愚慫空論

学びへのふつうの理由・痛切な理由

 『学ぶ力』(内田樹の研究室)

私はこの文章にいかにも教科書的な、いささかノーテンキな文章という感想を持った。

 「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
 この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。


なるほど、これは道理ではあろう。しかし、痛切感に欠けるのである。子どもに対して「痛切な自覚」を求めているにも関わらず、この文章には痛切さが感じられない。中学生がこんな文章を読んで、果して「痛切な自覚」など持ちうるものなのか?

子どもであろうと大人であろうと、人間は学ぶ。学ぶ理由を持つ。人間は社会的な生き物であり、常に社会適応への圧力がかかる。社会への適応が不十分な子どもはもちろん、社会は常に変動するものであるから大人にだって適応圧力はかかる。ことに現代社会は変動が大きいので、大人への適応圧力は子どもに劣らず(もしかしたら子どもよりも)強い。

もし大人が子どもに「学ぶ力」を身につけさせたいと願うなら、もっとも確実な方法は大人も学び続けている姿勢を子どもに示すことである。凡庸な言い方だが、大人は誰もが子どもの師でなければならない。無知の自覚を持てなどと説教を垂れることではないし、そんな説教師を子どもが師と仰ぐことはない。

しかし、これは学びへのふつうの理由である。痛切な理由はふつうとは全く異なる。
この違いは『ソーシャルブレインズ入門』で提示されている「認知コスト」という概念で説明できる。

人間がふつうに学ぶ理由を持つのは、認知コストを軽減するためだということができる。人間の脳はチンパンジーと比較して四倍の大きさがあるらしいのだが、血流を測ると2倍にしかならない。つまり、人間の脳は常にエネルギーが不足気味の状態に置かれている。そんな脳にとっては、コストを節約するというのはかなり切実な問題であるらしい。

人間は習慣というものをもつ。習慣はなかば無意識的な行動だが、考えずに済むためにコストは低くて済む。社会のルールも同様で、ルールに従って行動している限り余計な思考はしなくて済む、つまりコストを軽減できるのである。

学ぶ、考えるという営為には大きなコストが必要だ。社会について、ルールについて、自然について学ぶ。学びを勉強と呼び表すように、そこには大きなエネルギーが必要とされる。しかし、その目的はふつうの場合、認知コストを軽減するためである。学びを重ねることで環境への適切な適応を行なってコストを軽減する。すると「楽に生きる」ことが出来るわけだ。何のために学校へ行き、競い合って勉強するのか。「楽に生きるため」というのが偽らざる本音だろう。

秀才とは、ふつうの理由による学びに秀でた者のことである。
 (『秀才について』:内田樹の研究室)

だが、学びへの痛切な理由は180度異なる。

本当に無知な者は己の無知を自覚することはない。人間はある程度の知の体系を構築できてはじめて、己の無知を自覚できるようになる。「痛切な無知の自覚」とは、既存の知の体系を無効だと敢えて思いなすということだ。既存の体系を構築するのには大きなコストを支払ってきたはずだが、それは放棄して新たに大きな認知コストを支払う構えがある。「痛切な無知の自覚」とは、この構えのことである。

人間は、何らかの理由でそのような「構え」をもつことがある。それはまったく認知コストの観点からすると全く非合理的であり、ゆえに理由を合理的に推測することは不可能。そして、それは尋常なことではないのである。

『ソーシャルブレインズ入門』には、新たに大きな認知コストを支払うことがどれほどの負担となるかを示す例が2つ示されている。その2つは有名な実験、ミルグラム実験とスタンフォード監獄実験である。

 ミルグラム実験
 スタンフォード監獄実験

ミルグラム実験が示したのは、人間は残酷なまでに権威へ服従してしまうものだということだ。権威は認知コストを軽減するための方法であり、権威への服従は認知コストの観点からみれば合理的であると考えることができる。しかし、その合理性がいかに強固なものか。人間にとっては己が他人に苦痛を与えているという良心の痛みよりも、権威に従って認知コストを軽減することの方が切実な問題なのである。被験者が良心の痛みから解放されるには、権威という認知コスト軽減手段を放棄してあらたに認知コストを支払う必要があるのだが、良心の痛みと認知コストとが釣り合う比率は、想像以上に認知コスト側に偏ったものであった。

スタンフォード監獄実験でも、同様の結果が示されている。この実験では、もともと平等な者たちが与えられた社会的な役割の違いで抑圧者(看守)と非抑圧者(囚人)へと自然に変貌していくことを示した。社会的な役割もまた認知コスト軽減手段だが、その合理性が人間を容易に非人道的な存在へと変えてしまう。非実験者達の変貌ぶりは実験者の想像を超えて非人道的なものになってしまった。そのため予定は切り上げられ実験を中止となったが、驚くべきは、看守の役割を与えられた者は実験中止を強く抗議し、しかも囚人役がその抗議に異を唱えることがなかった事実だろう。

これらの事実を踏まえるなら、痛切な無知の自覚を持て、すなわち過大な認知コストを支払えと要請することは、非人道的ですらある。そのような要求は、場合によっては人間を非人道的な存在へと変えてしまう。

人間は何らかの理由で、痛切な学びへの理由を持つことがある。その理由は認知コストの概念によっても説明ができない。 人間は不合理な存在であると言うしかないないのである。

