愚慫空論

一般意志2.0と共感と仕事

『一般意志2.0と新しい政治メディア(東浩紀と津田大介)』(yamachanblog)

を読んで、朝から少し考えた。

哲学についてよくいわれることに、「哲学を学ぶ」ことと「哲学する」こととは根本的に異なる、というのがある。一般意志もそれと同じじゃないか、と。つまり、「一般意志を学ぶ」ということと「一般意志する」とは異なる。

では、一般意志における1.0と2.0の違いは何か。1.0は「一般的に学ぶことを通じて「意志する」。2.0は「一般的には学ばずに意志する」。という言い方は誤解を与えるか。ここでいう学ぶというのは、「deliberate」。東浩紀氏が、この「deliberate」の語義の二重性を語っているが(6分20秒あたりから)、



つまり「一般的に学ぶ」とは「熟議」するであり、「deliberate」はそのように解釈することも可能だけれども、その解釈だけではなくて、「十分に情報を与えられた人間が熟慮(deliberate)する」と捉えることもできる。そうなると「deliberate」は、一般意志に相当する「哲学を学ぶ」ようなことは抜きに、いきなり個人的に「哲学する」というようなことだと言えそうで、そのよう個人的な「deliberate」の総体が「一般意志2.0」ということになる。

もう少し言葉を継いでみよう。

「哲学を学ぶ」のはかなり大変なことだ。プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン。マルクスだって外せないし、最先端で語りたいと欲するならフーコーやデリダやハーバマスなんかも勉強しなくちゃならない。これらの思想に一応は通じていないと「哲学を学」んだことにはならない、と一般的には考えられる。そしてそれは「偏差値」の高い人でなけれ無理だ、と。 「一般意志」もそれと同じで、哲学はともかくも、法律政治経済国際関係エトセトラetc、社会のあらゆることに一応は通じていなければいなければ捉えられない。というのも、「一般意志」が政府を選ぶから。よく考えると、べつにあらゆることに通じてなくなっていいし、現に通じていない国会議員や官僚もたくさんいるわけだが、それでも国民の一般意志として、通じてなきゃいけないという思いは漠然としてある。その思いが「偏差値」へと(近代日本では)繋がっていく。

で、そういった近代日本的一般意志がどう働くかというと、政府を動かす人も批判する人も「偏差値」の高い人ということになって、「偏差値」が低いと思っている者は基本的に政治へは参加しない。参加するのは煽られたときだけ。つまり端的に「B層」である。

が。立ち返って考えてみれば「哲学をする」のに「哲学を学ぶ」必要性は必ずしもない(それでやっているのがわが空論である! 笑)。同様に、意志するのに、必ずしも「一般意志を学ぶ」必要はないし、そのための「熟議(deliberate)」する必要もない。政府を動かすのならその必要はあるだろう。が、政府の外で「意志する」のであれば、別に「熟議(deliberate)」は必要ない。個人的な「熟慮(deliberate)」があればいい。

私なりに勝手に解釈すると、「一般意志2.0」というのは、そんなものかと。

では、「一般意志2.0」はどのような形で立ち現れるか。もしくは可視化されるか。
私が思うのは「共感」と「仕事」である。

1.0であれ2.0であれ「一般意志」が全体として立ち現れ可視化されることはない(私の言葉でいうと「一般意志」も〈霊〉である)。立ち現れ可視化されるのは、個人個人が言葉や行動によってのみ。そして1.0の場合、それは多くは「批判」という形を 取る。

というのも、実際に政府を動かしているのは「偏差値」の高い者たちのなかの一握りだから。そして民主主義1.0においては、政府を「批判する」ことこそが「参加」だと受け止められている。宮台氏がよく言っているが「文句を垂れる」ことは「参加」ではない。政治制度の上では与党に文句を垂れるために共産党に投票するという行動だって立派な「参加」だけれども、それは本当の意味での「参加」ではない。

デモは本当の意味での「参加」になるだろう。が、それも「偏差値」の高い者たちの行動である。近代日本的な文脈では、デモなどで政治に「参加」しようとすること自体が、「偏差値」の高い行動だと受け止められる。

これが2.0になるとどうなるか。「デモなんかに参加している暇と労力があるのなら、自分で「政治」をせよ!」ということになるだろう。その「政治」の方法が「共感」と「仕事」だ。

