愚慫空論

ネット上で死に出合うとき

ネット上でも死に出合うことがときどきある。リアルな日常生活と同じように。

現実世界で私たちはさまざまな人と関わり合いをもちながら生きている。
人間は必ず死ぬものであるから、どこかで必ず死に出くわす。
いろいろな死があるけれども、もっとも多いケースは知り合いの知り合いが亡くなるというもの。
知り合いの知り合いの知り合いくらいになると、死はそこここにあるのだろうが、「出合う」という感じではなくなってしまって、ありふれた日常の出来事くらいのものになる。
知り合いの身内などが亡くなったりすると、葬式やお通夜へ出かけることになる。
その際の挨拶は「お悔やみ申し上げます」。あるいは「ご愁傷さまです」。遺族への言葉なのだから。
知り合いへの親密度にもよるが、マナーとして、そのように挨拶する。

ネット上での死との出合いも、リアルな知り合いに準じる。
顔見知りではないネット上の知り合いの周囲の者が亡くなる。
死と出会うことになるのは、知り合いがその事実をネット上で報告するとき。
ブログでやりとりしている相手であったりすると、コメント欄に「挨拶」をしに行くことになる。

そういったケースは幾度かあった。そのたび、私は少し困惑する。
どのように「挨拶」をするべきかわからないのだ。
よく見かけるのは、「ご冥福をお祈りします」。
リアルに準じるなら「お悔やみ申し上げます」の方だろうけども、まあ、どちらであってもいいだろう。

だが私は、ネットでは、これらの「挨拶」を書き込むことを躊躇ってしまう。
リアルな場面であっても、こうした「言葉」は多かれ少なかれ社交的である。
自身が述べる言葉と自身の情動とのギャップを感じつつ、しかし、場の「空気」に影響されてと言おうか、「挨拶」を述べるのに躊躇はない。
だが、ネット上ではそういった「空気」は希薄にしか感じられない。
それで困ってしまう。

話は飛ぶ。

私は死刑反対論者である。
よって、死刑賛成論者の言説には、賛同できないことが多い。
もちろん、賛同するしないと好き嫌いとは、全面的にではないが、切り離して考える。

だが、どうしても感情に直結してしまう、つまりは嫌いな賛成論者の言説がある。
それは「遺族の気持ちが理解出来ないのか!」といった類のもの。
私はこういった言葉を書き連ねる輩には、反射的に「ウソつき」の烙印を押してしまう。

見ず知らずの者の死など、日常に転がっているありふれた出来事にすぎない。私たちはそれを日々確認している。
にも関わらず、自身のイデオロギーに交わる出来事があると感情を発動させる。
確かに死にも幸不幸はある。不幸な死に遭遇した関係者の悲嘆・憎悪は深い。それは十分に想像できる。
だが、それは想像であり空想である。リアルな死に出合ったときに湧き出る感情と、想像からくる感情が同一であるはずがない。想像に由来する悲嘆や憎悪には、多分に傲慢な自尊心が混じっている。

傲慢な自尊心は、しかし、死刑賛成論者だけのものではない。
反対論者が死刑廃止の理念の崇高さを賛美するとき。私はそこにも同じ臭いを嗅ぎ取ってしまう。

もっとも、どちらもそれは私の錯覚であるのかもしれないのだが。
しかし、賛成反対の議論が互いへの憎悪に変わっていくのを見るたびに、その思いが強くなるのを感じずにはいられなかった。

言葉を吐き出すときには必ず情動が伴う。
感情的に言葉を書き連ねているときであっても、冷静に論理的に言葉を構築しているときであっても、情動は必ず動いている。
感情は情動が感知されることで生じ、情動が感情へと流れ込んでゆくときに「快感」が生じる。
これがおそらくは〈生〉である。
つまり。悦びの言葉であっても憎悪の言葉であっても客観的な言葉であっても、それがスムースに感情へと流れ込むことができると、人間は〈生〉を感じる。その流れが滞る「不快感」は疎外感へと繋ってしまう。
人間が、悦びばかりでなく憎悪にも〈生〉を感じてしまう理由はここにある。

話を戻そう。私が困惑する理由だ。

有り体に言って、私は死者の冥福など祈っていない。
私に備わっている感覚器官が死を感じているわけではない。
死は事実であろうが、脳がテキストを読み解くことで感知したものでしかない。
つまり、「冥福をお祈りします」という言葉を発するときの情動は、死を感覚器官が感知してのものではない。
ここに「不快感」が生じてしまう。情動と感情の違和感を意識してしまうから。

もちろん、「冥福をお祈りします」が悪いと言いたいわけではない。
むしろ、そのように言葉は発せられるべきだ。
このような文章を書くこと自体、私の自意識過剰、ひいては社会性がどこか欠如していることを表している。

だが、それが〈社会〉へ斬り込んでいくための私の武器。しかも諸刃の剣だ。

...。
書き始めたときから何処へ行ってしまうのか自分でもわからなかったが、最後は武器の誇示になってしまった(苦笑)

コメント

あははー!

