愚慫空論

メフィストーフェレスは合理性の中に棲む

お約束(?)の『魔法少女まどか☆マギカ』の続き。『まどか』の話「【良心】との闘いと書いておきながら、そこには触れていなかったから、書かないわけにはいかない。

私は【良心】を次のように定義した。

【良心】とは「固定化され良心」だが、もう少し説明しておくと、
 ・人は自身の心の中に悪心が生じるのを嫌う。
 ・そのために、【悪心】が生じてしまう事象そのものにコミットメントするのを避けようとする。
 ・コミットメント回避のための口実として使われるのが、【良心】である。


私の『まどか』理解をごく単純に言ってしまえば、魔法少女=【良心】/魔女=【悪心】であり、魔法少女が魔女に堕ちるように【良心】も【悪心】へと堕ちていくというものだ。そして【良心】の陰で育つ【悪心】は、あらたな【良心】との闘争によって退治されることになる。

少女たちがインキュベーターに魂を売り渡す代償として手に入れる「願い」は、まだ少女たちの心のなかにある間はまちがいなく〈良心〉である。が、インキュベーターの手を借りてしまうとそれは【良心】へと変貌する。【良心】は魔法少女がそうであるように、闘うことを運命づけられてしまう。【良心】は、【悪心】に打ち勝つことでしか【良心】でいられない。【良心】が【悪心】を必要とするのである。

なぜそんなことになってしまうのか。それは人の弱さとしか言いようがないのかもしれない。

 汝の右手のなすことを左手をして知らしむる勿れ

福音書に出てくる有名な教えだが、この教えが示すところは、裏を返せば、人間は承認されたい生き物だということである。右手に宿った〈良心〉は、みんなに知られ、承認されたい。人間の弱さだ。それを左手にすら知らせるなというのは、正しい教えであるとしても、惨い言葉である。

(ちなみにいうと、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』にでてくる大審問官は、イエスを人間の弱さを顧みない惨いやつだといって批判するのである。)

メフィスト―フェレスは、この人間の弱さに付け入る。メフィスト―フェレスは別の名を合理性という。合理性の手を借りることができれば、抱いた〈良心〉の正しさを証明することが出来る。すなわち承認を強制的にでも得ることが出来る。〈良心〉という「願い」も実現できる。そればかりか、合理性は〈システム〉を組み上げ組織的に「願い」を実現させ、社会を変革する原動力にもなっていく。

(『まどか』の物語のなかでは、インキュベーターは少女の「願い」を奇跡でもって叶える。奇跡は合理性の正反対だが、ここが「正反対」であってこそ物語になる。)

合理性によって実現された〈良心〉は、もはや【良心】である。合理的であるがゆえに、正しく実現された。弱い人間はそう思い込む。だが、人間に取り憑いた「正しさ」は【悪心】から目を背けさせる。『まどか』では、魔女は非常に抽象的に描かれ通常人には見えない存在だと設定されいる。、魔女がもたらす害悪は人の弱い心へ付け入る。人が自殺したりするようなところには魔女がいるということになっている。ならば、毎年3万人以上もの自殺者が出てしまう日本は、魔女がそこらじゅうに徘徊していることになる。

多くの自殺者を生み出しているのは〈システム〉である。それはもはや不合理なものに堕ちてしまっている。だが、現在の〈システム〉も、はじめから不合理であったわけではない。それなりの合理性があったからこそ多くの人々から承認され、〈システム〉として機能することが出来るようになったのだ。そのなれの果てなのである。現在、〈良心〉的な者たちは、〈システム〉を【悪心】だと見なしている。

不合理が生じれば、そこに〈良心〉が生まれ、合理性を得て【良心】となり、既存の〈システム〉と闘うことにある。そうして社会は進歩してきたのである。『まどか』の物語のなかでインキュベーターは、

「もしボクがいなかったら、君たち人類はいまだに洞穴暮らしだ」

というが、これは作り物のアニメの作りものの言葉ではないのである。

まだ言いたいことがあるので、続きを書くことにしよう。

コメント

こんにちは。

最近エントリー連発ですね。o(^▽^)o
一連のエントリーを非常に興味深く読ませていただきました。

いつも通りなかなか難解なのですが、なるほど~と思いました。

私は以前より「戦って良い相手は自分自身だけ」と言う指針を持ってましたが、愚樵さんのエントリー読んで「ああそうか!自分と戦って守るのは〈良心〉で、他人と戦って守るのが【良心】なのか!」と解りました。

ビンゴ!

