愚慫空論

TPP参加を前に、松岡正剛千夜一夜 『逝きし世の面影』

逝きし世の面影 『逝きし世の面影』がどのような本なのかはいまさらいうまでもない。

他人様のコメント欄でこの本を紹介するにあたって、松岡正剛の「千夜一夜」の記述を改めて読んでみた。

 では、以下はちょっとした感想だ。
 いったい「見捨てる」とか「見殺す」とはどういうことなのだろうか。そのことを問うてみたい。価値がわかっていて見捨て、必要を感じていながら見殺すことが、見捨てることで、見殺すことであるとするのなら、欧米列強は、アジアを見捨て、日本を見殺したのである。
 カール・ポランニー(151夜)が、欧米社会から自立した市場システムは、欧米社会に矛盾を激化させるよりなお速く、むしろアジアの後進国を見殺しにするだろうと予測し、イヴァン・イリイチ(436夜)が「資本の本性」と「利潤の自由」という観念の実行こそ、どんなヴァナキュラー(辺境的)な地域をも変質させ、見捨てることになるだろうと分析したことは、「逝きし面影」の放棄をとっくの昔にみずから選択して体験せざるをえなかった日本の近代史からすると、その主張さえ遅きに失したというべきなのである。
 しかし、実は、日本を見捨て、日本を見殺しにしたのは日本人であったのだ。イリイチは「資本市場主義のプラグをさっさと抜きなさい」と言ったけれど、かつて日本はそのプラグを入れることすらしていなかったのだ。が、いまさらプラグを入れたことを、そまプラグを抜きがたくなったことを憂いてもしょうがない。そのうえで、日本人は何もかもを見て見ないふりをして、いまなお日本を見捨て、日本を見殺しにしつづける。問題は、ただひたすら、そのことにある。
 こういうときは、もはや欧米を詰(なじ)ってもムダである。・・・


TPPは「第三の開国」だといわれる。それはそうなのだろう。だが「開国」は良いことなのか。あるいは良いことだったのか。

日本に「第一の開国」を迫りにやってきた欧米列強の代表者の中のひとり、イギリスのオールコックは、多くの欧米人日本訪問者が日本に好意的になってゆくことを対して批判的で、厳しく日本の非道徳性を批判していたという。

 東洋的専制主義が、中国とともに日本に満ちていることも指摘した。とくに知的道徳においては、日本がヨーロッパ12世紀のレベルにとどまっていることを、容赦なく指弾した。
 それにもかかわらず、オールコックは日本を見て、「ヨーロッパ人が、どうあっても急いで前に進もうとしすぎている」ことを実感せざるをえなくなり、「アジアがしばしば天上のものに霊感をもちつづけている」ことに驚き、そこに「ヨーロッパ民族の物質的な傾向に対する無言の抗議」があることに気がつくのだ。そして、いささか都合がよすぎる反省ではあるが、次のように日本の役割について綴るのだ。
 「これらは、ヨーロッパの進歩の弾み車の不足を補うものとして、そしてまた、より徹底的に世俗的で合理的な生存を夢中になって追求することへの無言の厳粛な抗議として、この下界の制度のなかで、ひとつの矯正物となるかもしれない」。


松岡氏は、土足で日本に踏み込んで来ていながら、何という言い草だという。どうしょうもないアングロサクソン的な傲慢の態度だという。私もそう思うが、それでもオールコックは日本に脱帽していたところはあった。だが、日本はそこを、内田氏の言い回しを借りるなら、「ゼロ査定」したのである。

 ガラパゴス化の症状としてのグローバリズムについて(内田樹の研究室)

日本はこれでもまだ先進国中では相対的に安定した社会システムを維持できている。
これを「他の国並み」にしようというのが「グローバル化」である。
条件をいっしょに揃えれば、自由な競争ができる、と。
それだけ聞くと話のつじつまが合っているようにも聞こえる。
だが、「ゲームへの参加」は先祖伝来の国民的な宝であるところの「社会的安定」(それを他のアジア諸国は有していないのである)を供物に差し出さなければならないほど緊急なことなのか。
内戦もテロもなく、国民皆保険制度で医療が受けられ、年金も僅かなりとはいえ支給され、街頭でホールドアップされるリスクもなく、落とした荷物が交番に届けられる国は一朝一夕でできたわけではない。
先祖たちの営々たる努力の成果である。
この社会的なセキュリティーを市民たちが自己責任、自己負担でカバーしようとしたら、どれほどの代償を支払わなければならないのか、グローバリストたちは考えたことがあるのだろうか。
彼らの特徴はこのような「見えざる資産」をゼロ査定することにある。


『逝きし世の面影』の著者渡辺京二氏は、この本の中に描きだれている文明は「親和力」によってもたらされたものであり、それは滅んだのだという。それはその通りだろう。
(私は「親和力」を〈霊〉だと考えるが。)

だが、滅んだ文明が残した文化遺産は、いまだ生きている。それを「第三の開国」の名のものに「ゼロ査定」してよいのか。それで日本は少しでも幸福な国になるのか。

経済合理性のみに従って消費活動を行なう者を内田氏は「未成熟な消費者」として指弾したが、それならば文化遺産を「ゼロ 査定」するものも未成熟というしかない。それが日本の場合消費者のみならず、社会をリードする指導者たちが先頭を切って未成熟なのである。

なぜこのようなことになるのか? 日本はシステマティックに未成熟を生み出してきたと考えるより他ない。ならば【システム】を入れ替えるしかない。これは〈合理的〉な判断であるはずだ。だが残念なことに、日本人は合理性の中に霊性を見出さないのである。

別の方法論を考えるしかない。

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