愚慫空論

魂に問い合わせてみる ~コメントに代えて

当エントリーは、またしてもdr.stoneflyさんの記事へのコメントに代えたものです。
「続きを読む」をクリックする前に、 dr.stoneflyさんのエントリー「「濁流のなかのホームレス」…なぜ救助を拒否したか?」を先にお読みください。


dr.stoneflyさんは、しばしば魂にダイレクトに響くような記事を書かれます。困ったものです。

オッサンたちは何を考えていたのか? 何を感じていたのか? 本当に「普通」に愛想をつかしたのか? 

こうした問いに答えるには自分の魂に厳しく問い合わせてみるほかありません。もっともそうしたからといって、正解が出るとは限りません。もともと正解などないのかもしれません。


奇妙なことを言うようですが、私はなぜか最近、餓死に憧れています。自分が死ぬなら餓死がいいと思うようになってきています。格差社会の悲惨な様子がニュースを賑わわせるようになってきましたが、老人の孤独死のニュースを聞くたび、私は私の心のどこかで、“それ、いいな”と呟く声があるのを確認する羽目に陥ってしまいます。

あ、先に念を押しておきますが、だからといってそうした孤独死を歓迎すべきものだと主張するつもりは毛頭ありません。これはあくまで、私の個人的願望に過ぎません。

私には子どもがありません。子どもを望まなかったわけではないのですが、恵まれませんでした。まだ可能性がゼロというわけではないでしょうが、低いと言わざるをえません。

子どもを育ててみたいという願望はかなり強くあります。何度か妻に「里子をもらおうか」という話をしてみたこともあります。ですが妻は首を縦に振りません。それはそうでしょう。致し方ないことです。私も妻の意志を無視してまで里子をもらってこようとは思いません。

そうすると必然的に、私たち夫婦は寂しい老後を想像せざるを得なくなります。子どもや孫に見送られて死に逝くなんてことは、期待できないのです。

夫婦の寂しい老後を考えたとき、大きな問題になってくるのが、どちらが先に死ぬかという問題です。どれほど仲がいい夫婦でも、死んでいくのは一人です。事故でもない限りどちらかが先に死ぬことになります。まあ、こんなことは考えて結論がでるようなものではないのですが、それでもやはり、考えるときには考えてしまいます。

どちらが先に死ぬかということを考えたとき、たいていの人は自分が先に死にたいと言うようです。気持ちはよくわかります。先に死んでしまえば、もう後はどうしようもない、責任の取りようもない。お迎えが来るまでもう少しこの世で頑張ってくれ。オレは先にあの世で待ってるぞ、なんて、お気楽にいられるわけですから。

逆にひとり残されることを考えると、かなり切ない。オンナという生き物は図太いというのが定説ですから、自分が死んでも切ないもヘッタクレもなく残された余生を満喫するだろうなと思うのですが、そうは思ってもオトコである私の切なさが目減りするわけでもなく、でもひょっとしたら妻の方も切ない思いで過ごすかもしれないと思ったり、いやいや、それは切ないと思ってほしいという私の願望に過ぎないのだと思い返したり、そんなこんなを考えながら、やっぱり死ぬのは怖いから後回しの方がいいかと思ったり...。まあ、要するに考えなどまとまらないわけです。もっともまだまとめるには猶予はあるわけですが。たぶん。

で、餓死に憧れるという話に戻りますと、これはもし万が一、私が一人残されたとき、どんな風にして死んでいくのがいいかと考えたとき、出てくる答えが餓死というわけです。

連れ合いに先立たれて一人残され、しばらくは生き永らえても身体の機能は徐々に低下していく。やがて動けなくなり、食料を確保することも口にすることも出来なくなり、痩せ衰えて死を迎える。そういう死に方。
私は元来からの田舎志向ですが、田舎での暮らしを続けるうち、なぜかそうした死に方が自然の摂理に適った逝き方、文明という生きて活動する人間の営みの衣を脱ぎ去った後の、一個の生き物として自然と対峙するまっとうなあり方ではないかと、そんな風に考えるようになってきているのです。