・すぺーすのいどさん、コメントありがとうございます。

最近、調子がいいのは仕事の加減がちょうどいいからなんです。忙しすぎると疲れて書けなくなるし、暇すぎると逆に煮詰まって書けなくなる。

もっとも、ブログにとって調子がよいのは家計にとってはよろしくない。なかなか思うようにはいかないものです(苦笑)

自分と戦って守るのは〈良心〉で、他人と戦って守るのが【良心】

おお! そうです、そうです。その表現はビンゴ!! です。

コメントを下さったのがすぺーすのいどさんですので、毒多さんへのコメントと絡めて少し付け足しをさせてもらいます。
http://dr-stonefly.at.webry.info/201110/article_1.html

ここでいう「自分」とは何を指すのか、という問題。すなわち「自己」なのか「自我」なのか、ということです。

〈良心〉が結びつくのは「自己」
【良心】が結びつくのが「自我」

ですね。人が〈良心〉的であるとき、それは自己愛に基づく。逆に【良心】的であるときには自我愛になる。

で、「自己」というのは、

  あなたがいての私

ですから、私ひとりではない。「自分」は「私」だけではないんです。「私たち」になる。つまり〈良心〉とは「私たち」で守るもの、ということになるんです。

とはいえ、〈良心〉はひとりひとりの心に宿るもの。そして人間の心などというのは不合理なものなんですね。これを「私たち」で守るとはどういうことになるかというと、個々の〈良心〉をそれぞれ不合理であると認めつつも「私たち」は〈良心〉だと認める、ということになる。これはもはや「信じる」と言い換えてもいい。もちろん、知的パフォーマンスを高める方の〈信じる〉です。信じる相手が一人ならいざ知らず、多数の「私たち」が個々には不合理でありながら、そのそれぞれを信じようとするならば、要求される知的負荷は非常に高いものにならざるを得ません。

「共同体」とは、そのようにして信じ合う「私たち」のことなんです。

ここに合理性というものが導入されるとどうなるか。合理性は、発見するのには高度な知的パフォーマンスを要求されますが、いったん発見されてしまうとあとは低いパフォーマンスで済んでしまう。そうすると合理性に依存することは、高いコストを支払って互いに不合理な〈良心〉を信じ合うよりもずっと楽になる。この「楽」への欲求こそがそれぞれの人の心に棲まうメフィスト―フェレスなんです。

「楽」を求めるメフィストに取り憑かれると、もはや互いに信じ合うようなことはバカバカしく感じてしまって出来なくなってしまう。合理的でありさえすればよいわけですから。そうすると当然、「あなたがいて私」といったような不合理な個の確立法は敬遠されてしまうことになる。「あなた」がいようがいまいが、合理的に思考できる「私」がいさえすれば「私は私」なんですからね。そうして「私は私」であるために、合理的思考に高いコストを費やすようになり、他人と闘争するようになるんです。どちらが合理的かを巡って争うわけですね。

ネットの世界も見渡してみれば、そうした「高い合理性を誇りたい私」がいっぱい居ますよね。彼らは「合理的でありさえすれば世界は統治できる。できないとすれば、それはバカが多い所為だ」などと考え行動する。その結果、世界はますますバラバラになっていく。

いい加減、このような悪循環を断ち切りたいものです。

更に納得!

>合理性に依存することは、高いコストを支払って互いに不合理な〈良心〉を信じ合うよりもずっと楽になる。

なるほどねぇ。
だから【良心】的な人は思考停止気味なんですね。
「歌わせたい男たち」のように。

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