愚慫空論

霊魂

「霊魂」という表現は、「霊」という言葉と「魂」という言葉が組み合わされている。「霊」(れい、たま)は、すぐれて神妙なもの、神、こころ、いのちなど、多様な意味を持っている。 また、そこに何かいると五感を超越した感覚(第六感)で感じられるが、物質的な実体としては捉えられない現象や存在(聖霊など)のことを指すこともある。

「魂」(こん、たましい)のほうは精神をつかさどる精気を指し、肉体をつかさどる「魄」と対比されている。

よって、「霊魂」という言葉は「霊」と「魂魄」両方を含む概念を指すために用いられている。ただし、通常は、個人の肉体および精神活動をつかさどる人格的な実在で、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味している。そして人間だけでなく、動物や植物、鉱物にまで拡大して用いられることがある。


霊魂はひとまとめにして呼ばれることが多いが、内実は霊と魂と魄とに別れる。

人格的な実在。確かにそうであろう。が、なかなかピンとこない。そこで、安富教授の定義を参照してみる。
ハラスメントは連鎖する

 出発点となるのは「魂」である。ここでは魂という言葉にいかなる宗教的な意味合いも含めてはいない。人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと、我々はそれを魂と呼ぶ。
 運動状態と言うと、とっつきにくい印象を受けるかも知れないが、魂と身体を対比させて考えるとわかりやすくなる。
 私たち人間はみんな、肉体、血液、脳などの全てを含む身体を持っている。しかし、ただ 身体を持っているということと、生きていることとは別の話である。
 私たちは誰に習うこともなく、呼吸をしている。肉体を構成する細胞はつねに代謝活動をしている。血液は血管を流れ全身をめぐっている。脳では数百億個の神経細胞、ニューロンが互いに電気的、化学的に通信をしている。これらの動きが十全に機能しているからこそ、私たちは生きることができる。
 これらすべての動きのうち、人間に生来備わっているもの、それが魂である。
 新生児について考えてみれば、身体という構造に魂という機能が備わっており、その魂という機能があってこそ、身体という構造が生きた状態のまま維持されていると言うことができる。
 何かを学習すると、脳内のニューロン同士の接合部であるシナプスが変化する。毎日重い荷物を運んでいると、筋肉が肥大していく。食事をして休息することにより、身体は成長していく。
 これらは運動が身体の構造を変化させていく例である。運動は身体の構造を変える。そしてまた、構造の変わった身体は、構造が変化する前の身体とはちがった運動状態をもつ。身体が大きくなれば、血液のめぐり方も変化する。このように運動状態と構造は不可分であり、魂と身体も不可分である。
 身体とは別個に魂が存在するわけではない。運動状態と身体の構造を同時に変化させながら、生物は生きている。


以上の説明は精神的な魂と身体的な魄、つまり魂魄の説明になっているが、ここでは特に魂/魄の区別を気にする必要はないだろう。

では、〈霊〉とは? それは「インターフェース」の中に存在する。

 魂というのは、人間が生まれたときからもっている本来的な運動状態である。ところが、それが人間の運動状態の全てであるわけではない。それは、人間が発達を通して運動状態を変化させていくからである。新たに得られた運動状態も当然、魂を土台にしており、魂なくして維持することは不可能である。しかし、学習を通して得られた新たな運動状態は、魂とは区別されるべきものである。
 生まれたばかりの子供は、外の世界に対して魂がむき出しの状態にある。より正確には母親の胎内での発生過程で、すでに学習は始まっているが、ここでは話の繁雑さを避けるために、生まれた状態を魂がむき出しの状態とする。
 外の世界、つまり外界とは、周囲の環境や周りにいる人間のすべてを含むものだ。魂がむき出しの状態にある新生児は、自分の欲求や気分を単純な方法で外界に表現する。
(中略)
 自然に成長していくなかで、魂と外界の間のインターフェイスが学習を通じて発達していく。インターフェイスとは、受けたメッセージを自分のわかる形に変換し、自分の送りたいメッセージを相手のわかる形に変換する装置のことである。
 インターフェイスという言葉に馴染みがなければ、「仲立ち」あるいは「媒(なかだち)」と呼び名を置き換えてもよい。
 仲立ちとは、異なる出自のもの同士のやりとりを媒介するものだ。
 そもそも、私たち人間が見ているものは、外界にある光の波そのものではなく、光の波を網膜の奥にある視細胞で受けた結果生じたものである。また、私たちが聞いているものは、外界にある空気の振動そのものではなく、蝸牛内にある有毛細胞が空気の振動に応答して、その場で作り出したものである。
 このように、私たちが外界から受けたメッセージを理解できるのは、外界からのメッセージを変換するインターフェイスがそもそも備わっているからである。
 ものの見え方や聞こえ方は、それまでに得た経験に応じて変化する。つまり、メッセージの変換のやり方が、学習によって変化するということだ。メッセージを媒介する仲立ちが経験とともに成長することにより、媒介できるメッセージも増え、種類も変わっていく。
 これがインターフェイスの発達である。


