愚慫空論

「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ

私は愚樵と名乗っている林業従事者だが、実は樵と林業従事者とは微妙に違っている――、というようなことをコメント欄で言ってしまったが、せっかくというわけでもないのだが、樵の目から林業という産業がどのように見えているのかを、少し書いてみることにする。ちょうどよいネタもあったことだし。

朝日新聞の山梨地方版より

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5〉「悲しみの森」に下流域の人招く

2011年11月19日

   ■手入れの大切さツアーで伝える

 「ここが悲しみの森です。手入れがされずに光も入らない。かわいそうだが、不健康な樹木です」

 大月市笹子町、滝子山に向かう登山道を登りながら、ガイドの○○○○さん(73)が説明する。市が今月6日に開いた「悲しみの森・癒やしの森トレッキングツアー」。東京都などから約20人が参加した。

 不健康な森と間伐などがされた「癒やしの森」を比べ、森の荒廃をじかに知ってもらおうという狙いだ。

 植林後、育った樹木を間引いていくのが間伐だ。森が密集すると木への栄養が回らず、1本ずつが細くなる。光が入らず下草も生えないから保水力も弱くなる。それらを防ぐためだ。

 ○○さんは先祖が残した28ヘクタールの森に、暇があれば足を運ぶ。枝切りや下草刈りをするが、間伐にはなかなか手を出せない。切った杉の丸太価格は1トン約1万円。チェーンソーの使い手を雇い、搬出料を払えば完全な赤字に陥ってしまう。

    □

 大月市では全面積の87%が森林。その半分を占める民有林のほとんどが「悲しみの森」だ。

 この日のツアーに加わった××××さんは東京都奥多摩町などで自然解説員をしている。「手入れされていない人工林の問題が、地元の方のなまの話でよくわかりました」という。

 売れないから、伐期を過ぎても植えたままの木はやがて立ち枯れし、森の本格的な荒廃が始まる。「対策を講じなければ20年後に現実となる。民有林維持は上流の個人や自治体だけではもう限界です」と、ツアーを企画した大月市産業建設部の佐藤次男部長は話す。

 神奈川県は来年度から5年間、山梨県での森林整備などに3億6500万円を負担する。笹子の森を「荒廃林の博物館」にして、水源を上流に頼る下流域の人を招く、そして財政支援の一層の拡大に向けた世論を高めていきたい――。それが市の一番の狙いだ。

    □

 実験とも言える今回のツアーにかかわったJTBコミュニケーションズなどJTBグループが、来年度以降の商品化に向けた検討を進める。○○さんたち地元で組織する笹子町運営委員会が「おもてなし」を担当する。今回も、ツアー参加者へのお弁当やうどんなどは地元が用意した。

 カメラ部品の下請け製造をしていた壮年期、○○さんは森にあまり目を向けなかった。周りの人たちも同様で、当時、隣近所の交流は少なくなっていた。

 「悲しみの森」が減るかもしれないと地域で動き出したいま、まとまりが強まった気がするという。絆を固め直してくれた森の力を○○さんは再発見した。

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批判的なことを書くのでリンクは貼らず、個人名は伏せ字にして引用させてもらった(役人は個人とは考えない)。

この記事、私に言わせれば、ひとこと。「手前勝手なことを言っていやがる。」

人工林の手入れが行き届かず、荒廃しているのは事実だ。事実は否定できない。が、直近の事実だけを見ていては判断を誤る。福島を中心に放射能汚染が広がっていて除染が必要なことは事実だが、事実だけをみて原因を見ないのは片手落ち。この記事も事実だけを見て原因を見ない、いかにも朝日らしいものだ。

では、人工林荒廃の原因とは何か。人工林にしてしまったことである。

人工林は手入れを必要とする。そういうものだ。それを知らなかったとは言わせない。そしてその決断をしたのはその山林の所有者である。ならば、荒廃の責任は所有者が負うべき。

あいや、これは純粋に樵の視点ではない。自己責任という新自由主義的な感があると思われるかしれない。が、「樵」の視点からそう遠いものでもない。「樵」の視点で言えば、人工林とはいえ、森は生き物である。人工林を造林するということは、生き物をペットとして飼うのと同じだ。ペットを飼い始めたのなら、飼い主は最後まで責任をもって面倒をみよ。ごくごく当然の論理であろう。

目の前の手入れが行き届いていない人工林が不健康なのは事実であろう。そういう事実を私自身も日々確認している。が、責任者がそれを「悲しみの森」という資格はない。自分の飼っているペットを世話もせずエサもやらずにいて、「この子はカワイソウ」と言っているようなものだ。動物を好きな人が聞いたら怒り狂うだろう。だから私も怒っている。

ここにあるのはダブルスタンダードである。所有者は一方では山林を先祖から受け継いだ財産だと見ている。つまり私有物だ。その資産価値が減っている。財産価値は市場に左右されるから、それは当然のこととして受け入れるしかないし、実際、多くの人が(土地価格の暴落など)受け入れているのだが、山林所有者は異なる。一方で生き物と見て「カワイソウ」というのである。「だから手入れをしてあげて下さい。みんなのお金で。」 そうして上昇した資産価値は所有者の懐に入ることは言わない。

