愚慫空論

共感がおカネを集めるのであるなら

『まどか』ネタは一回休み。でも、今回の話も実は繋がっている。そこは最後に少しだけ触れる。

またもや「月明飛錫」から記事を拝借。

『キックスターターが集めた資金が1億ドル突破、「ウォール街占拠」新聞も7万5千ドルを調達』

最近のキックスターターの興味深い成功例は、「ウォール街を占拠せよ」運動の新聞発行プロジェクトが、7万5千ドルの資金を集めたことだ。共感がお金を集めるとはこういうことか、と納得した。


私も理屈抜きで納得できる。しかし、同時に物足りなさも感じる。その理由を記すまえに、もうひとつ記事を紹介を紹介。こちらは日経新聞から。

アップルと音楽業界「攻防」再び 舞台は「iCloud」  価格決定巡り深い溝

米アップルが12日に全世界で始めた「iCloud」。ところが売り物であるはずの新たな音楽配信機能が日本では利用できない事態になっている。新サービスを使えばクラウドを通じて購入した楽曲をパソコンや音楽プレーヤーなど複数の端末に自動配信できるが、この仕組みについての契約を巡り、アップルと日本の音楽業界が合意に至っていないのが原因だ。同社は音楽のネット配信サービス「iTunes Store」でも、日本進出が米国より2年遅れた過去を持つ。背景にはアップルが楽曲の値決めをする「価格決定ポリシー」と、それに反発する音楽業界との深い溝がある。


価格を決めるのはJASRACかアップルか。

配信事業者は、ユーザーが望む価格が安く、自由で便利な買い方ができるサービスを追求する。一方、音楽を提供する側は適正な収益を確保しなければ永続的な事業モデルを構築できない。ネットが普及した中でこれらを両立させる仕組みが確立できていないことが根底にあるのではないか


ユーザーが自由で便利な買い方ができるサービスを求めるというのはそうだろう。だが「安い価格」を求めているのはほんとうか。

これは、設問の仕方の問題でもある。“あるコンテンツを手に入れるのに、価格は高い方が良いか安い方が良いか?”と問われれば、ユーザーは誰だって安い方が良いというに決まっている。しかしこの設問は、コンテンツが希少財であるという前提に立っている。

しかし現在、デジタルコンテンツは希少財ではない。ユーザーもそのことを理解している。だから共感に対して対価を支払うという消費行動を採るようになっている、と言えるのではないだろうか。

そもそも情報は共有財であり、希少財であるモノとは基本原理が異なる。デジタルであろうがアナログであろうが、情報は消費されることによって増殖していく。消費によって失われていくモノと、性格は正反対なのである。IT技術が発展する以前は、情報はモノに付加する形でしか伝播させることが出来なかった。ゆえに「付加価値」という形態でモノの価格へ従属させるしかなかったが、現在は違う。IT技術は、情報を「純粋な情報」として取り扱うことを可能にした。

にも関わらず、いまだ現在、情報は希少財のごとく取り扱われている。情報をモノとして扱う著作権という概念が行き渡っている所為だ。JASRACかアップルの「闘争」も、共有財を希少財として取り扱うことが前提。もっというと、共有財を希少財へと変換させるプラットフォームを巡る争いなのである。そのプラットフォームを所有している者は莫大な利益を手にすることが出来る、というものだ。

情報はその原理からいえば、価格決定が一部の者によって独占されるべきものではない。私が物足りなく、かつ、歯がゆく感じる理由はここにある。

では、情報の価格決定が誰が行なうべきか。ユーザーが、各々の共感に基づいて、不合理に決定すべきなのである。

(このあたりの理路は、『『街場のメディア論』を読んでみた』で展開してある。)

IT技術の進展は、情報を「純粋な方法」として取り扱い可能にすると同時に、共感による出資の裾野を広げた。共感による出資は今に始まったことではなく、「パトロン」とはそうした出資が可能な人種、つまり共感を貨幣経済上で実現させることができる者のことであるが、IT技術はそこを大衆化させたことで、共感による貨幣循環の流れを作り出そうとしている。だが、それはまだまだ不完全だ。共感という「不合理」が「合理性」を超えるには、価格決定も不合理になされるところまで行かなければならない。需要と供給の均衡点という「合理性」から価格が導かれているようでは、まだ不足なのである。

