愚慫空論

怒っている人が孤独に見えてしまう


youtubeで2/2が見つからなかったので。



中野剛志氏が怒っている。というより、拗ねている? 

断わっておくが、私はTPPに参加するなどとんでもないことだと思っている。だから、中野氏の「理」には大いに納得するし、ろくに説明もしない、政府・大手マスメディアに対しては不愉快な感情をもっている。

だが、怒っているのかと問われると、正直、戸惑う。呆れてはいる。政府に、マスゴミに、怒らない日本国民に、そして自分自身に。

ネット上では、なぜ日本国民は怒りの声を挙げないんだ! という「怒り」の聞く。なぜなんだろう、と私も思う。そう思いながら、これもネット上で評判になっている『とくダネ』に出演した中野剛志氏の怒りの動画みたわけだ。

確かに、中野氏はTVの人間を論破している。でも、やつらにはぜんぜん響いていない。その様子がありありと見て取れる。中野氏はそういう「空気」を予め承知してか、怒るというよりは拗ねているように見える。孤独に見える。

でも、なぜ中野氏は孤独なのか。氏には多くの賛同の声が集まっているのに。その声は届いているだろうに。『とくダネ』では、周りが敵ばかりだから孤独に見えたのか。そう考えると気になって、いくつか別の動画も見てみた。すると、『とくダネ』の時のように孤独感が際立っているというようなことはないようだった。やっぱりTVの人バカなんだ――と結論を出してしまいたくなる。

だが、少し考えてみたい。私たちは、怒っている者に対しては、悲しんでいる者に対してはすごく好意的な反面、普段からはなはだ冷淡ではないのか。

私自身は、怒っている人間に対して冷淡になってしまうことが多い理由を私なりには把握しているつもりではある。多くのの場合、怒っている人間が自己中心的に感じられてしまうのである。それは怒る理由の正当性とは関係がない。いや逆に、怒る理由が正当であればあるほど、怒る人間を自己中心的に感じてしまうことが多い。

「オレは正当な理由で怒っている。だからオレは正当である。オレの怒りを共有しないオマエたちは間違っている。」

なぜだかわからないが、日本人は怒ると「オレの怒り」の表現になってしまう。受け取る方もそのように受け取ってしまう。悲しみは「ワタシの悲しみ」にならないのに。「ワタシ」を押し殺そうとするのに。

(付記しておくと、中野氏からは「オレの怒り」はあまり感じない。それゆえ孤独を感じさせる。)

なぜ日本人は「ワタシたちの怒り」にならないのか。日本人が怒りを共有するのは、予め「オレの怒り」がある場合だ。別の人間の怒りが「オレの怒り」を正当化してくれるときにのみ、怒りを共有する。だからメディアが怒れば怒る。安心して怒ることができるからだ。

しかしこれは危険な傾向。ファシズムへの道である。人々が不満を持ってそれぞれに「怒り」を蓄えるようになったところで、その「怒り」を肯定するカリスマが現れてしまうと、一気にファシズムへと流れる可能性が高い。

ん? そう考えると、怒りが「オレの怒り」にしかならないのは日本だけの問題ではないことになる。ファシズムは民主主義が孕んでいる危険性だ。

では、日本は民主主義なのか? 欧米に比べて未成熟だとよく言われるが、「怒り」の部分だけは民主主義的に成熟しているのかもしれない。

日本人は怒らないというが、かつての日本人は結構怒った。安保闘争のことを言っているのではない。もっと以前の話。安保の「怒り」は「ワタシたちの怒り」が「オレの怒り」へと変容していく過程にあったものだ。安保の闘士達が現在、どれほど自己中心的になってしまっているのかを考えてみればわかるだろう。

日本人が「ワタシたちの怒り」を持ったのは、共同体がしっかりと機能していたとき。「お上」の悪政には皆で団結して立ち向かった。

そう。怒りが「ワタシたちの怒り」になるには共同体が要る。絆がいる。私たちは資本主義に過適応してしまうことで、その共同体を打ち壊してしまった。

だとすれば、怒らない者に怒っても逆効果だ。人々の絆がますます離れていってしまうだけだ。怒りを共有するには先に共同体を再建しなければならない。

幸い、日本人は悲しみを共有する作法はまだ失っていない。幼児が轢き殺されても無視ということは、まだ日本人にはあるまい。加えて若者たちは、喜びの共有の仕方も身につけつつあるように思える。年長世代は喜びすら「オレの喜び」になってしまっているが、若者はそうではないようだ。

