愚慫空論

理性ではないと思う

今回も他所様のブログ記事から。わが愚樵空論ではおなじみになった逍花さん。

 『シャンカール・ヴェダンタム著『隠れた脳』―人類の進化の過程で獲得されたバイアス』

隠された能 人間にはさまざまな「バイアス」がかかっている。震災の折り、「正常化バイアス」が働いてしまったことが「命の分かれ目」になってしまったいった話は多く語られたし、『隠れた脳』ではそういった事例がたくさん挙げられ、解説されているらしい。「隠された脳」とは、「バイアスを生じせしめる脳」というような意味だろう。そしてそれは、人類の進化過程で獲得されたものである、という結論になっているらしい。

私はまだ本書は読んでいないわけだけれども、この結論には、「まあ、そんなものだろう」となんとなく納得する。だが、その続きには違和感を持つ。

「本書では、理性的な脳が隠れた脳の働きを抑えるのが困難であると説明しているが、理性こそがバイアスを防ぐ唯一の手段だということも主張したい」


その理性信仰こそが、もっとも根源的なバイアスではないのか。

ふしぎなキリスト教

 哲学の中心には、理性があります。理性はもともと、ギリシアで発展した。この点は、詳しくのべなくても、周知のことでしょう。
 キリスト教徒ははじめ、理性のことなんかあまり考えていなかったけれど、イスラム経由でアリストテレスをはじめギリシア哲学を受け入れてから、あらためて真剣に考えるようになった。キリスト教徒は、理性を、宗教的な意味で再解釈したんです。その結論は非常に重要。キリスト教の考え方では、神は世界を創造した。人間も創造した。神にはその設計図があり、意図があるんです。人間が神を理解しようと思うと、神の設計図や神の意図を理解しなければいけません。でも、どうやって? その可能性を与えるのが、理性なんです。
 トマス・アクィナスに、自然法論というのがあります。『神学大全』の、ユダヤ法について書いてある「旧法」の部分をみると、法には「神の法があり、自然法があり、国王の法がある」と書いてある。キリスト教神学の教えるところによれば、法は、神の法/自然法/国王の法(人間のつくった法、制定法のこと)と、階層構造になっている。神の法とは、神が宇宙をつくった設計図のことです。これは、神の言葉で神の書物に書いてあり、人間は目にできないし、理解することもできない。ただし、一部分であれば、人間も知ることができる。その一部分を、自然法といいます。自然法は、神の法のうち、人間の理性によって発見できる部分です。立法者は神で、人間はそれを発見するだけ。理性は、人間の精神能力のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです。人間は罪深く、限界があり、神よりずっと劣っているけれど、理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない。数学の証明や論理の運びは、人間がやっても、神と同じステップを踏む。ゆえに、自然法を発見できる。こう位置づけるのが、キリスト教神学です。
 自然法と言いましたが、キリスト教のいう「自然」(ネイチャー)は、理解がむずかしい。私の理解では、自然とは、「神がつくったそのまま」という意味。神の業で、人間の業ではない。神につくられた山や川はそのままで自然だし、植物や動物も自然。動物は自然にふるまうので、罪を犯す(神に背く)ことができません。それから、神につくられた人間の生まれつきの性質(ネイチャー)も自然。法律にも自然なものがある。泥棒や殺人は、人間の理性で考えて、なるほど、それはいけない、と思えるので、神が定めた「自然法」なのです。(ちなみに、ユダヤ法やイスラム法は、神の法がはっきり聖典のなかに書いてあるので、それを読めばよく、聖典の外に、わざわざ自然法を発見するという発想がありません。)
 理性にこのような位置を与えると、信仰を持ち、理性もはたらかせるのが、正しい態度ということになる。理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。
 ためしに理性を、神に向けるとどうなるか。理性で、神をとらえられるか。理性は神が人間に与えた能力なので、その能力を使えば、神が確実に存在することを証明できるに違いない。これが神学の、最初のテーマだった(神学といっても、中身は哲学です)。やってみると、あまりうまく行かない。そこで、理性の届かない先に、信仰のもたらす知識(神の恩恵)がある、ということに落ち着いた。理性/信仰は、両方とも人間に必要である。神は、理性によってその全貌がとらえられないのです。
 しかし、逆に言えば、神が創造したこの世界(宇宙)は、神ではないから、人間の理性で残らず解明できるとも言える。宇宙に理性を適用したら、神の意図や設計図が読解できないか。これも信仰に生きる道である。こうして、自然科学を始める態勢が整ったことになります。しかもこれは、アリストテレスの自然学ではない。アリストテレスはたしかに理性を使って、自然はこうなっていると書いたけれども、それは神の設計図どおりである証拠がない。それを、自分の理性を使って確かめてみましょう。そうしたら、コペルニクスになり、ケプラーになり、デカルトになり、ニュートンになるでしょう。
 自然現象がうまく解明できたら、今度は、社会現象についても理性を適用してみよう、となる。そうしたら、スピノザになり、ホッブズになり、ルソーになり、ロックになり、ヒュームになり、カントになるでしょう。ヘーゲル、マルクスにもなったりした。
 これら(哲学、自然科学、社会科学)は、信仰が理性を正しいものと是認したことでスタートし、キリスト教的文脈と離れても、ときにはキリスト教に反対してまでも、理性的にふるまう理性主義を生み出した。たとえばフランスでは、大革命のときに、カトリック教会と絶縁し、教会領を没収し、フランス共和国を樹立し、理性神を拝んだりした。


