愚慫空論

【良心】ほど始末に負えないものはない

良心ほど始末に負えないものはないなどというと、始末に負えないのは悪心のほうだろうと考えてしまうのが一般的な反応だろう。

が、そうではない。それは、良心と悪心との間がキレイに線引きできると考えてしまうからだ。キレイに分離してしまって、良心は良い、悪心は悪いとしてしまう単純思考。人の心はそんなに単純ではない。人の心は良心と悪心とが入り交じっていて、そう簡単に分離することなど出来ない。

良心や悪心が立ち現れるのは、人が他者と関係性を取り結んだときである。

たとえば、目の前にたわわに実った果実があるとする。美味しそうだと手を伸ばし、実をもぎ取り、かじり付く。こうした行為自体に良いも悪いもない。自然な欲求に従うことは良くも悪くもない。
だが、ここに他者との関係性が介入してくると善悪が生じる。その果実は誰かが所有する果樹園に実ったものであった。そのように関係性を発見したとき、人はそこに良心や悪心を見出すことになる。

良心も悪心も、その時々の関係性によって立ち現れてくる分には問題もない。いや、社会生活のなかでは問題は生じるだろうが、個々人の心にとっては問題はない。だが、良心や悪心が固定化されてしまうと問題が生じる。私が始末に終えないというのは、固定化された良心のことだ。

(以下、固定化された良心、悪心を【良心】【悪心】と表記する。)

それでも、始末に負えないのは【悪心】だと考えるかもしれない。
確かに【悪心】は迷惑だ。しかし、大抵は始末には負えるのである。それは【悪心】が行為となって現れ、誰にでも把握できるから。個人で始末に負えなければ社会が始末をすればよい。社会には国家というものもあり、そこは合法的に暴力を振うことも出来る。【悪心」は排除することができるのである。

ところが【良心】はそうはいかない。だれもが良心は尊重しなければならないからだ。そうでなければ人間同士の関係性を維持できない。

なのになぜ【良心】は始末に終えないのか? それは誰にもあるはずの悪心を覆い隠してしまうからである。悪心を生じさせるような関係性を取り結ぶことを阻害してしまうからである。実際にそのような関係性が成立して他としても、そのことに気がつくのを妨げるからである。すなわち、【良心】は「認知コスト」を高騰させてしまうのである。

果実の例へ戻ろう。
果実を盗んだ者は、実はどうしようもなく腹を空かせていたとする。もしくは腹を空かせた子どもを抱えていたとする。

腹を空かせた子どもに食べ物を与えたいという心は、良心である。それは誰もが疑いはしない。しかし、それが【良心】となるとどうなるか。果実を盗むという悪心に気がつかなくなってしまうのである。

逆の例も考えることができる。
手塩にかけて育てた果実を盗難から守ろうという心は、疑いもなく良心だ。しかし、それが【良心】となるとどうか。空腹のあまり果実に手を伸ばしてしまった者を許すことができなくなる。

果実の例はわかりやすい。果実と人間の生命との優先順位は誰の目にも明らかだから。だが複雑な社会では、ものごとの順序をそう簡単に定めることはできない。そんな場では、悪心への気づきを阻む【良心】は極めて厄介なのである。

簡単に順序がつかない顕著な例は、最近ではいうまでもなく原発だ。推進派、反対派ともに拠り所は固定化された【良心】である。電力会社や官僚組織の権益も彼らにしてみればそれなりの理由があるのだ。その理由は、その関係性が生じた時点では間違いなく良心ではあったのだろう。それごく当たり前のことで、最初から他人を搾取することが目的でその職業を選ぶ者など、まずいはしない。その良心が固定化されて【良心】になっただけのことに過ぎない。

だが、その【良心】は他方からみればまごうかたなき悪心である。他人の権益を侵している事実が現に存在するにも関わらず、そこと関係性を取り結ぼうとしない姿勢は「悪」以外のなにものでもない。

とはいうものの、その「悪」は原理的に追求することができない。というのも、誰とどのような関係性を結ぶかはその者の自由であり、他人がそこへ介入することは不可能なのである。強制的な関係性接続は「洗脳」であり、それは人間性を剥奪することに他ならない。