日本人は怒りを共有する作法を見失ったがために、大きな悲しみを背負うことになる可能性が高そうである。そう、TPPだ。が「災い転じて福と為す」ことになるのかもしれない。もちろん、災いはないに越したことはない。撥ね除けられるものなら、撥ね除けるのがいいに決まっている。だが、今の日本人のその力はどうもなさそうだ。

コメント

悲しみの神

雨月物語だったかな、西行が山中で怨霊と化した崇徳上皇と出会う話があったと思います。

崇徳上皇が怨霊になった理由が当人の口から切々と語られるんですが、たしかに理はあるものの「ええっ? あなた何で怨霊なんかになっちゃったの?」と、西行はドン引きしてしまっているんですよ。この「ドン引き」は上田秋成の感情がそのまま反映されているものだと思います。

「理」だけでは憤怒を受け取ることは難しい。
これは、悲しみは「受け取る」ものであり、憤怒が自らの中から滾って来るものであるからかもしれません。

いわゆる「御霊」を祀る神社は今日も各地に残っていますが、神の怒りを鎮めるということは「神様、あなたの怒りは受け取れません、勘弁してください」ということですよね。
神の怒りを共有する、これを拒む。

一方、神の悲しみを癒すための社、これを私は知りません。まあ私は物を知らないんで探せばあるのかも。
人間は、神の悲しみについては特に気にかける必要はないと考えているようです。「惻隠」というのは目上の者に対しても感じるものですから、神に対する「惻隠」の情があってもよさげですが、そうでもないみたいですね。

話を戻しますが、例えば大塩の乱などに対しても、私は怒りをあまり感じません。寧ろ悲壮感を「受け取り」ます。田中正造などに対しても、同じです。

動物にとって、怒りという感情は生存のための選択を誤らせる可能性があるわけですよね。悲しみに比べて、行動に緊密にリンクしている。だから怒りには瞬発力があるけれども持続性はあまりない。
多分本来怒りという感情は、動物が危急存亡の際に肉体のリミッターを外して爆発的な攻撃力を発揮するための、一種の切り札みたいなものだったのだと思います。
共有することに、もともとあまり向いていないんじゃないのかなと。

ただ、私は映画や小説などの「はい、ここで怒って下さいね」という場面で結構簡単に怒るんですよね。容易に感情を操作されてしまう。怒りを形にした凶暴な音楽を聴いて、好んでテンションを上げたりもする。そういう場合の自分は、決して怒りを忌避していない。
一定の手順を踏めば、簡単に操作できる感情であるようにも思えますし、自ら怒りを求めているようにも感じます。
怒りを求める時、自分はそれを誰かと共有したいと感じたことはないですけどね。

人前で怒ると、あとで不愉快な気持ちになりますしね。しくじってゴミを撒き散らしたような気分になる。

怒りを励起する。

蛇足ですが。

創作物によって喚起される怒りについて少々。
毒多さんのブログにSwansの曲(youtubeリンク)を貼りましたが、このSwansというバンドは80年代に所謂ノーウェーブと呼ばれるかなり暴力的なサウンド+歌詞の音楽をやっていたわけです。
その後フォークやポストロックに転化していくのですが、暴力的な音楽を演奏していた時代の話についてインタヴューで訊かれた際、フロントマンのマイケル・ジラはこう答えています。

「自分は衝動的な(=激情を表す)音楽を作っていない。紙に書いて作っている」

これ、結構自分にとって大きな言葉だったんですよ。
マイケル・ジラは創作=虚構という認識の下で音楽を設計している。
そして自分はそれをプレーヤーで再生して、怒りとかカタルシスを感じている。

シオランは「懐疑的な音楽は存在しない」と書いています。わたしもそう思う。
でも大概の音楽は作り物なんですよね。知性により設計されている。
シオランはまた「音楽はある種の詐術のようなものだ」とも書いています。これにも同意します。

何故こうも容易く、自分の感情は騙されるのか?
好んで、対価を払ってまで騙されようとするのか?

