愚慫空論

女と男のガラパゴス

10月3日のエントリー『日本力』の続編。

まず紹介するのはこちら。

 『日本の婚姻史に学ぶ、共同体のカタチ』「夜這い婚って何?」』
    (共同体社会と人類婚姻史)


大変に面白い。こちらを拝見したとき、これも一種の「ガラパゴス」だと思った。そのために『日本力』の続編と位置づけたわけだ。

なお、本エントリーのタイトルを『女と男・・・』としたが、女が先で男が後という順番は意識したものだ。断じて『男と女・・・』ではない。それは、「ムラ」というかつての日本の共同体においては、女性の充足こそが統合の機軸だったからである。
(現在でも家庭という「ムラ」のおいては、その傾向は色濃く残っていると思われる。)

貞操観念などという余計な観念を取り払って読めば、周りの女性達が充足できるように、皆で情報を交換し、性的な期待を掛け合っている姿は、非常に思いやりに溢れた光景であるといえます。

最大の共認充足である性の充足は村の活力そのものですから、ムラ全体で性の充足を肯定的に共認し、共同体の規範として、皆が充足できるように期待を掛け合うのは当然といえます。

日本の農村では、女たちが充足し、安心していることが共同体の維持・統制に必要不可欠であり、村の活力=皆の共認充足=性充足であることを皆で共認していました。


引用はしないが、リンク先の村人たちの「会話」に是非とも目を通して欲しい。「常識」に囚われていなければ、以上のような結論に帰結するのは当然といえる。もっとも、マインドコントロールされた「常識」を覆すのはなかなかに困難なことではあるが。

この「常識」の機軸になっているは貞操観念というやつだ。そして貞操観念とは所有観念の変形である。

貞操観念や純潔などという観念は、男の独占欲に女たちが応えた結果であり、女たちにとっては、充足を制限されるだけの不自由極まりない規範です。

しかし。現代の女性にも貞操観念の正体が男の独占欲であることは直感できるだろうけれども、だからといって「不自由極まりない規範」とまで言えるかどうか。かなり無理があるのではないだろうか。

これは、ガラパゴス化の条件が満たされていないためであろう。『日本力』で私はこのように書いた。

ガラパゴス化に必要な条件とは、各々の会計主体が安定的に儲けることができれば存続していくことができるという経済環境だ。

別の言い方に直せば、ガラパゴス化の条件とは、主体の安全保障が保たれているということである。男女間の「交渉」において大きなリスクを負うのは女性の方だ。「ムラ」という共同体のなかでは、女性のリスクは必ずケアされた。その条件が満たされてこその「性のガラパゴス化」なのである。

思考の枠を広げてみよう。では、なぜ日本においては、このような「ガラパゴス」が広がったのか。

パックス・トクガワーナの江戸時代に商品経済がガラパゴス化したことはまだ理解しやすい。だが、こちらの「女と男のガラパゴス」は、徳川期に始まったわけではない。「共同体社会と人類婚姻史」の主張に従うなら、縄文時代から連綿と続いていたものである。日本だってずっと平和な時代だったわけではない。戦国時代もあった。また、現代に目を向ければ、戦後が平和な時代だったという主張に異論を差し挟む者はいないだろう。だが、婚姻史という側面から見ると、現代は過去よりも平和な時代ではないという結論になる。

しかし、経済が軸になる生活実感という面でみれば、確かに現代は平和な時代とは言えないのである。では、現代の経済面での戦乱はいつから始まったのか。これは間違いなく幕末の開国からだ。商品経済がマスプロダクト・マスセールへと変化していったのと軌を一にするのである。



ヨーロッパ覇権以前 ヒントになるのは、この図であろう。これは16世紀以降のヨーロッパ覇権以前、つまり近代化が始まる以前にも世界経済は統合されつつあったということを示すものだ。13世紀世界システムの8つのサブシステムのおおまかな「形」である。注目すべきは、日本はこの〈システム〉の中には入っていないという点。ここに「女と男の安全保障」が日本で維持された理由が隠されているように思う。
(図は、『松岡正剛・千夜千冊1402夜』からお借りした。)

この図が示すのは、まさに「HISTORY」である。男の男による男のための歴史。軍事面のみならず、経済面でも主体は男性であったということだ。ゆえに、このシステムの安全保障の主体もまた男であり、充足の形も男性が主軸になってしまう。日本がこのシステムに組み込まれるのは19世紀後半であり、そこから日本においても経済戦乱時代が始まることになる。

私たちが暮らしている現在は、女性も男性化することで充足を満たそうと試みる時代になっている。そしておそらくは戦乱の最終局面である。だが、「次」が見えているわけではない。最終局面の底が割れて、さらなる戦乱が続く可能性も高いのだ。

コメント

>しかし。現代の女性にも貞操観念の正体が男の独占欲であることは直感できるだろうけれども、だからといって「不自由極まりない規範」とまで言えるかどうか。かなり無理があるのではないだろうか。
>各々の会計主体が安定的に儲けることができれば存続していくことができるという経済環境だ。
>主体の安全保障が保たれているということである。男女間の「交渉」において大きなリスクを負うのは女性の方だ。「ムラ」という共同体のなかでは、女性のリスクは必ずケアされた。その条件が満たされてこその「性のガラパゴス化」なのである。