以上、掟破りの長々引用は、橋爪氏の発言。(p.280~283)

人間にはどうしても「バイアス」がかかる。なぜならそれは、進化の過程で獲得したものだから。いうなれば「自然法」だ。しかし「バイアス」は、時にはマイナスに作用することもある。だから「バイアス」を見定めて解放されていく必要も生じる。その解放された状態は、「自然法」の上部構造である「神の法」に――完全に理解することは原理上不可能だが――近づくこと。そして、そのアクセス法は唯一理性のみ。まったく見事なキリスト教の「バイアス」ではないか。

キリスト教文化に馴染みの薄い私たち日本人は、理性と霊感とは水と油、相反するものだと前提している。その前提は確かに、キリスト教文化でいう「自然法」理解の範囲においては有効だ。だが、「自然法」の範囲を超えてしまうと、途端に無効になる。

『ふしぎなキリスト教』からの引用でも明らかなように、欧米人のいう理性(reason)には霊感(inspiration)が含まれている。だからこそ「自然法」を超えたところでも、理性でアクセス出来ると考える。近代の日本人はそうした欧米人の理性信仰の上っ面だけを真似てしまった。霊感を切り捨てた理性を「理性」だと勘違いした。そして、近代化を推し進める過程で「ニセ理性」へと傾斜し、霊感を切り捨ててしまった。「inspiration」と表現されると先進的に受け取るのに、その訳語の「霊感」とすると途端に前時代的なものを感じてしまう。これこそ「日本的ミスマッチ」である。

日本人の霊感は、感性のなかにある。日本人は超越神を信じていないから、神の設計図――「神の法」などがあるとも思っていない。設計図なら感得するのは理性だというのはスジが通る。だが、設計図の存在しない「混沌」から「何か」を感得するとなれば、それは感性でしかありえないはずだ。

で、ここで疑問。

以上のようなことを感じ取るのは、理性か感性か? どちらも当てはまるような気もするし、どちらでもないような気もする。「悟性」といいたいところだけど、カントやヘーゲルだって「キリスト教バイアス」だから不用意には使えない。仏教的に「識」といえば良いのだろうか? それも私にはまだよくわからない。

いずれにせよ、ひとついえそうなこと。それは、キリスト教起源の「近代」に過適応してしまい「近代」に違和感を持ち始めている日本人は、実は様々な「バイアス」から自由な位置にいるのではないのか、ということ。「バイアス」から自由なことが逆に価値観の混乱をもたらしている。そのように考えるなら、私たちが為すべきは、自分たちの「バイアス」を創り上げることだということになるだろう。

ただし。ここで留意しておくべきことがある。それは「創り上げる」は「作る」ではないということ。むしろ「育て上げる」と言った方がよい。なにせ「バイアス」である。無理に作ろうとすると、必ず歪みを生む。戦前の日本のように。また、3.11後の日本が戦前のようになりつつあるという声も多く聞く。だが、希望はあると私は思っている。

その希望の大きな光のひとつがソーシャルメディアだ。マスメディアは世論を「作る」ものだったが、ソーシャルメディアは「育てる」ものだと、言って良さそうに思う。まだ断言は出来ないけれど。それとも、そうした見方は私の「バイアス」なのだろうか?