では、このような事態にどのように対処すればよいのか。単純に考えれば答えは3つ存在する。

第一はイスラームのやり方である。人の自発的な良心も【良心】も認めないというやり方。全ては偉大なる神の御心のままに、であり、社会の優先順位はすべて宗教的に定められる。クルアーンやハディースといった良心の体系が厳として存在し、宗教者がその体系に従って優先順位を決定する。実に合理的なやり方である。

第二は欧米流の民主主義だ。これは良心も【良心】も認める。したがって、【良心】同士が〈闘争〉することを認めることになる。これは、キリスト教が政教分離を認めてしまったことから派生したものだ。

第三は、良心は認めるが【良心】は認めないというやり方。実はこれこそが古来の日本流。「和を以て貴しと為す」である。【良心】を認めないというのは、絶対神を認めず八百万の神になってしまうというところにも通じる。

上の三つを眺めても分かるとおり始末に負えない【良心】に対処する方法は、いずれも宗教的プラットフォームだ。他のやり方も存在するだろうが、どんなやり方であるにせよ、宗教的以外の方法であることには間違いない。

現代社会で主流なのは、第二の〈闘争〉型民主主義なのはいうまでもない。確かにこのやり方は優れている。というのも、経済はこのやり方で発展したからである。人類は自然に〈闘争〉を挑み、科学技術という武器を手に勝利を重ねてきた。結果、人類社会は物質的な繁栄を手にし、同時に資本が世界を席巻することを許してしまった。

この資本こそが最大の【良心】である。そして資本すなわち【良心】を許す社会では〈闘争〉も正当化されるという循環が生じてしまう。現在は政治も経済も現在は〈闘争〉の世界なのである。

分業化した貨幣経済社会のなかでは、貨幣を稼ぎたいという心は誰も糾弾することが出来ない紛れもない良心だ。だが、貨幣経済の一変種である資本主義経済では、良心は【良心】へと固定化されていかなければならない。そうでなければ〈闘争〉に敗北してしまうことになるからである。資本主義社会はその原理上、多数の敗者つまり弱者を生み出す。

弱者と関係を取り結ぼうとする人は良心を発動させ、弱者のために〈闘争〉を行なうと意図する。ところが〈闘争〉を継続しようとすると良心は【良心】とならざるを得ない。そしてその【良心】が、どれほど良心的な人であろうともかならず存在する悪心への気づきを阻む。最大の問題点は資本が【良心】であるということに気がつかなくなってしまう点だ。

〈闘争〉のプラットフォームでは、良心的な人も【良心】的に変化していかざるを得ない。結果、弱者を弱者たらしめている真因には目を背け、自身が【良心】的であるために弱者を利用するようになる。そのことへの自覚もなしに。醜悪である。

こうした事態から逃れる方法も単純に考えれば3つ。2つは個人的な方法。1つは社会的な方法だ。

個人的は方法の1つめは、【良心】へのサイクルを自覚すること。この自覚への道が「学び」である。
2つめは、サイクルを阻む「何者か」へ帰依すること。「何者か」とは、超越的な神や仏になる。

社会的な方法は〈闘争〉のプラットフォームを変革することだ。イスラーム流か日本流にしてしまうことである。だが、それを阻むのは、私たちが日々生きていく糧を入手する経済であるというジレンマだ。

私たちは、経済が破綻するまでこのジレンマから逃れることは出来ないのであろうか?


参考記事:『共同体社会の実現に向けて-2 ~実現論 序1. 近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機(上)』(日本を守るのに右も左もない)

コメント

面白いなー

と思って読んでいたんだけれど、案の定、途中で挫折www

果実の話はわかりやすくていいですね!
私のちっちゃな脳味噌でもよくわかりました。

後半はさっぱり理解できなかった(意見が違うのではなく、兄さんの主旨を読み取る脳味噌が私になかったw)のだけれど、兄さんはピュアな人やなあ、こむずかしくって気むずかしくって厄介なオッサンやけど、いい人なんやなあ、と思ったのが、この一文。

>最初から他人を搾取することが目的でその職業を選ぶ者など、まずいはしない。

いますって。
どれくらいの割合かはわかりませんけど、意識的に他人からの搾取を考えて職業選択する人の割合は、決して少なくはないと思う。

あれ、兄さんって、こんなにイノセントな人やったかな?と何か裏があるのでは、と思いながら読み進めたけど、後半は難しすぎてわからんかった。爆

少し不用意だったかな?