経済的な保証のために、不自由な規範を甘んじて受け入れているということですね。

>私たちが暮らしている現在は、女性も男性化することで充足を満たそうと試みる時代になっている。そしておそらくは戦乱の最終局面である。だが、「次」が見えているわけではない。最終局面の底が割れて、さらなる戦乱が続く可能性も高いのだ。

さらなる戦乱を避けるために、早く「次」を皆で見いだしたいですね。
これからもよろしくお願いします。

こちらこそ、よろしくお願いします

・tama0905さん

経済的な保証のために、不自由な規範を甘んじて受け入れているということですね。

そうなんですが、そう断定してしまうのにはちょっと引っかかります。

共同体の生活も、見る視点によってはそれなりに不自由なもの。また、みんながそのように感じたからこそ、今の社会があるわけです。私はみんなが共同体を窮屈と感じたこと自体、悪いことだったとは思っていないんです。

女性が男性化することで充足を求めることだって、そのことそのものが悪いわけではない。環境に適応していっただけです。人間はかなり自在に環境に適応できる。「夜這い婚」もそのひとつの形態にすぎない。男性化している女性には、そこを理解してもらいたいと思います。「みんなのものになれ!」なんてメッセージを発したら、とんでもないことになります(笑)

ただ、私たちが特定の環境に過適応していることだけにだけは気がつくべきでしょう。それゆえに「誰か」に搾取されていることに気がつかない。歪な環境になってしまっています。

人間には環境に適応する能力の他に、環境を自ら改変する能力も備わっています。「次」は、どのような形であれ、今の歪なものと違った健全な環境を築きたいものですね。

流れ流れて

こんなエントリーにまで来てしまったw

性交渉が「所有」の意味を含まないという前提が、実感として受け入れられたとき、
性のあり方は相当変わってくるのでしょうね。

>女性のリスクは必ずケアされた。その条件が満たされてこその「性のガラパゴス化」なのである。

本当にケアされているのなら、レイプなどがないのだとしたら、
ちょっと経験してみたいような、したくないようなw

>最大の共認充足である性の充足は村の活力そのものですから、ムラ全体で性の充足を肯定的に共認し、共同体の規範として、皆が充足できるように期待を掛け合うのは当然といえます。

でも、なんか、得するのは男であるような気がしてならないw
「性の充足」が共同体の規範になると、腕力のない女性が、当然無理を強いられるわけで・・・。
従軍慰安婦という発想は、こういうところから出てくるのかもと思ったり。

「歌垣」ってご存じない?

・みみずさん、三度のコメント、痛み入ります。

でもね、やっぱり肝心なところを見落とすんだな、これが。

でも、なんか、得するのは男であるような気がしてならないw

だから、女性の充足こそが統合の機軸と太文字で記してあるじゃないですか。

そりゃ腕力の強い男が力づくで女性を意のままにした事実が皆無なわけはないでしょうよ。みみずさんはそれを皆無にしようと闘志を燃やしておられるんだろうけれども、そのことと「事実」は別次元の話ですよね。

本当にケアされているのなら、

偉そうに言わせてもらうなら、女性問題の専門家(なんですよね?)としてこの「事実」をご存じないのは問題じゃないかなぁ。

「歌垣」って習俗があったのはご存知ですよね。ハレの日に男と女が自由に交わるというものです。で、昔のことですから、当然避妊などされているわけもなくて、現代の感覚でいうなら「事故」は当然起きたわけですよ。そんな子どもはどうなったか。もちろん、女性にリスクが押しつけられたわけではない。

「神の子(といってもキリスト教的に解釈しないでね)」とみなされたんです。だからムラ全体の子どもとみなされた。女性が既婚者であってもです。

また、長らく子どもが出来ない夫婦には女性が神社仏閣などに単身「お籠もり」する習慣もあった。「お籠もり」をして種をもらってくるんですよ。それも「神の子」とみなされた。これ、民俗学があきらかにしている事実ですし、昭和の時代にもかなりの地方で残っていた。

こうした事実から浮かび上がってくるのは、精神世界が現代人と全く異なるいうことです。こうした世界が良いか悪いかは簡単に価値判断できませんが、女性の充足が基軸であったという事実を無視して、つまりは男性基軸の世界観に軸足を置いて男性を批判しても「なんだかなぁ」というのは私にはある。

こういった世界はしかし、当然のことながら鬱陶しい世界ではあった。でも、その鬱陶しさが女性の安全保障だったわけですよ。DVなんてしようものなら女性は簡単に逃げ出すことが出来た。男がストーカーになれば逃げ込む施設もあった。現代のような国家権力が設ける公的な施設ではないですよ。「公」の意味が違う。神仏の庇護下に入れば男は手出しできなかった。「駆け込み寺」という言葉が残っているでしょう?

しかし近代以降、この鬱陶しい世界は消滅した。男も女も自由になった。そして女性の安全保障も消滅した。

女性だってそのことを望んだわけでしょう。ならば、そのリスクは当然負うべき。腕力で自由競争をすれば男が勝つに決まっています。でも、その選択をしたのは男性だけではない。女性も「自発的」にしたわけでしょう。

もちろんだからいって、私は女性が力で組み敷かれるのは当然と言いたいわけではない。ただ、自由にリスクはつきものだというごくごくベーシックな話をしているだけ。その点は誤解なきよう。

懐疑的なんです

>だから、女性の充足こそが統合の機軸と太文字で記してあるじゃないですか。

見落としていませんよ。それ自体が男性側からのエクスキューズではないかということです。
だって、女性の立場や目線で残された文献なんて皆無でしょうから、
本当に女性が充足していたかどうかなんてわからないじゃない。
女性は男性へのサービスとして、あるいはセックスを早く終わらせるために、
イッたフリなんて日常的にしてるものだし。