コメント

バイアスのない人はいないですね

>「inspiration」と表現されると先進的に受け取るのに、その訳語の「霊感」とすると途端に前時代的なものを感じてしまう。これこそ「日本的ミスマッチ」である。

まったくその通りだと思います。
「霊感」だの(わざわざスピリチュアルという言葉で言い換えるのもよくわかりませんが)なんだのっていうと、単に信じる信じないっていうだけのことなのに、「騙す」「騙されない」の話になっちゃうのがさもしいなあといつも思います。

超越神のなりたちや文化についてはぼくはよく知りませんが、欧米の人たちは、理性によって「バイアス」から解放されることで神の法に近づくとほんとうに思っているんでしょうか。うーん、勉強不足なのでなんとも言えませんが、キリスト教ってなんだか政治臭い気がします。

>マスメディアは世論を「作る」ものだったが、ソーシャルメディアは「育てる」ものだと、言って良さそうに思う。

これも同感です。

ツイッターが日本でウケているのも、感覚的なツールだからだと思うんです。このように身体に近いところでつながるツールって無かったから。140字という制限のおかげで議論には向いてない。理性よりも感性が顕在化する。
あとパソコンの前だけじゃなくて携帯やスマートフォンで使えるってのがミソで、なにか直感的(inspiration)にひらめいたときにすぐつぶやける。はらへっただの疲れただの、身体の活動に即したつぶやきから、つながりや思考が生まれる。これはやっぱり「感性的」ですよね。

で、そういうふうにpeople が communication なしにそれぞれの感性でつぶやいた結果としての 小さな difference が集まったときに、「識」が表れるのではないか。というのが「一般意志2.0」なんだろうなと思いました。

そう思うぼくもバイアスだらけですが。

あ、

あ、でも拙ブログのコメント欄に書いた土門拳のことばは、バイアスをなくしていくっていう意味にもとれるなあ。
http://yamachanblog.under.moo.jp/?eid=367#comments

また考えてみます。

ひるやすみ

昼休み中です。
最近「良心」について考えてたんですが、このエントリー読んでて、あぁ、霊感と理性が融合すると良心になるのかもしれない、と思いました。

拙エントリーにリンクしてくださってありがとうございます。

「隠れた脳」で最後に引用したヴェダンタムの文章の中の「理性」という言葉ですが、私は必ずしも西洋的哲学の系譜の理性をさすとは限らないように思いました。
(その先の具体的な話がなかったのですが)

ハイエクもいっていますが、人間の根源的な感情等は、狩猟採取時代に少数部族で生活する中で発達したもので、それが文明を築いてからのより多くの人間で構成される社会の中では、うまく機能していないところがある、ということなのだと考えています。

一匹の犬を救う物語に巨額の費用が費やされ、ソマリアで死んだ数100万人の話よりも感動的に受け止められるという現実は、私は変わったほうがいいと思います。

そのために、ソーシャルメディアが機能するのは、理想です。
ただ私には、今のソーシャルメディアは、時としてバイアスを拡大する方向に働いているように見えてしまいます。

『ふしぎなキリスト教』はオススメです

・山やまさん

『ふしぎなキリスト教』はオススメです。私もTBをいただいたのが縁で読んでみたのですが。

>私の通勤読書メモ:『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎, 大澤真幸<
http://tuukinndokusyo.seesaa.net/article/213766176.html

余力がありましたら、小室直樹博士の『日本人のためのイスラム原論』。イスラムの話ですが、キリスト教についてもよくわかります。翻って、私たち日本人の「バイアス」といかに異なるかも。

なにか直感的(inspiration)にひらめいたときにすぐつぶやける。

そうなんですよね。「inspiration」=直観的という理解が一般的ですよね。でも、私はそうではないと思っているんです。霊感というのは、確かに直観的ではあるんですが、もっと錬磨されたもの。有名な逸話、湯川秀樹博士が寝ているときに中間子理論を発見したような。