・黒い時計の旅さん、おはようございます。およびだてしてすみません。

それにしても面白い。

「自分は衝動的な(=激情を表す)音楽を作っていない。紙に書いて作っている」

なるほどねぇ、と思いました。ちゃんと「虚構の効用」をわかってるんだ。

映画や小説などの「はい、ここで怒って下さいね」という場面で結構簡単に怒るんですよね。

それは虚構だということを識っているからでしょう。だから安心して怒ることができる。そう捉えると、虚構でない怒りに出会って西行がドン引きした理由、そのあと黒い旅の時計さんが展開して下さった論理へも繋がっていきますよね。

マイケル・ジラの逸話(?)で私もひとつ思い出したことがあります。私のホームベースはクラシックなんですけど、マーラーという作曲家に『大地の歌』というのがあるんです。暗く悲しい音楽です。私は一時、この音楽に囚われていた時期がありました。

マーラーは、この音楽を作曲した後、真剣に心配したそうです。この音楽を聴くと自殺者が出るのではないか、と。そういう話も私は気に入っていたのですがね。でも、私は自殺しなかったし、自殺者が出たという話も聞いたことがない。

マーラーはマイケル・ジラやシオランがわかっていたことをわかっていなかった。当時の私も。私は暗く悲しい嘆きの音楽を聴いてともに嘆いていましたけど、あるときに気がついたんです。いや、私は快感を感じている。嘆くことができる自分に。マーラーの嘆きに共感して悦び、そして嘆きから癒されている。

これ、「虚構の効用」です。詐欺といってもいいですね。
(尚、ここでいう「虚構」は【システム】の意味ではありませんので、念のため)

しかし。だからといって「虚構」は「ニセモノ」ということではない。むしろ「安全装置」あるいは感情の「転換装置」でしょう。

話を、一応本エントリーの主題である「怒り」の方へ戻しますと。

「怒り」をもって何かを主張しようとする者は、マイケル・ジラやシオランでなければならないということです。つまり「怒り」を「怒りの共有の悦び」へと転換させる「装置」を知的に設計しなければならない、と。共有の方法が「作法」ですね。

まあ、早い話が「みなさん、一緒に怒りましょう」といえば良いんです。一緒に怒る方法を設計する。それを「怒りは正しい!」と叫ぶから引いてしまうですね。

ここは『ええじゃないか』がいいかもしれませんね。平成の「ええじゃないか」。怒っても「ええじゃないか」。

TPPええじゃないか、ではありませんよ

TPPに怒ってもええじゃないか、です。

少しの違いがエライ違い。

面白いですねえ

>怒りを共有するには先に共同体を再建しなければならない。

これは非常に興味深い指摘です。

私はしばしばクライアントから「怒りの扱い方」について聞かれます。
で、その時に話すのが「怒りは二次的な感情」だということです。

怒りの奥には、必ず悲しみや悔しさといった別の感情がある。
それが「怒り」という形を取って表面化しているに過ぎない。
なので、怒りだけをコントロールしようとしてもダメなのです。

で、3・11にしてもTPPにしても、怒れない日本人。
まるで国民が国家に大事にされない国。
経済優先で国民の健康が後回しにされる国。
税金で東電社員のボーナスを払わされる国。
被曝された食べ物を食べることが「愛国」である国。
子どもたちをみすみすと被曝させる国。
除染ボランティアという「特攻」が奨励される国。
・・・で、あることの悔しさや悲しさと、直面するだけの力がないのではないか、と私は想像しています。

まるで虐待されている子どものように。
「親(国)が、わたしを愛してくれていないはずがない」と。

一緒に怒ろう!と言う前に、一緒に悲しむ、悔しがる作業が必要なのではないかと思ったりします。
「自分が尊重されていない」ということに直面する力がないから、怒れない。
それは「自分は大切にされてしかるべき存在だ」という意識がないということ。
それほどに、日本人はパワーを削がれている。私にはそう感じられます。
アメリカの言いなりの政府の姿勢も同様。

中野氏には虚構が足りなかった?

すごい高邁な議論で、とても参加はできません。(笑)

中野氏のお蔭で、TPPの基礎的な危険要素はよくわかりました。
多くの人の判断に影響を与えたと思います。

私もいくつかのバージョンで観ましたが、彼自身、怒りが込み上げて乱暴な態度や表現になってます。
(拗ねている?)
もっと上手く「紙に書く」ことが出来れば、より幅の広い理解が得られるかも知れません。

「そこをぐっと堪えて」(悲壮感を漂わせて)と中野氏に教えてあげたい! 