「いやよいやよも好きのうち」というのは男性の手前勝手な言葉だし、
強姦裁判では「どれだけ嫌がったか」を被害者の側が証明できない限り合意と見なされるんです。
この日本の状態は、連綿と続いてきたものではないかと考えるのが自然だと思うし、
そうなると「昔はよかった」なんて手放しで賛美する気になれない。

「歌垣」という名前は知りませんでしたが、そういう風習があったことは知っています。
「子どもが共同体で責任を持って育てられる」というのは確かに事後のケアでしょうけれども、
レイプに対してのケアがなされたとは思えないんですよ。私が問題にしているのは、こちらの方。

>DVなんてしようものなら女性は簡単に逃げ出すことが出来た。男がストーカーになれば逃げ込む施設もあった。

これ、幻想じゃないかなあ。
駆け込み寺は、今もありますし。シェルターという名前に変わっていますけれど。
民間から発生し、現在では公的に各都道府県で整備されているという意味では、
その頃より環境は整ってると言えるんじゃないでしょうか。
制度があったことと、それが簡単に利用できたかということは別の問題だと思います。

今でも逃げ出すのは「簡単」ですよ。決断できればの話だけれど。
決断できるまでの道のりが険しく長いのです。共同体の「絆」が強ければ強いほど。

スジの悪い懐疑だなぁ

みみずさん

見落としていませんよ。それ自体が男性側からのエクスキューズではないかということです。

なるほど。見落としたのではなくて、無視したんだ。

懐疑的って言いますけどね、ご自分の硬直した共同体のイメージだけを根拠にしたって、それは通りませんよ。

だって、女性の立場や目線で残された文献なんて皆無でしょうから、

ほら、もうこれが思い込みですよ。何を根拠に皆無だと?
そりゃ公式文書は男オンリーでしょうよ。でも、民俗、習俗の話なんですよ。明治以前、女性は読み書きできなかったと思っているわけですか? そりゃ、女性による女性蔑視でしょう。

女性は男性へのサービスとして、あるいはセックスを早く終わらせるために、


ほら、これも。なぜ現代の「男の充足」の目線で見るんですか? 今がそうなのは認めますけど、だからといって過去もずっとそうだったとは限らない。当記事はそのように主張しているのに、現在の状況を根拠に反論したって反論にならないでしょう?

ジェンダーに対して硬直的なイメージで上からものをいう男って多いですよね。「女はかくあるべし」といってね。「かくあるべし」なんて何の根拠にもならないんですよ。フェミニズムはそう主張するわけでしょ?

ならば、なぜ同じような主張の仕方をフェミニスト(ですよね?)のみみずさんがするのか。バカ男がフェミニズムに対して行なう思い込みだけの懐疑なんて認めるんですか?

なんだかなぁ、いかにも左翼っぽい反論なんですよね。型にはまっている。未来が革新的であるためには、過去は野蛮でなければならない。そうした「進歩史観」から、江戸時代なんて農民は悲惨な暮らしを送っていたと勝手に想像されていたんですね。

レイプに対してのケアがなされたとは思えないんですよ。

ここのところは私もわかりません。想像だけでものをいうのは止めておきます。

可能性の話

>ご自分の硬直した共同体のイメージ

ひどい言い方だなあ。それこそ兄さんの私に対する硬直したイメージだと思うけど?
なんだか、ムキになってるコメに見えるよ。

>何を根拠に皆無だと?

では、兄さんは何を根拠に、信頼に足る女性による文献が残っているとおっしゃっているんですか?

>だからといって過去もずっとそうだったとは限らない。当記事はそのように主張しているのに、現在の状況を根拠に反論したって反論にならないでしょう?

だからといって、兄さんがそのように主張しているからといって、そのような(男が書いた)文献が残っているからといって、過去がそうでなかったとは限らないと言っているんです。
どちらが硬直してんだか・・・。賛同するコメしか受け付けないなら、それはそれでいいですが。

>江戸時代なんて農民は悲惨な暮らしを送っていたと勝手に想像されていたんですね。

というふうに、なぜ想像するのかと。

>想像だけでものをいうのは止めておきます。

とおっしゃるのなら、勝手に私の考えを想像しないでいただきたい。

同じだって

・みみずさん 

懐疑も可能性も、同じだって。

ひどい言い方だなあ。それこそ兄さんの私に対する硬直したイメージだと思うけど?

なんでいきなりそうなるわけ? 丁寧に応対しているでしょう。根拠のない懐疑を提示したので、根拠がない。立場が変わればあなたはそれを認めるのか? と問うたわけでしょう。

その問いに答えもしないで、「私のイメージ云々」なんて、それこそみみずさんに対するイメージが硬直化してしまう。

なんだか、ムキになってるコメに見えるよ。

「欲望は他者の欲望だ」というけど、他者に対するイメージってのはだいたい自分のイメージの繁栄なんだよね。こういうことは心理学ではいわないのかな?

何を根拠に皆無だと?

では、兄さんは何を根拠に、

質問に質問で返すのは反則でしょ。というより、この記事のリンク先を見て見りゃわかるでしょうが。『夜這いの民俗学』」という本が紹介されていて、そこから女たちの会話が引用されている。これが史料に基づいていない捏造だというなら話は違いますけどね。でも、ふつうはそんな疑い方はしないでしょう?