・みみずさん

う~ん、チクッと痛いところを突かれた感じ(笑) そんなに痛みが大きいわけではないが、鋭くて思わず反応してしまう。

えっとですね、ご指摘のところは、実はちょっと迷ったんです。どう書こうかと。で、あまり吟味せずにエイヤと書いちゃった。そんなところを突かれたもんで、アイタタタッと。

そうですね、大学なんかを出て、それも一流といわれるようなところを出る人ほど、そういった選択を意識的にする人の割合は増えるでしょうね。

でも、そんな人でももっと幼い頃に漠然と何かの職業に憧れを持つといったようなことはあったはずで、そんなときには搾取をしようなんて考えていなかったはず。ま、それもいないとはいえないけど、まず言えないだろうと。

ただ今の社会は、秀才ほどそういったイノセントなところを早々と捨て去ってしまうのですね。さっさと〈闘争〉に適応してしまう。しかし「適応」は決して悪ではない。大人はみんな「良きこと」として、それを子どもに求めるわけです。子どもはそんな「良きこと」の呪縛から逃れるにはよほどの天才か、もしくは「痛切な理由」が必要...、と、ここいらは別のエントリーの話に繋がってしまうのですが。

みみずさんの仰るとおり、私はそんな無垢な人間ではありません。むしろ【悪心】の人間です(笑)

それと、後半ですね。いつものことですけど、飛ばしすぎですね。最近は数少ないであろう読者様に理解してもらおうという意識も希薄になってしまって。

みみずさんにはどのように言えば通じるかな? 

【 】のなし良心ってのは、時限的といっていいかもしれません。もしくは儚い良心。たとえばドラマの中に出てくるキャラクターが示す良心。水戸黄門の良心とか。

対して【良心】は「理念」ですかね。「正義」といってもいいかも。お堅いんです。

日本人に限らず、だれもが良心は好きですよね。その場限りだったり、無責任でいられたりするというのもある。でも、それが【良心】となると義務を伴うものにもなる。人間ってのは狡い生き物ですから、自分でも知らずのうちに【良心】の純粋を保つために必要な義務を怠るようになる。たとえばお金持ちは喜捨しなければならないとかね。

おっと、余計に話がつながらないか(笑)

よこやりマジごめん

後半は市民(社会)運動への批判でしょ?、爆。
でなければブログで声高に主張することへの警告か?
ああ、このエントリーも主張してるなぁ、堂々巡りになっちまうか。はてさてブログってのは「良心」によって書くのか? それともいつしか【良心】になっちまうのか、、、それが問題だ、、なんちゃって。

タイトルの「【良心】ほど」・・・をおし進めていくと、心ほどやっかなものはない、、、になるな、てね。

生きておられましたか?

・毒多さん、お久しぶりです。

はてさてブログってのは「良心」によって書くのか? 

そうです。良心で書きましょうということです。

たとえば。そう、「水にありがとうと声をかければきれいな結晶になる」という記事を読めば、素直に「感動した!」と書けばよい。ニセ科学だ、教育上問題だ、なんかかんやケンケンガクガク、そんな【良心】はクソ喰らえ! ってことです。 爆!

後半は市民(社会)運動への批判でしょ?

こちらはマジに、そうでもあるし、そうでもないとも言えます。

肝心なのはプラットフォームをどうするか、なんです。そこを考えずに推し進める市民運動には私は批判的です。

ここでは3つの宗教的プラットフォームを示しましたが、そのどれが正しいかなんて誰にも言えません。それぞれに正しいとしか言いようがない。ですが、MacOSにウィンドウズアプリケーションを走らせようとする行為は悪でしょう? MacOSもウィンドウズも、それぞれOSとしては一長一短で、どちらが「正しい」なんて言えない。宗教的プラットフォームも同じ。でも、MacOSにウィンドウズアプリケーションは良くない。日本における市民運動とはそのような種類のものです。

でもでも、では、市民運動(アプリケーション)が悪かというと、それもまた違う。もしかりに原発廃止という成果が市民運動というアプリによってしか実現できないとしたら、OSを乗り換えざるを得ないかもしれない。ことほどさように、何が正しいかなんて簡単には言えないんです。