壮年期に関心がなかったというのは、事実だろうが、欺瞞である。金にならなかったから関心がなかっただけだろう。そのような手前勝手が巡り巡って地域の「絆」を断ち切っていった。年老いてそれに気がついた。絆を復活させるのに先祖から受け継いだ山林が使えると気がついた。そこまではいい。でも反省はしていない。社会の所為にしている。木材の価格が下落したから。その論理は、えさ代が高くなったからエサをやれなくなったと言っているの同じだ。

どうしてもエサ代を賄えなくなったらどうするか。他人に譲るか、処分する。それが社会のルールだろう。先祖伝来でさぞ辛かろうというのは、ペットに情が移って辛かろうというのと同じ。処分や譲渡がいやなら、身を削ってでもエサ代を調達するしかない。みんなそうしているのである。山林所有者だけが、そういった辛さを免れてよいという法はない。

(ただし。実名は伏せたがこの記事に取り上げられた○○さんは、自身の費用と労力で(つまり赤字で)手入れをしているのかもしれない。記事で取り上げられた場所をたぶん、私は実際に知っている。その場所は、自分たちで手入れをしたというふうに、伝聞であるが、聞いている。)

このダブルスタンダード&無責任に輪をかけるのが行政である。山林が私有財産であるということには目を瞑り、環境を保持する共有財産としての価値にだけ目を注目する。共有財産というのは、森は生き物であるということだ。生き物を蔑ろにすると、被害が出る。だから食い止める。林業という産業は、このダブルスタンダード&無責任の狭間で辛うじて息を繋いでいる。

「樵」の目から見れば、森の所有者が誰であろうと基本的には関係はない。生き物としての森に向き合い、それを社会の役に立てる。そういう役割である、というだけのことだ。でも、現代社会では、そういう役割では食えない。だから樵らしきことをしようと思うと、「狭間」で息づく林業従事者になるしかない。

そうそう。上の新聞記事の明らかな間違いを指摘しておこう。

「売れないから、伐期を過ぎても植えたままの木はやがて立ち枯れし、森の本格的な荒廃が始まる。」

こんなの嘘である。手入れをされてない人工林は、やがて天然林に還る。それだけのことだ。飼い犬を放せば野犬化するが、その過程で一時的に人間に被害を及ぼす。同じように、人工林から天然林へと移行する過程で、一時的に環境は悪化する。が、森という生き物のスパンで見れば、それは一時的なことでしかない。人間のスパンでものをみるから被害が出るということになるし、それは事実なのだが、受け入れるしかない。「本格的な荒廃」というと林が全滅すると連想してしまうが、そんなことはまずない(土砂崩れなどの危険も高まるので、ないとは言えない)。この文言は、環境保護という名目で金を出させることへ世論を誘導する意図で書かれている。

人の手に負えなくなれば、自然へ還せ。その際、所有権はもちろん放棄である。林業従事者としての稼ぎ先は減るが、樵としてはそれでいい。ただ、日本にはそういったことができる、もしくは強制的にでもさせる法整備は為されていないのが現実であろう。ジャーナリズムはつまらない行政ヨイショ記事など書いていないで、社会の現実にこそ目を向けなければならない。

朝日新聞よ、もっと勉強せよ。

コメント

樵さんの見解に感謝。

朝日新聞の論調しか読まなければその投稿者の下種なやり方に騙されるところでした。樵さんの立場からの見解に感謝致します。
私有林なのですね。元々は自然林が広がっていたところでしょうから人工林を作らなければ自然のサイクルで成り立っていただけでしょう。ただ、かつて国策的な面から木材の増産をやったはいいが経済大国化するに従い相対的に割高になってしまい商売として成立しなくなった背景も考慮しないと駄目ですね。工業でも林業でもその他の農業でもそうですがあまりに円高が進んだが故にうまく回らなくなってしまったわけです。グローバリズムのせいで地場産業はガタガタ、おまけにその原因を作った工業は海外に工場移転。一体この国は何をやっているのでしょうね。「円高が進んだ=それだけ国力がある」ということになり、そうならかなり好き勝手な政策をやっても耐えられるはずなのですが何故か自虐政策ばかり打ち出してくれます。どなたかすっきりと説明してくれませんかね。

お怒りはごもっともです!

うちの親戚にも、祖先からの森林が少し、田舎にもっている人がいます。
みんな田舎を離れてしまっているので、山の世話は「森林組合」にお願いしていると聞きます。
何年かごとに間伐をして売り、全部の費用を差し引いた残りは、
僅かですが振り込んでくれるそうです。
(補助金も出てると思います)
そして間伐により木が十分太くなれば、後々には当然売ることが出来ます。
木の値段が下がったとはいえ、売ればもうかるのは所有者です。(月日が育てた木ですが)

メンテの費用だけ他人に払わせようとは、世の中にはずるい人がいますね!

