愚慫空論

〈霊〉について 〔再掲載〕身体性=脳の拡張性

再度、〈霊〉について。

『霊魂』のエントリーで私は、〈霊〉を以下のように定義した。

   1.人間には「魂」と呼ぶべき本来的な運動状態がある。
 2.魂は外界とのやりとりのなかで〈学習〉し、「インターフェース」を発達させる。
 3.〈霊〉とは、インターフェースのなかで結ばれる他者の「像」である。

今回は、〈霊〉を生じさせる〈学習〉について。過去記事において私は、〈学習〉を「身体性」あるいは「脳の拡張性」と呼んだ。

では、その過去記事の一部を再掲載。なお、表現を少し修正してある。

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「脳の拡張性」とはどういったことなのか? ここは説明の要する。そのことを説明するためにまず、「脳と身体の基本的な関係」から見ていく。

脳と身体は神経によって繋がっている。脳は身体に備わった感覚装置から情報を受け取り、その情報を元に身体を動かす。脳の中には、身体の各部位に対応する回路が形成され、例えば右手を動かす場合には、脳の中の右手に対応する回路が活発に作動し、その回路で処理された情報が神経を通じて右手に伝達されて、右手が動かされることになる。


こうした脳と身体の動作を簡単に示したのが上の図であり、「脳と身体の基本的な関係」である。(脳と身体は、神経回路で物理的に接続されている)。 では、「脳の拡張性」とはどういうことになるのか? 下の図が「脳の拡張性」を表す図になる。


この図をみて、これは「脳の拡張性」ではなくて「身体の拡張性」を表しているのではないのかと思われるかもしれない。そう、「脳の拡張性」はイコール「身体の拡張性」でもある。人間は、身体の拡張として道具を使うことが出来る。そして、道具を使いこなす人間の脳の中には、身体と同様の回路が出来上がる(←断わっておくが、これは私の直観であり想像。脳科学の見地から示しているわけではない)。道具という「身体の拡張」は、人間の脳が身体と同様の回路を道具にも作り出すことができる能力、すなわち「脳の拡張性」があるからそこ実現できるものである。
生きるための経済学
この「脳の拡張性」あるいは「身体の拡張性」は、マイケル・ポランニーが提唱した「暗黙知」や「創発」の概念とも深い関係性がある思われる。私は以前、『創発的コミュニケーション』のエントリーにおいて、右の本からの記述を引用させてもらったが、再度、同じ部分を引用させてもらうことにする。

最初に、あなたがモノと向き合っている場合を考えよう。あなたがモノに働きかけると、そのとき、モノはあなたに反応を返す。たとえば、ハンマーでモノを叩くと、ガキンという鋭い音がする、という具合に。
 こうやって何度もハンマーで叩いていれば、その反応の具合から、あなたはモノの様子やその変化を知ることができる。このとき、あなたはモノの中に「潜入」していき、そのモノに「住み込んで」いく。ハンマーを振るうあなたとモノとを含み込んだ、一つのフィードバック回路が形成され、その回路の作動そのものが、あなたが「モノを理解する」という創発を生み出す。
 この回路は、固定した同じ運動をくり返す回路ではない。なぜならあなたはモノとの「対話」のなかで、自分自身のモノへの認識を深め、作り変えていくからである。それにともなってモノも、受動的ではあるが、モノ自身の性質に従って変化していく。たとえばこのモノとの対話が、工芸品の製造過程であれば、この運動の発展の結果「魂のこもった」美しい製品が出現する。「魂がこもっている」というのは手続的計算によって表面をとりつくろったのではなく、創発的計算によって計算量爆発を乗り越えた深い計算量によって処理された、という意味である。この回路の作動はまぎれもない創発の過程である。


この記述は、「創発」についての記述であると同時に、「脳の拡張性」あるいは「身体の拡張性」についての記述でもあるということが理解いただけると思う。さらに、『創発的コミュニケーション』のエントリーでは、次の文章も引用させていただいた。

次に、人と人とが向き合っている場合を考えよう。私があなたに話しかける。あなたがそれを受けとめて、言葉を返す。私がそれを受け止めて、あなたに言葉を投げかける。それをあなたが受けとめて……。このやりとりの連鎖もまた、一つの循環するフィードバック回路を形成している。
 この回路に双方が住み込むことで、お互いについて学び合い、認識を新たにしていくことができたとき、そこでは創発的コミュニケーションが成立しているといえる。このとき、お互いが、相手のメッセージを受け取るたびに、自身の認識を改める用意ができていなければならない。それを私は「学習」と呼んでいる。
 メッセージの受信、学習、メッセージの送信、という作動を、双方が維持しているとき、これを「対話」ということができる。それゆえ、「対話」と「創発」とは不可分な関係にある。


