愚慫空論

ソーシャルメディアは贈与経済を復活させるか

本日2本目。

ここのところ「共感経済」について意見を交わしている(つもりの)逍花さんの記事。

『ソーシャルメディアでの共感は価格メカニズムより残酷かもしれない』(月明飛錫)

人々の素直な共感が価値をもたらすのは理想的な世界であると思う反面、共感させる能力の格差が経済的影響を与えるようになるとすれば、それは今の格差の問題以上に、逆転が難しい残酷な時代をもたらしてしまう可能性があるのではないかと感じている。


逍花さんの懸念はもっともだ。商品経済下においてはこのような事態が引き起こされる可能性が高いと思われる。

ソーシャルメディアにおける情報発信力には、間違いなく大きな格差が存在する


商品経済においては情報もまた商品であり、情報発信力とは商品力に他ならない。ソーシャルメディアは悪くすれば、労働(身体)の商品化に引き続いて知性や感情(精神)の商品化を進行させる。いや、それはすでに進行しているから、拍車をかける、か。それとも逆に、商品化の流れに歯止めをかけることになるか。すなわち「近代化」の進行に歯止めがかかるかどうか。ソーシャルメディアがその帰趨を左右する位置に立っていることは間違いないだろう。
愛と経済のロゴス

デリケートで複雑な「贈与」
 贈与が行なわれるたびに、贈られるモノといっしょに、それに引きずられるようにして、威信や信頼や愛情や友愛のような人格所為にかかわる生命的な力のあらわれが、量子的な「雲」となって、一緒に運動していくのです。さらに贈与経済的な社会を生きていた人々は、モノが移動をおこすことによって、目に見えない「霊」の力が活性化され、人間の社会と自然を巻き込んで力強い流動をおこすのだと考えています。
 ところが交換では、贈与で働いていた人格所為の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全過程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現してきます。
 贈与の実践でおこることを、いちいち合理化して理解することは不可能です。計算不能な人格性の力や霊力の動きなどが、そこに深い関与をおこなっているからです。贈与の行為を上手におこなうためには、複雑な階層で違う運動を行なっている力について、相当に緻密な認識ができていなければありませんから、贈与はとても面倒くさい、複雑でデリケートな行為であると考えることができます。
 近代の社会はそこで、このようにデリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきました。


この試みは大成功を収め、合理的な交換の原理は今や世界中を覆い尽くそうとしている。「グローバル化」だ。

が、そうした動きとは別に、いや、合理的な商品経済が爛熟のなかで、「共感消費」と「つながり消費」といった動きが出現してきている。「共感」も「つながり」も近代社会が葬り去ろうとした「人格性」に他ならないが、ここへきてそれが復活しようとしているようにも見えるわけだ。

この流れをどう見るか。商品経済のなかでたまたま起こった一過性の揺り戻しに過ぎないのか。それとも、近代社会を改造してゆく大きな揺り戻しになるかのか。逍花さんは前者と見たようだが、私は後者と見る。いや、見たい。

その立場から、上のブログ記事には以下のようにコメントを投稿しておいた。

懸念されていることは理解します。ですが、考慮すべき点が2点ばかり欠落していると私は考えます。

1. PV=共感ではないということです。確かにPVが多いと共感を集めやすいのは事実です。とにかく読んでもらわないことには話が始まりません。ですが、

 a.情報の閲覧
 b.情報の価値判断
 c.情報の価格決定

はそれぞれ別次元の問題です。

2.格差もまた情報であるということ。1.で示した3つのレイヤーは、a<b<c の順序で参照する情報の量が増大していきます。共感という能力は価値発見能力であると同時にバランス調整能力でもあるのです。つまり、人間は格差という情報を見出したならば、共感というバランス機能を発揮させるだろうということです。


(上のコメントは、『共感がおカネを集めるのであるなら』で提示した「情報の価格は個人が不合理に定める」ことを前段としている。)

「霊力」といったどうにもわけのわからないものを持ち出さなくても、「共感」が階層を重ねるようになっていくのであるならば、とてもではないがその価値判断は「簡単で合理的」にはいかない。

再び『愛と経済のロゴス』から。

 贈与と交換は、社会に運動をつくりだします。どちらも富の移動がにぶったまま、社会がどんよりと停滞した状態に陥るのを防ぐ力をもっているからです。とくに、贈与の場合、自分のもとにやってきた贈り物を、自分だけの富として、いつまでも手許に抱き込んだようにしているのは「悪」だとみなされました。贈与の環が動いていくことは、社会の全体を巻き込んだ一種の「事業」なので、それぞれの個人はその環の一部分の動きに責任があるのです。そこでそれぞれの個人は、自分の担当する贈与の環の一部分が、すみやかな流動を実現していくようにと、心を配ります。「贈与は宇宙をも動かす」と言われるのは、まったくそのような理由によるのです。


