愚慫空論

〔再掲載〕 知識

アキラさんがあげられている「野口先生の時代背景」シリーズ、その中でも特に

 『野口先生の時代背景 その6 ~〈世界〉を求める欲求 ~』
 野口先生の時代背景 最終章 ~「眩しい光」と「懐かしい闇」~

の2つを読んで、昔にあげた『知識』というエントリーを思い出してしまった。

近代的理性という「眩しい光」。光の蔭にできる「闇」。「光」になれてしまった私たちは、「光」が強くなることでかえって濃さをました「闇」に怯えるようになってしまった。

今ある「闇」は、「あたたかい闇」「懐かしい闇」ではないわけです。
底知れない空虚、不安と恐怖ばかりが惹起される「闇」。
おまけに具体的な脅威をもたらす「見えないヤツ」までまき散らされ、その「感覚に引っかからない放射性物質」による恐怖まで引き起こされるようになってしまった。
今 世の中でさんざん言われている「どうすればいいの?誰か教えて!」は、まさにこの状況の中で、周囲を照らす「光」を求める欲求なんですよね。


うん。「闇」は、光を当てて【知ろう】とするとますます深くなり、不安と恐怖ばかりが惹起される。が、〈識ろう〉とすれば、「闇」は〈闇〉になる。あたたかく、懐かしいものになる。アキラさんは、野口整体をそうした「闇」を〈識る〉方法だと仰るが、そうなんだろうと思う。私は野口整体のことは何も〈識らない〉けれども、樵という営みを通じて〈識る〉ことについてはいくらは知っているつもりだから、そう見当がつく。

というわけで、【知る】と〈識る〉とについて語った『知識』のエントリーを再掲載。尚、〈 〉や【 】等の表記は修正してある。

****************************

理性に叛旗を翻す(笑)、2009年冒頭のエントリーです。


【知る】ことと〈識る〉こと。「知」と「識」の文字は合わさって「知識」という言葉になります。現代では、「知識」は【知る】ことの基礎的なもの、【知る】側の言葉として捉えられがちですが、もともとの「知識」は違うのではないか? 【知る】と〈識る〉はどちらも人間の精神作用ですが、似て非なるもの。その区別がつかなくなって、【知る】の側に大きく傾いてしまったのが、“我思う、故に我あり”に端を発した理性万能主義の近代ではないのか? そして、近代的理性が〈識る〉ことを抑圧し、人が人として〈生きる〉ことへの意義を見失わせてしまった...のではないでしょうか? 

〈生きる〉ことの意義は、決して【知る】ことはできず〈識る〉しかないもののように私には感じられます。




【知る】と〈識る〉について具体的に話を進めましょう。私は樵ですから、樹木の伐倒を例にとります。

伐倒方向立木を伐倒するには、まず伐倒方向を定めなければなりません。伐倒方向は、間伐で伐り捨ててしまって山の中へ放置するようなときは別ですが、搬出する都合を第一に考えて、伐倒方向を定めます。 右の図は、コチラの中からお借りしてきたものです(図そのものをクリックしていただくと、お借りしたページに飛びます)が、申し訳ないがこれは初心者向けと言わざるをえないもので、我々の作業では「作業困難」とされている方向へ伐倒するケースが多い。また、そちらへ伐倒することが出来ないようでは、一人前とは見てもらえません。

 ちなみに、上向き(山側)に伐倒するのが困難なのは、枝を張り出す都合で立木の重心はどうしても下向き(谷側)になってしまうからです。林には幾本もの木が立ち並んでいます。ある立木の上にも下にも、別の木がある。木の高さがすべて同じだとすると――針葉樹の人工林は、通常すべて同じ高さの木が並ぶ――上にある木は、下にある木よりも梢が高い位置に来ることになる。すると木は、上向きに枝を伸ばそうとしても上の木に光が妨げられ、逆に下向きに枝を伸ばすと下の木を受光を邪魔する形で伸ばすことが出来る。なので、木は斜面下向き方向に枝が多くなり、その枝の重みで立木の重心は下向き(谷側)に傾くことになるのです。

