愚慫空論

何者でもない者への憧れ

それが最初に描かれたのは、私の知る範囲では、『涼宮ハルヒの憂鬱』。
(それより前は、単に知らないだけ。見てないから。)


東中出身、涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。
このなかに、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者、いたらあたしのところに来なさい。以上!

「これ、笑うとこ?」

上の画像は、ハルヒがそのように第一声を発したシーンからのもの。有名なところだから、ご存知であろう。
(動画を抜き出してきて貼り付けようかと思ったが、面倒だからやめた)

『ハルヒ』の特徴を一言でいうならば、「非日常から日常へ」であろう。「特別から普通へ」と言い換えてもいい。

ハルヒは日常に飽き飽きしている少女。だから、ハルヒが望むのは非日常。宇宙人未来人異世界人超能力者は、そうしたハルヒの願望である。ところが当のハルヒ自身が、実はもっとも非日常的な存在だった――これが『ハルヒ』の基本設定だ。

この設定から紡ぎ出されていく物語は、「非日常な日常」。宇宙人未来人超能力者(異世界人は出てこない?)と超越者ハルヒが巻き起こす、視聴者から見れば非日常な出来事。視聴者は物語の非日常性を楽しむことができる。ありきたりの日常など面白いはずがない。

だが、非日常性は『ハルヒ』の軸ではない。『ハルヒ』にふんだんに盛り込まれている「萌え」要素と同じで、物語を娯楽的にするためのトッピング、ご飯にかけるふりかけみたいなものだ。ご飯そのものではない。

「ご飯」にあたるものは、裏設定である。それは物語を通じて明らかになっていく。つまり「ハルヒの成長」として描かれる。では、ハルヒはどのように「成長」したのか。あるいは「ハルヒと愉快な仲間たち」はどのように成長したのか。それは「非日常なハルヒを日常的に受け入れる」ということであり、実はハルヒ自身もそのことを「自身も気がつかないうちに心のなかでは望んでいた」ことが明らかになること。

架空のキャラであるハルヒが架空の物語のなかで気がつくかどうかは、どうでもいい。重要なのは、視聴者が気がつくかどうか。私は気がついた。多くの人も気がついたであろう。特別な存在から、普通の存在へ。特別であろうとなかろうと関係なく、普通に受け入れ受け入れられる関係へ。

そう。SOS団はHTTである。
ただ、SOS団はトッピング的要素として非日常性が高い。HTTは低い。にもかかわらず『けいおん!』は、物語として楽しむことができるし、広く支持もされている。これは物語の「進化」であろうし、視聴者側の「進化」でもあろう。

この「進化」はしかし、私のような40過ぎの世代が当たり前のものとして受け取っていた「進化」とは明らかに異なる。我々は「進化」を「日常から非日常へ」「普通から特別へ」と捉えていた。親たちからそのように教育されていたということもあるが、自身でもそのように「進化」していくことが当然だと思っていた。苦しくても悲しくても、特別な存在になるためには歯を食いしばって頑張るものだと思っていた。



懐かしさもあるが、今となっては重苦しいのも否めない。



比べてみると、こちらはバカバカしいくらいに、軽い。義務感や使命感などといったものはクスリにもしたくないといった感じ。でも、好き勝手やっているようでいて、そうではない。「和」を保とうとする意識はある。むしろ、それしかないと言ってもいいくらいだ。

『ハルヒ』や『けいおん!』のようなアニメは「空気系」と総称されるらしいが、私、愚樵的に表現するならば〈社会〉系になる。「空気系」の前に「セカイ系」というのがあったが、こちらは【社会】系。〈社会〉とは、宮台真司式にいえば〈生活世界〉。【社会】は〈システム〉である。すなわち「空気系」は、ごくごくありふれた〈生活世界〉再建への「進化」であると見る。〈生活世界〉のなかでは、誰もが特別ではない普通の「何者でもないもの」である。

ただ、そう見るならば、いまだ「空気系」には非常に大きなものが欠けているということに気がつかざるを得ない。それは家族である。『ハルヒ』にも『けいおん!』にも家族が出てこない。家族のない〈生活世界〉などありえないのである。

******************************
リトル・ピープルの時代

  ← これから読んでみようと思っている。
 「リトル・ピープル」というのは村上春樹に出てくるアレだが、〈生活世界〉に生きる人というような意味でもあるのではないか、と。もっともこれは、読書前の予想だが。

コメント

普通への憧れ

アタックNO.1の時代のアニメは、
オンタイムだったのに何故かものすごく古臭くてダサく思えてならなかったんですよー。
(「ギャートルズ」と「ハイジ」は大好きでした!)
歯を食いしばって頑張ったことがない癖に、歯を食いしばって頑張る人をダサいと思ってたイヤな奴でしたねぃ。。

