愚慫空論

みんな「土人」にしてしまえ

『逝きし世の面影』さんに書き込んだコメントをお持ち帰り。

『NHK「核を求めた日本」原子力発電は核機微技術の確保目的』

『何の為の原子力発電だったのか』

自民党政調会長で元防衛大臣の石破茂がMBSの『報道ステーション』で自民党が『脱原発』に反対する理由として、『日本は絶対に核兵器を持つべきでない』とことわった上で、原発を持つことは一年以内に核兵器を開発できるという核の機微技術の確保による『抑止力』を意味し、剣道の寸止めのようなものであると、正直にも自民党の恐るべき内幕を説明している。

『石破と石原慎太郎との明確な違い』

報道ステーションの石破発言ですが、 機微技術の保持との原発の存在理由を述べる前に、『日本は絶対に核武装するべきでない』との前提発言を行っている。
ですからタモ神とか石原慎太郎など夢想的な右翼の現実無視の核武装論とは一線を画している事実を、護憲派が今のように完璧に無視するべきではないでしょう。
日本の原発ですが、経済性は真っ赤な嘘。
安全性に至っては正反対である事実は今では誰でもが知っている。
それなら何故、とんでもなく危険で天文学的な損害が出る原発を日本国が国策として何十年も推進していたかの謎ですが、 これは石破発言以外には無いのです。
客観的に正しい科学的事実は、善悪とは無関係に『事実である』と認める以外の選択肢は無いことに皆さんは余りにも無頓着過ぎないでしょうか。
石破発言ですが、『悪い』ことは事実ですが、同時に恐ろしいことではありますが『正しい』発言なのです。


以上、宗純さんの記事の主要部分。で、以下は私のコメント。

理性は力があってこそ

国家として自主独立を求めるのであるなら「核を求める」ことはどう考えても「正しい」ことです。日本国は平和国家を謳っていますけれども、「核を求める」ことと理念としての平和を謳うことは必ずしも矛盾しません。問題は、「核のある平和」か「核のない平和」かの違いにだけ。
理念を実現するの理性です。闘争が機軸の民主主義を議会という戦争代償行為で平和的に統合するのに、主軸となるのは理性をおいてない。そして、理性が万全でありさえすれば、核を所持していたところで何ら問題はない。使わなければよいのですから。

使わなければよいなら、所持しなければよい。確かにそれは理屈です。ですが空論です。核は力なのです。そして理性は力があってこそ意味がある。力を制御できるからこそ理性に意味があるのです。ですから、最高に理性的な国家とは最高の力である核を完全にコントロール出来る国家。そういった意味では石破議員が想定する国家こそが、実はもっとも理性的な平和国家。武力の放棄を謳った平和憲法を掲げ、最高の力である核を平和利用する。が、一方で、いざ有事というときのためにいつでも核を軍事転用するための備えは怠らない。民主主義国家としては完璧です。

ですが日本はその道を歩まなかった。国民の反対もあり歩もうにも歩めなかったという現実もあるでしょうが、それよりも重大な事実は、核を求めた権力者自己の保身が完全民主主義国家への道を歪めたことです。核施設は東京に、それも皇居に作るべきだった。天皇には核の守護神となってもらうべきだった。核という巨大な力を制御するには、理性が常に最高度の緊張感をもって保たれたければならない。すなわち臨戦態勢でなければならない。平和でかつ臨戦態勢であるという矛盾を実現するには、つねに自身に刃をむける「ダモクレスの剣」が必要。それは核施設を東京へ建設することで、容易に実現できたのです。

しかし、権力者はその道を選ばなかった。「原子力は安全」などと嘘をついた。国家よりも自身の保身を優先したわけです。石破議員も、なるほど主張は正しいが、所詮は口先だけ。自身は権力の果実だけを味わい、ゴミは国民へ押しつけたい。「正しい主張」の合間からその魂胆が透けて見えてしまいます。



このコメントは敢えてラディカルに「正しい」ことを書いたつもり。だが、これを「正しい」と感じるかどうかは別問題。護憲派のみならずとも、大抵の人は「正しい」と感じないだろう。私自身も「正しい」とは感じていない。たとえ石破議員のような自己保身優先の典型的な「悪の権力者」ではなく、「正義の権力者」が権力を握って完全な理想民主主義国家を建設したとしても、そんな「正しい」国家に私は住みたいとは思わない。

だが民主主義が〈闘争〉であり、「理性は力あってこそ」という「前提」が「正しい」のならば、この帰結もまた「正しい」はずだ。それを「正しい」と感じないとするならば、「前提」を「正しい」と感じないということ。そして、「感じない」ということは、〈闘争〉が、理性が誤っているということを意味しているわけではない。それはそれで「正しい」。ただ私たち日本人は、実はその「正しい」は採用していない、あるいは、採用したとしても部分的にしか採用しないのだ、ということを意味しているだけのこと。

では、私たちは何を「正しい」として採用しているのか。私が主張するのは〈折い合い〉である。民主主義を「正しく」主張しているつもりの日本人でも、結局は無意識のうちに〈折り合い〉を機軸に物事を考えてしまう。これは文化の力だと言っていい。日本の民主主義が歪んだものにしかならないのは、私たちの感性を支えている日本文化の力ゆえである。

そのように大づかみに捉えるなら、私たちの大きな選択肢もまた見えてくる。機軸に据えるべきは自身を支えている感性以外にありえない。日本の民主主義を歪んでいると判定するのはいいが、その判定を日本は歪んでいる、あるいは未熟であるという判断へと繋げてしまうのは、自身の感性の否定以外のなにものでもない。個々の人間であれ民族であれ、自身の感性を否定して創造的であることはできない。日本の民主主義が歪んでいるとするのならば、目指す方向性は日本に合った民主主義の創造であるはずだ。

日本人は辺境の民であり、日本文化は辺境の文化である。常により大きな文明の影響を受けてきたが、かといってその文化に染まりきってしまうこともなかった。それは「造りかえる力」を働かせて、日本に合うように創造的に造りかえてきたからだ。政治制度も、風俗も、慣習も、宗教ですら造りかえてしまう。孔子も悉達多も泥烏須も、日本では「土人」になってしまう。ならば、ルソーもホッブズもモンテスキューも、ケインズもマルクスもハイエクも、みんな「土人」にしてしまえばよいというだけのことだ。

コメント

騙しつづけて欲しかった!