共同体の再建

デモ隊を見ると、サーッと醒めちゃう、私もです。
これは安保闘争のトラウマじゃないかとも思うのですが。(そのころはまだ生まれてませんけど)
篭城したり、火炎瓶を投げたりしても傷ついただけで結局何も変わらなかった。

怒りに「あきらめ」を抱かされた、そう思います。

>怒りを共有するには先に共同体を再建しなければならない。

同感いたします。
日本は共同体になり損ねました。敢えてそうされたのでしょうが国民のベクトルがばらばらで、それを「自由」だと思い込んでいます。

その共同体を再建するための新しい大義名分、○○主義、○○イズム、いったい何がピンとくるか考えてるところです。

無視され、看過され、軽んじられることへ

怒りを感じます。
特に、表面は当たり障りなくにこやかに応対しつつ、実は欠片も敬意を感じていないという感触に対して。

例えば、今わたしの目の前にいる、表面はとりつくろって礼儀正しくいつも誇らしげで偉そうにしているのに、実は目の前にいる人(わたし含めて)がたった今死のうが生きようが、本当はどうでもいい、自分には関係ないし関心ないという、あまりに心ない本音しか持たない者たちに対して、わたしはどうしようもなく狂おしく怒りを感じます。なぜなら、その無関心が人を殺すからです。

そして、その怒りの頂点の瞬間が通り過ぎると、今度は空しくなったり、無性に悲しくなったりします。そうして殺されていく人たちに、誰も無関心でいられることに対して。

でも、その怒りも悲しみも、誰かが発し、誰かが受け止めるなら、それは人を生かす〝絆〟ですね。

面白くない!

・みみずさん、お久しぶりです。

それほどに、日本人はパワーを削がれている。

ぜんぜん面白くないじゃないですか。
でも、面白くなくても、事実は正面から見据えないと。そしてそこから始めないと。

「親(国)が、わたしを愛してくれていないはずがない」と

日本人ってのは、はじめから親に愛を期待していないような気もします。金だけくれればいいと思ってるフシがあるような気がします。戦前は知りませんけど。

日本人が親と思っていたのは「会社」でしょう。日本国も「日の丸株式会社」ですからね。んでもって、「古い」人間はいまだ会社を「親」と思っている。
年金をもらわなきゃいけないから。

「共同体の再建から始めなければならない」という意見に賛同していただいたのは嬉しいですが、でも、共同体って「作る」ものではないんですよね。「育てる」もの。「育てる」には土壌が必要で、まず始めるのはその土壌を「作る」ことでしょうね。あとはそこに種を蒔いて「待つ」。モンサントの自殺種じゃあ駄目なことは言うまでもありません。

そうか、資本主義ってのは「自殺種」なのかもしれませんね。

中野氏が果した役割は大きい

・amerieさん、おはようございます。

高邁な議論なんかではありませんよ。ただ、ネタでもベタでもないのは確か。ネタに堕ちることなく、ベタであることを意識しましょう、と。ん? そういうのが高邁に見えるのかな(笑)

中野氏の態度は、予め怒っている者には力強く感じられるのかもしれません。でも、よくわからない人には? ただ、TVの人間の「無関心」を露わにした点では有効だったと思います。ネットも指摘するのならそこをついた方が良かったのかなと思いますし、そう考えれば、中野氏も「日本人はバカ」というよりメディアの「関心を装うが実は無関心」をもっと暴き立ててやればよかった。

「そこをぐっと堪えて」

そこを感じ取る感性は、まだ日本人には残っていると思います。そうでないなら、もうお手上げですね。

日本人は「自由」を求めた

・あやみさん、おはようございます。

日本人にとって共同体というのは、「湯水のごとき」「空気のような」存在だったのだと思います。意識することはなかったのでしょう。

そうです。日本には『クルバーン・バイラム――犠牲祭』
http://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-62.html
がない。いや、そうじゃない、在ったんです、かつては。私が関わっている樵の世界でも、木を切り始める前には昔は必ずお供えをして、祈りを捧げていた。「山の神」は海のものが好きだというので魚を、それもカサゴがいいということでした。なぜカサゴかというと、ブサイクだから。神話も「山の神」とされている岩屋姫は不美人だったという話があるのです。天皇の先祖に当たるニニギノミコトが木花咲耶姫――富士山の神様――を見初めて所望した。父親の大山祇命は姉の岩屋姫とセットでなら(笑)と、許可した。しかし、後になって岩屋姫は返却されてきた――と、いうひどい話ですが。

日本はこういった神話を明治維新のときに解体したんですね。そうして徐々に共同体を維持していくための「何か」を見失っていった。その点、イスラームではその「何か」を国家が守っているようです。