すなわち「脳の拡張性」は、身体の拡張である「道具=意志を持たないモノ」にだけ発揮されるのではなく、自らの意志をもつ他人にも発揮される。「私」と他人である「あなた」との間に創発的コミュニケーションが行われると、「私」の脳内には、「脳の拡張性」によって「あなた」に対応する回路が成立することになる。他者である「あなた」は「私」の身体でないことは明かだから、「私」と「あなた」の創発的コミュニケーションの場合を「身体の拡張性」と呼ぶと不適切だろうが、「あなた」は「私」にとっての「身体性」を帯びた他人となったということはできるとだろう。ゆえに「身体性」=「脳の拡張性」となる。

******************************

以上、再掲載の内容と〈霊〉の定義を合わせると、次のように言うことができるだろう。

  〈学習〉=身体性=脳の拡張性=霊性

すなわち、他者とメッセージのやりとりをして〈対話〉をし創発を発動させて〈学習〉するということは、「霊性を磨く」と表現できるだろう。加えてに言うと、魂を持つ人間は他者(意志を持つ他人、持たないモノ、さらには抽象概念)と〈対話〉することによって、他者に「〈霊〉を帯びさせる」ことができる。

かつて人間が〈霊〉の存在を信じていた頃は、モノには〈霊〉が宿っていると信じられていた。モノそのものに〈霊〉があると考えるのは日本的だが、そうでなくても、モノにはその生産に携わった人の〈霊〉が絡みついていると考えていたわけだ。近代的な【商品】とは、モノに帯びた〈霊〉が断ち切られた「モノ」のことである。

これも何度も引用させて頂く。中沢新一著『愛と経済のロゴス』から。 愛と経済のロゴス

デリケートで複雑な「贈与」
 贈与が行なわれるたびに、贈られるモノといっしょに、それに引きずられるようにして、威信や信頼や愛情や友愛のような人格所為にかかわる生命的な力のあらわれが、量子的な「雲」となって、一緒に運動していくのです。さらに贈与経済的な社会を生きていた人々は、モノが移動をおこすことによって、目に見えない「霊」の力が活性化され、人間の社会と自然を巻き込んで力強い流動をおこすのだと考えています。
 ところが交換では、贈与で働いていた人格所為の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全過程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現してきます。
 贈与の実践でおこることを、いちいち合理化して理解することは不可能です。計算不能な人格性の力や霊力の動きなどが、そこに深い関与をおこなっているからです。贈与の行為を上手におこなうためには、複雑な階層で違う運動を行なっている力について、相当に緻密な認識ができていなければありませんから、贈与はとても面倒くさい、複雑でデリケートな行為であると考えることができます。
 近代の社会はそこで、このようにデリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきました。


関連記事:ソーシャルメディアは贈与経済を復活させるか
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コメント

ペンフィールドのホムンクルス。

愚樵さんの話は、脳の中に身体の各部位に相当するマップがあるという「ペンフィールドのホムンクルス」に繋がりますね。

ホムンクルスは胎児の段階で脳にプリセットされていますが、感覚器官を通じた入力を通して後天的に各人各様の発達を遂げていきます。可塑性がある。
でもって、事故や疾病などで四肢が失われると、欠損した部位に当たる「ホムンクルス」にテリトリーの空白が出来る。空白となったテリトリーは隣り合ったホムンクルスが侵食してしまう。

厄介なのは、ホムンクルスと身体(末梢神経の配置)の形状は相似(スケール互換)ではないので、ホムンクルスのマップにおける隣り合ったテリトリーが末梢神経における全くかけ離れた部位を受け持っていることが少なくなく、これが「失った足が痛む・切断して無くなったはずの右手がひどく痒い」などの「ファントム・リム」を生み出す原因になる。全く別の部位の神経から入力された刺激を、ありもしない手足が受けていると脳が認識してしまう。

欧米人がこれを「スピリット」でなく、キリスト教の視点から逸脱した「ファントム」として認識するのが面白いです。
ネーミングにそれが表れています。

愚樵さんはご存知でしょうが、人間には五感以外に「体制感覚」というものがあります。これは自分の四肢や身体が「そこに在る」という感覚。たとえ肌が何かに触れていなくても、自分の身体が「そこに在る」という圧倒的な実在感を、私たちは持っている。おそらく手足を失っても、失くしたはずの四肢の実在感をありありと感じ続けるはずです。脳は五感以外からもたらされる何らかの入力を常に身体から受け、認識しています。

この実在感が「霊」とつながるのだと考えます(イデアみたいな概念ではなく、もっと全感覚的なもの)。
ある「物」が存在するか否かではなく、存在すると感じるか否かの「感じる」先に霊がある。
話が飛躍しますが、所謂創唱宗教における神も、霊に関するプリミティブな実在感が前もって共有されていなければ人々に受け入れられなかったと思います。

さらに飛躍します。
私は愚樵さんの欧米人観(キリスト教観)とかなり異なるものを持っているですが、アイルランドに行った時、キリスト教伝播前にケルト以前の先住民族が遺した大小さまざまの遺跡(巨石信仰を基盤にしたもの)を目にしました。
ニューグレンジやエンガスのような有名なものから路傍にひっそり残る石碑のようなトゥラスまで。

カトリックの教義に従い「蛇」を全土から抹殺したほどの(ダブリンの少女は「蛇がいないから図鑑でしか見たことが無いの」と言っていました)アイルランド人が、異教徒の遺跡は破壊せずそのまま残した。
私は彼らのメンタリティにとても非キリスト教的なものを感じます。

他者はどこにいるか?

