愚慫空論

合理性は人間を「入れ替え可能」にする

またもや『魔法少女まどか☆まぎか』 ネタを。

宮台真司氏も『まどか』について語っているようだが、

『まどか☆マギカ』はおじさんが見ても意味のある作品―宮台真司 (月刊SPA!

13日にもラジオで語っていたらしい。その内容を要約してくれているブログ記事があるので、まず、そちらを紹介。

TOKYO FM『TIME LINE』宮台真司の『まど☆マギ』論要約(愛と苦悩の日記)

ここには「救済系」「ループ系」「空気系」などとアニメについて分類がいろいろ出てくるが、このあたりは関心のない人にはわからないかもしれない。ここでは『まどか』は要するに「救済系」なのだと理解しておけばよいだろう。

「救済系」については、『エヴァンゲリオン』では承認されたいから救済するという動機づけ。主人公の碇シンジの最終目的は周囲に、父親に認められることだった。

 ・・・

時代との関連で言えば、15年前の『エヴァンゲリオン』はその前のオウム真理教の事件と関連しており、自己意識を保とうとするために「救済」するというとんでもない事件だったことがわかってくる。

碇シンジもそうで、自分が承認されたいから世界を救うというむちゃくちゃな話になっている。これは後に「セカイ系」と呼ばれる。

当時は「承認」が主題になっていたということを、アニメの作者が意識的あるいは無意識的に作品のモチーフとして組み込んでいる。


ここで「自己意識」と言われているのが「自我」だ。

しかし『まどか☆マギカ』におけるまどかの救済は、自分自身が消え去ることで世界全体のルールを変えることが目的になっている。ルールの変わった世界では誰も自分のことを覚えていないという結末になる。


同じ「救済」であっても、『エヴァ』は「自分」が保たれ(世界よりも自分)、逆に『まどか』は「自分」は消失してしまう(自分よりも世界)。この差異は、「自我」と「自己」の確立の在り方の違いからくる。

「自我」とは、端的に言えば

  我思うゆえに我あり

の「我」のこと。『エヴァンゲリオン』の主人公シンジはこの「自我」が弱い。その弱さを補完するために他人からの「承認」を求める。『エヴァンゲリオン』が当時強く支持されたという事実さは、「自我の弱さゆえの承認」が時代のモチーフになっていたことを意味する。

ここからふたつの流れが派生する。

1.は、「承認」を得られないのは「努力」が足りない所為だ、と捉える流れ。これは「自我の弱さ」を正面から受け止め、克服しようとしたものだ。このときに使われる武器が「合理性」である。

私は『まどか』の物語に登場するインキュベーターは合理性の象徴であり、人の心の中に棲むメフィストーフェレスだという解釈を展開しているわけだが、ある契約をすれば「願い」と引き換えに合理性が得られるなどというのは、アニメのなかの設定でしかない。現実世界では、合理性を獲得するには努力が、―――特殊な「努力」が必要である。しかも「努力」とその成果(「願い」)は等価交換ではないので、どれほどの「努力」を支払えば「願い」が手に入るかはわからない。この交換レートは人それぞれで違って、そこは不条理としか言いようがないものだ。

とはいうものの、「自我」の弱さを克服しようと願っている者にとっては、「不条理」という答えはなかなか受け入れがたい。そこで、「承認」が得られる→社会的成功→合理性獲得→「努力」が結実、という「方程式」が組み立てられることになる。また実際、この「方程式」はそれなりの確率で成立はするし、大半の者に成立した幸福な時代もあったのである。

しかし現在、この方程式が成立する確率が激減すると同時に、別の現象が顕著になってきている。

システムの中で自分たちが入れ替え可能な存在として翻弄されているという強い意識が背景にある。にもかかわらず、そのままでは希薄になってしまう絆や、他者への強い思いを相対化してくる強力なシステムと徹底して闘うという意思も描かれる。