兄さんらしいエントリーやなあwww

私は冥福を祈るよ。無神論者だけど。
で、「ご冥福をお祈りします」も使う。
それは、死者に対してというより、身近な人を亡くした、目の前の人に対して言ってるかな。
「あなたの気持ち、ホントのところはよくわかってないと思うけど、一緒に悲しみたい、一緒にいたいという気持ちでいるよ」という意味で。だから、死者の冥福を一緒に祈る。

けど、圧倒的な死を目の前にしたとき、その言葉さえも出てこないんだなあというのは、東日本大震災の時に思った。
そして「ご冥福をお祈りします」という言葉が、不特定多数の人への社交辞令、社会的なエクスキューズとして使われることに違和感も感じる。各種メディアでの会社、団体等々のヘッダーの「ご冥福をお祈りしてますよ、だからいいでしょ、通常営業しますよ」的なものに対しての、なんとも言えない気持ち悪さというか。

そして、やっぱ、一定の距離がないと「ご冥福」は祈れないのだ。
私はクライアントから「私の知らない人の死」を聞かされることが多いけれど、クライアントに近い人であればあるほど「ご冥福をお祈りします」っていう心情から遠ざかる。「ご冥福」にはどこかに「とはいえ、ぶっちゃけ、私には関係ないし」というニュアンスがあると思うから。ま、治療関係では、死者の冥福云々より、クライアントの気持ちの動きに焦点が当たるということが大きいのだけれど。

そうね、やっぱ「ご冥福」は「社会的なことば」なんだと思う。
近すぎず遠すぎない距離感で使われるとちょうどいい感じの。
「その人のこと私はよく知らないけど、あなたの悲しみに私も揺さぶられてます」的な。そして色々感じてしまって他の言葉が出てこない、でも何か伝えたいという気持ちの時にも使うかも。
だから、リアル友人の肉親とか、企業CMに「ご冥福」を使うのに違和感があるのかもと思う。

えへへ

みみずさん、おはようございます。

そうですが、私らしいですか(笑)。
私もそう思うけど、でも、そう感想を述べられて、ちょっと驚きました。なんでだろ? まあ、いいや。

「とはいえ、ぶっちゃけ、私には関係ないし」というニュアンスがある

というか、私には関係を断ち切る言葉に聞えますね。

たとえば、私の知らないところでA君が死んだ。それをA君と関係の深いD氏から聞かされた。もとより私とA君と間には何にもないわけです。だから死んだと聞いても何も動かない。動くとすればD氏への反応としてですよね。

みみずさんがいうように、近くの者の「冥福」なんてなかなか祈れないものです。近くにいるということは、自身の一部だということだから。自身の一部に「冥福を祈る」というのは、自身の「深いところへ沈める」ということでしょう、たぶん。

でも、遠くにいる者、つまり自身の一部でない者にとっては「冥福を祈る」というのは、「関係ない」ということを改めて確認する行為に過ぎない。それはいいというか、仕方がないんだけども、それを例えばD氏に向かって述べるということは、"私は私のなかで、A君とD氏を切り離します”と宣言してしまうことのような気がするんです。だから、引っかかる。

「ご冥福をお祈りします」というのは、本来は、「どうぞ、深いところへ沈めてください」という励ましというと変ですが、共感し力を与えるような言葉だったわけです。葬式といった儀式もそうです。死者を「みんなで送る」ということは、残された者を「みんなで守る」ということだったはずなんですよね。しかし現在、そんな絆はなくなって、形だけになってる。

「ご冥福をお祈りします」も、同じことになっていると思うんですよ。形骸化した言葉になってしまっていて、でも他に適当な言葉もないから(繋がりがないから適当な言葉がないのは当然なんだけど)、それを言ってるだけ、みたいな。

ところでみみずさんて、無神論者でしたっけ?