インターフェイスとは他者との「仲立ち」の機能を担うものだが、これが自然に発達してくると、インターフェイスの中で他者の「像」が結ばれるようになってくる。このインターフェースの中の「像」が〈霊〉である。

 私のなかのあなた。
 あなたのなかの私。
 私のなかの私。

「像」は実在の人間とは限らない。
 小説やマンガのなかのキャラクター。
 実在のモノ。
 非実在の概念。

  (関連記事:身体性=脳の拡張性

「像」を結びさえすれば、なんでもよい。が、人間にとって重要なのは人間の〈霊〉であることはいうまでもない。

かの『エヴァンゲリオン』から一部を拝借。

〈霊〉は自分の心の中にいる。自分を見つめているもうひとりの「自分」が〈霊〉だ。
他人の心の中にもいる。何人もいる。全部ちがう「自分」だけれども、全部同じ「自分」だ。
それが〈霊〉である。なお、「心」とはインターフェースである。

逆に、自分のインターフェースの中にも何人もの他人がいる。それが全部〈霊〉なのはいうまでもない。

そう、〈霊〉は怖いのである。自分のなかに存在するにもかかわらず、いや、自分のなかにしか存在しないにもかかわらず、決して自分の思い通りにはならない。〈霊〉は他者と繋がっているから。インターフェイスだから。

しかし、思い通りにならない〈霊〉は、思い通りにならないがゆえに、〈魂〉とひとつになることができた時には、この上ない悦びをもたらしてくれる。
その悦びの状態を「しあわせ」という。

すなわち。人間が幸せになるためにはふたつの条件が満たされいなければならない。
1.〈霊〉が豊かに存在していること。
2.〈霊〉が上手く治まっていること。

かつて人々は〈霊〉が実在すると信じていた。政治とは社会で〈霊〉を祀って豊かにし、上手く治めようとする営為だった。

今日、人々は〈霊〉の実在を信じていない。ゆえに今日の政治は、金をどのように集め、どのように使うかという経済の一部分に成り下がってしまっている。

これでは人々を幸せにする〈霊〉は減少の一途を辿るばかり。行き着くところは、誰も幸せになることが出来ない社会。
そんな社会を何というか。資本主義社会というのである。

コメント

霊(チ)

愚樵さん

こんにちは。

あやみさんのところでコメントを拝見して、ますます霊に関する記事が掲載されるのを楽しみにしていました。

実は、愚樵さんがコメントされた前日、友人たちと「霊(チ)」について話をしたばかりでした。

正直、私は自分の思いを文章にして表現することはそれほど得意とは思っていなくて、愚樵さんの記事を読んで思うこと感じることはたくさんあれども、言葉にできずに尻込みしているうちに時間が過ぎていくというのがいつものこと。

しかし今回は、意を決してコメントしてみたいと思います(笑)

心というインターフェイスの中で結ばれる像が「霊」ですか。なるほど、面白いですね。これは、万物にイノチが存在し、そこには当然「霊」も存在しているという想定のお話ですよね?