さて、そんな風は考えからオッサンたちを眺めると、どこかオッサンたちに親近感が湧きてきます。「普通」の人間社会、文明を拒否したオッサンたちは、私が餓死を望むように、自然の流れと一体となって逝きたかったのではなかったか。自然に抗うことなく、あるべきように逝きたかったのではなかったか。病で斃れても、再び文明の手に煩わされることを望まなかったのではないだろうか。そんなふうに、勝手に考えたりしてしまうのです。

そうしたオッサンたちは、私のように能弁に思想を語ったりはしないでしょう。たぶん、「思想を語る」といった行為そのものを文明に冒された煩わしいものだと感じていることでしょう。畑は趣味と語った婆さんのように、オッサンたちの逝き方はそのまま〈作法〉の体現なのでしょう。

これがdr.stoneflyさんに揺さぶられた、今の私の魂から出てくる答えになります。

コメント

ありがとうございます。

貴エントリーを読みながら涙がでそうになりました。

餓死したい。解ります。ほんとうに解っているのかどうかなど解らないけど、想像すると心が落ち着きます。
「おにぎりが欲しい」と言う事も無く、「普通」を恨むでもなく、空腹であることも感じられず、力を出すこともできず、体を諦め、ただ思考だけが残って、その思考さえも薄れて行く。

ワタシが到達したいと思っている何かは、「ホームレスの村」とか「普通の社会」とかの場所ではない気がしながら書いてました。
目指しているもの、それは、もしかしたら餓死はしなくても、餓死する寸前のメンタリティかもしれません。

ワタシの書いた記事で内田樹の読後感想文の自分で課した「宿題」としようかな。
でも、「普通の社会」の悪意の是正は訴えて行く気がします。

まとまりのないコメントで申し訳ない。
TB感謝です。

餓死はまだごめんですが

今はまだ空腹に耐えられませんので、「餓死」はちょっときつそうですが、高齢になり体力も生理機能も衰え、食欲も落ちていくならそれもありかなと思います。

吉本さんもどこかで同じような感想を述べていましたが、「孤独死」イコール可哀想という感じ方はどこか違うように思います。なにか傲慢なところを感じます。
寝たきり老人を作るな、ということが盛んに言われています。それはそれでいいのですが、しかし誰だっていつまでも元気というわけにはいかないものです。

清水久典という方の「死にゆく妻との旅路」という本があります。末期がんの奥さんを車に乗せて最後の旅をされたそうです。奥さんを病院に連れて行かなかったということで、「保護責任者遺棄」に問われ一時逮捕されたそうです。

個人や対(ペア)にとっては、社会や他人が踏み込めない、踏み込んではならない領域というものも確かにあると思います。ただ、「家庭内暴力」みたいな問題もあるので、明確な線引きは難しいのですが。

飢餓体験

健康な成人男子が絶食すると想像以上に苦しい。
2~3日後に飢餓感のピークがやってくる。熱代謝が衰える為に寒さは想像を絶する厳しさ。苦しいこと苦しいこと。
ところが不思議なことに其れを過ぎると安定期に入り心は平静で精神的幸福感めいたものまで感じられる。濡れた下着も雪洞の酸素欠乏もほとんど気にならない。

そして一週間目ぐらいに入ると体は軽いし快適、猛烈な闘争精神が湧き上がって来て『死』などという概念は全く無くなる。

日本人の先祖は3万年前の最後の氷河期の時に寒冷化砂漠になってしまった故郷のバイカル湖を後にした。
マンモスを追って結氷した海を渡って日本列島に辿りついたらしい。
飢餓は眠っていた過去の記憶を思いださせ、先祖帰りしますね。
男たるもの、ここは一つ頑張って、飢えに苦しむ女子供の為に、石斧を持ってマンモスでも獲ってくることにしましょうか。