でも、やはり日本のやり方はイスラームとは異なります。日本はその「何か」を国家の手を借りずに民衆が自分たちの手で守っていた。ゆえに形式的にもならず、また意識されることもなく「湯水のごとき」「空気のような」ものだったのでしょう。日本の信仰の形――教義なき信仰ともマッチしていた。

だもので、日本人が欧米を真似て「自由」を求めだしたときに、「自由」を支えている共同体を意識をしないうちに掘り崩していったのでしょう。

その共同体を再建するための新しい大義名分、○○主義、○○イズム、いったい何がピンとくるか考えてるところ

そうですね。もはや「無意識のうちに」ということは無理です。意識的に育てていかなければならない。そのための大義名分は必要でしょう。

私はアニミズム的霊性と思っているのですけどね。

なぜ無関心でいられるのか

・naokoさん、お懐かしゅうございます。

無関心が人を殺す。仰るとおりです。立場が入れ替われば自身が無関心によって殺される。にも関わらず、なぜ人は無関心でいられるのか。

それはみなの関心がひとつのものに収斂しているからだと私は考えています。貨幣です。貨幣は何にでも交換することができる。だから何でも手に入る。だから、目の前の人が死のうがどうしようが、カネさえあれば関係ない。明日からも今日と変わらず生きていくことが出来るのです。

そうした環境に人間が適応していくのは当然のことです。ヒトには環境創造能力があり、そして環境適応能力に優れてもいる。それがヒトが他の生命を淘汰できてしまう原因です。そこは怒ろうがどうしようが変わることはありません。

私は無関心に怒っている人にはいい加減気がついて欲しいと思っています。無関心を生んでいるのは、他ならぬ自身の貨幣への関心なのだということに。無関心な人間に心がないわけではありません。楽をするように適応しただけです。そして、貨幣への関心も「楽」への適応に他ならないんです。お金さえ稼げば、百の仕事をしなくても生きていくことが出来るのです。

そして、その怒りの頂点の瞬間が通り過ぎると、今度は空しくなったり、無性に悲しくなったりします。

そう、そうやって、自身だけは無関心の埒外に置いてしまうのです。そして相変わらずの消費活動を続ける。楽な環境的適応を止めようとしない。環境創造を始めようとしない。無関心に対して無力なはずです。他ならぬ自身が無関心なのですから。

すみません、久々にコメントを頂いたのに攻撃的なお返しになってしまって。けれども、以上、申し上げたことは、naokoさんには理解していただきたいと思っています。

おや!

貨幣への関心は日々意識させられていますよ。
さあ今、あなたは命とお金とどっちとるの、どっちが大切?と毎日一分一秒つきつけられてます。毎日が戦いです。

今遺産相続が裁判になる件数が毎年増えているそうです。それも、ほとんどは5000万円以下のおカネで骨肉の争いになるそうです。
億のお金があるとかえって争いがエスカレートしないのですね。
貧乏人ほどむき出しの実存を問われるというわけです。

貧すれば鈍する

・naokoさん、おはようございます。

そう、貧乏人ほどむき出しの実存を問われます。でも、なぜなんでしょう? 

労働しない者できない者が貧乏になるのは、理屈の上では当然です。しかし、ワーキングプアと言われるとおり、貧乏人は労働をしないものではない。労働に安い価格しかつかないから貧乏なんですね。

私たちは、もうすっかり資本主義的労働者です。労働は労働力として売るものだと思っている。でも、共同体がしっかり機能してたときはちがった。労働は「仕事(務め)」と「稼ぎ」に別れていた。「仕事」は共同体を維持するための労働ですが、私たちは、それを稼ぎにならないからと言って嫌がるようになった。そうした「仕事」は行政に丸投げして文句を垂れるか、金と暇を持て余している人のボランティアに頼るか。そんなふうになってしまった。

戦う場所と方法が間違っているんですよ。だから、ますます戦いの深みに嵌って他人のことになど構っていられなくなる。無関心になっていくと申し上げているのです。

仕事と稼ぎが融合

わたしの生活の糧は、共同体を創出しつつ、それを維持するという〝務め〟を通して、稼ぎもまた創出するというやり方で、生活を成り立たせています。
ですから日々あなたは命(共同体創出維持)とお金(稼ぎ)のどちらに今傾いているの?と自問自答を余儀なくされます。でも、どちらかをないがしろにしても生きてはいけません。
だから無関心ではいられないのです。

naokoさんが無関心なこと

・naokoさん

少し話がずれてきました。私の返答の仕方が杜撰だったことが原因です。お詫びします。が、それでも私はnaokoさんの怒りがnaokoさんの無関心に起因するのだという初期の思いを棄てきれません。