でもでもでも、私の意見としては、人類はもはや〈闘争〉型OSでは立ちゆかなくなってきていると思っています。民主主義OSはアプリがコンフリクトしまくる上に外部環境を食い荒らす。イスラーム型の堅牢だが自由度の低いOSか、日本型の自由度が高い替わりに繊細なアプリが要求されるOSか、どちらかに乗り換えなければならない。

とまあ、そんな主張です。

生きているのか死んでいるのか

生きてオラれましたか?という問いには、生物学的には生きていたが、思索しないということでは死んでいたと答えておきます。思索なぞほっといて、環境によらず、経済的不安にくじけず、それでも「良心」のおもむくままに気楽に生活していたという面では生きていたといえるかもしれません。ブログ上死んでいたのは、巡回ブログにみられる【良心】の応酬にウンザリしていたのかもしれない、と、このエントリーを読み、言い当てられた気になり、いたく感動したためで、そのてんは感謝。

市民運動を出したのは、これまで長い間それでやりとりし、すれ違うことが多かったということで、もちろんここの市民運動とは「闘争」というプラットホームが前提の「現」市民運動です。「よこやり」(愚樵さんのほうが先にレスしてしまったのですが、、、暇かよ!?。笑)したのは、みみずさんが解らないと言ったから市民運動で考えれば解りやすいのではないかと思ったからで、でもまあ、みみずさんへのよこやりというよりは、ワタシの理解なのだけど、、、、、

環境がどうであれ、自分(個人)が楽しく生きられればいいじゃん、、、というのはおいておいて、社会がなければ息さえできないという前提で、社会環境のマズイ部分は変えていかなければならないとするときの、そのアプリのひとつが市民運動であるとして(別に市民運動でなくてもいいのだけど)、で、そのOSの問題ですね。ほんとワタシも【良心】による「闘争」OSにウンザリしていたのだと理解したので、OSを再選択するのは賛成ですね。絶対正しいってイスラーム型は全ての人の納得がいかずダメでしょう。民主主義「闘争」OSってのも現実に限界がみえてますね。
で、「折り合い」ね。いいですよ、賛成いたしやしょう。(ワタシが神になれるならイスラーム型でもいいんだけど、まあそこにも折り合いをつけてさ)
これまでの歴史に折り合いをつけて、贅沢に折り合いをつけて、生きることに折り合いをつけて、、、いいねぇ。ただOSの変換ってのは、マカーがドザにならず、ドザがマカーにならないってか敵対しあうのを考えると、長い長いはての希望になりそうですがねWW。

最初から他人を搾取することが目的で「生まれてくる」人はいない、、、、ってことは正しいでいけば、教育が大切になりそうだね。とはいえ教育も環境次第なのだから、今変わらなければ教育も変わらないわけで、、、、
アレによってOSが変わるってほど、現OSは軟弱なものでなし、汚染にも滅法つよいときている、、、、さらに、民主的な闘いで打ちのめされたらそれまでだしねぇ、、、、困ったものだ

ヒントをありがとう

なるほど、ふむふむ、と兄さんたちのコメントを読んで本文に再チャレンジ!しましたが、やっぱ後半でオーバーヒートwww

でも、ちょっと私なりに掴めたのは、樵兄さんは「理念」とか「正義」とかだと書いてはったけど、私は「常識」と置き換えたら、ちょっとすんなり頭に入ってきました。良心というよりは「これこそ良きもの」といった価値観というか。資本主義における「お金を儲けることは誰もが目指しているものだ」といった前提というか。

>もっと幼い頃に漠然と何かの職業に憧れを持つといったようなことはあったはずで、そんなときには搾取をしようなんて考えていなかったはず。

ほほお。自称「悪心」の人だけど、やっぱいい人だー。
少なくとも、私が想定していた「愚樵兄」よりはwww

>最初から他人を搾取することが目的で「生まれてくる」人はいない

という毒兄には、半分だけ同意。

だって、漠然と職業に憧れを持つ幼い子どもたちが言うんだもん。
「お金持ちになりたい!」ってね。
で、「ケーキ屋さんになって、ケーキをたくさん食べたいです」
それって、商品の搾取やんけー!!爆

というわけで、子どもの頃から搾取への願望はプログラムされているというのが、私の出発点だったりします。
生まれた時から愛情なりおっぱいなりを「搾取」しないと生きていけないし。

毒兄が「市民運動」と捉えたのは、なるほど、らしかねー、と思いました。私はもっと個人的なことを想定しながら読んでました。宗教上のプラットホームに関係なく、心理学的な「ハイヤーセルフ」「超自我」的なものというか。

うわ、うちのイノセントなムスメwが邪魔しに来たので、また改めてー!

