愚慫空論

怒ってもええじゃないか

申し訳ありません。かなりふざけてます。笑。

前エントリーのコメント欄で「怒ってもええじゃないか」というのがふと出てきたので、江戸幕末期に起こった社会現象「ええじゃないか」についてちょっと調べてみようと検索していたら、こんなものが引っかかってきた。


これはなに? AKB? まあ、そんなのはどうでもいいや。

で、歌詞を聞いていると。

  おどれ バンバルンバ de サンバ みんな de ガンバ
  ええじゃないか de ふきとばせ
  わらえ バンバルンバ de サンバ みんな de ガンバ
  キミもはじめよう☆

「わらえ」を「いかれ」に替えれば、ええじゃないか。笑。 
あとは

  おどれ バンバルンバ de サンバ みんな de ガンバ
  ええじゃないか de ふきとばせ
  わらえ バンバルンバ de サンバ みんな de ガンバ
  いかってええじゃないか

  世界で一番じゃなくても ええじゃないか (ええじゃないか)
  少子高齢化しても ええじゃないか (ええじゃないか)
  少し貧乏になっても ええじゃないか (ええじゃないか)
  TPPに参加しても
  それはいけません

って、感じかな。笑。

しかし、このノリじゃ、ぜんぜん怒れないな。それでいいんだけどね。

続きも考えられそうだけど、もう飽きた。笑。

全曲。歌詞と振り付け。



コメント

たかのぞみ

こんばんは。
愚樵さん、絶好調ですね。

どくたさんところからつづくこれらのエントリと皆さんのコメント、非常に興味深く読ませていただいています。

なんとなく思うのですが、皆さん人と人との繋がりに期待しすぎなんじゃないかな、と思ったりします。
僕は人と人なんか決して繋がれないと思います。
ただ、繋がった気分になる事は出来ると思います。

人の心は音叉みたいなものです。
同じ周波数で同時に共振することは出来ても、それで一つの個体になる訳じゃない。
そこんとこを自覚してないと「裏切られた」と思ってしまうんじゃないですかね。

音楽や小説などの創作物も、それは感性を満たしたり磨いたりする目的の物であって、それ以外の目的に使用したらいけないんじゃないかな?
結果的に善なものが生まれたとしても、目的外使用を許しては行けないような気がします。

日本でも細々とデモとかやることあるし、私も何回か行進した事もあるけど、あれで怒りを表しているのかな?
海外ではよくデモあるけど、それも本当に怒り何だろうか?
企画する人にとっては「冷静」な戦術なんじゃないのかな?

デモ行動は短期的には有効な手段かもしれないですね。
デモ長期的な視野で考えると、デモでは現状の負のスパイラルから抜けられないことを、みんな解ってきてるんじゃ無いのかな?
デモで何かを覆す事は結局「力」でねじ伏せる事だから。

なかなか活路を見出すのは難しいけど、それでも希望が繋がるのは、人間は必ず世代交代するからですね。
銀河鉄道999のように機械人間で永遠の命を得たら、それは絶望なのかもしれませんね。

うーん、なんだかよく解らないですね。
おやすみなさい。(>_<)

それが〈霊〉です

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

はい、絶好調というか、調子に乗りすぎ(^_^;
まあ、でも、利用できるならAKBだろうがなんであろうが、使ってやろうと思ってますが。

人の心は音叉みたいなものです。

そうです。音叉が心の中にいっぱいある。その音叉を〈霊〉だと私は言っているんですね。『霊魂』のエントリーでは視覚的に「像」と表現しましたけど、聴覚的に「音源」でも同じこと。インターフェースとは、たくさんの音源があって、音が響き渡っている場なんです。

音楽や小説などの創作物も

なるほど、それは近代的な考え方ですね。現代の日本人の、知的な(だと自覚している)人々の支持も得るでしょう。でも、おそらく、そんな考え方をするのは現代の日本人だけです。他の文明国の人々、もちろん欧米の人々もそのような考え方はしません。

欧米人が聖書をどのように感じるかを想像してみてください。一部の原理主義的な人たちは今でも認めないでしょうが、聖書も人間の手になる創作物です。知的な人はそう認識しているでしょう。でも、それを単に「感性を満たしたり磨いたり」するものだと捉えているかどうか。

彼らは無神論者を理解出来ないと言います。現代でも、「神」や〈霊〉を感じ取ろうとしているのですね。そんな彼らが聖書から霊的なものを汲み取っていないものなのでしょうか。

彼らが霊的なものを感じるのは、聖書を中心とした限られた範囲内です。でも、日本人は違ったんですね。あらゆるものから霊的なものを感じ取っていたのです。つまり、日本人には感性と霊性とは、ほとんど一体のものだったんです。ところが現代では、感性と霊性とは切り離されてしまった。

〈霊〉は恐いものです。人間は「霊」に突き動かされて不合理に行動してしまうからです。だから、特に戦後、日本人は〈霊〉を見ないようにしてきた。

感性を満たしたり磨いたりする目的の物であって、それ以外の目的に使用したらいけないんじゃないかな?