だからといって、兄さんがそのように主張しているからといって、そのような(男が書いた)文献が残っているからといって、過去がそうでなかったとは限らないと言っているんです。

いや、だから。それを言い出したら何だって疑問符は付けられるって言ってるの。フェミニズムはそうした根拠のない疑いをかけられてきた学問なわけでしょう? それと同じことをやってどうするの、といっているわけ。

さらに反論するなら、ここのところをちゃんと答えてください。スルーは認めませんよ。

どちらが硬直してんだか・・・。賛同するコメしか受け付けないなら、それはそれでいいですが。

硬直しているのもムキになってるのもみみずさんでしょう。私はキチンと硬直化の根拠を示しました。みみずさんはその根拠には反論せず、質問に質問で返して、さらに根拠のない可能性を言い立てているだけ。また、私が賛同コメしか受け付けないかどうかは、たとえば宗純さんとのやり取りをみればわかるでしょう。過去にはわくわく44なんてのもいましたよね。長く私とつきあって頂いている方は、そうしたコメンテーターへの私の対応はご存知のはず。それこそ、みみずさんの勝手な想像。余分なことは書かない方がいいですよ。

江戸時代なんて農民は悲惨な暮らしを送っていたと勝手に想像されていたんですね。

というふうに、なぜ想像するのかと。

となぜ、判断する? ここは左翼一般という話の流れですよ。みみずさんを特定して指しているわけではない。それに、我々の世代が受けた歴史教育はいわゆる「マルクス史観」に沿ったものだったでしょうが。

想像だけでものをいうのは止めておきます。

と言っているんだから、想像でものを言うのは注意を払って避けているんですよ。こういった荒れたコメントでは、当然でしょ。すぐに揚げ足を取ろうとするだから。私はそんなに脇は甘くないですよ。

ムカムカするのは

>こういうことは心理学ではいわないのかな?

言いますよ。投影と言います。
だから、何?

私が兄さんにすこぶるムカついているのは、
心理の専門家でしょだの、女性問題の専門家でしょだの、フェミニストでしょ、左翼的だの、
そういうものを私にかぶせて、私を貶めることで、その業界自体を蔑む意図を感じるからです。

専門家として何を学ぶべきかというのを、専門家である愚樵さんに指図されるいわれはないし、
まして「専門家なのに知らないの」と、見下されるのも筋違いだと思います。
ものすごく失礼です。私には侮辱に思えて、腹が立ちます。

『夜這いの民俗学』は過去に読んだことがあります。
ただ、あまり印象に残ってないですね。違和感だけが残った。ホントにそう?と。
一種のファンタジーだと思って読みました。
手元にないので確認できないのが残念ですが、

>女たちの会話が引用されている。

というのが、全ての根拠になりますか?
恣意的に引用された可能性は?と思うのです。
確かに、そういう女性が居た、という証明にはなるでしょうが。

>フェミニズムはそうした根拠のない疑いをかけられてきた学問なわけでしょう?

これは意味が全然わからない。何が言いたいの?

前後しますが、

>ふつうはそんな疑い方はしないでしょう?

ふつうはそうかもしれませんが、
(男性によって)歴史的に事実とされてきたことを、当然とされてきたことを、
女性の立場から捉え直すことが女性学ですもん。

文献に書いてあるから、と無邪気に信じ込めることのほうが不思議。
私が「信じられない」のも兄さんが「信じる」のも、自分の世界観に合致した方を選び取っているだけで、
「事実」がどうかなんてわからないと思いますよ。

だからムカツイタを優先させるなっての

私が兄さんにすこぶるムカついているのは、
私を貶めることで、その業界自体を蔑む意図を感じるからです。

私は脇は甘くない言ったでしょ。

たとえそれをみみずさんが感じ取ったとしても、それはあくまでみみずさんの感じ方でしかない。そんなもの気分次第でいくらでも「後付け」できるものでしょう。

まして「専門家なのに知らないの」と、見下されるのも筋違いだと思います。

ほら、ここも主観。私があのような言い方をするのは、みみずさんのコメントが主観的でしかないからですよ。

私が「信じられない」のも兄さんが「信じる」のも、自分の世界観に合致した方を選び取っているだけで、
>「事実」がどうかなんてわからないと思いますよ。

煎じ詰めればそういうことでしょう。でも、自分の世界観をどのように客観的に表現するのか。ここが問題なわけでしょう。
私だって素朴に信じているわけではない。記事見ていないんですか? 民俗の話と交易のシステムの話とが繋げられているでしょう? いずれも主観的な見方といえばそうですが、個々には主観的なものでもそれらを構築していって世界観に組み上げる。これは決して素朴な信仰なんかではありません。

ま、ここで敢えて主観的にものを言わせてもらいますが、どうせみみずさんは専門家ではない樵の世界観構築なんて、と見下しているんでしょう? だからそれが「反映」して

「専門家なのに知らないの」と、見下されるのも筋違い

という勘違いになる。

もちろん、この主観には根拠はありませんよ。みみずさんの主観と同じ。で、それを言い合ってどうなるというです? 

文献を信じないというなら結構。専門家だからといって挑発されるのがやなら、そう名乗らなきゃいいという話でしょう。もしくは専門違いと躱すのだって手ですよ。

これは意味が全然わからない。何が言いたいの?