もうちょっと!

・毒多さん、もう少しで私が言いたいところへ届きます。

ただOSの変換ってのは、マカーがドザにならず、ドザがマカーにならないってか敵対しあうのを考えると、長い長いはての希望になりそうですがね


そうそう、そこがキモのところです。

日本人の場合、そうしたOS転換が試み始められたのは明治維新移行のことになります。富国強兵・和魂洋才といった掛け声のもと、トップダウンで行なわれてきた。でも、なかなか上手く進まなかった。弾みがついたのは日清日露での勝利ですが、それでもなかなか深くは浸透しなかった。効果が現れてきたのはごく最近、都市ではバブル、地方では過疎がどうしようもなくなってきた頃から。みんな「金儲け」になっていった。労働は「稼ぎと仕事」だったのが、「稼ぎ」一本槍になってしまったからです。

でも、それでもまだ日本人は日本型OSから脱却し切れていない。日本の民主主義の機能不全はその現れです。完全なOS転換はたぶん、日本語を棄てなければ実現できないだろうと思います。逆に言うと、日本語を棄てれば出来てしまうということですけど。

日本型OSを欧米型OSへと転換させていった最大の武器は資本です。資本主義経済なんです。ということは、この武器を武装解除することが出来てしまえば、日本は案外すんなりと再び日本型OSへと復帰する。日本型は【良心】を認めませんから。現下の状況では認めざるを得ない。毒多さんも実感されていると思いますが、あらゆるところがカネに縛られていて、身動きがとれない。「和を以て」なんていったって、それこそカネがなければどうしようもなく、結局「カネを寄こせ!」と闘争するしなかい状況ですよね。

でもここを解除できれば、未だに根強い「和を以て」が甦ってくる。ま、これは私の願望でしかないのかもしれませんが。

じゃあ、そんな解除はどうしたらできるのだということになりますが、それは前エントリーの内容と繋がるんです。

金利とは、通貨の信用によって自発的に形成される需給調整ネットワークの使用料

です。私たちは金利を支払わなければならないものだと思っていますが、それは良心ゆえにです。労働者である私たちは、労働の成果である貨幣を借り受けるには謝礼は当然だと考えている。でも実体は「無」から創造された通貨に謝礼を支払っているに過ぎない。なぜそんなことに気がつかないかというと、良心が【良心】になってしまっているから。つまり、私たち労働者自身が、労働の成果で得た報酬はいつまでも減価しないで欲しいという悪心を抱いているからなんです。その悪心を【良心】が隠蔽してしまっている。その結果として、必要のない謝礼(=ネットワーク使用料)を自発的に支払ってしまっている。

ということは、私たち自身が自身の悪心を見つめ直すことが出来さえすれば、余計な金利を支払わなくて済むネットワークが構築できてしまうということです。現下はネットワークが〈闘争〉型になってしまっていますが、イスラーム型や日本型への設計変更を出来る可能性が見えてくる。

どうですか? 道筋はみえますか?

なお、本日は晴天なりですので、ヒマではありません(笑)

ちょっとだけ

・みみずさん

おおかたのところは毒多さんのところで答えたしまったので、みみずさんにはちょっとだけ。

だって、漠然と職業に憧れを持つ幼い子どもたちが言うんだもん。
「お金持ちになりたい!」ってね。

それはそれこそイノセントに、言ってるだけじゃないかぁ。おカネが搾取するものとは知らずに。

実態は私もよく知りませんが、伝え聞くところによると、昨今の若者はバブル世代に我々に比べるとずっとカネ・モノへの執着心は低いらしいですよね。そういや昔(30代)、私が家庭教師なぞしていたころ、中学生くらいのガキもそんなことを抜かしてやがったっけか。その年頃になるとさすがにイノセントではないけど、でも、その年頃だと何になりたいのかよく分からないというところが実際で、「金持ちになりたい」はその埋め合わせのような気がしていました。