今はないんですけど、自分では普通なのに「変わってるねー」とか「不思議な人」とか、幼い頃からモーレツに言われ続けてきたせいか、私には「普通」と呼ばれることへの憧れがありまして、就職や結婚などもしてみましたが、そういうことじゃなかったようでした。。「特別な存在」ということではないけれど、今でも、受け入れられないと思っているふしがあったり、本当はあんまりたくさんの人には心を開いていないんだなと最近しばしば思います。(その違いを「これだー!」と思えたのが愚樵さんが以前書いていた「不定時法の世界」シリーズでした。)

愚樵さんとこに来ると、見るもの読むものがどんどん増えてしまいます。
<生活世界>、ややや、私には家族がいないんだけど・・。

ところで、本のガゾー(禁止ワードになっていて漢字で書けない)が線になって見えますが、私だけかな?
「リトルピープル」おもしろそう!私も読んでみたいと思います。

Re:普通への憧れ

・ゆめさん、おはようございます。

そっかぁ、ゆめさんは根っから「普通じゃなかった」んですね(^o^)

私は若い頃は「普通じゃない」のに憧れていました。“オマエはフツーだな”なんて言われるのはイヤでしたね。言われた記憶はないんですけどね(^_^;

でも、今になって思うと、やっぱり根は普通だったんだですよね。ただ、普通でいられない、私にしてみれば「痛切な」理由があった。「普通じゃない」ことに憧れることでバランスを知らずのうちに取っていた、と。そんなところですかね。で、本当に「普通じゃない」者になってしまった今では、普通へ憧れてしまう。まあ、なんとも締まらない話ですね(苦笑)

「ギャートルズ」と「ハイジ」は大好きでした!

ギャートルズは強烈でしたねぇ。私も好きでした。いまでも時々、主題歌がフトした折に頭の中で甦ったりします。もしかしてゆめさんは、コンサートで歌われるとか? ははは、まさかね。

ハイジは定番ですね。宮崎駿ですし。そうそう、『パンダコパンダ』って観たことあります?

今でも、受け入れられないと思っているふしがあったり、本当はあんまりたくさんの人には心を開いていないんだなと最近しばしば思います。

あいや! それでいいじゃないですか? 本当に誰にも分け隔てなく「心を開く」なんて、それこそ特別な存在でなければ無理です。無理は無理と悟ることも大事かと。

私があってはならないと思うのは、「誰からも心を開かれていない者」が存在するということ。そうした者には、社会に対して復讐する権利があるとすら私は思ってます。その復讐を避けるためにも、誰かが誰かに必ず心を開いて接していなければならない。理想を言えば、みんながみんなに心を開いているのがいいわけですけど、それは無理。ならば「誰かが誰かに」。あくまで次善の策として。

ここで気をつけておかなければいけないのは、「誰かが誰かに」が次善であることが忘れられてしまうと、すぐに無責任に陥ること。例えば行政に押しつけたり。でも、行政をやっているのも、私たちと同じみんなに心を開くことなど出来ない人間なんですよね。それを「仕事だから」といって押しつける。ここでいう「仕事」は「稼ぎ」ですね。押しつけられて、あるいはお金を得るためにやっていて、心なんか開きっこないんですね。

私たちが育て上げなきゃいけないのは、「誰かが誰かに」の社会です。もう少し言うと、心を開いている方が有利な社会。共同体というのはそんな社会ですよね。〈生活世界〉です。でも【システム】が作り出す社会は違う。なるべく心を開く範囲を狭くする方が有利な社会です。でも、そのために誰からも心を開かれない「とりこぼし」(←嫌な言い方)が多くなって、復讐されることが多くなってしまう。で、復讐を避けるためのますます心身共に防壁が高くなる。悪循環です。

ところで、本のガゾー

え? なんででしょう。私からは「見えて」いますが。理由はよくわかりません。それから「ガゾウ」は禁止ワードに私が設定してあります。迷惑トラックバックをそれで効率よく防げるというのがありまして。お手数をお掛けしてしまったようですね m(_ _)m

なぜ、まさか?^^

歌いますよ!!
「やつらの足音のバラード」たま~にですけど歌います♪
「パンダコパンダ」は観てません。おすすめなんですね?