また、上側に倒すこと――我々はそれを“伏せる”と言いますが――には大きなメリットがある。出しひとつは、図で下向きが「不可」となっていることに関係するのですが、上向きだと伐倒した後着地するまでの距離が短いのです。すると、その分、木に掛かる衝撃が少なくなる。下向きだと衝撃が大きくなりすぎて、せっかく倒した木がバラバラに砕けてしまう恐れがあるのです。 もうひとつは、上向きだと木が軽くなること。上向きに倒してしばらく置いておくと、葉より水分が蒸散して乾燥します。これが下向き――木の元が上に、梢が下に――だとなぜか蒸散しない。それに着地の衝撃で枝が飛んでしまって、葉が少なくなるというのもある。現在は機械動力を使って搬出するので少々重くても出してしまいますが、昔、人力で搬出した頃には木が乾燥していなくて重いということは、非常に困ったのです。ですから、木を伐り倒すのは、“伏せる”のが決まりでした。


方向を定めたら、次は伐り込みの手順です。今はチェーンソーを使います。伐倒手順

まず、伐倒方向に向かって「受け口」を入れます。「受け口」の切り口は伐倒方向に対して垂直になるようにします。受け口を直径の1/4ほど伐り込んだら、今度は反対方向から「追い口」を伐り込んでいきます。

伐倒方向と立木の重心の傾きが同一方向である場合、「追い口」を伐り込むに従って立木は傾いてゆき、ついには傾く荷重に耐えられなくなって、木は伐り倒されます。ですが、“伏せる”ときのように、伐倒方向と重心の傾きが反対の場合、「追い口」を伐り込んでゆくと、追い口の方向に木が傾いてきます。そうなると、チェンソーは木に詰められてしまって、伐り進めることも、刃を木から抜くことも出来なくなってしまう。

クサビ そのような場合には、クサビを使います。右の黄色いのがクサビ。少しずつ伐り進めながら、少しずつクサビを打ち込んでゆく。この時に重要なのが「つる」の残し加減です。クサビを打ち込みつつ伐り進めても、ある限度以上に伐り進めて「つる」を少なくしすぎてはなりません。クサビを打ち込むことは、伐倒方向への力の加重をかけると同時に、木の梢の方向への力も加えることになります。「つる」が細いと、梢方向への荷重に耐えられなくなって「つる」が切れてしまい、そうなると伐倒方向への力の加重も無くなってしまって、立木そのものの重心の傾く方向へ倒れてしまい、事故の元です。また逆に「つる」を残しすぎるのも危険で、倒れていかないばかりか、無理にクサビを打ち込むと、梢方向への加重に木の幹が耐えられなくなって、幹が真っ二つに割れて裂け上がっていきます。そうなると、幹は木の加重に耐えられなくなるまで裂け上がって、耐えられなくなったところで折れて落ちてきます。こうした現象は逃げる間もなくあっという間に起き、また、どちらに落ちてくるか予想もつきませんから、非常に危ない。捻れの少ない素性の良い木ほど裂けやすいですから、困りものなのです。

これまでの説明で、立木の伐倒について理解していただけたでしょうか? 私の説明がつたないこともあるでしょうが、自信をもって“理解できた。もうすぐにでも木を伐れるぞ!”なんていう人は、おそらくいないだろうと思います。せいぜいのところ、“手順はだいたい飲み込めたが、実際にできるかどうか自信はない”といったところでしょう。それで当然です。

では、こちらの動画をご覧ください。ハーベスタと呼ばれる高性能林業機械です。


もちろん、ハーベスタだって素人がそう簡単に扱えるものではありません。しかし、これはベースになる機械は土木・建設に用いられるパワーショベルですから、パワーショベルを扱った経験がある人だったら“ちょっと慣れたらできるかな”くらいに思うかもしれません。ハーベスタを使えば、「つる」の残し具合だとか、「追い口」へのクサビの打ち込み加減だとか、そういったことに熟練する必要もなく比較的安全に作業できます。もし、林業に従事しなければならないとしたら、ハーベスタを使って作業をしたい――そう考える人が多いのではないでしょうか? 肉体的に、こちらの方が楽だと直観的にわかるでしょうし。