私が物足りなさ、歯がゆさを感じているのは「不合理」による価格決定プラットフォームが未だ実現していないことにある。しかし、いずれ実現されるだろう。そう遠い将来ではないと思う。私と同じようなことを考えている企業家が必ずどこかにいるはずだ。

さて最後に、『まどか』と交わる話に触れておこう。2点ある。

ひとつは「合理性」について。ここは『メフィストーフェレスは合理性の中に棲む』などで既に書いた。不合理な「共感価格決定プラットフォーム」については、まどかの「願い」に絡めて再度、触れてみることになるかもしれない。

もうひとつは、共感と欲望の差異だ。共感は抑制が効いている間は共感であるが、抑制の蓋が外れると欲望へと変貌する。ここにまたしてもメフィスト―フェレスが絡む。このあたりはゲーテが『ファウスト』の第2部を書くにあたって下敷きにしたといわれる「ジョン・ローの失敗」にも触れつつ、記事を書いてみることにしたい。『魔法少女まどか☆マギカ』が『ファウスト』を下敷きにしているのなら、ジョン・ローのことまで視野に入っている可能性があり、そうであるならそれはインキュベーターの性格設定に関わっているはずだ。またこれは、現行の金融資本主義の本質に関わる問題でもある。

コメント

情報の対価はどうあるべきなのか、私もいろいろと考えていましたが、このエントリーを拝読して自分の考えが整理できました。

『情報の文明学』の中で梅棹忠夫は、情報の対価は、「お布施」であると喝破しました。内容だけでなく、提供者の格と受け手の格で決まるということです。格というとなんですが、私は、感動や共感の大きさ、役に立ったかどうか、そして経済的な余裕などによって、対価が変わってもいいのではないかと思います。
内田樹氏の本は読んでいませんが、内田氏の説も同じような感じでしょうか。

従来の流通経路ではこうした価格決定は不可能でしたが、キックスターターを見ていると、ネットでは可能になってきているのでしょう。
この動きがどのくらい広がるかはまだわかりませんが、何か大きな可能性を秘めているのではないかと考えております。

・逍花さん、コメントありがとうございます。

情報の対価が「お布施」とは、言い得て妙ですね。

内田氏の説は、著作物(=情報)は、送り手から受け手への贈与だというのがその骨格です。そして、贈与の価値は予め定まっているものではない。それは受け手が発見して初めて価値が生まれ、贈与が贈与として立ち上がってくるという。さらに、贈与を受けた者は必ず負債感を負うことになり返礼の義務を感じるが、これは人類学的な命題だ、というのです。

ここまで言うのであれば、「情報の対価は受け手が決める」が合理的だと思うのですが、内田氏はそこまでは言及しない。電子書籍にはむしろ否定的です。

ネットが大きな可能性を秘めているのは間違いないと思います。それは人類の可能性です。

【お金を集める】はあくまでも【共感】の一要素に過ぎない。と理解します。

運動支援と災害への義捐金は少し性格が違いますが、後者に対しては【しない善よりする偽善】です。
阪神大震災から身にしみていますから。

だからわたくしはゼリーと呼ばれる人がシャウトする、
♪偽善者偽善者 ぶっとばせハイウェイ~
に乗せてしとしと石清水のように募金しています。 

・なめぴょんさん

【お金を集める】はあくまでも【共感】の一要素に過ぎない。と理解します。

もちろんです。【共感】にはもっと大きな力があります。

でも、私たちは今まで一生懸命に【共感】の力を削ごうと努力してきた。それも知らずのうちにです。そのことを自覚するべきです。

そしてそこを自覚したならば、【共感】の力を増殖させるプラットフォームに思いを馳せる。その思いが広がることが、私の「願い」です。

 こんにちは。お邪魔してしまいました。

 不明点があるのでお訊ねしたいところがあるのですけれども、不合理による価格決定とはいかなることを意味するのでしょうか? それは「受け手」の銘々が一意的判断により対価を決定すればよいという意味でしょうか?

 私は不合理に支配されるよりは、不自由であろうとも合理的であること(すなわち納得「しやすい」論拠がある)のほうがまだしも正当であるように感じるのですけれども。
 そして不合理性が支配的になるとも思われません。現状の経済システムを不合理性により刷新する途が想像できぬのです。そもそも不合理ってシステム性の否定ですし。

 電子データ化され販売される著書や楽曲を「情報」として扱うのも論が見えづらくなるのではないかと思います(確かにデータ化されてはおりますが)。

 新規記事から読んでおりますので既出事項でしたら申し訳ないです^^;

その通りです

・あかまさん、こんにちは。

運営されているブログは「無への道程」ですか。面白そうですね。

「受け手」の銘々が一意的判断により対価を決定すればよいという意味でしょうか?