私がノーテンキを感じるのはここのところだ。痛切な無知の自覚を持てと要求するのは、不合理な存在であれ言っているに等しい。確かに人間は不合理な存在であり、そのことは事実として認めなければならない。だが、そのことと、主体的に不合理であれと要請することとの間には大きな隔りがある。その隔りは、「痛切な無知の自覚を持て」だの「師を持て」だのといった、一般的な言辞では埋めることができない。個別的な「痛切な言葉」が必要なのである。

断わっておかなければならないが、私は内田氏の『学ぶ力』の文章に価値がないと言いたいわけではない。道理は通っているし、文章としての完成度も高いと思う。一般的な価値は高いのだが、そのことが逆に問題だと言いたいのである。「痛切な自覚」という不合理な領域へと踏み込んでいく場合において、一般的な完成度の高さは美人という以外に特徴のない女性のようなもので、魅力的なようでいて案外記憶に残らないものだ。

不合理な説得力を持たせるには、突き抜けて個別的でなければならない。しかしそれは、社会という集団で生きていかざるを得ない人間にとっては危険なことだ。内田氏の文章がノーテンキなのは危険な香りがしないこと。その意味で教科書的なのである。

「痛切な無知の自覚」を持てといったような危険な要請は、公的に行なわれてはならない類のものだ。そうした要請は私的な場で行なわれるか、もしくは個々人が実在・過去・架空の人物から個別に受け取るしかない。公的な「危険な要請」は公的になった時点で危険が解毒されたものになってしまうし、もし仮に解毒されずに受け取られてしまうと、公的に危険を認めたことになって本当に危険なことになってしまう。

コメント

いつも認知コストの軽減に手をお借りしてます

確かに、「私は学びたいのです。愚樵様、どうか教えて下さい」と
いうとき、私は認知コストを削減させて頂いています。

一人で模索していたら、随分時間の掛ることを早々納得して(楽になって)次に進めるのですから。

ネットを通じて、このような知識の流動が可能になるということは、
知の伝授が「人の生きる」という本質と深くかかわっているような気がします。
ですから、これは普通のナチュラルなことであって、特段な、
つまり「痛切な」ものである条件ではないということですね。
(愚樵様のご好意を当たり前などと考えているわけではありませんが。)

内田先生は、教科書に載せるためにお書きになったので、
教科書的でいいわけですが、私も読んでいてあまりいい気持ちがしない
ところがありました。その訳を愚樵様のようにきちんと解き明かすことは出来ませんが、
「吾輩を尊敬せよ」的な匂いを感じたのかも知れません。

ただ、今の世、そう云える人が少なくなったので、ある意味、「頼ってもいいよ」と
いってもらっているようで、頼もしくもあり、貴重でもあると思えます。

それは少々危ういですね(苦笑)

・amerieさん、返答が遅くなって申し訳ありません。

まず申し上げおきますが、私の言説に従って認知コストを削減するのは危険なことだと承知しておいてください(苦笑)。 といいますのも、別のところでも記しましたが、私は社会への適応性に欠けていて、それを承知のうえで敢えて「空論」を組み立てているのです。ですから必然的に私の「空論」は社会とは適応しないものになります。しばしば宗純さんが私を批判することになるのも、理由はそこのところにあります。

まあ、といって、宗純さんの言説が100%社会に適応しているとは思ってませんが(苦笑)

「吾輩を尊敬せよ」的な匂い

年長者が年少者に向かって、尊敬を要求するのは自然なことです。それは長幼の序といった古くさい格言を持ち出すまでもなく、

知の伝授が「人の生きる」という本質と深くかかわっている

からです。知が年長者から年少者に向かって伝授されるのは当たり前のことであり、それが人間の生の本質に関わっているのであれば尊敬に値するのもまた当たり前。
哀しいことに、現代社会は昔ながらの知の伝授の秩序は崩れてしまっていますが。

ですから、これは普通のナチュラルなことであって、特段な、つまり「痛切な」ものである条件ではないということですね。

その通りです。「師を持つ」ということはふつうのことなのです。それがふつうでなくなったということであり、そしてそのことはこれから学び始める子どもに何らの責もないことなのです。内田氏はそれを「痛切な理由を持て」と子どもたちに責任転嫁をしてしまっている。

確かに、現在の子どもたちはふつうに学ぶだけで終わってしまっては「学び」が足りないということはあります。現代の社会はもはやふつうの「学び」だけでは維持することが出来ません。私はそう思っているし、内田氏もそのように思っているはずです。社会を維持するにしても、崩壊する社会でサバイヴするにしても、ふつうでない「学び」が必要。ですから、「痛切な理由を持て」というのは正しくはあります。

しかし、大人はそれを子どもに要請するよりも先に、そのような社会を子どもに与えてしまった罪を詫びなければなりません。

「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」

などと偉そうに子どもに向かって説教を放つこと自体、大人である自らの罪に対しての「痛切な自覚」に欠いています。私たちは、子どもたちに、

「私たち大人がふつうには教えることができないものを、どうか痛切に学んでください」

とお願いしなければならない立場にあるのです。

そのことは、社会を少し見渡してみれば感得できますよね。原発事故による放射線被曝・食品汚染、強欲資本主義による社会の疲弊。このような状況のなかで身を処していくのにふつうの「学び」では事足りないのは明らかです。

しかし、大方の大人はその自体に気がついていません。これも認知コストのなせる業でしょう。正常化バイアスとも言いますが、薄々感じていても認めたくないのですね。だから、子どもにもふつうの「学び」を強いてしまう。それから比べると内田氏はまだ良心的かもしれません。

いや、もしかしたら、内田氏は卑怯なのかもしれませんね。「大人の罪を痛切に認める」などという言説は危険な領域に入りますが、内田氏の主張程度では、ぎりぎり安全圏ですからね。

どうりで最近頭の血流が増えてます

I got it!
私のような呑気な者でも、3・11以来、頭をフル稼働させて多少とも認知コストを支払っているのは、
まさに、今が「有事」だという証拠です!