人工林はマンモス団地のようだ。

>人工林荒廃の原因とは何か。人工林にしてしまったことである。

これにつきますよね。
私の郷里はド田舎なので至近に植林された杉林がありますが、人工林はクヌギ・コナラ・ブナなどの雑木から成り立つ自然林とは植物相が明らかに異なります。

人工林は、造園された庭園や花壇と本質的に同じです。作られた目的と規模が異なるだけで。

メンテしなければ人工物が維持できないのは当たり前です。それをあたかも自然が荒れて人間に不利益をもたらすかのような印象操作がなされるのは感心しません。
隣家の庭が荒れたからお前も手入れに手を貸せやと言われるようなものですね。互いに隣家の庭を手入れしあうような共同体が成立していなければ成り立たない話です。

そもそも下生えが刈り取られ、一面杉以外の樹木が殆ど生えていない単純な植物相の人工林には、土壌に自然林に匹敵する豊富な栄養分もなければ強い保水力もあるはずがなく、つまり人工環境の弱点をそのまま受け継いでいるわけです。
費用がかかる。マンパワーもいる。しかも脆い。今夏の強風で紀伊半島の人工林が大きな被害を被ったのは記憶に新しいですよね。杉は強風に弱いんですよ。

手入れが追いつかなくなった人工林は、長期間放置して様々な雑木が生い茂り昆虫や鳥獣が暮せる自然林に戻してしまうのが最善だと思います。
ただし、それだと金にならないんですよ。
結局は経済活動の話です。

国の所為ではありません

・凶人さん、はじめまして。なんか不吉なHNですね(^_^; そのように名乗りたい気持ちはコメントから何となく察せられますが。

この朝日の記事は、とりたて下種なものだと私は思っているわけではありません。「哀しい」と思っているだけ。命が命として扱われていないから。社会の仕組みがそのようものになっていないから。

で、残念ながら凶人さんのコメントも私には「哀しい」と感じられます。凶人さんの視点は、林業を産業とみてしてみる視点です。その視座から他の産業も視、国家の政策を批判している。私と凶人さんの意見が一致するのは国家の政策を批判しているという一点だけのようですね。

産業は必要です。そして国は豊かであるほうがいいに決まっている。産業革命以降の産業は物質的には社会を豊かにしましたが、しかし一面では貧しさももたらした。その貧しさを「哀しい」と言っているつもりです。

不在地主というわけですね

・amerieさん、こんばんは。

森林組合ですか。私には馴染みの深いところです。

メンテの費用だけ他人に払わせようとは、世の中にはずるい人がいますね!

いやいや、世の中そんな人ばかりですよ。他人の労働を上手く搾取できる人間が成り上がっていく世の中です。

木の値段が下がったとはいえ、売ればもうかるのは所有者です。

山林所有者のずるさなんて、かわいいものです。

林業に関して言えば、もっともずるく立ち回っているのは行政組織です。彼らに必要なのは「事業」を行なうため、つまりは予算を確保するための大義名分。本分の新聞記事はその「大義」を作り上げるためのもの。まあ、やりくちは原発でもダムでも、みんな基本的には同じ。アメリカは軍産複合体と言われますが、日本は公共工事複合体ですから。林業は、その公共工事のなかの、ホンの一部分でしかありません。

まあ、でも、今回はそのことはどうでもいいのです。公共工事であれなんであれ、命が命として扱われるならば。私が怒りを感じているのは、所有者自身すら森を「命」だと思っていないこと。これにつきます。

救いがないわけではないんですよ。少なくともツアー参加者は「森の命」を少しは感じたでしょうから。健康な林、不健康な林、見比べてみれば一目瞭然です。でも、都会の人はほとんど見比べる機会もないわけでしょう。

でも、事情をよく知らない人の「素朴な思い」を自分たちの利益誘導に使うのはやっぱり許せないですよね。

Re:人工林はマンモス団地のようだ

・黒い時計の旅さん

人工林はマンモス団地ですか。なるほど、いい例えですね。外観的にも。内実的にも。マンモス団地も中へ入っていけば人それぞれの営みがあるように、人工林のなかにもそれぞれの営みがあるんです。

矛盾するようなことを言いますが、間伐の作業をしているときに迷うことがあるんです。どの樹を伐ろうかと。どれかを伐らなければならないが、判断がつきかねることがある。そんなときに唱える呪文が「ええい! オレのものじゃねぇ!」 そうすると判断がついてしまう(笑) 無責任になることで判断できることというのものあるんです。

ほんとうは伐った樹はすべて搬出して生かせれば、そういった「無責任」もなくなるんですが...、ここはそう、経済の問題ですね。

ご存知の通り、私は経済の問題に関心を寄せていますが、その原点が実はここなんです。樹だって自然の恵みなんです。それを伐って捨ててこなければならない。私は「そういうものだ」とは納得いかないんです。切り捨ててしまわなければならない経済のほうが間違えていると思っている。経済は人間を活かすものですが、だからといって人間の得手勝手な経済で良いはずがないです。