自宅に帰りたくないサラリーマンの気持ち

こういうエントリーを書くと、どうも後がシンドクていけません。昨日は自宅に帰りたくなくて、他所をうろうろさ迷い歩いてました(笑)。

昨日、足の様子を診てもらいに診療所へ行って、その待合室でみた週刊朝日の嵐山光太郎のコラムに、ちょうどこの話題が出てました。少し前の号ですが、パッと雑誌を開くと目に飛び込んできて、あっと思う。しばしばこうした“偶然の一致”が起こりますが、これがきっとユングの言った「シンクロニシティ」という現象なんでしょう。
シンクロニシティは措いといて肝腎の話題の方ですが、山折哲雄という宗教学者が「断食死」というものを薦めているという話を、嵐山氏自身のご尊母の話と絡めてコラムにしたものでした。

で、この「断食死」、読んでみると“能動的な意志によって積極的に死を選び取る”ということだと書いてある。なるほどと思いつつ、でも、少し違うんじゃないかと違和感を覚えてしまいました。この違和感は、かつさんが吉本隆明に感じた傲慢さと同一線上にあるような気がします。

「死に方」というのは“選び取る”ものではないんですよね、きっと。選び取るという「意志」が発動された時点で、もうそれは傲慢なんだと思います。それが他人に向けては発せられる理念でも、自己に向けての信念であっても、同じ。「死に方」は意志で選び取るものではなくて、従容と受け入れるもの。できるのはせいぜい希望を述べるくらいのこと、ではないのでしょうか。

昨日一日、他所をほっつき歩いて出てきた答えがこれ。なんだか疲れました。山で仕事をしていれば、体は疲れても頭は疲れずにこうした答えが出るんですけれどもね。

「死にゆく妻との旅路」 ほか

かつさん>
本は読んでいませんが、その話は記憶に残っています。夫の方が逮捕されたという話も。

ウソか本当か知りませんが、夫の方がそのとき逮捕されたのは、実は自殺を防ぐためだったと聞いた記憶があります。そのときは、さもありなんと思ったものです。警察もなかなか情けの深い計らいをするものだと。警察の別件逮捕(?)も、使いようがあるものだと。そんな記憶です。

警察発表は近頃は全く信用をなくしていますから、こうした“伝説”もある程度疑ってかかってしまうクセがついてしまっていますが、この話は本当だと信じたいものです。
もっとも警察が“そこ”に踏み込んだことの是非は、別問題ですが。けれど、そうした本が出版されていることからみれば、結果的にはよかったんですね。ホッとします。

布引さん>
飢餓の引き起こすそうした生体反応こそが、実は私たちの普段の意識活動を規定しているんじゃないでしょうかね? 今、一部で盛んに取り上げられている武道も、そうした生体反応を見極めるところに意味があるんでしょう、本来は。

ま、けれど、そうした武道の本質もわからずに武道を必修などという輩には、是非とも一度飢餓体験を味わってもらいたいものです。そうすれば自分のバカさ加減が身に沁みてわかるでしょう。

餓死と栄養不良

人は『痛み』とか『苦しみ』を何故感じるのか。?
癌の末期には脳は正常に働くのに体が言うことを聞かない。人は耐え難い痛みに苦しめられる。
外国では積極的にモルヒネ投与による痛みのブロックをするが日本では麻薬に対する抵抗感からか使用量が極端に少ない。結果患者の多くは苦しみながら死を迎える。

痛み苦しみとは生体の危険信号(アラーム)で体が脳に異常事態を知らせ、適切な対処を執らせようとするもの。
足の裏に釘が刺さっても痛みを感じなければ命取りになる。
正常に生きていく為には、絶対に必要なものです。

生体も飢餓状態に入れば危険を知らせる為にアラームを鳴らす。
最大限にアラームを鳴らした後に、突然スイッチを切てしまう。
飢餓は人類の歴史上ずっと続いてきたもので、飢餓だけではなかなか簡単に死なないし、生体もちゃんと対策を立ててある。
癌などは昔は稀で、歴史が浅く生体に対処法が出来上がっていない。