死刑がないと困ります

樵様は、死刑反対論者だそうですが、私には、そこまでの考えが出来ません。
考え方というより、「感じ」です。理屈はありませんから、
理屈で死刑は要らないという考えにも肯けません
―たとえば抑止力にならないとか。

多分、今までの考え方に違和感がないし、当然だと思うので、
敢えて死刑廃止のイデオロギーに賛同できないのだと思います。

死刑があるということは、ものごとの解決に人を殺すという選択肢を許さないという表明であり、
それを承知で罪を犯すものは当然の報いを受けてしかるべきと思います。

世界の流れが死刑廃止に向かっているとのことですが、
日本は日本でいいと思います。

これは、日本人の死生観に関係していると思います。

宜しければ、樵様の考えをお示し下さい。

情緒的権力行使はダメです

・amerieさん

理屈で死刑は要らないという考えにも肯けません

これはよくわかります。死刑に値する人間がいる。死をもって報うしかない人間が存在する可能性はある。死刑に反対する私自身も、そういった事態に出くわす可能性は否定しきれません。ただし、これは感情的な問題なのだということはしっかり認識しておかなければなりません。

私は日本は情緒的な国だと思っていますし、それでよいと思っています。ですがそのことは、情緒的に権力を行使してよいということにはなりません。日本がダメなのは、ここのところのケジメを上手く付けられないところ。だから逆に情緒的でいられなくなってしまうのです。死刑を巡る議論はこの典型です。

権力が死刑を執行するためには、権力絶対の「神話」が必要になります。これには大まかに2つあって、ひとつは無謬性。もうひとつは超越性です。

無謬性は、絶対に冤罪は犯さないということです。ですがこれはありえない。となると残りは超越性です。権力はこの世から超越した存在によって与えられたものであり、ゆえに多少の間違いは許される。この2つ以外にありえない。

権力の超越性を認めるということは、それは個人の死生観は権力によって統制されることを認めるということです。しかし、それこそ日本人の死生観と最も遠いところにあるもの。日本人にとって生と死は個人的なものです。またそれは、日本において民主主義がうまく機能しない理由でもあるのです。

結局のところ、死刑制度でもっとも利を得ているのは権力機構、とどのつまりは官僚組織です。確かに、不幸な境遇に巡り遭ってしまった者にとって死刑は「救済」かもしれません。でも、これはあくまで個人的な「救済」です。死刑の必要性というのは個人的なものでしかない。今の日本という国家は、権力にとって都合の良い「個人的な必要性」を採り上げることによって権力の正当性を保持しようとしている「情緒的国家」なのです。

死刑以外にも個人的に必要としているものはたくさんあります。社会的弱者への救済などもっと広範になすべきことはあります。にもかかわらず、そうした課題と向き合うのは消極的。理由は彼らの権力維持・増強にあまり役立たないからです。でも、死刑は彼らにとって役に立つ。

人間は情緒的な存在です。ときに犯罪行為を犯してしまうのもそのためにです。だからこそ社会を統治する権力は情緒的であってはならない。これは古代社会からずっと変わらない統治の原則です。もっとも、守られることが少ない原則でもあるのですが。

民主主義国家において死刑が廃止されていく流れにあるのは当然の帰結です。国民が自らを主権者と位置づけ、情緒を排した理性で統治しようとするほどに死刑はみとめられなくなってゆく。私は日本が欧米のような民主主義国家になれるともなるべきとも思いませんが、権力を情緒的に扱ってはいけないという原則については、洋の東西を問わず同じだと考えます。

社会の統治を無謬でも超越でもない権力に委ねるのなら、死刑は廃止です。それでもなお個人的な必要性を求めるのなら、権力が退くしか方法がありません。

ちなみに日本人が好きな(?)切腹は、自ら権力から退く方法です。切腹をするのは権力者です。庶民は切腹などしません。身分社会では権力者であることを退くにはこの世から退くしかない。つまり権力行使は生死と一体だったわけです。もうひとつ日本人の好きな仇討ちも権力が退く方法です。現代社会でいうと人権を認めないということに相当するでしょうか。が、仇を討つのは命懸け。昔の日本では、権力は命懸けで出張ったり退いたりするものだったのです。

でも、現代の権力者たる官僚組織は"出張ったり退いたり”など認めないでしょうし、国民も不安に思うでしょう。日本人はいつの間にか権力依存体質に陥ってしまったのですね。死刑を当然と考えてしまうのは、権力依存に無自覚だからです。

今後の課題とします

樵様
おはようございます。早速お考えを示して下さって、ありがとうございます。

>今の日本という国家は、権力にとって都合の良い「個人的な必要性」を採り上げることによって
権力の正当性を保持しようとしている「情緒的国家」なのです。<

というお考えはよく考えてみたいと思います。

無謬性、超越性というのは、彼岸のことであって、こちらではあり合わせの知恵を絞って埋め合わせ
なければならないと思います。不完全な世界ですから、なるだけの透明性を確保する批判精神が必要
なのですね!