それにしても、小出氏(と彼のグループ)は違いますね。長年、コストを維持し続けて
くれたわけですから、私たちは感謝してそれに応えなければなりません。

楽になろうとばかりしていてはいけませんね。この経験で、人間は進化するのでしょうか?
(しなければ、衰退です)



私は進化すると思っています

・amerieさん、おはようございます。

私は進化すると思っています。理由は簡単で、仰るように進化せざるを得ないからです。
(厳密には、理由になってませんが(笑))

問題だと思っているのは、その犠牲がその程度の大きさになるか、です。最悪、進化のために人類のほぼ全て並びに他の生物種のすべてをその犠牲に捧げなければならないかもしれません。

そのようになってしまうと、残された者には生存のために協力して、すなわち〈おりあい〉によって生きていくしかなくなります。〈おりあい〉しか選択肢がなくなるということですね。

そのまえに、みずからの意志で〈おりあい〉を選択したい。そんなふうに思っています。ですが、この考えは〈闘争〉が基調の社会では危険な思想なのですね。

こちらに書いても構わないのでしょうか?

>私たちは、子どもたちに、
>「私たち大人がふつうには教えることができないものを、どうか痛切に学んでください」
>とお願いしなければならない立場にあるのです。

愚樵さんの上記の説も、近代の子供と大人の関係を前提にしたものですよね? そもそも近代における子供の発見、すなわち子供/大人の区別と子供の教育の必要性(義務教育の誕生)が前提になっているわけですよね? 近代以降、子供は、大人になる前段階の存在であり、未熟なものとされました。学校は、そんな子供が学び、大人になるための教育の場です。当然「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というのも前提が同じでしょう。

ほら、私たちは、いつの間にか、子供と大人という言葉をこのように使っているのです。近代以前の用法で言うならば、子供だから学ぶ必要があることはありません。一人前の○○(大工、料理人等)になるために学ぶ・修行することはあります。大人が子供に学んでほしいと考えることはないのです。ちなみに、これは愚樵さんだけの問題ではありません。自分も含めて、提示された主張が前提するものを疑いもせず、そのまま使ってしまうのです(これが思考の枠組みの限定の一つです)。

さて志村さんのところでの話の解答は、ふつうの学びでは足りないのに、ふつうの学びを強いてしまうということ。認知コストの問題、正常化バイアスの問題がその原因であるということ、ですよね? これは私の主張とベクトルは同じと解釈します。

そして「私は進化すると思っています。理由は簡単で、仰るように進化せざるを得ないからです」が解答ですよね? 〈闘争〉が基調の社会を、みずからの意志で〈おりあい〉を安全に選択できる社会にしたいといるところでしょうか? ちなみに私は進化できないと考えます(愚樵さんと同じく直感です)。

最後に、引用部分について述べて終わります。近代社会では子供の教育を学校教育に任せることは当然ですが、日本においては全ての教育が学校に丸投げされるようになってきています。そして教師は、教科しか教えることができなくなりつつあります。だから大人が子供に教えるという前提そのものが、破綻しつつあるのではないかと思うのです(認知コストの問題以前の話です)。ならば大人が子供に教えるということを止める、すなわち開き直って、学校は勉強し校則を守る場だと徹底する(子供の義務として強制する)。それしかできないのではないかと思うのです。そもそもふつうにしか教えられない大人は、それを認識していないのであり、認識していないことを教えることはできないのですから。

もちろん愚樵さんは、わかっていて書いているのかもしれません。しかし愚樵さんは良いとしても、愚樵さんを支持する人々はいわゆる愚樵哲学を金科玉条として守っていくし、反対する人々は愚樵哲学を前提に批判していくでしょう。愚樵哲学に思考の枠組みを限定されてしまうのです。愚樵さん個人に対することではなく、むしろ人間という集団の思考の枠組みは限定されてしまうということです。

三河屋彦衛門さん、ようこそおいでくださいました

私は志村さんのところで三河屋さんの文章に触れたときに、ある部分では私と同じような考え方をする人だと感じました。

人間という集団の思考の枠組みは限定されてしまう

ええ、大部分の人間は。そして大部分の人間はそのことに気がつきすらしない。しかし少なくとも、三河屋さんは気がついているし、私も気がついている。

愚樵さんの上記の説も、近代の子供と大人の関係を前提にしたものですよね?