とは、まさにそのことを指しているのではないですか。人間を動かす〈霊〉と感性とを切り離している。感性で「何ものか」を受け取っても、その「何ものか」に突き動かされるのはダメだというのですからね。突き動かされるのではなくて、その「何ものか」を合理性の中へと組み入れて、それから行動せよ、というわけですよね。

しかしです。私たちはその「合理性」に霊的なものを感じているかどうか? 否でしょう。合理性こそ〈霊〉とはもっとも遠いものだと思っている。が、ここのところこそが、私たちがもっとも誤解しているところです。

私たち日本人は、西洋人ほど「合理的でなければならない」とは感じていません。せいぜい「合理的に行動した方が有利」と考えているだけです。合理性に〈霊〉を感じていないからそうなるのです。ですから、何が合理的かがわかっていても、それが自分に不利なことであれば、平気で反合理的な行動を取る。典型的な例は一部の学者達です。彼らは合理性の追求を職業にしているにも関わらず、です。反合理的な行動を取ることが恐くないんです。合理性に〈霊〉を見ないから。だから、あれだけの事故を起こしてもなお、脱原発へと舵を切れない。

日本でも細々とデモとかやることあるし、私も何回か行進した事もあるけど、

すぺーすのいどさんは霊性に、いや、冷静に見ておられますね。

「怒り」が「自己中」を超えて本当の怒り、共有される怒りになるには、やはり霊的な要素がなければならないと思います。デモは集団による怒りの表現ですが、〈霊〉こそが人々を繋げ突き動かすものですからね。

海外のデモが案外冷静だろうというのは、あちらでは合理性に〈霊〉が宿ると考えるなら、不思議ではないんです。暴徒とデモの区別もつく。日本人は暴力を伴うデモは暴徒としてしまいますが、向こうでは必ずしもそうではないでしょう? 暴力的に遂行された市民革命を経験し、アメリカでは未だに市民による銃の携行が認められている。暴力=非霊的ではないんですよね。でも、それは日本人の霊性とは、決定的に違います。

デモで何かを覆す事は結局「力」でねじ伏せる事だから。

となるのです。これ、日本的感性&霊性です。

つまりです。スペースのいどさんの中にもミスマッチがあるのです。西洋流の合理性を教育されたことによって生じた、霊性の「狂い」ですね。ここを修正していかないと、日本人は力を失い、どんどん衰退していくことになると思います。

それには〈霊〉を治めることです。恐いものだといって対峙するのを避けていては、〈霊〉は暴れるばかりです。

では、どうやって〈霊〉を治めるか。ここで『けいおん』なんです。あのようなやり方なんです。単にお友達と仲良くしているだけじゃないんです。

こんばんは

愚樵さん、こんばんは。
先日は丁寧なレスコメありがとうございました。

いろいろ思う所もあり、早々に再レスしたかったのですが、少し予定があり時間が取れなかったのと、思いを文章に出来なかったこともあり遅くなりました。
まだ全然整理されていないけど、取り敢えず書いてみます。

愚樵さんの〈霊〉の話はよく解る気がします。
前回の私の「創作物」の「目的外使用」についての文章は〈霊〉をないがしろにするような意味で書いたのではなく、むしろどくたさん家の尾崎エントリーで紹介された新聞記事の様な、「歌」を「象徴」(これが【歌】なのかな?)に祀り上げようとする行為についてを指したつもりでした。

私は私自身を〈霊〉に基づいて行動する傾向があると分析しています。
私は何れかの宗教を信じている訳ではないですが、無神論者では有りません。
むしろ「神」をけっこう強く意識しています。
私の「宇宙」の根幹の存在としての「神」です。

般若心経でもないですが「無常感」として「神」を意識しています。
だから、原発事故も子育て新システムもTPPについても深く憂いていますが、「神」の前では戯言、この地球に巨大な隕石が衝突して砕かれたとしても「神」の前では戯言でしかないのだろうなぁという感覚が有ります。