十分に情報を与えられ(なくても)、「熟慮(deliberate)」した人間が為す行動は「仕事」と「共感」である。「仕事」は、近代日本的な意味では「稼ぎ」、つまり、労働力を【商品】として売るか、あるいは労働力商品を転売して儲けるか、いずれにせよ「金を稼ぐ」ことであるが、本来的な意味での「仕事」はそういう意味ではない。「事に仕える」とは、共同体を維持するために行なわれる労働のこと。「仕事」が政府の役割であるかのかどうかは、夜警国家vs福祉国家といった軸を中心にして議論はあるけれども、近代日本では「仕事」は国家の役割だと捉えられてきた。そして、国民の多くは「仕事」はせずにブー垂れていればいいということになった。これでは「国」という共同体がバラバラになるのも道理である。

民主主義2.0のプラットフォームが整った社会では、「熟慮(deliberate)」した個人は自身が主体となって「政治=仕事」を行なおうとするだろう。それを支えるのが「共感」である。「共感」もまた「熟慮(deliberate)」の末の行動である。「共感」の後は、ともに「仕事」に参加するもよし。それが無理なら寄付もよし。津田大介氏が構想しているのは、主に「共感寄付」のプラットフォームだろう。

 Twitterが狙うのは「送金のプラットフォーム」

(この主張に対しては、私は『ソーシャルメディアに送金機能は必要ない』と「反論」したが。)

私も「一般意志2.0」「民主主義2.0」は賛成だ。

******************************

最後に少々偉そうなことを書き足しておこう。私はすでに手前勝手な「哲学」で、このようなことは考えていた。だから、上で展開した議論は実は「考えた」のでなくて、すでに考えていたことの「読み替え」に過ぎない。自身の考えを「一般意志2.0」「民主主義2.0」という言葉を使って書き換えただけ。だから、私の「読み替え」は「東浩紀」の「読み間違え」の可能性も高い。というより、そもそもあまり「東浩紀」は読んでいないし。

仮に私が「読み間違え」でないとしたら、次のように言っておかなければならない。「一般意志2.0」「民主主義2.0」の最大の障壁は「貨幣1.0」である、と。私が「一般意志2.0」「民主主義2.0」に辿り着いたのは「貨幣2.0」について考察を通じてである。「貨幣1.0」のもとでは「一般意志2.0」的に振る舞うのは非合理的で不利である。ということは、「仕事」を支えるはずの「共感寄付」は、「貨幣1.0」のもとではどうしても「一般意志1.0」的な思考を経由してからでないと行えないということになってしまう。つまり自身の不利を顧みず、“社会のために”行動することが求められる。

このあたりの話はまた機会を改めてすることにして、「貨幣2.0」について考えた過去記事を紹介して、締めとしよう。

 『貨幣の「垂直性」』

ああ、そうそう。いずれにせよ『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』は読んでみなきゃ。本を買って読むというのは、樵には労力的にも経済的にも大変なんだが。たかだか2000円でも、ね。

コメント

「政治」の方法が「共感」と「仕事」なるほど!

たいへん興味深く読みました。
ぼくは昨日はじめてルソーの「社会契約論」というものを知ったくらいで、プラトンもカントもなにもぜんぜん知らない門外漢なので恐縮しながら書き込みします。愚樵さんの空論もぼくから見ればりっぱな哲学です。ふむふむと唸りながら「共感」して読みました。

津田大介氏が構想しているのは「共感寄付」のプラットフォーム、というのもたぶんそうだと思いました。寄付という言葉の受け止められ方も「貨幣2.0」においては変質していくのでしょうね。津田氏は現在発行している有料メルマガを今後政治メディアを作るための原資集めと位置づけていると言っています。ぼくが有料メルマガをはじめて購入したのもそれに賛同する気持ちも多少あったからかもしれません。とはいえ、津田氏のメルマガは価格に負けないくらいの「仕事」ぶりでした。そう考えると、ここではもうすでに「貨幣2.0」がはじまっているのかもしれないですね。
というか、そもそも「商店街」っていうのもそういうものだったのかもしれないですね(ぼく自身は生まれた時からスーパー世代なので実感はありませんが)。いくら家電量販店が安くても近所の電気屋さんで買うっていうのは、単純に等価交換の論理だけではない「なにか」に対して対価を払っているわけで。それが「付き合い」だったり「共感」だったり「応援」だったりするのかもしれないですが、量販店で買うのが当たり前の世代(その上、価格.comで最安値を探したり)からしてみれば、それはまったく理解不能であると同時にとても気になるプラットフォームであるような気もします。