おっしゃられていることは分かります。

愚樵様

お答えありがとうございます。
愚樵様のおっしゃられていることはもっともなことだと思います。自然と密接に関わっておられる方々からすれば、すぐにお金や産業と結びつけてしまう私のような者を哀れみを持ってごらんになられているのかも知れませんね。自然からの恵みと切り離されてしまい、お金がないと生きられない都市生活者の追い詰められた姿なのかと思います。その中で解決策を求めるのでこうした形にならざるを得ないのです。

私はかねがね、「手入れされない森が荒廃している」という話に違和感を持っておりました。
世界には至るところに人が入らない森があるはずだと考えていたからです。
このエントリーを読んで、腑に落ちました。ありがとうございます。

手入れされなければ、自然の森に帰るまで、ということなのですよね。

それにしても、なんとも朝日新聞らしい記事だと思います。

ぶひー

いろんなことが哀しいです。
旅行会社の「商品化」って、なんだよー!ばかー!
お金なんて、何の役にも立たないのに。

でも、でも、それでも、
森と水が繋ぐこの人々、関わる人々が、森から学んで哀しい自分たちに気がつくことができるかもしれない、そのきっかけにもなるのかもしれない。そうであればいい。人工林が天然林に還るように、【人】も人にきっと還れるはず。

むかーし、私は海外の原生林保護活動をやっておりました。
日本で使う紙のために消えゆく森を守りたくて。伐採、搬出後、空からのナパーム弾ですべてを焼き尽くされてしまうという悲しい森がたくさんありました(今でもありますが)。その頃に、なぜ、海を渡ってまでそんなことをするんだろう?と調べてみたら、日本の、自分の身近な森にたどり着いてしまいました。身近な森の現状と、それに気がつきもしないで遠くの森ばかり見ていた自分にひどくショックを受けました。

森を守りたいなんておこがましかった、守られているのはこっちの方なのですもん。。

やっぱり違うな

私の場合、哀しいじゃないです。悲しいの方。

気になって 起きてしまいました。

哀れみではありません

・凶人さん、おはようございます。

こう言ってはなんですが、再度のおでましにはちょっと驚きました。先の私の返答では撥ねつけられたと感じられても仕方がないと思いますし、実際、撥ねつけたつもりもありました。

その中で解決策を求めるのでこうした形にならざるを得ないのです

私はそのような方々を上から見下して哀れんでいるわけではありません。人間はそれぞれに環境へ適応していくもの。ですから「ならざるを得ない」のはやむを得ないこと。やむを得ないことをバカにするほど私はバカではないつもりです。

ですが、凶人さんも、ご自身の「適応」に何か違和感を感じておられるのでしょう。そうでなければ再度のコメントはなかったはずですよね。

その「違和感」を大切になさったらいいと思います。「違和感」を感じつつ、それを感じていないと自分に言い聞かせしまっては、それこそ哀れというものです。

逍花さん

・おはようございます。

手入れされなければ、自然の森に帰るまで、ということなのですよね。

そう、それだけのことです。そしてその際に、いくらか人間社会に被害を及ぼすことはある。そもそも自然というのはそのようなもので、私たちはそれを受け入れるしか選択肢はないのですね。でも、そんな単純なことを私たちは忘れている。

我々日本人は、そういった「単純なこと」を「お勉強」することで忘れていくんですね。朝日新聞って、そういった「お勉強」を頑張った人たちの集まりなんでしょう。

その通りです!

・ゆめさん

森を守りたいなんておこがましかった、守られているのはこっちの方なのですもん

あいや、まったくその通りですね。

そこに早く気がついて欲しいものだと思いますが、そして哀しいことに、福島の事故がその大きな切っ掛けになりましたが...、それでもまだ気がつかない人がこの国家の、特に中枢にたくさん居座っている。そう考えると怒りを感じますね。

人工林が天然林に還るように、【人】も人にきっと還れるはず。

ははは。そうだといいんですが。私は人間社会という「人工林」が崩壊した後に「天然林」が復活するという流れになるような気がしてなりません。で、問題は、崩壊後「天然林」が復活できるだけの「土壌」が残るかどうか。少しでも残ればいいと思って、こんなブログをやっているというのもあるんです。

私の場合、哀しいじゃないです。悲しいの方

ふ~ん、なるほど、ゆめさんはやっぱり巫女さんかな。「悲しい」というのは自分のこととして捉えているんですよね。私はどこか切り離しているところがある。だから「哀しい」なんですよね。

同じ図式

こんにちは。

読ませていただいて、思ったのは、何処も同じだという事です。
人工林の木は、愚樵さんのいうペットでもあり、人間社会の中の弱者である、子ども達であり、老人達であり、そして被支配者層です。