お蔭さまで、少しずつ考えが纏まってきます。

ただ、先進国の考えは、理想に向かっているようで、新たなる矛盾を抱えつつあるようにも思えるのです。

また、勉強させて下さい。(多謝)

人は死ぬから面白い

『そもそも、人間とはずっと地獄の釜の上で踊ってきたような存在です。
人は死ぬから面白い。人類史=災害史です。
先進国の人間は、安全で衛生的な人工の環境に慣れ過ぎている。』
とは、『逝きし世の面影』の著者の渡辺京二氏の言葉なのですが、納得です。
今までの3・11以前の日本人は自分の周りが安全で清潔で整然としていると信じていて、少しも疑っていなかった。
だから安全安心、完璧で間違いないとの信念に反する憎むべき異分子や異端は排除したい。
それなら皆さんが死刑には賛成するのは当然なのです。
死刑は『自分や自分の近くの誰かの刑死』とは無関係で、そんなことは最初から可能性として排除している。
何となく、我が日本で原発の過酷事故は起きないと信じていた原発村の住民と心理状態は同じなのです。
日本独特の異常なマスコミの信頼度の不思議も、この日本独特の安全安心で整然としているとの確信から来ていた。
ところが今、未曾有の大津波や福島第一の放射能汚染の惨状でその確信が揺らいでいるのですね。
信頼していたマスコミや政府や権威ある人が如何も真っ赤な嘘を平気で言うらしいことに人々は気が付きだした。
数百万人の日本人は、今までの基準値なら到底住めない汚染地帯で暮らす羽目に陥っているので、今後この日本人の特徴も少しは変化するかも知れません。
小出助教の東北を救うために『危険な汚染した食品を食べる』評判の悪い話ですが、実は日本国政府(農水省)のホームページを見たら、小出さんと同じ意味の記事が載っていたのには驚いたというか、とんでもない話ですよ。
農水省の方は『安全なので福島など東北を助ける為に食べる』との広告なのですね。
『安全である』と『危険である』との認識の差があるだけで、農水省と小出さんは同じ主張をしていました。しかしため息が出ますね。農水省側は今でも昔どうりの安全安心で完璧な秩序があるふりをしている。
対して小出氏は、そもそもの前提である安全安心で清潔の正反対の態度なのですよ。
小出氏が今までに日本では主流派には絶対になれずに原発村から村八分のイジメを受けていた理由が良く判る話ですね。

中途半端な権力者たち

・宗純さん、おはようございます。

私は権力者を「理念を唱えつつ自らをその埒外に置く者」と定義しましたが、

安全安心、完璧で間違いないとの信念に反する憎むべき異分子や異端は排除したい

などと望む者は、まさに権力者なのです。多少でも自省する者なら「安全安心、完璧で間違いない」の範疇に自らが入らないことは自覚できるもの。人は感情的な生き物であり、状況によってはどうしようもなく過ちを犯してしまう哀しい生き物なのに。現在、日本人の大半は権力者なのですね。世間というものが日本人を権力者にしてしまう。

しかもです。権力者であるのならそれらしく権力闘争をすればよいのですが、なぜか表立った闘争は嫌う。「クリーン」だなどと寝ぼけたことを言う。日本人は確かに清潔さを好みますが、昔はそのための努力を厭わなかった。今は違います。清掃は他人任せで、自らの手を汚すことは嫌う。日本人総貴族化です。

小出助教の東北を救うために『危険な汚染した食品を食べる』評判の悪い話


小出氏の主張はアンチ権力者としてはまことにスジが通ったものです。自らを埒外に置かない。ことの是非はともかく、耳を傾けるべき主張です。そして情理をつくして話し合わなければならない。日本人の好む〈話し合い〉〈折り合い〉はこういったときにこそ行なうべきです。評判が悪いとなってしまうのは、〈話し合い〉の方法すら忘れてしまったということです。

一方、農水省の方はどうでしょう。主張は小出氏と同じであっても、彼らと情理を尽くして話し合うだけの価値があるどうか。彼らに対しては〈闘争〉で臨むべきでしょう。

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