津田大介さんのメルマガ、私も読んでみようかな

・山やまさん、ようこそ。

山やまさんの記事を拝見して、出勤前のわずかな時間で勢いで書いてしまいました(^_^; 最後は勢い余ってしまって...、お恥ずかしい。

私が「貨幣2.0」でひとつ思い浮かべるのは、無尽や頼母子講といった相互扶助を基本とした庶民金融です。戦前までは全国津々浦々、あらゆるところに存在したらしいのですが、現在は廃れてしまいました。山梨と沖縄にはまだ残っていると聞きますが。
(私は現在山梨在住で、周囲に聞くと、やっているという人は多いです。ただ今は「貯金会」というような形が多いようです。)

無尽や頼母子講は、「共感」以前の地域の共同体の絆から生まれてきたものでしょうが、少し調べてみるとその枠に留まるものではなかったみたいですね。戦前の大恐慌の時代には、いくつもの無尽が連合して大無尽となり、一般の銀行と遜色がないくらいの金融力を持つに至ったとか。こうなると、もう立派に「政治2.0」の一端といった感じです。そのようなものがソーシャルメディアなど全くなかった時代に実現していたのは驚きだとは思いませんか? 

というか、そもそも「商店街」っていうのもそういうものだったのかもしれないですね

はい。そうですね。もっと言わせていただくと「市場(イチバ)」がそもそもは、そのようなものだったんですね。

現在、私たちは「市場」と書くと「シジョウ」と読んで、希少財である資源の需要と供給とが貨幣によって測定される価格を軸に均衡する「場」というふうに考えます。情報が完全に行き渡ると「一物一価」になると考えられますが、これ、「一般意志1.0」的だと思うんです。でも、もともとの「イチバ」はそうではなかった。売り手の買い手の「交渉の場」が「イチバ」。その「交渉」は貨幣を軸にしたものではあったろうけれども、それ以外の要素も少なからず含まれた。「商店街」はそのような「イチバ」でしたよね。そこでやり取りされた貨幣や商品には、今日でいう「共感消費」の要素も含まれていたわけです。あるいは「共感販売」というのもあったかもしれません。

今、ソーシャルメディアが復活させようとしているのは、かつての「イチバ」の姿そのままというわけではないのはもちろんですけれども、「イチバ」をバージョンアップさせたもの、つまり、「イチバ1.0」から「シジョウ」を経た出現した「イチバ2.0」ではないかと、私は勝手に考えたりしています。

無尽や頼母子講というものをはじめて知りました。相互扶助を基本とした庶民金融、そんなものがあったのですね。

>戦前の大恐慌の時代には、いくつもの無尽が連合して大無尽となり、一般の銀行と遜色がないくらいの金融力を持つに至ったとか。こうなると、もう立派に「政治2.0」の一端といった感じです。そのようなものがソーシャルメディアなど全くなかった時代に実現していたのは驚きだとは思いませんか?

そうですね、驚きです…。

そういえば津田さんがツイートしてくれたおかげで昨日ブログのアクセスがすごいことになってたので、こりゃアフィリエイトでの売り上げも伸びただろうなうひひと思ったら1冊も売れてませんでした。おっかし~な。「貨幣2.0」にはそれなりの戦略も必要ですね。

・山やまさん

かつての無尽や頼母子講の普及から想像できるのは、日本にはもともとそのような素地がある、ということなんです。それはおそらく、一面では「国を挙げて戦争に突入した」みたいなことにもなった。が、ここでは主導したのはマスメディアでしたよね。「偏差値」の高い人たちが主導した。でも、無尽や頼母子講は「偏差値」は関係なかったはずなんです。

ソーシャルメディアに期待するのは、かつて日本にあった「素地」を掘り起こすことです。この「素地」は今でもかなり強靱に残っていると私は思っています。その一面が、宮台氏なんかも指摘しますけど、「社会システム」の非常な安定性です。今はそれが悪い方へと作用していますけど、もしかしたらソーシャルメディアがそれを良い方向へと動かすかもしれません。

それには、やっぱり「貨幣2.0」とソーシャルメディアとが連携する必要があると思うんですね。

「貨幣1.0」というのは人々の「絆」を断ち切るものです。いえ、貨幣による繋がりだって繋がりには間違いありませんから、私は「弱い絆」と呼んでいますが。そうなると「絆」は「強い絆」。「貨幣1.0」は「強い絆」を「弱い絆」へと変換する「装置」なんです。

「貨幣2.0」は、その逆をやるものになるはずです。すなわち、「弱い絆」を「強い絆」へと変換する「装置」です。無尽や頼母子講にその原型を観ることができるでしょうし、震災の折り、ソーシャルメディアを媒介として集まったたくさんのお金や物資もまた、「貨幣2.0」的なものだったと思っています。

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