いえ、それは私が前提したのではなくて、内田樹が前提したのです。そして私が内田批判をする以上は、その前提を受け入れる必要があるでしょう? そうでなければ話は通じない。その必要があってするだけのことです。

ちなみにいうと、私は近代の、というより西洋の大人/子どもの区分を批判的に視ています。現在はその視座がスタンダードではありますが、ずっとそうだったわけでもないし、これから未来永劫そうだとも限りません。近代以前の日本ではそのようには視なかったのは事実ですし。

話を戻しますと、私と三河屋さんの違いは「人間が枠に限定されるもの」という事実にどう向き合うかの姿勢です。三河屋さんは、志村さんのところでもそうでしたが、

ほら、私たちは、いつの間にか、子供と大人という言葉をこのように使っているのです。

と、このような姿勢です。この姿勢は、他に例をあげるなら、非力な女性に生まれてしまった人が力仕事ができなかったからといって「ほら、結局、あなたは女でしかないんだよ」と言い放つようなもの。確かにそうした指摘は事実ですが、その言葉からは何も生れはしない。そう、三河屋さんからはニヒリズムの臭いが強く漂うのです。

三河屋さんは、志村さんのところで、「資本のルールは間違っていると主張しても、洗脳が解けていない多くの人間からすると、頭がオカシイとしか思われない」と仰っています。私はそんなことは百も承知です。その証拠に、こちらにコメント頂いているamerieさんに対してですが、

まず申し上げおきますが、私の言説に従って認知コストを削減するのは危険なことだと承知しておいてください(苦笑)。 といいますのも、別のところでも記しましたが、私は社会への適応性に欠けていて、それを承知のうえで敢えて「空論」を組み立てているのです。ですから必然的に私の「空論」は社会とは適応しないものになります。

というようなことを申し上げている。これは三河屋さんへのお答にもなるはずです。

私が「そんなやわな思索をしているつもりはない」と申し上げたのも、ここが根拠です。私は別に誰かを洗脳しようと意図しているわけではなく、ただ、私が言いたいことを言いたいだけのこと。言いたい「痛切な理由」があるだけのことなのです。もちろん「単に言いたいだけ」以上の理由もあります。それは「私の言説に従って世界が健やかになる」という大それたものですが、そこと「単に言いたいだけ」との優先順位は見失いません。

といったようなわけで、三河屋さんのご意見は私にはよく届きますが、そのことで私は何ら動揺することはありません。私が三河屋さんにもっとも申し上げたいのは、このことです。

強者になれ?

愚樵様、はじめてコメントさせていただきます。
『逝きし世の面影』のコメント欄でお目にかかりました湧泉堂と申すものです。

観客同士の場外乱闘は宗純先生のご迷惑になるので、こちらに書かせていただきます。ご無礼のほど、お赦しください。
他でもない内田樹先生についてです。

私には、内田樹先生の言説が「強者の“餌食に”なれ!」というメッセージに感じられます。

内田先生が弱者に対して『強者になれ!』というメッセージを発しているというなら、それは、全国の高校生に向かって、『石川遼になれ!』と言ってるようなものでしょう。
高校生でも石川遼のようになれば、一億円稼げるぞ! 弱者でも、強者になれば、権力も財産も手に入るぞ!…ムリです。
内田先生自身が強者であるからといって、強者になる方法を正しく伝授するとは限りません。

滅茶苦茶強い武術の師匠が、弟子に正しい術を伝授するとは限りません。弟子が自分より強くなったら困るという師匠もいるからです。
達人が自分の術の強さの理由を正しく理解しているという保障もありません。名選手名コーチにあらず。
弟子が師匠と同じ練習をしたからといって、師匠のようになれるとは限りません。持って生まれた資質が違うからです。
弱者が内田先生の仰ることを実践していたら、強者にいいように毟り取られるだけだと思いますよ。

感謝もされず、対価も支払われない「センチネル」の仕事を賞賛するのは、『強者になれ!』というメッセージですか?
大した能力も魅力も無い弱者は、自己犠牲の精神を発揮して滅私奉公で「センチネル」の仕事でもやっとれい!
そいういことではありませんか?「センチネル」は強者ですか?

また、ただ弱者の味方だからといって正しいということにもなりません。『邪悪で陰険で残酷で愚昧な』弱者の味方だっていますからね。

大企業の本社に爆弾を仕掛ける者は弱者の味方ですが、間違っています。

誰の味方かどうかではなく、一方的に強者に利する言説だと言っているのですよ。

合成の誤謬というものがあります。部分はすべて正しいのに、全体の構造としては間違っている状態。
個人の道徳として質素倹約は正しい。しかし世界中の人が質素倹約に励めば、経済は低迷し、拡大再生産が成立しなくなり資本主義が終了します。

内田先生は、説明しなければいけない全体の要素が10あるのに敢えて5しか説明しない。
説明されたその5の要素はすべて正しい。しかし、それは全体を正しく説明するものではない。

詐欺師は、商品の良いところを説明する。話の信憑性を増すためには少々の欠点についても説明する。
それはすべて正しい。しかし、致命的な欠陥については口をつぐむ。

『先生はえらい』という内田先生の著書があります。ほう。なるほど内田先生は良き師にめぐり会えてよろしゅうございました。
では麻原彰晃や福永法源は偉かったのですか?良き師に巡り会った幸福だけを提示するのは『強者になれ!』というメッセージですか?
下手をするとこれは、弟子(弱者)は、先生(強者)の餌食になれ!ということではないのですか?

はじめてのコメントが批判的なコメントになってしまって申し訳ございません。ご無礼のほど、平にご容赦くださいませ。

Re:強者になれ?