霊の話をすると、以前愚樵さんがしてくれた「狐に化かされた人」の話を思い出します。


さて、霊(レイ)という漢字ですが、大和言葉では色々な音に当てられていますが、その中の一つに霊(チ)があります。ここで言うところの「霊(レイ)」は、「霊(チ)」が最も近いのではないかなと思いました。

ヲシテ文献に登場する為政者たちは、風の動きや、太陽の暖かさ、雨の潤いなど、あらゆる自然の営みは、アメツチから発現して集まったEnergyの動きによって為されていると識っており、そのEnergyのことを「霊(チ)」と呼んでいます。

「霊(チ)」は、「霊(クシ)」とも言いますが、「霊(クシ)」は妙なるもの…極めて優れたる美しきものとされているところからも、「霊(チ)」が古くからどれだけ大切に思われていたかを感じます。

ちなみにヲシテでは、チの音に「中心に収束したEnergyが動いている」ことや「Energyが中心に収束する動き」を表す形を当てています。「血」や「乳」にも、「チ」の音が当てられていますが、人の体内にも形を変えた「霊(チ)」が内在していると識っていたのでしょう。

そもそも、「霊(チ)」自体が、アメツチ以前に、アメツチを包含するアメノミヲヤという宇宙そのものから生じてクニタマ(地球)にもたらされているものという考え方がありますから、「霊(チ)」というのは宇宙を構成する「血」や「乳」のようなものという捉え方なのかもしれません。

そういう意味でも、「政治とは社会で〈霊〉を祀って豊かにし、上手く治めようとする営為だった」というのは、まことにその通りだと思いました。

ヲシテ

・しわさん、ようこそ。
こちらへコメントしてくださるのは初めてでしたっけ?

私だって自分の思いを文章にするのはあまり得意ではないと思っているんですよ。ヲシテについても、いままで何度か記事にしようと考えているのですけどね。上手くいかない。書きかけてボツにしたりしています。

文章にまとまるのって、私には「機が熟する」って感じがあるんです。最近は調子に乗りすぎですが...、こういうのは後で反動が来るんです、たいてい。

で、さて。

これは、万物にイノチが存在し、

霊が「チ」で、万物に「イノチ」ですか。「イノチ」はヲシテではどう読むことが出来るんでしょう? ヲシテはシニフィエとシニフィアンが一致する言葉のようですから、「イノチ」は「魂(タマ)」とは表記が違うから当然、内容も違うのでしょうね。興味在るところです。

ところで、今回は「万物にイノチが存在する」という想定には実は立っていません。「像」を結ぶのはあくまで「イノチ」ある魂の本来的な運動であって、「像」を結ばせた対象に「イノチ」があるかどうかは問うていないんです。

簡単にたとえ話でいうと、衝突です。魂をもつ私たちはEnergyをもつ、つまり運動状態にある。この〈世界〉には「私」以外の「他者」が存在していますから、他者との衝突事故が多発します。で、衝突すると衝撃を感じるわけですね。

この衝撃は、他者も運動状態であるか静止状態であるかは問いません。他者の状態の違いによって衝突で発生するエネルギーの量に差異は出ます。が、「私」は運動しているのですから、衝突すれば必ずエネルギーは生まれる。この衝突エネルギーがインターフェースのなかで「像」を結ぶ...と、こんな感じでしょうか。

もし仮に、インターフェースのなかで起こる衝突エネルギーを正確に計測できることができるとすると、個々の衝突エネルギーを測定していくことで、〈世界〉のなかで動いているもの(イノチあるもの)、静止しているもの(イノチなきもの)を選り分けることができるでしょう。しかし、インターフェースのなかでの出来事は計測不可能です。そうすると、そこから可能性はいくつも分岐していく。

まず、自身がイノチをもち運動していることは否定できません。が、1.他者はすべて静止していると考えることはできます。2.他者の一部は運動しているが、静止しているものもあると考えることもできる。3.他者もすべて運動している考えることもできる。

1.は独我論になります。ほとんどの宗教が採用するのは2.ですね。イノチの区分は異なりますけれども。キリスト教だと、神からイブキを吹き込まれた人間だけ。仏教では有情/無情で区別します。日本人の宗教観は、いうまでもなく3.ですね。山川草木悉皆成仏です。

ヲシテはおそらくこの3.の「想定」を反映しているはずです。ですから逆に、ヲシテの構造を明らかにすると、そしてそれが大和言葉の原型だとすると、日本人の宗教観の原型も明らかになる、ということになっていくのかな、と思ったりしています。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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