わからなければそれで結構。はっきりそういってもらえばそれでいい。

ふつうはそうかもしれませんが、
>(男性によって)歴史的に事実とされてきたことを、当然とされてきたことを、
女性の立場から捉え直すことが女性学ですもん。

ならば、無邪気な進歩史観を覆そうとする学問分野があったっていいわけでしょう? それを違和感という先入観で片付けておいて一方で女性学なんていったって、傍からはイデオロギーにしか映らない。そんなのが専門家なのかと挑発しているんですよ、私は。

蛇足ながら

『夜這いの民俗学』は確か、自身の体験を綴ったエッセイ的な要素が多かったように思います。
客観性に乏しい、学術書でさえないものを「根拠」にあげられるのはいかがなものかと思います。

アカデミックな世界では、研究論文でさえも、懐疑的に読むことは常識です。
いわんや、商業本をや、です。

ちなみに、懐疑的に読むことと、敬意を示さないということはイコールではありません。

既視感だなあ

>たとえそれをみみずさんが感じ取ったとしても、それはあくまでみみずさんの感じ方でしかない。

受け取った私の側の問題も当然あるでしょう。
でも、そう「受け取らせた」兄さん側の問題は無視ですか?

>心理の専門家でしょだの、女性問題の専門家でしょだの、フェミニストでしょ、左翼的だの、

そういうものを私にかぶせないでください、ということなんだけど?
どんな失礼な言い方をしても、「そんな気はない、そう受け取るお前の問題だ」というのは卑怯です。
誤解だとしても、誤解を与えたことを謝ってほしい。

私は傷ついているんです。

既視感ですよ

でも、そう「受け取らせた」兄さん側の問題は無視ですか?

文章を読んでないなぁ。だから、そういった話でやり合っても不毛でしょうといってるの。

そういうものを私にかぶせないでください、ということなんだけど?

ちがうの?

誤解だとしても、誤解を与えたことを謝ってほしい。

ものの順序がちがう。それをいうなら、あなたが先に自身の主観だけで判断したことの謝罪がなければ。

私は傷ついているんです

ふう。じゃあ、私は傷ついていないと思っているわけ? あなたの主観的コメントに不愉快にならなかったと思っているわけ? そこは棚上げなわけ? いつも女は被害者で男は加害者なわけ? 

どっちかにしてくださいよ。主観的なコメントを専門家として客観的なものに改めるのか。双方主観だからということで、和解をするのか。それにしたって、先に謝罪すべきはあなたでしょう。

>ちがうの?

私がイヤなのは、
>心理の専門家でしょだの、女性問題の専門家でしょだの、フェミニストでしょ、左翼的だの、
>そういうものを私にかぶせて、私を貶めることで、その業界自体を蔑む意図を感じるからです。

私はその業界とイコールではないと言っているんです。

>あなたが先に自身の主観だけで判断したことの謝罪がなければ。

どれ?
私が最初に兄さんを傷つけたのだとすると、兄さんの最初のコメントの中の

>>でも、なんか、得するのは男であるような気がしてならないw
>だから、女性の充足こそが統合の機軸と太文字で記してあるじゃないですか。

のところと、

>>本当にケアされているのなら、
>偉そうに言わせてもらうなら、女性問題の専門家(なんですよね?)としてこの「事実」をご存じないのは問題じゃないかなぁ。

というところでしょうか。

このコメントで、兄さんは私のことを「女性問題の専門家のくせに」と蔑んでいるので、
これより先だとすると、私の最初のコメントの中にということになる。

私は「女性の充足こそが統合の機軸」というのは男性側の主張に過ぎないのではないか。
ケアされているのは、生まれた子を育てるという意味においてのみで、レイプなどについてのケアがされていたとは思わない。
そういう私の(兄さんの言う)「主観」が、兄さんを傷つけたと?
でも、私は主観で「判断」なんてしてないですよ?ホントにそうかなあ?という疑問を持ち、それを書いたただけで。

兄さんの根拠が商業本によるものではあまりにも弱いというのは、お認めになりますよね?
そういう地域があったかもしれないという根拠にはなるかもしれませんが、
私に「昔はこうだったんだ、認めろ」と迫るには不十分だということを?

>いつも女は被害者で男は加害者なわけ?

ここですね、きっと。兄さんが私にむかついてるのは。
だから、「やはり女には適わない(笑)」なんて、ふざけたタイトルもつけられる。

性に関して蹂躙されてきたのは圧倒的に女性です。そのことに疑問がありますか?
男性の被害者が仮に1割いたとして(実際はもっと少ないけれど)、
「いつも」ではないから「平等」だとおっしゃいますか?

>女性の充足こそが統合の機軸
>女性はケアされていた

この2点において、私は疑問を呈した。そのことに兄さんが傷ついたのだとすると、
・私が兄さんの「思索」にケチをつけた
・私が兄さんのファンタジーをこわした
ということでしょうか。謝ることかな?とは思いますが、謝れとおっしゃるなら謝りますよ。
たいへん申し訳ありませんでした。以後気を付けます。

>あなたの主観的コメントに不愉快にならなかったと思っているわけ?

そうは思ってませんよ。これについては、お互い様でしょう。

ただ、私の資質に言及して、個人攻撃をしたのは兄さんの方です。
>心理の専門家でしょだの、女性問題の専門家でしょだの、フェミニストでしょ、左翼的だの、
そういう言葉はなくても十分に反論できることに対して、わざわざ、そういうことを書いたわけですよね。

・みみずさん、おいでになりましたか。正直いって「やれやれ」が半分。「ウェルカム!」が半分。

まあ、でもここは「ウェルカム!」を重視すべきですね。すこし丁寧に行きましょう。少なくともみみずさんが私の「不快」に関心を持ってくれたようなので。歩み寄れるかな?