湧泉堂さん、ようこそおいでくださいました。

内田先生が弱者に対して『強者になれ!』というメッセージを発しているというなら、それは、全国の高校生に向かって、『石川遼になれ!』と言ってるようなものでしょう。
高校生でも石川遼のようになれば、一億円稼げるぞ! 弱者でも、強者になれば、権力も財産も手に入るぞ!…ムリです

まさに仰るとおりです。ですが、私はその読解を宗純さんのところでは「バイアス」と申し上げましたよね。というのはです。石川遼を目指す高校生の視座に立てば、『石川遼になれ!』は正しいメッセージに以外なにものでもない。誰もが石川遼になれないのは事実ですが、だからといって誰もが石川遼になってはならないという結論にはなりません。しかし湧泉堂さんの視座に立った読解では、そのような結論になってしまいます。これはこれでおかしな話です。

結局、内田氏は誰にコミットメントしようとしているのかということです。内田氏は弱者にコミットメントしようとはしません。強者になろうとする者に対してコミットメントしているのです。それが少なくとも私の読解です。そして、誰が誰にどのようにコミットメントするのかは、いかなる者も強制することは出来ない。そのような強制は、もし行なわれたとするなら非人道的というしかない。湧泉堂さんの批判はまさにそれであり、また、私が当エントリーで展開した内田氏への批判でもあるのです。
(同様のことを『【良心】ほど始末に負えないものはない』のエントリーでも示しましたので、よければそちらもご覧下さい。)

といって、私は湧泉堂さんの読解が誤っていると言いたいわけではありません。湧泉堂さんの視座から湧泉堂さんのように読解することそのものは、それはそれで正しいと思います。ですが、湧泉堂さんのようにしか読めないというのなら、それは違うと申し上げたい。そして湧泉堂さんの内田批判は、湧泉堂さんのようにしか読めないというところから出発しているとしか受け取ることが出来ないのです。

なお、当ブログでは、調和を乱すようなコメントも基本的のOKです。そんなお上品な場ではありませんし、私自身、お上品かもしれないが上っ面な調和は望みません。思ったままを公開でコメントしていただいて結構です。

愚樵さま、ご丁寧なお返事有難うございます。恐縮至極に存じます。

>結局、内田氏は誰にコミットメントしようとしているのかということです。

まさに!仰るとおり!私が言いたいのはそのことです!
それを明らかにしていただけないから、困っているのですよ。

「能力に恵まれたものに対して、私はメッセージを発しているのですよ!
才能も無く、魅力も無く、財産も無く、権力も無い人々については私の与り知らぬことである」
これを言ってくれないから、難儀なんです。

★賞賛も報酬も与えられないセンチネルの仕事は尊い。
★先生は無条件に偉いので、絶対服従すべし、先生のあくびやくしゃみ、失敗や欠点からでも学ぶべし。
★敵と対峙したときにおいても、常に礼儀正しく、お行儀良くあれ。

これらはすべて正しい。能力(才能、魅力、財産、権力のすべてか、あるいはいずれか)に恵まれたものにとっては。

才能も無く、魅力も無く、財産も無く、権力も無い人々がこのように振舞ったら、どうなると思いますか?
才能も無く、魅力も無く、財産も無く、権力も無い人々は、絶対に内田先生の仰ることを実践してはいけないのです。
そんなことをすれば、権力者の餌食になるだけです。
そのことをはっきりと言っていただけないので、私は困っているのです。

大変申し上げにくいのですが。

・湧泉堂さん、再度のコメントをありがとうございます。

せっかくコメントを頂いたのにも関わらず、このようなことを申し上げるのは大変に気が引けるのですが、それはまさに内田氏が主張している「最も知的負荷の少ない解釈法」です。

まさに!仰るとおり!私が言いたいのはそのことです!
それを明らかにしていただけないから、困っているのですよ。

いえ、これを内田氏が述べることはまずありえません。というのも、内田氏は「読み手によって解釈が違うのは当然」という立場にあることをたびたび言明しているからです。

しかし、とはいうものの、知的負荷の高い読み方と低い読み方とが存在するとは言っている。それが『情報リテラシーについて』という朝日に掲載された文章です。

私は先のコメントで、湧泉堂さんの「読み方」を肯定しつつ、私自身の「読み方」も提示し、私は私の「読み方」で読むと申し上げました。それぞれがどのように読みたいのかを、それぞれに肯定するという話ですね。ところが湧泉堂さんは、困る、難儀であると仰る。これが私にはよく分からないのです。なぜなら、その「読み方」は湧泉堂自身が好んで選択した「読み方」なのですから。好んで選択しておいて困ると言われても、言われた方が困ってしまいます。

しかし実は、こうした「読み方」および異議の申し立ての仕方をする者を、内田氏は指摘し指弾しているのです。ご存知と思いますが、クレーマーというのです。クレーマーは、自身の無知を根拠に異議の申し立てを行なう者のことを指します。湧泉堂さんを無知とは申しませんが、好んで内田氏が示す情報の価値を認めないという点で、好んで無知を志向しているとは言えます。

もうひとつ申し上げるなら、私の解釈による強者は、何も社会的な強者のみを指しているわけではありません。情報リテラシーの高い者もまた強者です。そして内田氏によれば情報リテラシーとは