根元は同じですね。命(愚樵さんのいう〈霊〉にあたるでしょうか)に対する畏敬の念が欠落しているのだと思います。

世界を〈霊〉で満たせ

・すぺーすのいどさん

仰るとおり、みんな同じです。みんな【商品】なんです。なにもかにもが、己自身もふくめて、みんな【商品】になってしまった。それは、他ならない、私たちが望んだことなんですね。

〔命〕に対する畏敬の念。それを呼び起こすものを〈霊〉と私は言っています。

世界は〔命〕に満ちています。どこもかしこも〔命〕で満ちあふれています。でも、私たちは【商品】に取り囲まれて暮らしている。〈霊〉が足らないから。〔命〕を感じさせる〈霊〉が不足しているから、〔命〕が満ちあふれているにもかかわらず、そのことに気がつかずに【商品】ばかりになってしまっているのです。

命が金になる恐ろしさ

いや~あ。久々の愚樵さんにしか書けない素晴らしい記事で楽しく読ましてもらいました。
人工林が家畜やペットと同じ意味を持っているとは慧眼です。
放棄された犬猫のペット類が野生化して社会問題化しているのを『命の問題』として捉えて自費で野良猫や野良犬の保護運動をしている人々がいますが、元の飼い主が本来は費用を負担するのが本筋である。
犬猫では、無責任な元飼い主が見つからないから仕方なく篤志家が費用を寄付したり里親を探している。
家畜の飼い主が『もう限界だ』と飼育を放棄するなら自動的に所有権も放棄するべきで、山林を生命であると捉えれば同じことが言えるでしょう。
命を最後まで面倒が見る覚悟のある新しい里親制度が是非とも必要です。

ただ、『自然に任せれば上手くいく』は間違いで、実は日本の自然は100年ほど前に人が手を加えて変質させた結果、大きく病んでいて人の手なくしては自立も継続も出来ない。
人工林の荒廃がこの記事では取り上げられているのですが、そのもっと山奥にある僅かに残っている自然林が矢張り荒廃して人工林以上の末期症状なのです。
食物連鎖の頂点にいたニホンオオカミが絶滅している現状では増えすぎた鹿の食害で、森林の下草は完全に食べつくされて仕舞って、食物の乏しい冬季には樹皮を剥いで食べるので自然林で木の立ち枯れが起きている。
他に美味しい食べ物があれば松脂などの関係で針葉樹は普通は鹿は食べないのですが、今では植えたばかりの軟らかい若木だけではなくて大きく育った人工林の樹皮までが鹿の食害で樹皮が剥がされるまでに、増えすぎた鹿の飢餓状態は深刻化しているのです。
下草をなくし木が立ち枯れた山林は表土流出が止められないが、この解決ですがニホンオオカミの復活以外の良い方法があるのでしょうか。

>人工林荒廃の原因とは何か。人工林にしてしまったことである。

これは、僕ら一人一人の心身についても同じことが言えそうですね。
というか、僕はそう観ます。 (^o^)

それから「手入れ」と「手出し」の違いとか、そんなことをつらつら考えてしまいます。

リハビリがわりに

どうもネットへの思いが切れ掛かったりしているので、リハビリ代わりにコメントさせてちょ。
別に切れても生活上支障はないのに、切れては駄目だ、と内なるなにかに突き上げられるのは、【商品】になりようがない「繋がり」ゆえかもしれないね。

みんなが取り上げているセンテンスは、なかなか手強そうだなぁ。

>人工林荒廃の原因とは何か。人工林にしてしまったことである。

>人間荒廃の原因とは何か。人間になってしまったことだ。

って、言われているような気もするからね。
これじゃ、身も蓋もないか、、

なぜでしょう?

こんばんは。

なぜ「世界は〔命〕で満ちあふれて」いるのに「〔命〕を感じさせる〈霊〉が不足」する状態になるのでしょうか?

??自分で書いていて、自分の質問の妥当性が不安。
何が聞きたいんだろう?解らない事は判るけど、何が解らないか判らない。

もしかしたら、というか多分、愚樵さんは何処かで話しているのですよね。それを私が読みとっていないのでしょう。

ま、いいや。
投げチャオ(^^ゞ

自然とは何か

・宗純さん

宗純さんに褒められると、なんとなく居心地悪いような(^o^;

命を最後まで面倒が見る覚悟のある新しい里親制度が是非とも必要です。

ただし、この里親が金持ちや利潤追求の企業になってしまっては何の意味もありません。今日話題のTPPはおそらくその方向へ向かうはずです。命の観点からではなく利潤の観点からの、合理性・効率性の追求。

TPPは亡国の施策だという批判がありますが、樵の視点からみればどうでもよいのです。この「国」というのが所詮は利益追求のための道具と化しているのが今の社会ですから。山林所有者は一般庶民の情に訴えて自身の利益誘導を図る。行政もそれが自身の利益になるから、それに乗っかる。メディアがそのお先棒を担ぐ。