伐倒方法の手順などの知識を頭脳に仕込むことは、【知る】ことです。ですが、【知る】だけではなかなか大きな立木を上手に伐り倒すことは難しい。それには経験を経て〈識る〉ことが必要です。【知る】ことは、記述された言葉を理解することで得られます。では、〈識る〉ことは? 単に経験だけでは不足です。〈識る〉ためには〈対話〉が必要なのです。

では、〈対話〉とは? 立木の伐倒ひとつをとってもいろいろな場面で〈対話〉はできますし必要ですが、もっとも精妙な〈対話〉が要求される場面は、やはり「つる」の残し加減、クサビの打ち込み加減、うまく言語化することが困難な、「加減」が要求されるところでしょう。ハンマーでクサビを打ち込んだ時の手応えとか、ハンマーの一撃ごとにクサビが「追い口」に潜り込んでいく距離、立木の軋む音、傾き具合、時には風が吹く様子――様々なことを感じながら、微妙な感覚で様々な加減を調整していく。こうしたことが、言語化することがそもそも不可能な〈対話〉であり、そうした〈対話〉を為すことを〈仕事〉というのです。

〈対話〉を為すことを〈仕事〉とは、また妙なことを。言葉を解する人間相手の仕事ならば対話が仕事ということもあるだろうけども、木は言葉を解しないのに対話はおかしい――そんなふうに思われる方もおられるでしょう。しかし、これは「仕事」という言葉を考えてみれば、それほどおかしなことではありません。

「仕事」とは“事に仕える”ということです。“仕える”のは、もちろん「私」、仕事を為す私です。では、「事」とは? 仕事は、そもそもが「私」が外部に働きかけを行ってなんらかの成果を得るための行為です。その「行為」を「事」と称する。してみれば“事に仕える”とは、「私」よりも「事」を上位において、そこに没入していくということになります。「事」に没入していくこと――様々なことを感じながら、微妙な感覚で様々な加減を調整していくこと――は、相手が言葉を介す介さないなど関係なく、「私」の相手への行為から生じる相手の応答を感じつつ、さらに相手に行為していく、そうした「私」と相手との間の「行為-応答」の「やりとり」です。その「やりとり」を〈対話〉と呼んだだけのこと。この呼称は、言葉を解する「私」を上位とする思い込みからは出てこない発想かもしれませんが、「私」を下位に置く〈仕事〉の精神からは遠いものではないと思います。


ハーベスタを使用することは、肉体的な負担が少なく、比較的安全であり、さらには作業の生産性が上がり、良いことずくめのようですけれども、同時に〈識る〉ことができる機会が奪われてしまうことにもなります。もちろん、ハーベスタを扱うことはハーベスタと〈対話〉しなければなりませんから、ハーベスタについて〈識る〉機会は新たに生まれます。ハーベスタといったような機械との〈対話〉は、それはそれで素晴らしいことです。ときに機械の設計者が想定した以上の性能、機能を発揮することもある。ですが、基本的に機械といったものは、それが進歩すればするほど――進歩させるのは科学技術――人の〈識る〉範囲を狭くしていく。たとえば、さらに機械の能率を上げるため、またオペレータの熟練――オペレータが機械を〔識る〕こと――に依存しないように、機械の自動化を推し進めれば? もしくは、作業の過程を細かに検討し分業化を進めれば? そのような「進化」が進むごとに作業能率は上がるかもしれませんが、〈対話〉の機会は奪われ、人間は〈識る〉ことが出来なくなっていきます。そうして多くの〈仕事〉がたんなる作業になりさがってしまう。