埋め合わせだからといっても問題ですが。

しかし、ある意味可哀想ではあります、今の子どもたち。搾取するかされるかしか、見聞きしていないということですから。家庭のなかで贈与されるのは子どもにはあたりまえですから見えません。見えるのは、家庭の外の社会でしょうが、そこは完全に貨幣経済ですからねぇ。昔みたいに、近所のおばあちゃんがおやつをくれたりとか、ないんでしょうねぇ。

今日もヒマです。

天候に関わらずヒマなんですが、、、ちょっと【実生活】への危機感。
前のエントリーは孫とかロスと金利とか小面倒くさそうな名前が見えたのでスルーしていましたが、ヒマに任せて読んでみました。で、、結果、みみずさんと同じく、アカン、、わからん、、、、でした。
どうも金の話になるとまず嫌悪感が走り思考停止するのが問題なのかもしれません。でもこの嫌悪感のことを言っているのか?と思ったり、、、嫌悪感は【悪心】(【良心】への裏返し)への予防線かと思ったり、、、、やはり、すべてのOS使用者が【良心】【悪心】を認知し見つめ直すことが可能なのか?と思ったり、、、、
具体的にはどうなるのか、、、をイメージできないのが問題なのか。
どうも視野狭窄かもしれないな。
このエントリーも前半の果物の部分は解りやすかった、後半は市民運動(闘争ベース)に置き換えたことで理解した、、、、というように、具体的にイメージできる話は解りやすいのだけど、スケールの大きな話は理解しにくいのかもしれない。OSを変換するのは貧弱なイメージの範疇を超えている。かな。

せっかくですから

・毒多さん

せっかくですから、もう少しだけトライしてみませんか?

でも、OSのたとえ話なんか、かなり抽象的な話なんですけどね? 

どうも金の話になるとまず嫌悪感が走り思考停止するのが問題なのかもしれません。

やっぱりここかな(笑)

【陰謀説】でいう〈帝国〉は〈 〉を取り除いて、そのまま帝国と考えてみてください。帝国には領土があって、領土内の経済活動から税金を召上げる。その領土がスマートグリッドで税金がネットワーク使用料なのが「孫帝国」ですね。

「ロスチャイルド帝国」は、領土が市場です。税金が金利。

どうですか?

あとかくしの雪

日本昔ばなしでは私が一番好きな話なのですが、

あるところに、何ともかとも貧乏な百姓がひとり、住んでおった。
ある冬の日のもう暗くなったころに、ひとりの旅人が、とぼりとぼり雪の上をあゆんできて、『どうだろうか、おらをひとばん、とめてくれるわけにいくまいか』というた。
百姓は、じぶんの食べるもんもろくにないぐらいのもんだったが、『ああ、ええとも。おらとこは貧乏でなんにもないが、まあ、とまってくれ』
というと、旅びとは、『そうか、それはありがたい。おら、なんにもいらんぞ』というて、うちにあがった。
けれどもこの百姓は、なにしろなんともかともびんぼうで、何ひとつ旅びとにもてなしてやるもんがない。
それで、しかたがない、晩になってから、となりの大きないえの大根をかこうてあるところから大根を一本ぬすんできて、大根やきをして旅びとに食わしてやった。
旅びとは、なにしろ寒い晩だったから、うまいうまいとしんからうまそうにしながら、その大根やきを食うた。
その晩さらさらと雪はふってきて、百姓が大根をぬすんできた足あとは、あゆむあとからのように、すうっとみ
んな消えてしもうたと。

この日は旧の十一月二十三日で、今でもこのへんでは、この日には大根やきをして食うし、この日に雪がふれば
おこわをたくもんもある。

水に流す。

・宗純さん。しみじみと、いい話ですねぇ。しかも、当エントリーにぴったりのお話。ありがとうございます。

う~ん、それにしても宗純さんからこの手のお話がでてくるとは。ちょっと驚きです(苦笑) 人間は一筋縄ではいかない(笑)

これは日本人が大好きな「水に流す」話ですね。昨今、ハーバードの真似をしてか「正義」について侃々諤々やることが流行のようですが、マイケル・サンデルがこの話を聞いたらどう講義するだろうと考えてしまいました。きっと「さらさらと降ってきた雪」の意味を考えたりはしないでしょうね。