「自分がどういう情報に優先的な関心を向け、どういう情報から組織的に目を逸らしているのかをとりあえず意識化できる知性のことである。」

ですが、湧泉堂さんはまさに、「どういう情報から組織的に目を逸らしているかを逸らしているか」を意識化なさっていません。私が別の「読み方」を提示したにも関わらず、それについては一顧だにせず、なおも私に湧泉堂さんの「読み方」を披露するのです。

才能も無く、魅力も無く、財産も無く、権力も無い人々は、絶対に内田先生の仰ることを実践してはいけないのです。

申し訳ありません。私は才能も魅力も財産も権力もありませんが、内田氏の主張を実践しようとしています。ここまで私が湧泉堂さんにお示ししたのは、お分かり頂けると思いますが、内田氏から学習したことなのです。そして、「学ぶ痛切な理由」は私自身が弱者であることなのです。弱者だからこそ学ぼうと思い「強者になれ」を正しいメッセージとして受け取った。ですから湧泉堂さんの「自身を弱者と思い定めての読み方」および「クレーマーとしての異議申し立て」を、否定はしませんが、どこまでいっても私が採用することはありません。

(とはいうものの「★先生は無条件に偉いので」を私は認めません。なので、コメントを改めて内田批判を行ないます。)

★湧泉堂さん、言いたい放題言い放って申し訳ありません。お気を悪くなさらないでくださいなどとは言いません。お気を悪くなさって当然です。ですが、これも申し上げた通り、私は上辺だけの調和はキライです。これでも誠意をもってお答したつもりです。意を酌んで頂ければ幸いです。

それにしてもなぜ朝日なのか

内田樹の研究室の『情報リテラシーについて』は、乱暴に要約してしまうと、

情報リテラシーを高めるために、どのような情報も、まず信用してみろ

である。

(どのような情報も(嘘もデマゴギーもプロパガンダも妄想も夢も)、紛う方なくこの世界の真正な一部であり、その限りでは、世界と人間の成り立ちについて程度の差はあれ有益な知見を含んでいる。)

そして、

情報リテラシーとは一言で言えば「情報についての情報」である

とする。これら要約は朝日に掲載された文章の後書き(補足)から抜き出したものだが、朝日に掲載された前半と当然内容は通底している。

内田氏は日本に「クオリティ・ペーパー」は存在しないというが、朝日はかつては日本の「クオリティ・ペーパー」だったはずだ。それが「朝日という情報」についての情報。つまり、現在は「朝日は信用ならない」というのが、日々情報リテラシーを高めようとネットを閲覧する者たちの、ほぼ共通した情報なのである。

それを内田氏が知らないはずはない。

にも関わらず「まず情報を信頼してみろ」というような文章を朝日に掲載した。これは、「朝日についての情報」と真っ向からバッティングするものだ。これでは「朝日は信頼できる」と内田氏が言明していると受け取られても致し方がない。

なぜそのような真似をしたのか、合理的な理由を見つけることができない。人間は知的負荷を下げるために陰謀説へ流れるものだが、どうしても合理的な説明が見つからない場合にも陰謀説を採用する。

あれでは、内田陰謀論を自ら煽り立てているようなものだ。

読み方や解釈の話ではなく

>「自身を弱者と思い定めての読み方」および「クレーマーとしての異議申し立て」を、否定はしませんが、どこまでいっても私が採用することはありません。

どうにも誤解されているようで、困惑してしまいます。
このような報酬も賞賛も得られないコメントを書いているのは、議論で論破してやろうとか、自分の正しさを言い募りたいとか、相手の間違いを指摘して良い気分になりたいとか、自分の考えを相手に押し付けたいとかいう動機ではありません。

読み方がどうとか、解釈がどうとかいう話ではなく、実際に被害者が出るぞ!という話なのですよ。
なんとかして被害者を少なくしたい。これが動機です。(私自身が直接被害を受けるという話ではなく。)

私もまた、内田先生を先生と呼んでいることからもお分かりのように、愚樵さまと同じく、内田先生のおっしゃることを実践しようとしている者です。
自分のことを弱者や被害者の位置に置いて、何かものを言っているわけではありません。

愚樵さまの解釈や、お考えを変えろと申し上げているわけでもございません。ご自分が強者であるとの確信があるなら、内田先生の言説を実践すればよろしいのです。

私もまた、先生のあらゆる振る舞いから学び、意見の違う方と意見の交換をするときにも、礼儀正しくあろうとしています。

>他者からの支援をとりつけるための最良のアプローチは何か?
>たぶん、ほとんどのひとは驚かれるだろうけれど、それは「ディセンシー」である。
と仰います。(条件付で)正論でしょう。

意見の異なる方と議論をするときには、意見の異なる部分からではなく、できる限り一致した部分から話をする。これも内田先生の教えです。私も実践しようとしています。

私が困るということの意味が分からないということですね。
「先生である内田先生の言説のせいで、更なる不幸の奈落に落ちていく人がいる」ということが悲しいということです。
たった一言でも但し書きを付けて下されば済むことなのに。

他者からの支援をとりつけるために礼儀正しくあれ。というのは、人を選びます。
人によっては、「なりふり構わず口汚く罵り、泣き喚く」ことの方が支援を得られる可能性が高いということです。
市役所に生活保護の申請に行って、断られてすごすご帰り、「おにぎりが食べたい」と書き残して命を絶った方がおられました。

①、『礼儀正しく振舞うことによって他者から支援を取り付ける』というのも一つの能力です。その能力に磨きをかけろ!