ハーベスタのような機械を設計開発するには、科学によって積み重ねられた成果――【知る】ことの体系――が必要であったことはいうまでもありません。設計者は、機械の目的に合わせて【知る】ことの体系と〈対話〉をしつつ、設計を行う。また、設計されたものを形にするには、エンジニアたちのノウハウ――これも〈対話〉によって捉えられた〈識る〉こと――も必要です。機械の設計者、エンジニアたちの作業は〈仕事〉でありえるかもしれません。「私」を「事」の下位に置くことができるかどうかはいささか疑問ですが、彼らにとって、その作業は自己実現の方法となりえるでしょう。

しかし、そうした〈仕事〉は、機械に従って作業をしなければならない人たちから〈仕事〉を奪い、仕事人をたんなる作業員にしてしまいます。マルクスが唱えた「疎外」というやつですね。マルクスは労働者を疎外する主犯を資本としましたが、これまで見てきたような視点に立つと、疎外とは、〈識る〉が【知る】によって抑圧されること、とすることも出来そうです。


ヨキ

これは私が使っている道具です。一般的には「斧(オノ)」という方が通りがよいかもしれませんが、我々は「ヨキ」と呼び習わしています。ヨキの語源は、刃に施されている4本のスジにあるという話です(画像からも、見づらいですが見て取れます)。刃の反対側には3本のスジも施されてあるので、「ミキ」となってもおかしくはなかったはずですが、なぜがこれは「ヨキ」です。

ヨキは、樵にとっては武士の刀のような存在です。樵の世界でも今の世の中、さすがに機械化が進み、ヨキが活躍する場面はほとんどありません。木を伐るための道具は、もっぱらエンジン動力のチェーンソーか、さもなければハーベスタのような大型機械になってしまっています。ヨキは木を伐るための道具としてよりも、刃の背でクサビなんかを打ち込むための道具として使われることの方がはるかに多くなっています。

ヨキは、ノコギリという道具が発明されて以来、木を伐るための道具としての役割の主役からは降りてしまっています。それでも、ヨキが特別な存在である理由――明確にはわかりませんが、それは刃に施されたスジにあるのかもしれません。

斧という道具は、木材を建築物等に利用した文明には広く見られるものです。しかし、刃に3本、4本のスジを施すのは日本独特のもの。その意味は、1本1本のスジは「気」を表し、3本のスジは「ミキ」すなわち神酒、4本のスジは「ヨキ」すなわち4つの気――地・水・火・風――から生まれる五穀を表すもの。木を伐るのは今でも深い山中のこと、昔はなおのこと供え物を運ぶことなど出来ず、その気持ちを表すものとして斧の刃にスジを刻んで伐り倒す木に祈りを捧げた、ということらしいのです。

木に学べ―法隆寺・薬師寺の美 (小学館文庫)木に学べ―法隆寺・薬師寺の美 (小学館文庫)
(2003/11)
西岡 常一

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そうした意味を、私はこの本で知りました。樵になる前の話です。そのときには、「ヨキ」の意味を頭には仕込んで【知る】ことは出来たかもしれませんが、木に供物を捧げようとした昔からの樵たちの心まではとうてい〈識る〉ことは出来ませんでした。樵に鞍替えして、多少は木との〈対話〉の経験もした現在は、少しはその心がわかるような気がします。

以前、知り合いのベテラン樵から、奈良の平城京大極殿復元に使う樹齢300年に近いヒノキの伐ったときの話を聞いたことがあります。吉野のとある山中にあったその木を伐るに当たって、仲間といろいろ伐り方について相談――適切な伐倒方向、倒れ具合の予測、倒した後の搬出の段取り等々だと想像しますが――したあと、いざ、木に刃を入れるという段になると、やっぱり足が震えたと言っていました。その心境はよくわかります。たかが木といえど、それを伐り倒すことを生業にしているといえど、自分よりも遙か齢を重ねたそのヒノキは、単なる樹木ではないのです。供物を捧げ祈りたい気持ちになっていくのは、ごくごく自然なことだと感じます。