まず私がどのあたりから不快感を持つようになったのか。もうこれは最初のコメントから。

従軍慰安婦という発想は、こういうところから出てくるのかもと思ったり。


これを見て、みみずさんはここでの主張をハナから理解する気がないと感じたんです。我田引水が酷すぎる。でも、「感じた」は主観だから言わない。そこで「事実と向き合え」といったわけ。専門家としてね。ここに「蔑み」は入っていますね、確かに。でも、私からすれはみみずさんが主観的に過ぎるから。が、業界は関係ない。

私を貶めることで、その業界自体を蔑む意図を感じるからです。

後で触れますが、ここはみみずさんの「投影」だと私は思っている。

丁寧にと言ったので、なぜ慰安婦云々が主観なのかという話をしておきましょう。これは本文に掲示してある世界地図と関係がある。「システム」のネットワークに日本が入っていないこと。ここが絡んでくるんです。

こうした「システム」があったということは、それに伴って戦争も起きたということなんです。こうしたヨーロッパ覇権以前の「世界システム構築」に大きな役割を果したのはモンゴルですが、あのチンギス・ハーンなどは「征服した地で女を犯すことが趣味」といっていたほど。実際、中国や中央アジア当たりでは、チンギスの遺伝子を受けついでいる人間が異常に多いという研究結果があるくらい。

従軍慰安婦的発想はなにも日本だけに限ったわけではないことはみみずさんもご存知でしょうが、そういった発想の元はここにあるわけです。日本も幕末の開国以後、富国強兵をスローガンにこういった「システム」に参入しようとして戦争を始めた。そこで従軍慰安婦的発想も同時に受け継がれたであろう、と私は見ているわけです。その傍証は日本には宦官がいなかったこと。また『源氏物語』のような小説を女性が書いていること、などなど。日本は中国の統治制度を真似たが宦官は採り入れなかった。宦官は男性充足追求の果て。それだけで女性充足基軸と結論づけるのは早計だが、歌垣といった習俗が広範に存在したことや、女性が裸をごく普通に晒していた(江戸時代、風呂は混浴しかなかった)こと、女性の裸体を見ても男が欲情することはなかった(欧米人がこの事実を驚きを持って記している)ことなどから考え合わせると、女性の充足が基軸であったという蓋然性は高いわけ。そしてそれは、江戸時代までは「世界システム」から外れていたことで維持されていた。

だから、従軍慰安婦なんていうのは的外れもいいところ(この説明をもっと早くにすれば良かったかも?)。

とはいえ、レイプが皆無だったわけはない。どんな社会にもおかしなやつはいますから。が、共同体の内部でいる限り、そのケアがなされたと見るのが自然だと私は思っている。明確なデータはもちろん提示できませんけれどね。いずれにせよ、昔の人間の心理状態を今の基準で考えることにあまり意味があるとは思えないんです。そこを想像しようともしないで、現代の基準ばかり言い立てるみみずさんに、私はますます理解の意図がないと踏んだわけです。

そしてさらに。この「無理解への意志」は以前から私が持っていたみみずさんへの偏見と結びつく。

どうせみみずさんは専門家ではない樵の世界観構築なんて、と見下しているんでしょう?

こう言いましたよね。そしてみみずさんの

私を貶めることで、その業界自体を蔑む意図を感じるからです。

はその「偏見」を裏付けることになった。私はそんなことは意図していないのに、みみずさんがそう感じるということは、みみずさんの蔑視の「投影」なのだろう、と。

私が兄さんの「思索」にケチをつけた
私が兄さんのファンタジーをこわした

ファンタジーなんて、もろ「蔑視」が出てますね。

ちなみにいうと、私は私の「ファンタジー」がみみずさんの「ケチ」くらいで壊れたなんて全然思っていません。みみずさんが想像しているほど粗雑なものではないと自負している。壊れたと思い込み、それで傷つくと思うところがもうすでに蔑視。

なぜみみずさんが私を蔑視するのか。いえ、できるのか。互いの知性に差はないことはここでの「口げんか」でも明らかでしょう。そしてこのことは今になってわかったことではなく、ずっと以前からみみずさんも諒解していたはず。にもかかわらず、なぜ?

そう疑問をもつと、それは帰属によるものだろうと推測がつく。私は樵。一方、みみずさんはカウンセラー。知的な職業だ。知的な能力に差がないことは明らかであるならば、根拠はここ以外に考えられないでしょ。私たちはネット以外に繋がりがあるわけでなし。

ここが私がみみずさんに業界を重ねる理由。そして、女性学はそうした蔑視と戦ってきたのだろうと言った理由。みみずさんはピンとこなかったようですがね。

そのように見ている私からすれば、みみずさんの「不快」は、その蔑視を私に跳ね返されたためにくるものでしかない。

この蔑視はまだまだありますよ。先のコメントなんて蔑視のオンパレード(苦笑)

根拠が商業本によるものではあまりにも弱いというのは、お認めになりますよね?

まず、商業本ってなんですか? 著者は民俗学者です。学者が一般向けに本を書くと商業本? 学者に向けた学術論文でなければダメなわけ? ならば、みみずさんは自身を業界に重ねてくれるなと言いながら、ここでは思いっきり業界論理を押すダブルスタンダードな人間と言うしかなくなる。ダブルスタンダードは差別でしょう?