②、ただし、その能力のない人が、ひたすら礼儀正しく振舞っても、強者の餌食になるだけである。

私自身は①、を実践しようと努めています。
しかし、この②の部分を仰っていただけないから、内田先生を先生と思っている私としては困っているということです。
先生のせいで人が不幸になるというのは辛いことだからです。

なるほど、しかし、矛盾に満ちています

・湧泉堂さん

なるほど、やっと湧泉堂さんの立ち位置が理解できたように思います。しかし、それは矛盾に満ちた態度です。湧泉堂は、自身は内田氏を理解しつつ他人には内田氏を理解するなと言っているわけですよね。いえ、「他人」というのは正確ではない。弱者ですね。

そんな矛盾を直ちに見破る能力は私にはありません。申し訳ありませんが。「先生」と尊称を付けておられるのも皮肉かと思っていました(苦笑)

実際に被害者が出るぞ!という話なのですよ

これはご指摘の通りです。そこを憤るのもわからないではありません。ですが、これは、弱者というものの原理上どうしようもないことです。

というのは、弱者というのは、自分がなぜ弱者になったのか、その理由が把握できない者のことだからです。弱者が自身を弱者だと気がつくのは被害者になってからであり、被害者になってなおその理由に気がつかない者です。内田氏の言説に従いつつ被害者へと堕ちてしまう者は、結局のところ、内田氏の言説を自分の都合の良いように解釈してしまっているということ。「師の言葉」というのは、そのような性質のものだということです。

といっても、おそらく湧泉堂さんは納得なさらないでしょう。

しかし、この②の部分を仰っていただけないから、

なるほどねぇ。もし仮に私が内田氏の立場にあるとしたら、節操がありませんからそこまで言及するかもしれませんね。実際、今朝のエントリーでもそのようなことを書きましたし。でも、だからといって内田氏にそこが書けるかどうかは別問題です。というより、そこまで内田氏に要求してよいのかどうかもわかりません。

いえ、そんなことを言い出せば、世の中に数多ある「強者になれ」のメッセージは、すべてそのように条件付けしなければならないことになります。そのようなメッセージを発する人、最近では勝間和代氏が思い浮かびますが、では彼女は、「才能のない人間は私のようになれない」と条件付けしたのでしょうか? また、そのように公に発言すべきなのでしょうか? そのように発言しなかったことで、努力をしたにもかかわらずカツマーになれなかった被害者たちに責任をとるべきなのでしょうか? これはすんなりと答えることが出来ない問題です。

ひとそれぞれの才能の限界は、自身で見定めるか、師たる者に見定めてもらうか、いずれにせよ個別的になされなければなりません。私は当エントリーで「痛切な理由」に関して、まさにそのことで内田批判をしたわけです。となれば、私は「その能力のない人が、ひたすら礼儀正しく振舞っても、強者の餌食になるだけである」と発言しなかった内田氏の節操を評価しなければなりません。そして湧泉堂さんのいう「被害者」は、何らかの損害を被った者であることは間違いないが、そこは自己責任に帰すると結論づけざるを得ません。

矛盾しているに決まっています

もちろん、矛盾しているに決まっています
勝間和代氏については、私にとっては、無縁の人物であり、関心がありません。
勝間和代ファンがどうなろうと私にとってはどうでも良いことです。私は正義の味方ではありません。

内田樹先生は、先生です。
募金や寄付やボランティアという無償の行為の動機は、論理的整合性ではなく、感情です。
東日本大震災の犠牲者に対して募金する。
なぜ、ソマリアやルワンダやカンボジアやジンバブエの人々ではなく、東北の人々に対してなのか?
なぜ、年越派遣村や愛憐地区ではなく、東北震災義捐金に寄付するのか?不公平ではないか!

シンパシーを感じるかどうか?です。
内田先生の文章が好きな方に対して私がシンパシーを感じているということです。
内田先生の文章は、読んでいて気持ちが良いですからね。

内田先生の魅力を共有できる好ましい人々に、不幸になってもらいたくないという極めて私的な理由です。
感情的な動機なのだから、矛盾してるに決まっています。私は、特に客観的に中立で公正な、正しいことをしている、正しい意見を表明しているつもりはございません。矛盾していても良いので、内田先生のファンの方が不幸になって欲しくない。そういう極めて私的な欲望が、その動機です。

それは先に言ってくださらないと

・湧泉堂さん

よくわかりました。ですが、それは先に言ってくださらないと(笑)

極めて私的な欲望が、その動機です

ここをわかっているかいなかで、文章の受け取り方がかなり異なってきます。

湧泉堂さんは、湧泉堂という一弱者の私的メッセージとして「内田樹の主張を才能のない者が実践しても強者の餌食になる」と警告を発する。そのメッセージを受け取った者は、メッセージが私的であるがゆえに、自身が弱者か否かを私的に点検する契機を持つことになる。そしてそうした点検は、私的にしかなされ得ないものです。

もちろん私的であるがゆえにさまざまな捉え方があるでしょう。自身を強者だと思っている者は、あるいは強者たろうと志している者は、そうしたメッセージはスルーするでしょう。ですが、自身を弱者だ、あるいは弱者かもしれないと思っている者には届くでしょうね。そしてそこには弱者同士の連携が生まれてきます。

このように考えていくと、内田氏の弱点も見えてくるではないですか。氏はまずまちがいなく、自身を弱者であると考えたことなど一度もないのです。だから、弱者として私的メッセージを出すことなど思いつかない。あるいはその方法がわからない。だから湧泉堂さんの要求に応えることができない。

「才能も無く、魅力も無く、財産も無く、権力も無い人々については私の与り知らぬことである」

湧泉堂さんの求めるこうした言明は、あくまで強者としてのものですよね。どうしたって驕慢です。「弱者としての私的メッセージ」という方法論に至ってみれば、こうした言明を発することの危険性、発しないことの節度、また発せよという要求の驕慢、こういったことの思い至りませんでしょうか?