木を伐り倒すことから、木へ供物を捧げようという心へ至る過程。こんなものは、とてもとても、論理的に説明できるものではありません。そうしたことを明確にしようとするときには、言葉の伝達力の乏しさに絶望を覚えざるをえない。しかし、では、言葉でそれらを表現することは全く不可能なのかというと、それはそうでもない。読み手の想像力、共感力に期待を託しつつ、自分の感覚をさまざまな方法で言葉に載せて〈対話〉するのであれば、もしかしたら理解してもらえるかもしれない。そうした期待は、言葉には十分持って良いのではないかと思ってもいます。


悩む力 (集英社新書 444C)悩む力 (集英社新書 444C)
(2008/05/16)
姜尚中

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姜尚中は、この著作の第3章のタイトルを「知っているつもり」じゃないか、としています。私の文章をここまでお読みいただいた方は想像つくかもしれませんが、「知っているつもり」をこのエントリーの表現の仕方で言い換えると、「識っているつもり」です。また姜尚中は、トルストイを引用しながら「科学は何も教えてくれない」とも言います。科学はわれわれが何をなすべきかということについて教えてくれない。教えてくれないだけならまだよいのですが、それに留まらず、人間の行為がもともともっていた大切な意味をどんどん奪っていくと言う。私もそれに全く同感です。

われわれはみな、自分たちは未開の社会よりはるかに進歩していて、アメリカの先住民などよりはるかに自分の生活についてよく知っていると思っている。しかし、それは、間違いである。われわれはみな電車の乗り方を知っていて、何の疑問も持たずそれに乗って目的地へいくけれども、車両がどのようなメカニズムで動いているかを知っている人などほとんどいない。しかし、未開の社会の人間は、自分たちが使っている道具について、われわれよりもはるかに知悉している。したがって、主知化や合理化は、我々が生きる上で自分の生活についての知識を増やしてくれているわけではないのだ。

これはマックス・ウェーバーの『職業としての学問』の孫引きです。

自分が使う道具を含め、自分自身が住んでいる世界について知悉すること、〈識る〉ことは、自分が何者であるか、ということを〈識る〉ことにつながっていきます。いくら科学的な知識や、社会の仕組みについて理解し【知る】ことを重ねても、生きている意味などつかめないように私は思います。【知る】ことで出来ることは、せいぜい知らない者を下に見て、相手と比較することで自分の位置を確かめる程度のことです。それは、オレは金持ちだからエライとか、社会的に高い地位にいるからエライと考えるのと大して違わないように私には思える。そうした比較を知性だとか理性だとかというならば、そんなものを少しも欲しいと思いません。

私自身が何者であることを〈識る〉ことは、むしろ理性的でないところからもたらされるように思います。「我思う、故に我あり」ではなく、「我感じる、故に我なし」です。

「我なし」は間違いではありません。私自身を〈識る〉ことを「我なし」とは矛盾していますが、これはこれで正しいと思います。ただ、どのように正しいのか、そこを語る言葉を残念ながら私は未だ持ち合わせていません。語れるときが訪れたら――いつ訪れるかわかりませんし、訪れない可能性も高いですが――、エントリーをあげたいと思います。
  

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今の私は【知る】ことも、〈知る〉になりえることを知っている。また逆に〈識る〉ことが【識る】に堕ちていくのも識っている。

アキラさんが信奉しておられる野口晴哉という人は、〈識る〉ことを〈知る〉へ高めた人だったのだろう。そのような知識人は、昔は結構いたのだろう。

右は、〈識る〉と〈知る〉をともに究めていった人の「姿」だ。

それから比べると、今の知識人は、【知る】ことによって〈識る〉を【識る】へと貶めている者たちが大半のような気がする。霊的な病人というべき者たちだ。

コメント

 西洋でも近代理性に疑問符を投げるものとして実存主義が現われたものですが(ヤスパースやサルトルのあとを継いだ人がいるのかは知りませんが)、日本では実存主義的でありながらそれを超えた境位に仏教思想が屹立していますね。一般に仏教思想が理解されているとはとても思えませんが ^^;
(宗教こそ超理性的な体験を踏まぬことには理解不可能な世界です。西洋は近代に入ってから理性と超理性のバランスが完全に崩れてしまったのでしょうね。その淵源は中世期に神学と哲学を分離させたところにもありそうですが)