津田氏が見出していると想像するのは、そうした直観的な、悪くいうと脊髄反射的な反応が、ソーシャルメディのなかで互いに錬磨しあう光景のような気がします。それは、逍花さんが指摘されたように「バイアス」を増幅される一面も確かにあるようです。でも、そうした面を割り引いても、反応の連鎖が「集合知」と呼ばれるような、東浩紀的にいうと「一般意志2.0」を生み出すことに期待をかけているのではないのでしょうか。

で、そういうふうにpeople が communication なしにそれぞれの感性でつぶやいた結果としての 小さな difference が集まったときに

はい。

憲法76条3項

・すぺーすのいどさん

日本国憲法第76条第3項(裁判官の独立)
すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

「霊感+理性=良心」の図式は、この条文にある「良心」にぴったり一致しますよね。もっとも、そんな「良心」をもった裁判官は少ないようですが。

理性を超える理性というバイアス

・逍花さん

必ずしも西洋的哲学の系譜の理性をさすとは限らないように

ふむ。そうすると、そう読んだのは私の「バイアス」かな。

ハイエクもいっていますが、人間の根源的な感情等は

確かにハイエクはそのように考えていたようですし、そのハイエクの考えは日本では池田信夫氏が広く紹介されました。が、晩年のハイエクは『感覚秩序』のなかで、そうした部族感情蔑視の考えを改めつつあったのではなかったのでしょうか。
(『感覚秩序』を読み通したわけでないので、伝聞でいっています。間違っていたらすみません。)

ただ、そうでなかったとしても、そのハイエクの考え自体に「バイアス」があると私は思っています。ハイエクの「バイアス」では説明出来ない存在、それが他ならぬ日本人だと私は思っていますので。

日本人はハイエクの言う「部族感情」をいまだ色濃く残しています。しかし、それでも、日本は一個の独立した文明を築き上げ来ました。現代は西洋文明に取り込まれた感がありますが、それ以前、未だ日本が「独立」していた幕末期には3000万の人口があったという。この事実からすれば「文明を築いてからのより多くの人間で構成される社会の中では、うまく機能していない」とは必ずしも言えない。もちろん「部族感情」だけで日本文明が成り立っていたわけではありませんが、文明の在り方自体が「部族感情」を保持させるよう機能していた。私はそう見ています。

もう少し具体的にいうと、文明の骨格は主に中国から輸入した概念を用いた。江戸幕府でいうなら儒教ですし、時代を遡れば仏教も国家護持の骨格たるべく構想されたわけです。しかし、儒教も仏教も、国家秩序の骨格にはなったかもしれないが、日本人の血肉にはなりませんでした。そのことを描き出したのが芥川の『神神の微笑』ですね。

そう捉えると見えてくるのが、マスメディア=「骨格」/ソーシャルメディア=「血肉」という図式です。戦後の日本は、マスメディアがTVという形で「血肉」の中核であった「お茶の間」に鎮座してしまい、結果、「血肉」が解体されて「骨格」ばかりのやせ細った国へと変わり果ててしまった。無縁社会というのがそれでしょう。ソーシャルメディアは、「お茶の間」とは別の形で「血肉」を復活させようとしている。それはかつての「世間」と同じで、特定の「バイアス」を増幅する効果があることは否めないでしょう。

そもそも「縁」などという考え自体が「部族感情」です。西欧キリスト的な「市民」という概念、あるいはイスラーム的なウンマという共同体とも異なります。日本で「縁」というと、どうしても地縁・血縁を意味します。そしてそれがなくなって困った、と問題視されている。この事実をどう見るか。

日本人はおそらく「市民」にはなれない。ウンマの一員にもなれない。かといって「縁」を支えていた部族感情を排除して国家を運営しようとすると、コスト的にはまったく帳尻が合いません。TPPを巡る賛否の争いは、原発を巡る争いとまったく同じで、自然環境やあるいは文明文化が長きにわたって醸成してきた社会環境を「ゼロ査定」するか否かの争いです。日本人の場合、アミニズム的な自然崇拝に近い形で形成された「部族感情」が「骨格=国家」のコスト軽減に大きく貢献しているわけですが、TPP賛成派である池田氏あたりの考えだと、それは「ゼロ査定」です。