私がこれまで湧泉堂の要求に同意しなかったのは、今となってみれば、そこに驕慢があったからのような気がします。「弱者の革を被った強者の驕慢」です。なにより湧泉堂さん自身が、弱者保護という強者の立場に立っておられた。その立場から発せられるメッセージと、一弱者として発せられるメッセージとは、たとえ内容は同じであろうとも、受け手には違ったものとして受け取ってしまいます。

強者からのメッセージは、いかなる形のものであれ、必ず被害者を生みます。私は湧泉堂さんの強者としてのメッセージもまた被害者を生むと思っていました。ただ内田氏の方がより強者なので被害が大きい。それだけの違いではないのか、と。もっというと、湧泉堂さんのメッセージは「弱者は弱者であれ!」という三浦朱門の言葉のように聞えなくもなかった。それを言ってしまうとせっかくのやりとりが収拾できなくなるかもしれないと思って触れませんでしたが。

つまり、何が言いたいかという、弱者へのメッセージには「一般的なもの」はありえないということです。強者は一般化して構わない。一般化に抗するだけの力を持っているがゆえに強者なのですから。ですが弱者は一般化に抗えない。弱者が弱者としてまとめられた時点で、弱者はすでに被害者なのです。個別的にみれば弱者など存在しません。弱者のメッセージを送るには、その視点からでなければならない。そのようなことが内田氏にできるかどうかという問題です。

ハイホー!

>だから、弱者として私的メッセージを出すことなど思いつかない。あるいはその方法がわからない。

 この点について、内田先生は十分に分かっていて、意図的にやっていると宗純さんは判断しているから、糾弾されるのでしょう。
 私も、そう思っていますが、これは議論しても答えが出るようなものではないので、止めておきましょう。
 長々といろんなことを書いてきましたが、私のメッセージをぎゅぎゅっと濃縮させて言うと、

「ハイホー!」です。

 もう少し長く書くと、「やあ!あなたも内田先生の本を読んで感化されたんですね!ご同輩!私の声が聞こえますか?」ということです。
 首尾一貫性とか、論理的整合性とか、クリアーカットな言説とか、ストックフレーズの自動再生とかいうものを疑えと内田先生はおっしゃる。

 相手にあるレッテルを貼り付けて思考を停止するようなことにも気をつけろと。自分の仕掛けた罠に自分が掛かるな。こういうところが魅力なんですねえ。

>自分の中で複数の声を出せる人はもちろん相手によって声を変えることができるわけですね。
>声も変わるし、態度も変わる。トーンも変わるし、身振りも変わる。場合によっては言ってる内容まで変わる。
>前に言ったのとは正反対のことを相手が変わると平気で言える。
(中略)
>コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。
>「互いの声が届く」ということです。
(中略)
>親に対しても教師に対しても、目上の人間に対しても庇護しなければいけない人間に対しても、同じメッセージを同じ言葉づかいで語り続けろ、とそういうことを言う人がいるんですよね、知識人のなかにも。
>これはね、非常によくないと思うんです。いいことなんか、何もないですよ。

『身体の言い分』(内田樹 池上六朗 共著)毎日新聞社刊 の内田先生の発言より引用

>私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなく、「まだ知らないこと」を知るためです。
(中略)
>私たちが自分について知りたいと思うことは他者を経由してしか入手されない。

『態度が悪くてすみません』 (内田樹著)角川書店刊 より引用

>私は「邪悪な」人間である。
>自分を「邪悪な人間だなあ」としみじみ思うことがよくある。

『ためらいの倫理学』 (内田樹著) 角川文庫 より引用

愚樵さまと言葉のやり取りをすることで、自分についての新たな知見が発見されました。
ありがとうございます。ではまた。

お見それしました。

・湧泉堂さん

私からもお礼を述べさせてください。ありがとうございました。

人が人と対話をするとき、レッテルを貼ってしまうのはどうしても避けることができません。リアルな対面であっても避けられず、テキストだけの対話ならば尚更。

しかし対話の醍醐味はなんといっても、そのレッテルがボロボロと剥がれ落ちてしまうことにあります。そして、剥がれ落ちたレッテルの効用はなんといっても、自分を知ることができるといういうことです。

>私たちが自分について知りたいと思うことは他者を経由してしか入手されない。

まさにこれですね。

私ははじめ、湧泉堂さんを単なるアンチだとレッテルを貼ってしまいました。ために、ずいぶん無礼なことも言い放ちましたが、礼儀正しく応答してくださいました。おかげさまで、私も得るところが大です。ありがとうございました。

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