愚慫空論

科学と宝くじ

常温核融合という現象があるらしい。

『常温核融合は本当だった!』 目次ページ

私が持ち合わせている科学知識では、上記HPに記載されている事柄が真実かどうかは判定できない。が、真実らしく見える。
(“らしく見える”が最もアブナイわけだけど)。

私が持ち合わせている「科学的常識」によれば、常温で核融合反応など起こりえない。

常温が意味するところは「低エネルギー」である。
核融合、核分裂、あるいは放射線の放出を伴うα崩壊やβ崩壊。
これらは原子の構造が変化してしまう核反応であるが、核反応は出入りするエネルギーの量が化学反応とは桁違いに多い。
原子力が過去「夢のエネルギー」とされた理由は、「桁違い」だったから。
現在人類が触れてはならないエネルギーとされる理由もまた「桁違い」だから、である。
放射線が基本的には人体に有害なのも、「桁違い」だから。
乳酸菌が放射能に効くはずがないのも、「桁違い」だからである。

だが、もし常温核融合が事実であるなら、私の「科学的常識」はひっくり返ることになる。
現在の「科学的常識」はニュートン力学であり、常温核融合の科学は量子力学ということになろう。

常温核融合では非常識にも、桁違いに低いエネルギーで元素の転換が起こる。
化学反応のレベルのエネルギーで、核反応が起こるのである。
私たちの身体運動を支える生体反応も化学反応である。
ということは、放射能の問題と私たちの健康の問題が必ずしも「桁違い」ではない可能性が皆無ではないということになる。

上記HPには、ルイ・ゲヴランというフランスの科学者が紹介されている。
「生体内における酵素やバクテリアの作用によって、一つの元素が別の元素に転換するという生物学的元素転換(Biological Transmutations)という理論を提唱したことで知られる」、らしい。
「科学的常識」に従えば生物学的元素転換理論など、「トンデモ」以外のなにものでもない。
だが常温核融合が事実なら、「トンデモ」とは言い切れなくなってしまう。
乳酸菌が放射能に効くはずがない、とは言えなくなってしまう。

乳酸菌が放射能に効く。
乳酸菌は放射能に効かないとは言えない。

この2つの言明の間には大きな隔りがある。
“効かないとは言えない”から“効く”へ科学的常識が移行する確率は、現時点では、宝くじで一等前後賞合わせて○億円を引き当てる可能性よりも低いだろう。
だが、可能性は零ではない。

“乳酸菌が放射能に効く”と捉えて、「米とぎ汁乳酸菌」を実践するのは非科学的態度である。これは議論の余地がない。
だが、“効かないとは言えない”と捉え、宝くじを買うつもりで「米とぎ汁乳酸菌」を実践することはどうか?
これも非科学的態度であると言えるのか。
科学的態度が真実を追究する姿勢であるとするなら、「時には宝くじを買う」ことを排除してはならないはずである。

宝くじは買わなければ当たらない。
これは“科学的云々”という以前に、真実なのだから。

関連記事:『米とぎ汁から乳酸菌溶液をつくる』

コメント

長くなってすみません。

こんばんは、お久しぶりです。

>可能性は零ではない。
いや、零である可能性は残されていますよ。「乳酸菌が放射能に効く」以外は「効かない」(零である)可能性を残しています。「効かない」かもしれない、宝くじであれば「あたりが無い」(「当たらない」じゃなくて「あたりが無い」ですよ)かもしれないということです。

「この宝くじにはあたりが無いかもしれません」という宝くじを買う人がいますかねえ。「当たらないとはいえない」宝くじにあたりがあるかどうか考察することは科学的な態度といえるかもしれませんが、そんな宝くじでも「当たらないとはいえない」と捉えて宝くじを買うことを実践するというのは単なる冒険だと思います。結果的に当たって得をするようなことがあってもです。科学的なアプローチなしでの実践は科学的とはいえないと思います。

たまたま「米とぎ汁乳酸菌」を実践する一人に効果が表れたとしても科学的アローチがなければ本当に乳酸菌が放射能に効いたのか検証できません。(実証できなくても「すべての人に効果があるわけではありません」というお決まりの文句で逃げることはできますが)
もちろんそんな宝くじを買うようなことを排除してはいません。それは個人の自由ですからね。人間は科学的なことしかしないわけではありませんから。

駄文にコメント、ありがとうございます

・nobuさん、おひさしぶりです。

いや、まあ、米とぎ汁乳酸菌を実践することを科学的とは言えないでしょうね。少なくとも現時点では。

でも、そんなことをするな、というのもまた科学的ではない。それは個人の自由意志の問題に属するわけで。現在の科学的知見においては「乳酸菌は放射能に対して効果はないと考えられる」。科学が言えるのは、ここまでですよね。

ただ将来的には「あれは科学的な行為だった」ということになる可能性は零ではない。零と言い切ることもまた科学的ではない。というか、科学的かどうかが少なくとも私にはわからない。生物学的元素転換などいった現象が科学的に証明されるか、あるいは否定されるか、どちらにしても分からないのですね。

「この宝くじにはあたりが無いかもしれません」という宝くじを買う人がいますかねえ。

そんなことを言われて宝くじを買う人はいないでしょうね。ですがそれは、一種の誘導尋問でしかありませんよ。

まず、「可能性が零ではない」と「零である可能性がある」という2つの言辞ですが、この差異は何なのでしょう? 同じことを言い換えているだけに過ぎませんよね。

で、私は、「可能性が零ではない」ことを「宝くじ」言い換えたわけです。

同じくnobuさんは、同じことの言い換えに過ぎない「零である可能性がある」を「当たりがないかもしれない宝くじ」と言い換えた。つまり、

「可能性が零ではない」
「零である可能性がある」
「宝くじ」
「あたりがないかもしれない宝くじ」

この4つは全て同じことをいっているのです。あとはただ、言葉の印象だけの話です。

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