はい。仰るとおりです。

そもそも不合理ってシステム性の否定ですし

はい。仰るとおりです。一般的な理解では、そうなると思います。

余計にわかりにくくなるかもしれませんが、それでも付け加えて置きますと、私がここで言わんとしている「不合理」というのは、「新たな合理性」ということなんです。現在の視点でみれば不合理にしか見えないだろうということで「不合理」といっているに過ぎないのでして。ゆえに、経済システムが刷新できた暁には、不合理性は合理性と呼び直されるでしょう。

受け手が一意的判断により対価を決定することができるシステムのモデルは、以前に考えてみたことがあります。

『贈与経済のもうひとつの始め方』
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-352.html

良ければご覧になってください。

やっとここまで読みました

この記事を、「ふむふむ、仏教のお坊さんの言う“お気持ち”ってやつですね♪」と思いながら読んでいたら、逍花さんがすでにそのような言及をされてました。 (^_^;)

超越系vs内在系

・アキラさん

すみません、ここのところ妙に調子が良くって。季節の所為かな(笑)

「ふむふむ、仏教のお坊さんの言う“お気持ち”ってやつですね♪」

それ、内在系思考ですね(^o^)

超越的に、ありとあらゆるものに開かれているのならば、そうした“お気持ち”でも回っていく経済を想定することは可能です。もっとも、その「想定」が直ちに実現可能というわけではありませんが。

超越系の「想定」が内在系思考によって鍛え上げられることで生まれてくるもの――それがイノベーションなのかもしれません。あのジョブズが禅に凝っていたというのは、そういうことなんだと思います。

 こんばんは。お返事が遅くなってしまいました。
 リンク先の記事も拝読しました。

 私の本分は宗教思想にあるので経済学の知識は現在すっからかんなのですが、愚樵さんが論じているのは「情報」という分野に限定された不合理的システム(とりあえずシステムと称します)、ということで考えればよいでしょうか。
 購入側に労を要する――価値を判断するという労――システムでは現在の流れはおそらく変えられないだろうと思います。人間は楽なほうに流れるものです。合理的システムがどれほど人間性を抹殺するものであろうとも、不合理的システムは局地的なものに限定されざるをえないのでしょう。合理性って人間の側が求めるものでもあるために容易には抜き難いものなんですよね。

 私も以前から西洋的近代の問題や資本主義と人間主義の対立等を考えておりますが(近代性を否定するのではなく近代性を超えるところのものを樹てる必要があろうと思いますが)、前提となる過去が分厚いので未来を考えるのが非常に厄介ですね ^^;

情性的合理性

・あかまさん、おはようございます。

「情報」という分野に限定された不合理的システム

ここでいう「不合理」を、西洋一神教文化を背景とした合理性の反語としての「不合理」なら、否です。

私は新たな合理性と申し上げましたよね。

西洋型の合理性でいくならば、「一物一価」が理想です。経済世界はその方向へ向かって進むべき――グローバル化ですね。
(物理的に「一物一価」はあり得ませんが、その議論は置いておきます。)

ですが、情性的判断で行くならば「一物多価」であるべき。それが「合理的」なのです。

現在、私たちは「合理的」というと無意識のうちに西洋型の合理性を前提としてしまいます。私はそのことに対して批判的なのです。

各人が各々バラバラに価値・価格判断をしたとしても、それでも経済秩序が維持できるならば、それで「合理的」であると判断して差し支えないはずです。

合理性って人間の側が求めるものでもあるために容易には抜き難いものなんですよね。

そうなのです。そして、経済活動というのは、その人間の合理性がもっとも如実にでてくる分野です。

人間の経済活動は不合理。あるいは思ったよりも合理的。そういったタームを聞いたことがあると思いますが、これは西洋型合理性から見たときの「合理的」あるいは「不合理」なのですね。人間の内側に潜んでいる合理性ではないのです。欧米人であっても、経済活動はかならずしも欧米型合理性に従って行なうものではないのです。「本音と建て前」の日本人なら尚更でしょう。

私が考えているのは、早い話が「本音でいいよ」というものなんです。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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