私の保つ〈霊〉の基礎は「すべての人は等しく尊重される」です。
だから、私は他人への「暴力」はきっぱり全否定します。
「暴力」は、どの次元でもどの角度から見ても「他人を尊重する」行為ではないと思うからです。

自分で書いた
>デモで何かを覆す事は結局「力」でねじ伏せる事だから。

今思うのだけど「デモ」って行為は目的地までのショートカットなんですよ。きっと。
うまくいけば目的地には到達出来るかもしれない。でも、近道した分のリスク発生はあるはず。
つまり結局暴力的なやり方なんですよ。
「まどマギ」のセリフで言うと「希望を求めた因果がこの世に呪いをもたらす…」やりかたなんじゃないかな?

>これ、日本的感性&霊性です。
そうかもしれませんね。でもいいですよね。
愚樵さん的には問題は日本人的か西洋人的かの問題でなく「〈霊〉を治める」ことですよね?

>ここで『けいおん』なんです。あのようなやり方なんです。

そのエントリめっちゃ読みたいです。是非是非近々にエントリしてくださいね。

「けいおん」面白いとは思うけど、なんか底は深く感じないですね。

9人の主要登場人物(ゆい、りつ、みお、むぎ、あずさ、さわこ、のどか、うい、じゅん)以外の描写が全く無い、高校生である彼女らの親さえも存在を感じさせない演出は、あまりにもリアリティが無い気がします。
まぁそんなことは良いんですけどね。

霊的ケア

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

今思うのだけど「デモ」って行為は目的地までのショートカットなんですよ。きっと。

はい。その感覚、よくわかります。私なりにもう少し突っ込んでみます。

次エントリーで黒い時計の旅さんが「スピリット」と「ファントム」という言葉を提示してくださいました。それに対して私はあちらではスピリットは高級、ファントムは低級なんだという体系付けがあり、でも日本人にはそういった区分けはない、という話をしました。

すぺーすのいどさんのいう「ショートカット」は、この「区分け」と関連するのだろうと思います。

すぺーすのいどさんは「すべての人は等しく尊重される」といい、私のなおかつ〈霊〉の話に理解を示してくださいます。これはすべての「人の〈霊〉は平等だ」という考えていると理解していると考えて良いのだと思います。つまり、デモをしている人もデモで批判されている人も〈霊〉的には平等なんだ、と。

仮にデモの力によって社会が「改革」されたとします。それが多くの人にとっては良い社会であったとしても、一部には不満が残ります。その不満は霊的にケアされなければならない。スペースのいどさんがいう「暴力的」というのは、この「霊的ケア」を欠いた状態を指しているのではないかと思うのです。

〈霊〉に高級/低級の区別があるところでは、しかし、「霊的ケア」が蔑ろにされる傾向にある。霊的に低級なものは高級なものによって断罪されるのは当然なんです。そのための区分けと考えても差し支えないくらいです。デモを行なう者たちは、デモによって批判される者たちと同様、無意識のうちにそうした一神教的な霊的論理を採用している。そしてその霊的論理を支えているのが、「偏差値」なんですね。ほら、私と内田樹とが同じようなことを言っていたという、アレです。

でも、とはいうものの、きっとデモを行なっている人たちも「偏差値」が霊的論理の下支えになっているとは考えていないはずです。彼らが〈霊〉を認めるかどうかはわかりませんが(おそらくハナで笑うでしょうが)、「偏差値」と〈霊〉とが関連しているとは考えないでしょう。にも関わらず、採用しているのは一神教起源の霊的区分のある論理なんですね。つまりミスマッチなんです。

私の保つ〈霊〉の基礎は「すべての人は等しく尊重される」です。

なるほど、では、すぺーすのいどさんは人間以外の存在への暴力は肯定されるのですか? つまり、霊的に人間は高級である、ゆえに他の他の生物は人間が自在に断罪してよく「霊的ケア」は必要ない。そのようにお考えでしょうか?

そんなふうには考えませんよね? 霊的に健全な社会では、人間以外の〈霊〉についてもケアは忘れません。考え方ややり方はそれぞれ異なりますが、人の生命を支えるために犠牲になったイノチへのケア――感謝の祈りは、どこの民族でも行なってきたことです。現在、私たちは、人間については考えますが、そのほかの〈霊〉についてはあまり考えない。あまりにも人間社会に適応しすぎているのですね。

問題は日本人的か西洋人的かの問題でなく「〈霊〉を治める」ことですよね?

