に、「学べ、書いて学べ」と答えます。神様も、文字を書けとおっしゃる。

クルアーンの翻訳は認められていませんからね

・あやみさん、お待ちしておりました。

キリスト教のバイブルのように、クルアーンも翻訳が認められていれば話はもう少し簡単なのでしょうが...。でも翻訳ではこの「美しさ」は決定的に損なわれるでしょうね。私も翻訳された「ニセ」クルアーンを見てみたことはありますが、ぜんぜん面白くない。途中で放り出してしまいました(苦笑)

明治維新で人々が「日本」から切り離されたのとよく似ているんです。

日本ではそういった「画策」をしたのは初代総理大臣・伊藤博文といわれていますが、トルコでも初代大統領ケマル・アタテュルクということになるのでしょうか。私が歴史の授業で教わったときは「トルコの英雄」でしたが。

911以来ある種の覚醒がおこりトルコはイスラム回帰をはじめました

それは歴史の必然だと感じます。金融資本主義が最終局面に入ったと言われていますけれども、また、それが本当かどうか庶民の立場からはどうにも確認しようはありませんけれども、これまで世界を束ねてきたルールが機能不全に陥りつつあるのは肌で感じられることです。そうしたときに、人々が自身の「歴史」へと回帰していくのはやむを得ない。それしか道はないと思います。

ただし、その回帰が反動的なのか発展的なのかは大きな問題です。反動的な方へ振れると、ルール崩壊による混乱の火に油を注ぐことになる。トルコが隣国ギリシャの混乱をどのように捉えているのか日本からはサッパリわかりませんが、彼らの「歴史」を軸に新しい時代に相応しい社会を築き上げることができればと思います。

そしてそれは日本も同じことです。

そうですね

>翻訳ではこの「美しさ」は決定的に損なわれるでしょうね

これがさらりと判るなんて、そう沢山はいません。さすが。
クルアーンの日本語解釈は間違いだらけです。天国にワインの川が流れてるとか、そんなわけないじゃないですか、もう。

「英雄」に関してはご指摘の通り、「英」国の息がかかっていました。
アラブの春が反動的なイスラム回帰であるのに対しトルコの場合は内部から起こった再構築です。まだ時間はかかるでしょうが。
今の時点でアラブを模した「東京の春」がおこっても形骸化した虚しいものに終わります。まだもっと内側からの熟成が必要ですね。

素朴な祈り

愚樵さん、ありがとうございます。

>そんな「細かいこと」は関係がない。へっちゃら。この、でたらめな素朴さ。なんでもいいのである。とにかく祈れば。

私が立ちたいところは、たぶん、ここです。^^;

そういえば、以前、日本語がまったくわからないフランス人たちに熱烈に感動してもらえたり、ギニア人に「God Song!」と叫ばれたりしたことがあったんですが、歌もギターも上手いとは言い難い上に、歌詞の内容もわからないのに、それでも「何かを感じる」「何かを感じてもらえる」っておもしろいなぁと思いました。

それは受け売りです(^_^;

・あやみさん、おはようございます。

ははは、それは半分以上受け売りです。どこかで仕入れた知識です。

ただそうはいっても予想はつきます。文章には、それぞれの言語固有のリズムがありますよね。音楽に乗せるならまだしも、言語固有のリズムを生かした韻文では、そのリズムまでを翻訳するのは原理的に不可能なはず。神が作ったと言われるクルアーンなら言葉の内容とリズムとは完璧に一致しているのでしょうから、翻訳不可としたのも頷ける話です。

今の時点でアラブを模した「東京の春」がおこっても形骸化した虚しいものに終わります。

まったく同感です。

Re:素朴な祈り

・ゆめさん、お待ちしておりました。

私が立ちたいところは、たぶん、ここです。

(*^o^*)

それでも「何かを感じる」「何かを感じてもらえる」っておもしろいなぁと

素朴な感性ってそんなものだと思います。

下手に勉強するとそれを喪失してしまうんですね。それでは苦労して勉強しても、差し引きゼロだろうと思うのですがねぇ...。

「何かを感じる」といえばクルアーンもそうでしょう。本文にも書きましたが、イスラームが非常な勢いで勢力を拡大したのは、この「何かを感じる」人々の素朴な感性が下敷きにあったのだと思うのですね。キリスト教、仏教、儒教、みんな「何かを感じさせる」ものがあったはずなんです。

でも、日本では最後まで「デタラメ」が生き残った。ゆえさんはその末裔なのでしょうね。なぜこんなことになるのかは不思議ですが。

舌足らずでした

ごめんなさい、ちょいと舌足らずでした。
「とにかく祈れば」と同じで、私にとっては「とにかく歌えば」「Liveすれば」です。

>「何かを感じる」といえばクルアーンもそうでしょう。
はい、それはもちろんです。
そこからの話で、私のような音楽でも言葉を超えて「感じるもの」があるのはおもしろいなぁと。

わかってます

・ゆめさん

はいはい。それはわかっています。いるつもりです。そもそも chant というのは私の捉まえ方であって、ゆめさんの捉え方ではない。ゆめさんにとっては『あめつちの祈り』はあくまで music ですよね。

私はただそれを敢えて chant と捉え直すことで解釈の可能性を広げようと思ったまでです。『あめつちの祈り』を chant として規定するつもりはさらさらありませんし、みなさんもそんな風には思っていないと思いますよ。

「とにかく祈れば」と同じで、私にとっては「とにかく歌えば」「Liveすれば」です。

でも、これは言っておかなければならなかったんですよね。ゆめさんにとっては。(^o^)

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