TPPは既得権益者の利益を犯すことになるかもしれませんが、命の観点からみればどっちもどっと。ただ、TPPの後にはモンサントがくっついてくるであろうが、これは非常にマズイ。TPP賛成も反対も、どちら変わりはないが、程度の問題からいけばTPP導入のほうが酷いことになるでしょう。

そのもっと山奥にある僅かに残っている自然林が矢張り荒廃して人工林以上の末期症状なのです。

シカの食害の話ですね。関西では大台ヶ原山頂付近のトウヒなどが立ち枯れてしまっている。南アルプスでは夏は山頂付近にまで出没して、貴重な高山植物を食い荒らす。

そうしたものを保護しようとする考えはわらなくもないし賛同もしますが、しかし、その考え方は自然な在り方ではないと私は考えます。滅びるものは滅びる。これは自然の摂理です。貴重だからといって摂理に抗おうとするのは人間の都合でしかありません。

そもそもこういった問題を解決しようとするのが人間の思い上がりです。シカの食害は捕食者=ニホンオオカミの絶滅と人工林の増大によるシカの餌場の変化によりますが、そうやって人間が自然に介入した以上、不断の「手入れ」が必要になるのは致し方ないこと。ただ現代社会では、この「手入れ」が銭勘定に合わない非効率なものとされてしまっている。ここが根本原因なのです。

人工林の問題に限って言えば、自然に還すことで長期的には問題は解決ではなく、収束に向かうでしょう。もしくはキチンと手入れをするか。よく手入れされた人工林は天然林以上に環境保持能力があります。かつての「里山」がよい例です。そちらの方がシカにとっても都合が良いはずです。

自然はフラクタル

・アキラさん

これは、僕ら一人一人の心身についても同じことが言えそうですね

まったくその通りだと思います。

自然はフラクタル、つまり自己相似形です。自己と他者とを、自身と自然環境とを「区分け」しているのは自意識でしかないのでしょう。自己を掘り下げて自意識を取り除いていくと、心身もまた自然(じねん)何だろうと推測します。

ただ人間が、どうしても自意識を取り除けない。なにものかを認識するということと自意識とは切っても切り離せないもの。だから、必然的に自意識が「手出し」をしてくる。それを補うために「手入れ」が必要となってくる。

それが人間の「自然(じねん)」なのかもしれません。

Calling

・毒多さん、お久しぶり...というほど「対話」をしていないわけではないですが。

切れては駄目だ、と内なるなにかに突き上げられるのは

ははは、それは呼ばれているからでしょう。誰に? 〈霊〉にです。つまり毒多さんの「内なる他者」にです。電脳ネットワークを通じて呼び出される〈電霊〉とでも言えばいいでしょうか(笑)

毒多さんは最初、自己顕示をするためのブログを始められた。それは私も同じ。ほとんどみな同じでしょう。そしてそのインセンティブが完全になくなったわけではない。

でも、それが一番でなくなっているじゃないですか?

自己顕示を追い求める道、言い換えれば承認欲求を追い求める道は、【商品】への道です。ブログで名が売れれば、もしかしたら本を書くことが出来たりして、それから、...といったような【欲望】ですね。

そうした【欲望】を全面否定するわけではないが、それよりも〈つながり〉への道。【欲望】が満たされるより〈つながり〉があるほうが気持ちいい。

〈霊〉というのは、〔命〕の〈つながり〉を仲介するもの。それが電脳ネットワークに存在しているのなら〈電霊〉でしょう。

ブログに行き詰まりを感じておられるならソーシャルメディア、例えばツイッターなんかを始められてみてはどうでしょう? ツイッターは共感による〈つながり〉には適したメディアですよ。

私たちの選択の帰結

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

なぜ「世界は〔命〕で満ちあふれて」いるのに「〔命〕を感じさせる〈霊〉が不足」する状態になるのでしょうか?

大切なことだと思っています。何度でも訊いて下さい。何度でもお答します。

少し歴史的な経緯から話をしてみます。

もともと市場(イチバ)というものが〈霊〉を断ち切る場だったんです。古代の人々は霊の存在を信じた。モノには霊がくっついていると思っていたんですね。その信仰は現代の私たちにも少なからず残っている。贈与物には贈る相手の気持ちが込められていると感じますよね。この「感じ」を昔の人はあらゆるモノに感じていた。

これは、一方では不自由なことなんです。顕著な例では結婚式の引き出物とか。使い物にならないけれども、かといって処分に困る(苦笑) 霊が込められていると思うからなんですね。

「市場」はこの霊を断ち切る場だった。そうでなければ自由に交換できなから。で、この霊をどうやって断ち切ったかというと、より強力な霊――神仏を使ったんです。

しかし時代が下ると神仏の力が減退した。日本では織田信長の楽市楽座。あれは市場を神社寺院から解放したものですが、それは同時に神仏からの解放でもあった。おかげで日本は江戸時代、貨幣経済が非常に発達します。でも江戸時代は米が基軸通貨でしたから、完全に貨幣が霊を断ち切るものにはならなかった。