それに、なぜ私が論拠がそれだけだと思うんですかね? 上でも見解を示しましたけど、他にも宮本常一や網野善彦あたりを読んでみれば、似たようなことは書かれてあります。

だから、「やはり女には適わない(笑)」なんて、ふざけたタイトルもつけられる。

なぜ、ふざけたと思うわけ? 大まじめですよ。だから、妻からの愛情が薄くなったと嘆く「お坊ちゃま」を笑っている。

でもね、いいですか、私はこのようなことは言い合いたくないと言ったんですよ。いずれにせよ互いの偏見でしょう? いくらもっともらしく言ったって、最終的に拠って立つのはそれぞれの主観しかない。私はそれぞれの主観を大切にしたいと思っている人間なんです。だから主観のつぶし合いをすることには我慢がならない。

みみずさんがご自身の主観を主張することはいいんです。ただし、別の主観を持っている者への配慮を欠かしてはいけない。そもそも私は女権擁護論者なんです。女性が社会を統治するのがいいと思っているくらいです。ご存知の通りにね。それを「エクスキューズ」だという。バカにした言い草ですよ。そりゃ私は男ですから、女性の理解には限界があるでしょうよ。それでも、男なりに「思い」はある。「エクスキューズ」はそうした「思い」を一顧だにしない。他人の「思い」に思いを致さない「思い」なんて「思い上がり」です。私はそれをみみずさんに感じている。女性学の学徒であるみみずさんに、です。ここは不可分なところ。それでもなお主張を通したいのであれば、キチンと論拠を出せという話ですよ。でもみみずさんは、こちらの論拠の否定をしようとしただけ。そして可能性を言い立てただけ。スジのわるい懐疑と言われても仕方がないでしょう?

それと。

性に関して蹂躙されてきたのは圧倒的に女性です。そのことに疑問がありますか?

脇が甘いですよ、みみずさん。私は、私とみみずさんとの関係において「いつも男性は加害者で」といったのであって、統計的なデータとは関係ないんですよ。そんなことを言い出すと、やっぱり「いつも女性は被害者だと思ってるんだ」ということにしかならない。でも、ここがもっともムカツクのだとすると、やっぱりイデオロギー?

最後に。

ただ、私の資質に言及して、個人攻撃をしたのは兄さんの方です。

言及する必然性があったのは述べたとおりですが、それでも

「謝ることかな?とは思いますが、謝れとおっしゃるなら謝りますよ。」 です。
でも、これで謝罪になってるのかな?

長々と書いてきて、歩み寄るなんてウソっぽくなってきましたね。最初を除けば同じ言葉の繰り返し。不毛だ。まあ、でも仕方がない。私はみみずさんが「バカにして読んでいない」と思ってますからね。ここが氷解しないことにはどうしようもない。

謝罪するとかしないとか、そんなバカげたやり取りはしたくなかったですよ。だから「言挙げ」はダメだと言うんだ。こうして言語化してしまうと余計に面倒なことになる。「感じている」と「思っている」は同じようでいて、実はかなり距離があるんだ。

なんだ、というか、そうか、というか。

>だから、従軍慰安婦なんていうのは的外れもいいところ(この説明をもっと早くにすれば良かったかも?)。

なんだ、そこなんだ。それは気付かなかったです。
これは私自身発想が飛躍しているのは自覚しています。
それで不快にさせたのなら、謝ります。ごめんなさい。

>どうせみみずさんは専門家ではない樵の世界観構築なんて、と見下しているんでしょう?

これはびっくりしたんですよ。え?そんなふうに思ってるの?と。
あまりに意外過ぎて、(他に意図があって)口先だけで言ってることなんだろうなと流していました。

私は、兄さんもご指摘のように脇が甘いですし、論理的な思索には向いていない。全然向いていない。
そこは私のコンプレックスだから、常日頃から兄さんのことは凄いなあと思っていたんだもの。
頭も兄さんほど良くないですよ。知的には私の方が劣っています。

木を切りながら、色んな世界に思いを馳せて思索してるだろう兄さんの姿を想像することは、
私の中でステキなファンタジーになっていました。
兄さんは、たぶん自然相手に仕事をしているだけではおそらく物足りなくて、
だから、色々難しいことを考えてご自分の世界を構築することで、
バランスを取っているんだろうな、なんて思ったり。(違ってたらごめんなさい)

私はここ数ヶ月、論文を書くという、すこぶる苦手なことにチャレンジしていたもので、
オフの時くらい、論理的に考えることは放棄したい。ごめん被りたかったわけです。
で、感情にまかせたテキトーな文章を書くことでバランスを取っていた。
なので、論理的に考えることが趣味?の兄さんの所に凸したのは、どう考えても私の失敗でした。
自分は研究者には向いていないと、毎日毎日突き付けられている中で、
「専門家のくせに」と言われるのは、ものすごくきつかったです。

そんな状況だったもので、出典が気になったというのもあります。
論文は査読もあり客観性が厳しく求められますので、商業本より遥かに精度が高くなるんです。
(とはいえ、論文も玉石混淆ですが)
論文として発表できなかったものを著書にする、というのもよくあることです。
(逆に、論文は文字数が限られているため、論文をベースにして著書にしたものもあります。そういう本はもの凄い迫力です)

そんなこんなで、民俗学者が書いているからといって、それがその分野で認められていることかどうかはわからない。ベストセラーになったけれど、学会では嘲笑されている、なんて本は腐るほどあります。
そこは、注意されて読まれた方がよろしいかと思います。