でも、そんなバカな話があるわけはない。私には「偏差値」が高いだけの「アタマデッカチ」にしか見えません。

Japanese

英米人の脳裏には、現実の世界があると同時に、非現実の世界観 (world view) がある。

現実の世界を現在時制の内容で表現すると、非現実の世界は未来時制の内容として表現できる。
現実の世界と非現実の世界は、英語では一対一の対応がある。
そして、現在時制の内容に対応した未来時制の内容が過不足なく考えられる。

真実は現実の中にある。が、真理は考え (非現実) の中にある。
現実は真実である。現実の内容として述べられる非現実は嘘である。
時制がなく、現実と非現実の区別がつかなければ、本人は嘘ついてるという自覚はない。
話の内容が現実離れしていることに違和感がない。

現実の内容は五感の働きにより得られるが、非現実の内容は瞑想により得られる。
現実の世界が過不足なく成り立つように、考えの世界も過不足なく成り立っている。
もしも、考え (非現実) の世界に矛盾があれば、それを見つけて訂正しなければならない。
自他が協力して構想の中の矛盾を丹念に淘汰すれば、非現実の世界は現実の世界と同じ広がりと正確さをもち、場当たり的な発言の内容とはならない。

日本語脳は、非現実の内容を脳裏にとどめ置くことができない。
それは、日本語には時制がないからである。
日本人は常に実を求めている。現実にとどまることのみを信じている。
日本人の考えは、現実の外に出るものではない。
現実を現実の外にある理想に導くものではない。

西遊記に出てくる孫悟空は、自己の有能さに得意になっていた。だが、釈迦如来の手のひらの中から外に出ることはできなかった。孫悟空には、世界観がないからである。

英語の時制を使うことができない英米人は、子供のようなものである。
だから、非現実の世界を考えることができない日本人は、12歳の子供のように見える。

考えがなければ、議論ができない。
日本では「議論をすれば、喧嘩になります」と言われている。
意思は未来時制の内容である。
時制が無ければ、恣意となり、その思いは公言にもならず宣言にもならない。

物事の決着は、談合により行われる。
そこには、公言も宣言も必要でない。
意見を述べようとすると「理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる」と言って相手にしない。
もっぱら恣意と恣意のすり合わせを行って決着する。いわゆる、どんぶり勘定である。
和をもって貴しとなすためには、金を配るしかない。これも馬鹿の一つ覚えか。
現ナマは、現実の内容であり、日本人には信用の証となる。

究極の人生目的は、狭義の自己利益・金を得ることにある。
国内では、学閥など序列を作って自己利益を確保しようとする。それで、忠義が尊ばれている。
人間が縦一列に並んで他を入れない密な人間関係である。
序列作法の励行により、序列の外に出られない島国根性が植えつけられる。だから、玉砕を覚悟する。

国内においても、国際社会においても、日本人は金を配って存在感を示そうとする。
これもひとえに社会の中での序列順位向上のためである。
だが、日本人は内容のない発言により信用を失うことが多い。
それでも、日本人は人類のために貢献している。
だが、その貢献の仕方は、発言のない家畜が人類に貢献するのと似たところがある。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

欧米人のようにならなければダメなのか

・nogaさん、コメントありがとうございます。

仰ることはよくわかるつもりです。
でも、私はそういった「論理」を採用したくないんです。

なぜか。その論理がもたらした結果が「理性も感性もなし」だから。

日本人は子どもです。否定はしません。けれども、かつては子どもだけれどもバカではなかった。今はバカな子どもです。それは「子どもはバカだ」と言われ続けたからです。その論理がnogaさんの仰った論理です。

日本人も英語で話すようになればよい。そうすれば大人になれるだろう。なるほどその通りでしょう。でも、その論理の背景には「ゼロ査定」があるんです。日本人が日本語でコミュニケーションすることによって培ってきた文化というものへの。

私はそれは許せない。日本人だから。それ以上の根拠はありません。簡単な話です。

日本人は欧米人にはなれません。日本人だから。これも簡単な話。でも、変に(と敢えて言わせてもらいます)に「勉強」した人間は、その簡単な話が簡単であるがゆえにわからないんです。いや、わかりたくないのかな? わかってしまうと自身が勉強した意味を見失いかねませんからね。

日本の知識人はたいていそうですね。日本が培ってきた文化よりも、自身が勉強したことの方が大切なんです。結局、自分勝手なんです。私はnogaさんの論理にも、その自分勝手が透けて見えるような気がしてなりません。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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