そして近代です。「市場(イチバ)」「市場(シジョウ)」に変貌し、神仏の出番は完全になくなった。霊を断ち切る役目を担うのは冷たい【システム】になった。おかげでモノの流通は凄まじい勢いで拡大した。産業革命と金融革命の後押しもあった。しかしそのために、私たちの身の回りは〈霊〉のない【商品】ばかりなってしまったし、私たち自身の労働も【商品】を生産するための【稼ぎ】としてしか成立しなくなった。

私が同じ仕事でも樵と林業従事者は異なるというのは、このことなんです。樵は〈樵〉です。林業従事者は【林業従事者】です。私が樵として修得した〈術〉は【商品】としてしか成立しないんです。

そんな環境に気がつきもせず、商品経済に身を沈めてしまえば〈霊〉がなくなっていってしまうのは当然ですよね。〔命〕が商品化するのも当然の帰結。そしてその結果、自身の〔命〕すら自身で認めることが出来なくなり、自身の【商品価値】を追い求めるようになる。これを【偏差値】の高い輩ほど率先してやるんですね。

>なにものかを認識するということと自意識とは切っても切り離せないもの。だから、必然的に自意識が「手出し」をしてくる。それを補うために「手入れ」が必要となってくる。
<
なるほどです。
「手出し」ってついついしてしまうものですもんね。
「手入れ」というのは、自覚的(意識的)なものであるにもかかわらず、どこか謙虚さを身にまとってる気がします。

というか、「手入れ」ってのは〈対話〉なのかなぁ。

「手入れ」は〈対話〉

・アキラさん

「手入れ」は〈対話〉でしょう。創発的コミュニケーション。

まず手を出す。相手の反応を見る。反応を考慮に入れてまた手出しをする。反応を見る...、この繰り返し。

「手入れ」というのは、自覚的(意識的)なものであるにもかかわらず、どこか謙虚さを身にまとってる気がします

ここで〈霊〉の考えを導入してみますとね。

手を出す対象を認識するとインターフェースの中に〈霊〉が生成されます。対象に手を出すと相手は変化しますが、その変化は〈霊〉という「像」をより精密なものにしていきます。で、〈霊〉が精緻になればなるほど、手出しもまた微妙なものになってゆく。謙虚なのは〈霊〉に従うからでしょう。

逆に傲慢になるのは、〈霊〉を【自我】に従わせようとするときですね。インターフェースの中に生成された〈霊〉を【自我】が勝手に改変してしまう。この「改変」に従って手を出してしまうと、相手からのフィードバックを受け付けなくなります。

これは〈霊〉の観点で見ると「呪い」です。

>謙虚なのは〈霊〉に従うからでしょう。
 逆に傲慢になるのは、〈霊〉を【自我】に従わせようとするときですね。
<
あぁ なるほど。
「手入れ」のしようもいろいろあるよなぁと思ってたところだったので、いたく納得。
ありがとうございました♪ (^o^)

愚樵さん、お手数掛けました。

以前のエントリの「<霊>について」や「霊魂」のエントリに書いてありましたね。
やっと繋がりました。(^^ゞありがとうございました。

もちょっと、会話したかったのですが、ちょっとここのところの寒さで体調が悪いのでご挨拶まで。

またよろしくお願いします。
\(^o^)/

愚樵様のあり方は美しいですが。

愚樵様

かつて北米大陸には自然と調和した生き方をしていた先住民がいました。そんな彼らは現在どういう立場にいるのでしょう。愚樵様の生き方は素晴らしいと思いますし、否定するところなんてありません。しかし、ご自分の生き方が自然と調和の取れた優れたものだとしても外からやってくる暴れ者に対応できるのでしょうか。その点だけがしっくりきません。

しっくりきませんねぇ

・凶人さん、おはようございます。

そんな彼らは現在どういう立場にいるのでしょう。

ふむ。その問いかけは、彼らのようにはなりたくないということなのでしょうね。

では。彼らを支配している白人達のようになりたいのでしょうか?

支配を撥ね除ける力が必要なのだ、というのは、結局のところ、彼らと同等の力が必要だということに他なりませんね。

彼らの力の源泉は何か。それは自然を支配すること。この「自然」の中には人間も含まれます。人間は自然を支配しようとして【システム】を発展させ、【システム】という人工環境に依存するようになった。その結果、【システム】を支配する者に支配される。彼らの力は【システム】の力であり、彼らと対抗するには同等の【システム】の力が必要だ――その論理の典型は、核開発能力を保持するために原発を維持しておく必要があると考える権力者達と同じ発想です。

私が愚かしいと思うのは、そうした発想を支持してしまうことです。権力者がそのように考えるのは、ある意味当然です。それが権力者というものだから。ですが、力も名もない庶民がどうしてそれを支持してしまうのか。自然を支配するという発想は、必然的に自然から逃れられない人間自身も支配するというところへ行き着きます。私たち日本人は、いままさにその「現場」を目撃しているのではないのですか? 