ソーシャルメディが情報を商品ではなく贈与物として取り扱うようになるならば、逍花さんの懸念は当たらないということになる。そして、それが私がソーシャルメディアに期待するところでもある。可能性は低くないと思っている。

想像して欲しい。もし、情報の価格を自分が決定できるようになったとしたら、どのような行動を取るだろうかを。

PVが多い、つまり世間の耳目を集めている情報には関心を持つだろう。だが、関心はまだ共感ではない。

関心を集める情報は共感をもつあるいは反感をもつ可能性は高い。それで共感を持ったとしよう。共感はブログ拍手、あるいはツイートといった行動を惹起するだろう。

しかし価格決定に至るには、低い共感のレイヤーでは足りない。価値判断が為されなければならない。価値判断には他の情報との比較が必要になる。その比較を必ずしも言語化する必要はない。不合理に直観的でかまわないが、他の情報への参照がなければ価値判断は下せない。

価格決定はそのさらに上のレイヤーになる。情報それ自体の価値判断に加えて、自身や相手の経済力の考慮に入ってくるだろう。さらに、相手が自分が対価として支払うであろう富をどのように扱う人物であるかの情報も重要だ。富を手許に抱えて滞留させる相手か、それとも社会起業なりを通じて社会へ還流を図る人物か。たとえ情報の価値判断が同じでも、相手の人物像の違いで価格決定は大きく異なるだろう。

以上のような共感レイヤーの上昇は、計算量の膨大さからいっても不合理にならざるを得ない。しかし、人間の「脳力」であればこなすことはできる。とはいえ、確かにデリケートで面倒くさい計算であることは確かだ。贈与経済が新たな形で復活するか否かは、ひとつには、ソーシャルメディアが実現し要求するであろう「膨大な計算」を人々が受け入れるかどうかにかかっている。

もう一点については...、また改めて。

コメント

こんばんは。私も愚樵さんのコメントやエントリーにおおいに啓発されています。

私はソーシャル化は必ずしも牧歌的な世界をもたらさないと感じています。
世界中から何十万人もの人に支持される人もいれば、全然注目されない人もいるのが現実だからです。それは関心であって、共感や経済行動にダイレクトに結びつくわけではありませんが、4桁も5桁もベースになる数が違うと、結果も違ってくると思います。

当初私は、SNSは価値観や関心でつながることを可能にすると期待していたのですが、いろいろな数字が可視化されているのが大衆心理に左右して、二極化しているような気がします。今後どうなるかはまだわかりませんが。

・逍花さん おはようございます。

こちらから押しかけておいてなんですが(苦笑)、関心を持っていただいているなら嬉しいです。

私はソーシャル化は必ずしも牧歌的な世界をもたらさないと感じています。


その「感じ」を論理で覆すことはなかなか難しいことですよね。本分は一応、そうした論理になっていますが(なっていると思いますが)、といって、その論理が当たっているかどうかは現時点では不確定ですし。

また、その「感じ」は、次の一文

世界中から何十万人もの人に支持される人もいれば、全然注目されない人もいるのが現実だからです。

に良く現れていると思います。この現実の受容の仕方に、と申しましょうか。

私の「感じ」を言いますと、その現実は現実として、だからどうした、という「感じ」です。というか、なぜゆえその現実と自分とを直接対比しなければならないのか? いえ、してはいけないと言っているのではないのですが、なぜそうした数字としか向き合わないのか。私はそこが不思議なのです。

たとえば、今回、逍花さんがコメントを下さいました。これはPVで表せば「1」でしょう。でも、特別な「1」です。他と取り替えの不可能な「1」。それはその「1」が逍花と名乗をあげ、意見を述べてくれるからです。そこで支払われる労力は「1」と取り替え不可能なものにするのです。

そうした行為に結びつく原因を「共感」と私は一括りにしたい。この場合、「共感」は「同調」ではありません。でも、私は逍花さんが仰っている「共感」は「同調」なのではないか、と思ってしまいます。「同調」する人間は、それを得た者からすれば「取り替え可能」なもの、たんなる数字でしかありません。

結局のところ、人々が何を求めているのかです。数字に大衆心理が左右される。それは現実でしょう。でも、その人々は何の違和感も持たずに受け入れているのでしょうか? 私はそんなはずはないと思います。そして違和感が存在するなら、そこにはイノベーションの余地があるということです。

そのイノベーションがどういった方向に向かうのかは、予知不能です。でも、いや、だからこそ、期待してもいいじゃないか、と私などは思うわけです。

そんなわけだから、期待できる材料を集めています。その方が期待できない材料を集めるよりずっと楽しいですから。これが第一です。そこへ「共感」が得られたら嬉しい。これは第二。さらに「同調」が集まるなら、それはそれでよし。第三。

この1~3の順序が変わるときは〈自己〉を見失うときだと私は思っています。もとより「同調」を求めるなら〈自己〉なんてハナからないということになる。

私の楽観的な材料収拾によると、若者たちは〈自己〉探究に向かいつつある。いや、楽観的じゃなくて楽天的かな(笑)

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