なるほど、naokoさんご自身は貨幣の問題に無関心でないのでしょう。でも、私が言っているのはそのことではないのです。貨幣経済に適応することで他人に無関心になっていってしまう「人間の弱さ」に無関心だと申し上げたい。

適応することは上でも申し上げた通り、「争い」の上では「強さ」です。その「強さ」でヒトは他の生物を淘汰してきた。そして現在、同胞をも淘汰しようとしている。淘汰しなければならない相手にいちいち関心を抱いてしまっては淘汰できなくなってしまう。「強さ」が発揮できないのです。

が、社会で生きる人間にとってその「強さ」は同時に「弱さ」でもある。社会を掘り崩していくからです。その事態は現在進行中で、ますます酷くなって行っている。犠牲者もこれからますます多くなるでしょう。

この「強さ」&「弱さ」は私たちの心の裏表です。ときに片側が強調され、ときに裏側が顔をだす。

naokoさんは怒りをお持ちだと仰います。では、、この怒りはどこへ向いているのか? 「強さ」か「弱さ」か。どう考えても「強さ」の方でしょう。競争・淘汰を強いられたために「強さ」を発揮せざるを得なかった人間に怒りを感じている。狂おしいほどに。それはそれでもっともではあります。

ですが、それはやはり、同じ人間のひとつの心の裏表である「弱さ」に無関心だからこそでしょう。「弱さ」が視界に入れば、怒りが持続できなくなるのが人間というものではないのでしょうか。

もっとも、私は酷なことを申し上げています。ヒトの無慈悲な「強さ」にうちひしがれている人に同時に「弱さ」を見ろだなんて、心ないと批判されても仕方がない。それは私も自覚しています。でも、敢えてそのように申し上げるのです。

怒りが持続出来なくなる、はごもっとも!

おっしゃる通りだと思います。
そして、強さの裏側に見え隠れする弱さ、強さと表裏一体の弱さに対して、あなたは鈍感ではないか?とのご指摘もおそらくは的を得ていると思います。
というのも日頃から、わたしはしょっちゅう伴侶にそう指摘されているものですから。自分ではなかなか気づけないのですが。
内面の浄化しきれていないある種の〝恨み〟から、ある種の人々の強さに対して過剰反応してしまう面はあるのではないかと思います。
その人たちも弱さを抱えていることは承知しているのです。それでも、自分でも気づかぬうちに刃を向けてしまうようです。
もっともそうそう持続はしませんよ。そんなに執念深くはないと思うのですが。
でも、ともかく・・・。
文章だけからそれを見抜いて指摘される愚樵さんの慧眼には恐れ入ります。
時間を使わせましたね。丁寧なお付き合い、ありがとうございました。

申し訳ありませんでした

・naokoさん、おはようございます。そして、申し訳ありませんでした。

もっともそうそう持続はしませんよ。そんなに執念深くはないと思うのですが。

はい。そのことも察しはついていました。

そして、その怒りの頂点の瞬間が通り過ぎると、今度は空しくなったり、無性に悲しくなったりします。

このように仰る方が執念深いとは思えません。ですが今回、敢えてそのところは無視して「攻撃」させていただきました。私の言いたいことを伝えるためにnaokoさんをダシに使ったのです。失礼なことをしました。

これはある意味「賭け」だったのですが、naokoさんなら通じるだろうと思っていました。そこのところをご理解頂けると嬉しいです。

「賭け」

愚樵さんの言うそれは「試す」とか「絡む」という感じもしますね。
むかし友人が「カラム」という対話の手法を〝なだいなだ〟さんの本から仕入れてきて、実験台にされた記憶があります(笑)。
それから、わたしのパートナーは「試す」のが得意です。逆にわたしはそれが昔から苦手で、もっぱら「試される」方でした。ですから「試されている」感覚はけっこう分かります。
でも、「賭け」が成り立つ範囲で良い方に「試される」のは嫌いではありません。自分自身、より掘り下げていく良い契機になりますし。
対話も興味深いものになりますよね。リアルでもネット上でも。
今回も愚樵さんのお話はとても啓発されました。
ダシにしていただいて、面白かったです。
では、また。

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