こんにちは

はじめまして。
良心と偽善は私も常に興味を持って接する命題です。
とても興味深く読ませていただきました。
ちょっと気になるところがあったのでコメントさせていただきましたがどうかお気を悪くされないようお願いします。

イスラームでは【良心】は厳禁、でも本来の良心を否定はしてません。良心は神様が人間に与えた性質の一つとされています。良心によって成された行動はたとえその時良い結果が得られなくても失敗とは考えられず、廻りまわって報われるとまで教えています。しかし【良心】の行動はどんなに成功してもいずれ瓦解する、実際そうです。
日本でのイスラム解釈はかなり誤解があります。なぜってイスラム社会とは石油がらみでしか接していないからです。欧米で悪意でかかれた研究書を鵜呑みにしてるだけなんですから。また、レバノンやサウジのような国の【良心】的なムスリムが欧米人と結託してイスラームを貶めているのです。

イスラム法の中でこんな細則があります。

ある金持ちが貧しい人に金貨を一枚与えました。

また、別の金持ちが別の貧しいものに貸していた金貨一枚分の借金を棒引きにしてあげました。

(裕福な)イスラム教徒の責務とされる「喜捨」と認められるのは前者のみ、後者は喜捨とまではいえないが「善行」として認められます。
資本主義の感覚ではとてもついていけない話で、イスラームの本質を垣間見せるいい例だと思っています。

コメント内容がエントリーとずれていそうなので削除して下さって構いません。おまかせします。

これからの記事もぜひ期待しております。

心は誰のものなのか

あやみさん、はじめまして。コメントありがとうございます。

私の方も最近になってからあやみさんのブログを訪問させてもらっています。素晴らしい内容で、興味深く拝見しています。

さて、コメントへのお答ですが、まずはじめに申し上げたいのは、私はイスラームのファンだということです。私自身はどうしようもなく日本人なので到底ムスリムにはなれませんが、もし絶対神に帰依するとするならば断然イスラームです。それも「イジュティハードの門」が閉じられていないシーア派です。

というようなわけですから、イスラームに好意的なご意見は大変嬉しいです。

イスラームでは【良心】は厳禁、でも本来の良心を否定はしてません。

私は実は、本分では議論の前提とするべきところを省略してしまっています。もとより私はムスリムが良心を保持していないなどと言うつもりはありません。そんなことは言うまでもないことです。問題は、その良心は誰の所有に属するかということです。

私たち日本人は、心は無条件に個人の所有に属すると考えています。何か不祥事があったようなときに、日本人は「まず、謝れ」となりますが、これがその証左でしょう。

クリスチャンも心は私有と捉えます。ただしそれは「神から与えられたもの」です。欧米で正義についての議論が好まれるのも、そのためです。正しい神の御心が存在し、しかも「わが心」がそれとは別個に存在する。そのように前提しなければ正義についてあれほど関心を持つわけがない。正義とは、御心に沿うための心の指針とでも言えばいいでしょうか。

これらと比較して、ムスリムは心を私有と捉えていないのではないのかと私は感じるのです。ムスリムとてもちろん心は保持しているわけですけれども、それは「アッラーから貸し与えられたもの」。クルアーンやハディースは、その使用説明書のようなものではないのかと思っているのです。

真に神を偉大であると帰依するのであるなら、神の意志とは別個に「良心」なるものを人間が所有していると捉えることは、神への冒涜になるのではないか。もし人間が正しく良心を保持しているとするならば、それは神から貸し与えられた心を正しく使用しているだけのことであって、人間がそもそも「良心」なるものを所有しているのではない、ということ。

人の自発的な良心も【良心】も認めないというやり方。

というのは、そのような意味なのです。ムスリムはそれほどに強くアッラーに心惹かれている人々ではないかと思うわけです。

もっとも、そうした解釈が正しいのかどうか、イスラームの神学あたりで心がどのように解釈されているのか、私は知っているわけではありません。イスラームについての知識を少しばかり取得するなかで、私が独自に解釈したに過ぎません。トルコにお住まいのあやみさんからは奇異に感じられるかもしれませんね。

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