 愚樵さんが最後に書いておられる「私自身を〈識る〉ことを『我なし』」はその通りでして、仏教においても無我思想として述べられているところのものであります。「我なしにおいて我を知る」となりますね。
 世界のすべて、自己のすべてを脱却した先に真の我を発見することが悟りといわれるものです(「真の我」は仏性、如来蔵などさまざまに呼ばれます)。到達するルートはいくつもあるので誰にでも悟りは実現可能ですが(一切衆生悉有仏性はまさに然り)、現実的には理解されがたい性質の感覚ですね。

 ちなみに自然にも仏性があるとの見方は、本来的には自己と宇宙の一体的感覚から抒べた真実であって(〈自己〉が〈宇宙〉に渾融しているので、すなわち自然にも〈自己〉=仏性が遍在している)、それを八百万的な神仏習合的見地から捉えるのはどうかなー、と思ってしまいます。
 日本人のメンタリティを考えるのであれば神仏を分離させる必要もないんですけども、仏教寄りの人間としては非常な違和感が……。

 あと、念のためながら書きますが、私が〈〉を用いる場合は概念化した抽象名詞を意図しております。

・あかまさん、おはようございます。

実存主義が理性に疑問を投げかけたというのはどうですかね? 「単独で神の前に立つ」というのも、それができるのは結局、理性的存在だからですよね? 西洋人なりの理性というか全体性への懐疑だったということはわかりますが、日本人である私などからすると「単独で神の前に立つ」必要があることが疑わしい。

日本では実存主義的でありながらそれを超えた境位に仏教思想が屹立していますね

とは、そのようなことを仰っているのだと思いますが。

その淵源は中世期に神学と哲学を分離させたところにもありそうですが

なるほど。私は「カエサルの物はカエサルに」とした時点から始まっていると思います。人間の自由意志を認めた以上は、分離していくのは必然でしょう。その点、政教分離を認めないイスラームは徹底してますし、完成度が高いですね。

日本人のメンタリティを考えるのであれば神仏を分離させる必要もないんですけども

気持ちは何となく理解出来ますが、そもそも日本人は仏教を理解したのでしょうか? あかまさんの仰る「超理性的体験」とは瞑想といったようなシャーマニズム的なものを指すような気がしますが、また、日本にも巫女のようなシャーマンの存在もありますが、全体的にはアニミズム的なの色合いが濃いですよね。日本の仏教受容、特に大衆の受容は、どうしてもアニミズム的に換骨奪胎された上でのもののような感じを受けます。

「本来的には自己と宇宙の一体的感覚から抒べた真実」

という見方はシャーマニズム的ですが、むしろ「自然のあらゆるところに霊は宿る」といったアニミズム的感覚で「霊→仏」と錯覚したところから山川草木悉皆成仏という本覚思想を受容したのではないかと思います。日本人のメンタリティに合致したのですね。

こんばんは

木を伏せる話、梢が谷に下がると乾燥しない話、とても興味深く読ませていただきました。なるほど。家作りで「逆柱」をやってしまうと柱が腐るのはこのことに関わってるのでしょうね。まだまだ識らなければならないことが沢山あります…。

学生のころは建築を学んでいました。(大学で教わるようなことかよ、とどこかで思っているのでしょう、”建築を専攻した”と素直に書けないのです)岡山の古民家の保存・転用の研究などにも参加していました。そこではとにかく現存する民家の寸法を採り、採り、それから図面を起こし、起こしていくのですが、そうした作業からでも職人さんたちの心意気や材料に対する考え方が伝わってくるのです。「識って」さらにこれを「体得」する必要があったのですが、学生としてはここまででした。

[識る]が【識る】に変化して横行すると、味気ない、うそらざむいもので溢れた世の中になる。霊が断ち切られた世界。偏差値教育、市場経済のための画一化・合理化にはかかせないことだったのでしょう。

いまは木の文化の育たなかったカッパドキアで岩を相手に建築業にいそしんでいますが、まだまだ修行中です。体得なるか?