餓死と飢餓は違う。
飢餓の延長線上に餓死があるのではなく、慢性的な栄養不良や栄養失調の後に餓死が待っている。
飢餓は精神を高揚させ幸福感にも似た感情を呼び覚まし闘争心を掻き立てる。
栄養失調はすべてを萎縮させ萎えさせる。しかも苦しい。
人が恐れるのは『死』そのものではない。
人がもっとも恐れるのは『死に至る苦しみ』です。苦しみを恐れる。長く苦しみたくない。ポックリ寺信仰は庶民の願望の表われです。
そして餓死こそ、もっとも苦しい死に方なのです。

こんにちは(^^)

餓死とは違うんですが、今年の夏は熱中症で多くの方が亡くなりました。
たしか、老夫婦がふたり揃って熱中症死したというニュースがあったのですが、
マスコミはいっせいに‘悲劇’として報道し、私はそれを聞いて違和感を感じました。

なんで悲劇?いいじゃないの、いいじゃないの、私だったら幸せだわ、と。
なかなか一緒には死ねませんよ、ねえ、いいよねこんな死に方!
つい夫にも話しかけてました。

‘悲劇’なのかあ。 勝手に決めるなよ、そんな気分でした。

「死に至る苦しみ」だけ?

人間が怖いのは「死に至る苦しみ」だけではないでしょう。やっぱり「死」そのものが怖いんじゃないですか? 不安じゃないですか? どれほど知性が鋭くても「死」は洞察できませんから。

でも「死に至る苦しみ」が怖いのはよくわかります。だから、私も餓死がいいなんていいながら、まだ猶予があるなんて逃げている。その苦しみは嫌だから。まだ身体が元気だから。
餓死がいいというのは結局、自然の事物である自分の身体も含めて、自然の流れに身を任せたいということなんだと思います。身体が衰え、壮健なら激しく起こるであろう生体反応も衰え、死への苦しみも衰える。けれど意識ははっきりあって、死に逝く自分を見つめる。「死に至る苦しみ」に撹乱されずに。

ずいぶん虫のいい希望ではありますが。

ロマンチスト

ママちゃんはロマンチストなんですね。

♪ ここでぇ~いっしょに~、死ねたらぁあ~いいとぉ~~、
すがる涙のいじらぁしさぁ~♪

出てきてのはベタな演歌でした。すみません m(_ _)m

やはり恐ろしい「死に至る苦しみ」

死は誰にとっても恐ろしい。
しかし恐ろしさの度合いは、其の近さに反比例する。
遠いほど恐ろしい。
私にとって、死が一番恐ろしかったのは中学一年のころで、自分がいなくなった後を考えるだけで恐ろしい。自分にとって今見えている世界は自分がいなくても存在するのか。存在しても其れにどれ程の意味があるのか。考えれば考えるほど恐ろしい。命を失うのは恐ろしい。

中学生から比べれば充分死も近くなった現在、恐ろしさの度合いが随分違う。
人にとって死は避けれないのです。誰でも一度は必ず死にます。
命は必ず失われる。
これは若い娘ほど、若さが失われるのを恐れる様に良く似ています。
29歳の娘が恐れるほどには92歳の女性は若さが失われることに恐怖を感じない。

人は死が避けれないと悟った時、恐れるのは死に至る苦しみです。
数世紀前の西欧諸国で魔女の告発を受けた哀れな多くの人々が、公式の拷問を受ける前に自ら自白しています。
この人達にとっては死よりも恐ろしいモノがあるわけです。

多くの人々にとっての願いは、「ゆっくりと歳をとって穏やかに死ぬ」ことではないでしょうか。?

大体は死を公言したり考えたりするのは死から遠い証拠。目の前に死が横たわっていれば、なかなか口には出せない。
誰でも必ず死にます。慌てることは決してありません。

本当は、『死』よりの怖いのは『不死』ではないか。?とこのごろ考えています。

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