こうしたモチーフはやはり多く映画を観ると、どんどん高まってきていることが分かり、時代とシンクロしていると言える。


〈システム〉を駆動させるのは合理性である。その合理性は、もとはといえば、各々の「願い」から生まれたものだ。が、合理性を得た「願い」は自律性を獲得してしまう。その結果、自律した〈システム〉は「願い」を持つ者たちを阻害するようになっていく。〈システム〉が発展するにつれ、「方程式」の成立確率は低くなり阻害される率が高くなっていく。

だが、これはもともとの「願い」の性質から生じる当然の帰結だ。というのも、“我思うゆえに我あり”の「自我」が強くなるほど、他人はどうでもよくなるからだ。我が我であるのは、我が思惟する存在であるからある。思惟は合理性を導き、我が正しいことは他人が提出する他の合理性との闘争に勝利することによって証明される。そして合理性はその性質上、一点に収斂していこうとする。結果、少数の勝者と圧倒的多数の敗者に区分されることになる。そして、敗者は合理的な〈システム〉にとっては「入れ替え可能」なパーツに過ぎなくなる。

これは「自我」と正面から向き合った結果であり、受け入れるしかないものだ。

もうひとつ派生した2.の流れは、ある意味、逃避である。「自我の弱さ」に正面から向き合い、克服しようとしたわけではなかった。「オタク」や「萌え」は、こうした逃避から生まれてきたものだといえるだろう。だが、バーチャルな世界へ没入は、一貫した逃避というだけではなかった。奇妙なことだが、「自我」からは目を背ける替わりに、「自己探求」が行なわれていた形跡がある。

「自己」は「自我」とは異なる。その確立の在り方は

  あなたがいてこその私

というものになる。強度な関係性、つまり「絆」によって確立されるのである。もちろん、ここの「あなた」は入れ替え不可能なものだ。

   (自己確立の在り方については →『不安を引き受ける日本人』

私が面白いと思っているのは「ループ系」と言われるものだ。ループ構造は『まどか』の物語の中にも採り入れられているが、要するに、過去を何度もやり直せてしまう、という設定のこと。何度もやり直して最適解を見つけるという、もともとはコンピュータ・ゲームの構成からくるもの。

この、リアルな世界ではありえない「ループ」は、「自我」的視点から見れば逃避に他ならないが、「自己」的視点から見れば、そうではない。バーチャルな想像の世界のなかではあるが、何度もやり直して最適解を見つけるというシミュレーションは、最適な他者との関係を探究して「自己」を確立させていくことに繋がっていく。消極的な逃避のはずが、いつの間にか積極的な自己構築の意味合いを帯びだしている。そればかりか、「ループ脱出」が「脱システム」にもなっているというのは宮台氏の指摘であるが、ということは、「自己」確立が〈システム〉外で行なわれるようになってきているということだ。

この流れは、1.の「自我」確立とは全く異なる。合理性をテコに確立される「自我」は、〈システム〉なくして成立することはない。

(以上の1.の流れは「ガンダム世代」、2.は「ワンピース世代」に相当すると言えそうだ。
  →『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』 )

ずいぶんと大回りを大回りをして、やっと話が『まどか』へと移る準備が整ったところだが、すでにかなり長くなってしまった。

続きは次回。

コメント

見ちゃった

愚樵さんが連投するから『まどかマギカ』見ちゃいましたよ。
感想を述べるのは難しいですがかなり良かったです。
でもメチャ疲れますね。(^^ゞ
これから僕なりにゆっくり咀嚼していきます。

見てしまいましたか

・すべーすのいどさん

そうです、疲れます。お気楽に見ることも出来るのでしょうが、構えて見てしまうと、結構きます。初期に味方があっけなく死んでしまうし。その後も次々と...。

全12話ですから、さほど長くはないんですが。

これから僕なりにゆっくり咀嚼していきます

それがいいと思います。

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