そこも私の違和感のひとつだったんですけどね。
なんでこの本に関しては、批判的に読むということをせず、そのまま受け取るのだろう?とね。

>他人の「思い」に思いを致さない「思い」なんて「思い上がり」です。私はそれをみみずさんに感じている。女性学の学徒であるみみずさんに、です。

仕事では「他人の「思い」に思いを致」してるつもりなんですけどねー。

私の方は、兄さんにそれを感じていました。
男性的な上からの物言いに対して、私は過剰に反応するきらいがあるのは自覚しています。
今回のように、片っ端から締め上げられる感じは、私の傷に響くのですが、それを差し引いても、酷い言われ方だなあと。

あと、私は「女性学の学徒」じゃないですよ。
心理は専門に学びましたが、女性学は学んでいません。
私は運動から入って、今も運動ベースなので、学問としての「女性学」はつまみ食い程度です。
女性学の名誉のために、否定しておきますね。

>そもそも私は女権擁護論者なんです。女性が社会を統治するのがいいと思っているくらいです。

そうですか。私は男性と女性がバランスよく社会を統治するのがいいと思っています。

ともあれ、私がここに来たのは間違いでした。お詫び申し上げます。

みみずさん、ごめんなさいね。

ごめんなさい、というのはふたつの意味で。

ひとつはこれまでの諍いに対して。もうひとつは、あとで述べることが諍いになりませんように、ということで。ちょっとね、みみずさんを「ダシ」に使わせてもらいたいんですけど、それはみみずさん個人への批判ではありませんよという「エクスキューズ」。

まずひとつめですが、ここはもう、いいですよね。私の方も言いたいことを言いましたし(言いたくなかったんだけど(泣))、それを受け入れてもらえたと感じるので、「はい、終了」です。笑。

仕事では「他人の「思い」に思いを致」してるつもりなんですけどねー。

のはずですよね。でも、仕事でしているからこそ逆に負担に感じているのでしょう。私だって樵と言いながら、仕事のことはほとんど触れないし。


そもそも私は女権擁護論者なんです。女性が社会を統治するのがいいと思っているくらいです。

私は根っこの根っこではマザコンですから(苦笑)

私の内的事情をもう少し言いますと、諍いがみみずさんとだけではなくて、もう一方でも進行中だったというのも大きかったのかもしれません。まあ、でも、それはいいわけにはならない。ご不快をかけて、まことに申し訳ありませんでした。

さて、ふたつめに移りたいんですが、引っかかったところがふたつ。これらは日頃私が行なっている社会批判とからむことなのです。

1. >あと、私は「女性学の学徒」じゃないですよ。
2. >ともあれ、私がここに来たのは間違いでした。

1.の方から。学問の民主化という観点から。

ここでみみずさんは謙虚に仰っているわけだから批判する謂われは何もないのですが、ただ、気になるのは「女性学の学徒ではない」という前提なんです。学徒=専門家という「枠」が前提としてあるんですね。私はこれが「偏差値の高い人」の弊害だと考えているのです。

今の日本を蝕んでいるのは専門家たちです。筆頭は官僚という専門家。有司専制です。かれらは国民を庶民だとバカにしている。国会議員ですら有象無象の代表くらいにしか考えていない。ここにあるのは「専門からくる奢り」でしょう。彼らはその専門性を保持するために不可解な役所言葉を弄したりする。

こういった現象が起こるのは、ひとつは個人の資質によるところもある。でも、システムの問題が大きいわけです。一定の手続きをパスすれば専門家として認定される。難しい試験に合格すると「専門家」。難しい論文を書くと専門家。それは確かにそういう側面があるのは事実ですが、だからといって、社会や学問は専門家のものではない。当たり前の話です。

その当たり前のはずのことが、なぜ疎外されるのか。それは私たちの中に無意識の「前提」があるからだと私は考える。実は私たち自身が疎外に協力してしまっている。それを「隷属」と呼んでいるわけです。学徒=専門家という「枠」もそのひとつだと捉えるのです。

2つめ。ここは自由/自在の問題に関係します。「絆」批判批判にも絡みます。

「ここに来たのが間違いでした」と言われても後の祭りなんですね。私のブログのこの記事を読んでコメントした。「出会った」んですね。出会いはもはや「絆」なんです。受け入れるしかないものなんです。

私たちはこれまで自由を求めてきました。今も求め続けています。理不尽な圧制から自由を求める。それは当然の権利です。

ですが、それが独り歩きするとどうなるか。より大きな自由を求めるために、自由を束縛するものを理不尽だと見なすようになるんです。私は「絆」批判の背景には、この大きすぎる自由への欲求があると感じている。同じことを何気ないみみずさんの言葉に感じてしまったりするのです。

自由を当然なものと考えるようになった我々文明人は、いつの間にか自然を「圧制」と見なすようになった。快適な文明生活を省みてみればいい。この快適さが当然とされる「前提」には自然な不快は理不尽という傲慢があるんです。これは、私たちが自然との「絆」なかでしか生きていけないという冷厳な事実を無視するところから出てくる。その挙げ句の果てが原発ですよね。あれは私たちの飽くなき自由欲求が生んだモンスターなんですよ。

私なら反省するのは出会いそのものではありません。出会いを生かせなかったことです。「絆」を自在とすることが出来なかったことです。こればっかりは自己責任です。

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