他者は外部でなく、己の脳の中にいるのだと思います。
私たちは他者と直にリンクするわけではないので、諸感覚器官や発声器官・顔(表情)・肢体(所作)を介して相互に交信し、初めて自分の脳に他者のヴィジョンを持つことができる。常に自分の中の他者を媒介して交信している。

これは視点の問題ではなく、明らかにそういう仕組みで出来ている。

では脳が全てなのかというと決してそうじゃない。巨大な脳を持たなくても大半の生物は不足なく生きていけるし、むしろ地球上の生物の大半を占める無脊椎動物は今日までそれで永年上手くやってきたわけで。
脳は生物の器官としてはもっとも遅れて発達してきました。遅れて発達してきた分、未だ完成されていない・洗練されていないところがある。

その完成されていないところを補うというか繕うために必要だったのが、神とか霊だったんじゃないかなと思います。
まとまりのない、とっ散らかった文章ですみません。

〈自我〉と〔自己〕

・黒い時計の旅さん

他者は外部でなく、己の脳の中にいるのだと思います。

はい。そういう解釈を採用しています。そして自身の中の〔他者〕が〈霊〉(spirit あるいは phantom)。また自身ですら実は〔他者〕であり〈霊〉です。私たちは自身の「像」をもインターフェースの中に持っているわけですから。この自身の〈霊〉が【自我】。

私たちは他者と直にリンクするわけではないので

ちょっと術語が混乱していますね。ここで言われた「他者」は脳の外側にいる存在のことですよね。つまり「他者」≠〔他者〕ですね。私たちは〔他者〕とは直にリンクしている。が、「他者」とはリンクしていない。で、【自我】も〔他者〕の一部ですから、〔他者〕とリンクしている「自己」を考えなければならない。それが〔自己〕です。

これは視点の問題ではなく、明らかにそういう仕組みで出来ている。

そうだと思います。

その完成されていないところを補うというか繕うために必要だったのが、神とか霊だったんじゃないかなと思います。

生物というものは、必ずしも完成されている必要はないのではないですか。というよりもともと、生物に「完成」などというものはない。必要なのはバランスですね。その「バランス」を福岡伸一氏は「動的平衡」と言っています。

生物としてのヒトは、肥大した大脳の存在も含めて、生物としての「バランス」はそこそことれているのだと思います。ですがヒトは、生物としてのバランスを超えた「人間」になってしまった。そこのところが問題なんでしょう。「人間」として考えた場合、脳の機能は不十分でバランスのとれていない器官だと言わざるを得ません。そう考えた上で神や霊がバランスを補うために必要だったするのには、私も賛成です。

端的に言うと、それはコミュニケーションのために必要だったのでしょう。動物もそれなりにコミュニケーションは行ないますが、ここでいうコミュニケーションは等物としての範疇を超えた人間社会的コミュニケーション。それを維持するのに神や霊が必要だった。いえ、それは逆か。インターフェースが発達して神や霊といった脳内〔他者〕を生み出す機能が実現したために、ヒトは人間となり、社会的コミュニケーションを行なうことが出来るようになったのでしょう。と考えると、神や霊は実は言葉と同じ役割を果しているということになる。

人間のコミュニケーションにおいて言葉が果す割合は実は7%しかないと言われますが、では残りは何かというと、「霊的」コミュニケーションになるわけです。相手の表情や仕草なんかがインターフェースの中にある〈霊〉に作用すると考えることができるでしょう。

それから、スピリットとファントムについて。これは面白いですね。日本語で書くと「霊」と「幽霊」でどちらも霊。「幽」は「かすかな」くらいの意味ですから「幽霊の意味はもともとは「かすかな霊」ですよね。

これはどういうことを示すかというと、日本には〔他者〕に対してスピリットとファントムという区別はなく、あちらにはあるということだと思うんです。そして、その区切りになる基準が【自我】ではないかと。

つまり、【自我】よりも高級な〔他者〕がスピリットであり低級なのがファントム。高級/低級を体系付けるのが宗教でしょう。ユダヤ教から始まった一神教の系譜は、そのスピリットの最高級を「神」と位置づけ、しかも世界を超越する存在だとして体系付けたんですね。

この体系付けを行なったのはユダヤ人ですが、それにはそれなりの心理的根拠がある。メンタリティですね。その当たりはマックス・ウェーバーやフロイトが研究していたりしていますが、ユダヤ教がキリスト教になり、それが広まったからと言って、各民族のそれぞれに持つメンタリティがすぐになくなるわけがない。実際、カトリックなどとシロモノは、主にゲルマンのメンタリティとの妥協の産物ですよね。

プロテスタントが生まれたのは、カトリックが宗教ではなく呪術の体系に堕落していたことと、もうひとつは、より洗練された一神教であるイスラム教と接触したことが大きいのだと思います。

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