愚慫空論

尾崎豊に共感するとかしないとか

毒多さんのところでの〈対話〉を、独自に見解を付け加えて勝手にまとめてみる。

 『「尾崎豊はイミフ!?」・・・共感しないのは何故?』(dr.stoneflyの戯れ言)

まず〈対話〉の出発点は、今の若者世代はあまり尾崎には共感しないらしいということが新聞記事に掲載されていた、ということだった。

 中日新聞:中日春秋(2011年10月22日)

そこから派生した〈対話〉の流れを整理してみると、

1. 若者世代が尾崎に共感しない理由、あるいは我々の世代が尾崎に共感した理由についての考察
2. 世代・時代に関係なく各々が尾崎に共感する理由、あるいは共感しない理由
3. 〈〉や【】といった表記について。

1.はガンダム世代VSワンピース世代でまとめた結論と共通する。

尾崎に共感した世代=ガンダム世代/反感を持つ世代=ワンピース世代

という図式が成り立ちそうだ。鍵は【社会】に対する距離感。我々ガンダム世代は【社会】に違和感を感じていた。違和感を抱えながらも【社会】に順応しなければならないという義務感へ繋がっていく肯定感と、違和感から反感へと派生していく否定感をともに抱えていた。これら二つが同根なのは言うまでもない。

だが、こうした違和感も、ワンピース世代から比べてみると、【社会】に対しての距離感が近かったことが原因だと判明してくる。

【社会】からの距離感が遠いワンピース世代以降もやはり、肯定感と否定感のジレンマを抱えている。肯定感は自分たちで〈社会〉を造り始めている手探り感になり、否定感は承認欲望を求める飢餓感へと派生。ここで、肯定感と否定感の境目になっているのが、

4. 偏差値教育の弊害

である。

2.については、特にまとめる必要も勝手な見解を付け加える必要もあるまい。よって、スルー。

3.は、もともとは私が「良心」を【良心】と表記したことから始まった。そこから、〈良心〉【良心】といったような書き方になったが、意味するところは〈 〉は純粋な状態、【 】は何か不純なプラスアルファがつくというものだった。それを今回、「spirits=霊」を規準に区分するところへ発展させた。

ついでの思いついたので言うと、世の中の〈〉付きのモノは、それを表現するのに歌や文章にのせることまでは大丈夫だけど、それがヒット曲やベストセラーになって独り歩きした時点で【】付きの別物を生む気がしますね。

その「独り歩きさせるもの」を「合理性」と言っているわけでして。
もう少し言いますと、独り歩きすると、それはモノであれ情報であれ、「商品」になるんです。だから、値段をつけることが心理的に可能になってしまう。

(「合理性」については、現在、魔法少女『まどか☆マギカ』シリーズで展開中)

〈歌〉が【歌】になることで、多くの+αはつきそうですね。商品ということもそうですが、〈歌〉では絶対聴こえない距離まで聴こえることになるし、聴こえない時を超えることもできる。「繋がる」ことができる。問題は【歌】【繋がる】から〈歌〉〈繋がる〉が抽出できるかどうか、かな、と

そう。で、何を抽出するかなんです。歌を〈歌〉たらしめているもの。私はspirits=「霊」だとするのが良いと思ってます。〈歌〉には〈霊〉が入っている。【歌】は霊が切り落とされている。〈贈与物〉というのは、〈霊〉が入っているです。〈〉は、「霊入り」の印。【商品】は霊なし。【】は「霊なし」の意味。〈霊〉がないから【システム】に乗っかることが出来る。


上の回答のネタ元は、先にも引用した中沢新一著『愛と経済のロゴス』。再度、掲載してみる。

デリケートで複雑な「贈与」
 贈与が行なわれるたびに、贈られるモノといっしょに、それに引きずられるようにして、威信や信頼や愛情や友愛のような人格所為にかかわる生命的な力のあらわれが、量子的な「雲」となって、一緒に運動していくのです。さらに贈与経済的な社会を生きていた人々は、モノが移動をおこすことによって、目に見えない「霊」の力が活性化され、人間の社会と自然を巻き込んで力強い流動をおこすのだと考えています。
 ところが交換では、贈与で働いていた人格所為の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全過程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現してきます。
 贈与の実践でおこることを、いちいち合理化して理解することは不可能です。計算不能な人格性の力や霊力の動きなどが、そこに深い関与をおこなっているからです。贈与の行為を上手におこなうためには、複雑な階層で違う運動を行なっている力について、相当に緻密な認識ができていなければありませんから、贈与はとても面倒くさい、複雑でデリケートな行為であると考えることができます。
 近代の社会はそこで、このようにデリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきました。


すなわち、

 〈 〉 ← 「霊」が含まれる/ 【 】 ← 「霊」が含まれない

5.「歌」(に留まらず、あらゆるモノや表現には)「霊」が含まれる。

さらに5.から、6.霊と共感について。

話を尾崎に戻して〈霊〉という観点から見てみると、実は、尾崎に共感しないという若い世代の者たちだって、ちゃんと尾崎の〈歌〉を感じているんですね。だからこそ「ひとりよがり」とかいう印象を持つ。それはそれでいいんです。〈霊〉的な在り方は世代や時代で違うけど、でも、ちゃんと〈霊〉を感じはいる。そこを互いに確認できれば、どこかで〈繋がる〉はずなんですね。そういう〈繋がる〉ための営為を〈対話〉というんです。