おはようございます

・あやみさん

大学で教わるようなことかよ、とどこかで思っているのでしょう

ああ、その感覚、共有します。

大学は〈知る〉ところであって〈識る〉のはやはり現場でないと無理ですからね。木なり石なりとの身体を通じた応答=〈対話〉がないと〈識る〉ことにはなりません。

といって、学校で行なわれる〈知る〉もとても大事です。ディテールに分け入れば職人の心(霊)も見えてこようというものです。ただ、現在のシステムでは、霊が見えても役立てることは難しいですよね。経済合理性に反してしまう。

(ちなみに日本の林業もますます経済合理性に飲み込まれようとしています。補助金付けの体質は一面で経済合理性に合致しない部分を残す役割もあったのですが、その当たりも「改善」されようとしています。後は無味乾燥な森林資源の生産となるばかりのようです)

ところで、カッパドキアですか。少し憧れますね。でも、岩との〈対話〉は大変そうだな。がんばってください。

ありがとうございます

TB、ありがとうございました。

そうそう、この記事、いい記事ですよねぇ。
教わることがたくさんありました。
ハーベスタにも、単純にすげー!と思いましたけど。 (^o^)

野口先生は笑っている写真を撮ることを好まれなかったそうで、カメラが向いていると気がつくと、すぐしかめっ面になっていたそうです。
この写真は、望遠で遠くから撮ったものらしく、珍しくこのような雰囲気を写し出している1枚になっているようです。
いい写真ですよねぇ。

アナーキストと樵?

愚樵さん、本当に樵さんだったんだ! 隠棲の比喩かと思ってました。

多くの人が、木と対話するように「自然」と対話が出来たら、
人の作った「政府」は要らなくなるかも知れませんね。

人間が自らを「自然」の一部として感じられなくなったことから
人の霊が病み始めたのでしょう。

とはいえ、私も文明に毒されているタイプの一人ですが。(笑)

まず、自分の「霊」を見つけて行きたいですね!

バランス

・アキラさん、こんにちは。

うん、いい写真です。最初は『整体入門』の後にある車の中で撮ったとおぼしき写真を載せようと思ったのですが、ネットで検索したらこれが出てきて、「決めた」となりました。

この写真を掲載した最大の動機は、ぶっちゃけ「バランス」です。前に不健康そうなのを載せてしまったので(苦笑)。十分以上にバランスがとれたと思ってます(笑)

ところで。このエントリーを再掲したのは、まず単純に思い起こしたからというのもあるんですけど、実は少し複雑な思いもあります。ええ、もちろん、アキラさんのエントリーにです。

大いに共感するなかに、やっぱりどこか反発があるんですよ(^o^; その「反発」が再掲載を決意させたんです。

うん。

じゃあ、その反発ってなんなんだ? それは内緒...、というわけではないですが、まだちょっと上手くまとまらない。でも、たぶん、超越系vs内在系に絡むことです。私は〈識る〉は内在系だと感じているんですよね。あかまさんに応答したけれども、アミニズム系ですね。

また、そこいらはおいおいと(^o^)

はい、楽しみにしてます。 (^o^)
多分、「超越」「内在」という言葉で示したい内容が違うのでしょうね。

僕のニュアンスでいくと、多分〈識る〉は「思考(戸惑い)継続」とリンクするんだと思います。
ですから、超越系にも内在系にもありそうです。

それから、
>ただ、現在のシステムでは、霊が見えても役立てることは難しいですよね。経済合理性に反してしまう。
<
これもホント悩ましいところですよね。
悩ましいというか何というか、多くの人の「欲しいものリスト」にはなかなか入らないというか。

「あ」が4人 (笑)