>本当に誰にも分け隔てなく「心を開く」
ことができない自分に傷ついちゃいますねー。
それは、私が土だの森だの光だのと分け隔てないものたちの歌を歌う人だからかもしれません。

震災前は開けていると思っていたんですけどね、震災以降それは違ったと痛いくらい思いましたね。【社会】の中にいても、心を開きたい自分と心を開けない自分と両方います。無理なことは無理と悟るべし、ですね。

>「誰からも心を開かれていない者」
これ、二通り思い浮べてしまいました。
弱者にも強者にも存在しますよね。

ガゾウ、誰も何も言わないみたいなので、うちのPCの問題のようですね。新聞のガゾウはちゃんと見られました。

ああ、エンディングの方ですね

・ゆめさん、おはようございます。

『「やつらの足音のバラード』! これ、いいですよね。こちらなら想像できます。

いえね、ゆめさんが、“はじめ人間、ゴゴンゴ~ン♪”ってやってるのはちょっと想像ができないな、と(^_^;

それは、私が土だの森だの光だのと分け隔てないものたちの歌を歌う人だから

なるほど、なるほど。

私はですね、その「分け隔てのないもの」に「暴力を振う者」なんです。生きてゆくために。樵であるということは、そういうこと。

やむを得ず、なんて言いません。それは悦びでもある。もしかしたら「最上の悦び」かもしれない。だから、それを交換可能な【商品】にしてしまおうとする【社会】は嫌い。そのなかで生きていかなければならない己も。

【社会】の中にいても、心を開きたい自分と心を開けない自分と両方います。

なにものを交換可能な【商品】にしない気が済まない者たちは赦しがたいですが、でも、見方を変えれば彼らは「悦び」を識らないんですね。だから、ほんとうはカワイソーなんです。そう思うと、どこかに「心を開ける余地」が見えてくるような気がしませんか?

弱者にも強者にも存在しますよね。

はい。強者弱者の区別は「心を閉ざす」ことから生まれてくるんです。心が開いている者同士に、そもそも強者弱者は存在しません。ゆめさんが、「自分=他者」と仰ったのは、そういう意味ですよね。

「心を閉ざす」というのは、私の言い方でいうと、「〈霊〉を切り離す」です。〈贈与物〉に宿る〈霊〉を切り離すことでモノは【商品】となり、貨幣で交換可能なものになって、また貨幣自体も【商品】となって、社会を駆巡るようになった。社会は【亡霊】に支配されるようになって、〈社会〉は【社会】になってしまったんですね。ここでは【亡霊】を支配する者/【亡霊】に支配される者、すなわち強者/弱者が出現するんです。

【亡霊】に支配されると〈悦び〉を見失います。〈悦び〉は〈霊〉とともにあるんです。もっとも〈霊〉は〈苦しみ〉ももたらしますが。でも、その〈苦しみ〉は【亡霊】によってもたらされる【疎外】とはまったく違う。〈苦しみ〉は糧になりますが【疎外】は何の役にも立ちません。

おっと、それから『パンダコパンダ」ですね。是非とも、というほどではありませんし、宮崎駿初期の作品ですから、今の目からみると物足りないかもしれません。『トトロ』の原型とか言われていますね。『ハイジ』と『トトロ』を足して3で割ったような感じ、かな?

森の霊

根っこを持つ人々は森の分霊で、全体(森)のために働いていますよね。
樵も、全体のために(全体を生かすために)働く二本足の人々。

なので、
>「分け隔てのないもの」に「暴力を振う者」
とは、思いませんね。

その仕事が「最上の悦び」であるってことは素晴らしいことだと思います。それは森の霊と共にあるってことだと思うんですよね。そして、愚樵さんは、そこに痛みやためらう心のようなものもちゃんと感じているのだもの。「暴力を振るう者」とは、その両方を感じない者(亡霊に支配されている者)!私はそう思います。

>ああ、エンディングの方ですね
わははは^^:
どてちーんひねもぐらーまんもーの方か!んー、確かに無理。

残念です

・ゆめさん、おはようございます。

樵も、全体のために(全体を生かすために)働く二本足の人々。

かつてはそうだったんでしょうけど。でも現代は違います。私が樵であるのは実は「ここ」、つまりネット上でだけです。実際は林業作業員でしかない。全体を生かすための樵ではないんです。残念ですが、本当のことです。

私がここでほとんど林業を取り上げないのも、そのためです。林業が森を守るなんて大嘘です。食いものにしているだけ。「森を守る」といえば付加価値が高まるからそういうだけのこと。日本の林業は産業としてはまったくダメダメですから、そんなふうにでも言うしかない。それが実態です。

もちろん高く意識を持って、林業という産業を「全体を守る」ものにしようと頑張っている人はいます。そういう人たちを否定するつもりは全然ない。かといって、そういう人たちと手を組もうという意識も私にはない。そんなものは「最上の悦び」からすれば、つまんないことだから。ネットに向かっている方がずっといい。ここでは「樵」でいられますから。

でも、これってかなり哀しいでしょう? ははは。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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