居留区に押し込められたアメリカン・ネイティブの人たちは、多くがその誇りを失って、荒れた生活を送っていると聞きます。しかし、誇りを保っている人もいないわけではない。彼らの素朴な信仰である「大地との繋がり」を見失わない人たちは、いまだ誇りを維持している。

はっきりと申し上げておきましょう。「外からやってくる暴れ者」と同等に対抗する手段はありません。同等に対抗しようとすること自身が、「彼らの土俵」に乗ることですから。そうではなくて、「私たちの土俵」を作ること。

自然の力を甘く見てはいけません。人類は確かに自然に大きな影響力を及ぼす力を身につけましたが、自然を支配しきれるわけがない。どう考えても無理です。「彼らの土俵」は普通に考えれば無理な「自然支配の力」を源泉としている。でも、その無理が祟って弱者にしわ寄せが来ている。にもかかわらず、人工環境である【システム】に依存してしまっていて、それが見えない。

「私たちの土俵」は、「自然からもたらされる恵み」を基本としようというもの。根っこのところで発想が違うのです。

美しいかもしれないがしっくりこない。これは非常に正直な陳述だと思いますよ。

どこまでも拡大する自己はがん細胞のようなもの。

森にしてもシステムではないかと思います。よく分からないけど適当にせめぎあい、適当に折り合いをつけるからうまく回っていく。もし凄まじく強力な生物が森にいたとして食い荒らしまわったら森は森として成立しなくなってしまいます。異様に自己拡大しようとするある種の人々は人類にわいたがん細胞のようなものではないかと思います。
そういうのが少数であれば多分抑え込めるのでしょうが数が多いと手に負えない。また勢い付いてしまうとそれを抑え込もうとした方が潰されてしまう。愚樵様のような人々が多数派であればそんな状況にはならないはずですが、現状はどうでしょう。私は愚樵様のような生き方をする人々が増えてくれればいいなと願っています。

Re: どこまでも拡大する自己はがん細胞のようなもの。

凶人さん、おはようございます。

>森にしてもシステムではないかと思います。

はい。ですが、これは「システム」の定義によりますね。昨今、「システム」はますます「環境」の意に近づいて行ってしまっています。しかし、「自然環境」とシステムとでは決定的な差異があることは感じられるでしょう。私はそうしたシステムを【システム】と表記しています。

よく分からないけど適当にせめぎあい、適当に折り合いをつけるからうまく回っていく。

「小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉」ですね。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-499.html

異様に自己拡大しようとするある種の人々は人類にわいたがん細胞のようなものではないかと思います。

う~ん、私は「がん細胞」という比喩は適切ではないと思います。そもそも点でしかないはずの「自己(私はこれを【自我】と表現したい)」がどこまでも拡大するというようなことがあり得るか? 原理的に否でしょう。

マハトマ・ガンジーは次のように言いました。

「明らかに不当な政治支配でも、支配される側が支配する側に協力している限り、成り立ってしまう。だからこそ、わたしたち全員でその協力をやめてしまうべきなのだ。」

この洞察は何を意味しているか。無限の自己(【自我】)拡大には、実はそれに協力する別の自己(【自我】)があるからこそなされるのだ、ということ。しかも無意識的にです。意識せずに支配される、これを「隷属」と呼びます。

私がネットの片隅でほそぼそと呼びかけているのは、「隷属から脱せよ」ということなのです。「かけじく(笑)」に掲げてある“世界を〈霊〉で満たせ”なる言葉は、そのための方法論(のつもり)なんですけどね。

偉そうに言わせていただきますが、私は「自立した人間」(のつもり)です。ここでいう「自立」はいわゆる社会人ということではない。社会から与えられる属性(学歴職歴、社会的なポジションなど)を剥ぎ取ってもなお、「私はこれこれしかじかの者である」と言明できるということです。当エントリーの冒頭でも書きましたが、それが私には「樵である」ということ。樵の社会的ポジションは林業従事者、いえ、林業作業員ですけれども、仮にそのポジションがなくなったとしても、私が樵であることに変わりはない。それを自覚し追い求めているから「隷属から脱せよ」というメッセージを発してしまうことになる。

凶人さんは、「愚樵のような人間が多数派になればよい」と言い、どこかご自身を埒外に置いているような感がありますが、しかし、「愚樵のような人間」の意味するところが「自立した人間」であるのならば、凶人だってそうあらねばならないわけでしょう? それともあくまで「社会人」でありたいのですか? 現代の日本では、「社会人」とはほぼ「会社人」を意味します。公務員も日本国株式会社の会社員です。それが凶人さんのアイデンティティであるということで、自身、満足できるのでしょうか? 

古い世代の人はなかなかそこからは抜け出せないでしょうけどね。凶人さんは感触的にはお若い感じがするが、違いますかね。それとも「正社員になることがすべて」といったクチですか?

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