・amerieさん、こんにちは。

そうなんです。ホントに樵なんですよ。最近、ブログでは樵系の話題には触れていませんが、過去記事にはぼつぼつあります。でも、大半はやっぱり...ですけど。

木や自然と〈対話〉するのは実はさほど難しいことではありません。人間はその機能を標準装備しています。とはいえ、ひとりで行なうのは難しい。

自然と〈対話〉する人間の能力は、コミュニケーション機能の延長線上にあるんです。ですので、人間同士のコミュニケーションが高度に行なわれる状態になると、簡単にいうと「心が開いた」状態になると、わりと容易に自然との〈対話〉もできてしまいます。

世の中にはいろいろな技能を売り物にしている人がいて、そういった「心を開く」ことを、あたかも集団催眠にかけるようにやってしまう人もいます。そこいらの話は、
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-89.html
で少し書きました。機会があれば一度体験されてみるのもよいかと思います。

それともうひとつ。

人の作った「政府」は要らなくなる

いえ、残念ながらこれはあり得ません。それは人間の「脳力」、コミュニケーション機能の限界からくるもので、政府や国家、貨幣といった〔虚構〕は大勢の人間を秩序づけるのに絶対必要です。私はご指摘の通りアナーキストですが(苦笑)、そうした〔虚構〕が必要不可欠だということは認めざるを得ません。

問題は、近代ではその〔虚構〕が【虚構】であることなんです。どうしても霊的な繋がりを切断してしまう。では、霊的な繋がりを増していくような〈虚構〉はないのか? 私が主に関心があるのは、そこいらなんです。

それはそうと、〔霊〕の話は一度してみなければなりませんね。

さっそく (^_^)

・アキラさん

多分、「超越」「内在」という言葉で示したい内容が違うのでしょうね。

そうなんでしょう。でも、これ自体はなかなかに上手い区切りですよね。使わしてもらわない手はありませんから、活用させて頂きましょう。

こういったことを考えるときに、アキラさんがいてくれると助かります。ひとりで考えてまとめることはどうにでもできますが、自己満足では意味がない。伝わらなければ。

もうひとつ。

悩ましいというか何というか、多くの人の「欲しいものリスト」にはなかなか入らないというか。

いえ。私は〈霊〉が「欲しいものリスト」に入っていると思ってるんです。というより、〈霊〉がリストから抜け落ちるなんてことはまあ、ありえません。よほど感覚の鈍い人間でなければ、あるいは、意識的にそのように振る舞うのでなければ、〈霊〉は抜け落ちません。

...というような話は〈霊〉の定義をしてみないことには始まりませんね。

でも、ちょっとだけ、最近宮台氏がよく取り上げる話から一例を挙げますと、スローフード、食の自治、地産地消というテーマ。“生産者、消費者互いの顔が見える関係がよい”というわけです。そうすると、互いに〈良心〉的になりますよ、という話。そうした「情理」は誰も素朴に納得できるはずです。互いの顔が見えていると、純粋に商品が純粋に【商品】ではなくなるんですね。〈贈与物〉の色合いを帯びる。〈贈与物〉には〈霊〉がくっついているんです。

でも、それをいざ実行するとなると、やっぱり経済合理性が壁になる。極端な話、都会のワーキングプアに地産地消がいいよと言ったって、“そりゃ、いいでしょうね。でも、それどころではない”でしょう。むしろ、そういった身分になるために正社員に...、みたいな話になりかねない。あるいは金と暇のある勝ち逃げ世代はいいよな、とか。愚痴を言っていても始まりませんが、そうした現実は厳としてあることに間違い。

そして重要なことは、いくら地産地消がいいといって他人に推奨はしても、既得権益者は自身が地産地消をできる自由を手放してまで地産地消を推進しようとは思わないということです。つまり、地産地消といっても既得権益者を既得権益者たらしめている現行システムの範囲内で、ということなんですね。

ということは、地産地消を本格的に進めるとなればプラットフォームを造りかえなければならないという話になって、それが政治家の役割であり、知識社会という話に繋がっていくのですが、それは正しいのですが、日本人はその方法論では上手く行かないだろうというのが私の持論で...というようなことです(苦笑)。

また続きは、いずれ。

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