7. 4.偏差値教育と 5.霊の、日本的ミスマッチ。

偏差値というのは、【貨幣】と同じで【偏差値】なんです。人間の知的能力から〈霊〉を断ち切ってしまうものなんです。だから、偏差値教育に適応してしまった者は、アタマはよくても霊性の低いアタマデッカチになってしまう。

でもこれは、西洋と東洋の「知」と〈霊〉の在り方が異なるところから来るんです。私たちは、「論理」に〈霊〉を感じないでしょう? むしろ「理屈」といって〈霊〉を断ち切るものだと感じる。私たちが〈霊〉を感じるのは「情理」の方です。

なぜそうなるか。私たち日本人は、個々の人間のみならずありとあらゆる「もの」に〈霊〉が宿っていると感じている。しかも、それはそれぞれ個別的に〈霊〉を宿していると感じている。山川草木悉皆成仏なんです。

でも、あちらでは、〈霊〉はぜ~んぶ神へと収斂してしまう。人間だけが例外的に個別に〈霊〉を宿すけれども、世界の〈霊〉は神によって体系付けられている。もちろん、この体系には人間の〈霊〉も組み込まれている。そして、人間に理性が備わっているのは〈霊〉があるからなんです。

ですからね、理性が組み立てる論理とは神が支配している〈霊〉の体系へ近づくことなんです。これは科学でも同じ。だから、科学者だって神を信じていられる。いや、科学者ほど神への信仰が強くなったりする。

感じ方が私たちと全然違うでしょう? 私たちは論理というと〈霊〉を断ち切るものであり、〈霊〉を断ち切ったからこそ近代文明は発達したのだと思い込んでいます。

いや、その「思い」は欧米人も同じでしょう。で、それが間違っている、あるいは行き過ぎたと感じ始めているのも同じ。だから霊性を取り戻さなければと感じ始めているだけど、あちらはもともと論理は霊的だから、霊的な論理と非霊的な論理を分ければいいということになっていく。でも日本人には、論理はぜんぶ非霊的なんです。そしてここが、偏差値の高い人間ほどバカになっていく根源的な理由です。


8.もうひとつ、アキラさんが現在展開中の「超越/内在」についても触れているが、これについてのまとめはまた別の機会で。

コメント

示唆的なものを感じます

「霊の、日本的ミスマッチ」の記述で
はっ!とするものを感じました。

今、西洋が行き詰っているからと言って、
「日本化」がいいなどとも言えませんね!

いつも、深い考察の必要を感じさせて頂いています。

霊の絶ち切り方

こんにちは。

霊性を否定し天地とのかかわりを簡単に絶つ方法、いろいろあるでしょうがその最たるものとして、「進化論を鵜呑みにすること」ではないでしょうか。極論かもしれませんが…。

キリスト教やイスラム教社会ではその批判や否定がつねに絶えないのですが、日本では「富の分配」「民主主義」と同じレベルで妄信されています。明治は西欧の理屈であれば吟味されずに輸入できた時代だったのでしょう。そしてこれらはいちど定着するとこびり付いて落ちません。

余談ですがわたしの苗字も尾崎です。高校生のころは持ち物に記名しただけなのに「尾崎ファン」だと思い込まれて困りました。

霊性回帰の時代です

・amerieさん、おはようございます。

日本化ですか。そんなものがいいとは言えるわけがありませんよね。日本人自身が日本を見失っているのですから。

仮に“日本を取り戻せ!”みたいなスローガンを掲げたとしても多くの人は違和感を感じるでしょうし、近寄ってくるのは右翼だけでしょう。そして「武士道」「大和魂」と唱和するでしょうね。

現在、アメリカで「Occupy Wall Street」が起こっています。彼らのスローガンは「われわれは99%だ」ですが、その伝でいくと、日本人の90%は農民だったんです。ならば、日本の精神は「百姓道」でなければ嘘になる。「日本化」は百姓の心情へと還ることでなければならないのですね。

その兆しは、少しではありますが見えつつあります。

そう、随分前に書いた過去記事ですが、良ければご覧になってください。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-68.html

今西進化論

・あやみさん、おはようございます。

ん? トルコにおられるあやみさんに、日本時間で「おはようございます」でいいのかな? 

極論は、極論と意識してさえいれば、効用は大きいですよ。なにより極論は理解しやすいですね。

「進化論を鵜呑みにすること」ではないでしょうか。

はい。淘汰のメカニズム、利己的な遺伝子への信奉は、霊性を断ち切るものになると思います。ドーキンスの著作にはそういった反応が多く寄せられたそうですね。

進化に限らず、自然の中に理不尽な「淘汰」があるのは確かだと思います。でも、同時に「共生」もあるんですね。今西博士の「棲み分け理論」は「共生」に重きを置いた進化論ですね。私はこれは、日本的な感性から生まれたものだと思っています。

でも、といって、チャールズ・ダーウィンその人は決して「淘汰」のみを進化の原理として捉えたわけではないようです。その当たりには、私たちの誤解も混じっているような気がします。

http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/50158271.html

が、「その当たり」のことを指摘されています。

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