そうです。日本人的か西洋人的かは問題ではありません。〈世界〉を動かす〈霊〉を治めることです。そして〈霊〉は人間だけが持つのではない。ありとあらゆるものが〈霊〉を持ちます。

「けいおん」面白いとは思うけど、なんか底は深く感じないですね。

あいや、そうなんです。私が面白いと思っているのは、そんなものが広範な支持を得ているという現象なんです。

『けいおん』は深くもありません。人によってはつまらないというでしょう。ありきたりの「日常」をちょっとしたトッピングを施して描き出しているに過ぎないのですから。「萌え」なんてのも、もはや「トッピング」です。

問題はそんな「日常」がなぜ支持されるのかなんです。日常なんて、子どもはいざしらず、ある程度成熟した大人にとってはつまらないもののはず、ですよね? 子どもが『おジャ魔女どれみ』を見て楽しめるのは子どもだからです。ところが『おジャ魔女どれみ』のようなことを、ある程度大人になったはずの高校生が主役となって描かれている。それが楽しまれている。それが何を意味するのかです。

〈社会〉というのは〈日常〉の営みに他なりません。この〈日常〉はシステム化した【社会】が提供する【日常】とは異なります。現代社会にいきる大人である私たちは〈日常〉と【日常】の狭間で生きていますが、これにも歴史があって、子どもの頃に〈日常〉で生きることを憶え、そのことで【日常】に耐えてゆく力を身につける。「社会」とはそういうもの、「社会人」になるとはそういうことだったんですね。

でも、今、【日常】が圧倒的に大きくなってしまった。【社会】が人間を疎外するようになってしまった。『けいおん!』をはじめとする「空気系」と呼ばれるアニメは、そうした社会の流れから生まれてきたのだと私は思っています。小さくなってしまった〈日常〉を、つまりは〈社会〉を、再び大きくしようとする動き。〈社会〉を再構築中だというのは、そのことです。だから、底は浅いけど、つまらないけど「楽しい」んです。

〈社会〉がこのまま上手く発展し、それを当たり前として享受する世代が生まれてくるようになれば、『けいおん!』は何が面白いのかおそらくわからなくなってしまうでしょう。『けいおん!』が面白いと支持されるのは、ありきたりの〈日常〉が若者達の希望になっているからです。裏返せば、現代は〈日常〉が希望になってしまうほどの寂しい社会になってしまっているということです。

感謝

愚樵さん、毎度丁寧なレスありがとうございます。

本当に愚樵さんの話はおもしろいです。

>…「暴力的」というのは、この「霊的ケア」を欠いた状態…
>〈霊〉に高級/低級の区別があるところでは…低級なものは高級なものによって断罪されるのは当然…
>…その霊的論理を支えているのが、「偏差値」…

フムフム、なるほどです。

>人間以外の存在への暴力は肯定されるのですか?

私も書きながらその指摘を受ける可能性も考えていました。
まあ愚樵さんになら言うまでも無く理解して頂けると思ったのでそのまま書きました。

そうですね、私には倉本総の「富良野塾」「ニングル」的な〈霊〉も搭載されてます。
100%機能しているとは思えませんがw

>私が面白いと思っているのは、そんなものが広範な支持を得ているという現象なんです。

そうなんだぁ。
これは予想外の回答でした。…が、納得です。

本当に大切なものは目立たず存在感のない「空気」的なものだと、最近本当に強く感じます。

コメント感謝です

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

私としてもコメントは非常に助かるというのはあるんです。特に、疑問、問いかけは。それに答えているうちに、自身の考えがより明確になってくる。自分では気がついていなかったことを指摘されるというのもありますし、また気がついていても自分にとってはあまりにも当たり前で、そのためにスルーしてしまっている部分に気がついたり。

で、今度はすぺーすのいどさんとの「対話」から新たにエントリーしてみました。話の軸は『けいおん!』から『ハルヒ』に移ってしまいましたが。

『ハルヒ』はご覧になってますか?

WORKING!

全くの余談ですけど、『WORKING!』というのを面白いと思って観てまして。内緒の方法で(笑) 今、2期目が放映中らしいのですが。

これもそのうち取り上げてみますかね。

ああ、そういえば、まだ『まどか』シリーズが完結してないんだった...

見てみます

愚樵さん、こんばんは。
『鈴宮ハルヒの憂鬱』『WORKING!』面白そうですね。
秘密の方法でチェックしてみます。w

今後とも懲りずによろしくお願いします。
(^^♪

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