とても難しかった! 以前ならパスする内容だったでしょう。
放射能が一般の生活を覆うようになった以上、避けて通れないことになりました。

「どうせ私を騙すなら、騙しつづけて欲しかった♪」の女性は、騙されたふりをしていたのです。(笑)

「騙してて悪い」と云った男は、お金が尽きたのです。
自民党も追いつめられていますね。

残された女は、泣く泣く自立の道を模索しなければなりません。
私も、一国民として、日本の道を一番よく導いてくれる政治家を選ぶ目を養わなくては。

あぁ、民主主義では、賢者も愚民も同じ一票なのですから!!(西洋流のここが間違い?)

理論と現実政治と『折り合い』

わたしも、宗純さんの記事に触れ、考えさせられました。 石破氏は、正直な人なんですね…。機微技術としての原発…。わたしは、今まで、『盲信的護憲派』であった事を遅まき乍ら悟りました。本日の愚樵さん、宗純さんのお考えに触れ、余りに短絡的思考に束縛されていたのでは…と、考えさせられました。 『核兵器は悪いもの…。』は万人が認めるところ…。しかし、人類は、『核』に触れてしまった。 理想的には、『核兵器廃絶』が、一番良いに決まっている。が、しかしである…。国連安保理の理事国は全て『核兵器』を保有している。国際社会に於けるパワー・バランスの中で日本は、どの立ち位置に在れば良いのでしょうか…。『唯一の被爆国として核兵器廃絶を訴えてゆく』ことは、誠に正しく現実になれば、これ程喜ばしいことはないのです。が、しかしです…冷戦が終焉し、各地で紛争が勃発し、テロが横行している現在の国際情勢をみた場合、はたして、各国、丸腰状態に進んで身を置く様なことはないのです。そこで、出てくるのが、『折り合い』でしょうね…。国民性云々も含めまして、国際的軍事バランスの「折り合い」を、どうつけるのか?という視点が重要になってくるとかんがえます。しかし、本当に悩ましい問題ですね…。マハトマ・ガンジーの『非暴力・不服従』の思想は気高く、素晴らしい思想です。わたしは今まで、意気がって、『暴力反対、戦争反対』と叫んできましたが、これは、ほんとうは大変に勇気と覚悟が要ることなんですね。だって、『自分は殺されても、相手(敵)は、絶対に傷つけない、殺さない。』ということですものね…。果たして自分は、そんな覚悟があり、胆が座っているか、甚だ疑問です。

それは楽ですから...

amerieさん、パスするはずのコメントを、ありがとうございます。

騙されたふりというのは、実は高度な戦略です。賢い女性がよく使う手ですね(笑)

一般的に騙すのは悪だとされますが、男女の機微(もちろん同性同士でもOK!)にはそんな一般論は通用しません。ま、通用しないというのもまた一般論ですが。

騙し騙され、相互に依存しあう関係になる。これ、とっても楽ですよね。そこに安住できるのならそれに越したことはありません。が、現実は...、というのも、これまた一般論。

残された女は、泣く泣く自立の道を模索しなければなりません。
私も、一国民として、日本の道を一番よく導いてくれる政治家を選ぶ目を養わなくては。

このふたつの文章は、一見して矛盾してませんか? 後の文章は、「良き依存先」を求めているように読めますが?

でも一見矛盾した文章も、求める所は同じなのでしょう。依存できることは自立することと同じ。自分に自信がある人間ほど素直に「ヘルプ ミー」の声を挙げることができると言いますからね。

低線量被曝がデフォルトになってしまった社会で生命力が失われてしまわないようにするには、誰もが素直に「ヘルプ ミー」の声が挙げられるようにしなければなりませんね。

Re:理論と現実政治と『折り合い』

青い鳥さん

『唯一の被爆国として核兵器廃絶を訴えてゆく』ことはこれからも続けなければなりません。が、それだけでは足りなくなってしまいましたね。放射能汚染国として原子力を含めた「核」の廃絶に取り組んでいく。「脱原発」は、その長い道程の第一歩というわけです。

現実政治と理論の問題を考えるにおいて、軍事を考察の力点におくことは誤りの元だと私は考えています。もちろん無視できない要素ですが、主軸はやはり経済です。経済における現実政治と理論の問題。ガンディーといえば仰るように「非暴力」が注目されますが、それ以前に経済の自立が思想の柱であったようです。「アヒンサー」はその手段でしかなかったし、それは必ずしも『自分は殺されても、相手(敵)は、絶対に傷つけない、殺さない。』ことではないと私は理解しています。

それは「相手の土俵に乗らない」ということ。自分たちで自立した依存関係(折り合い)を作り上げていくということです。アヒンサーを非暴力もそれを抗争の手段と捉えてしまうと相手の土俵に乗ってしまうことになりかねません。

最高に理性的な国家など、現実には存在しない

> 最高に理性的な国家とは、最高の力である核を完全にコントロール出来る国家

日本の民主主義が歪んでいるとするのならば、それは国民がお上に隷属しているからです。 そもそも「国家」とは、現在の日本では官僚のことでしょうから、信用なりませんね。

マックス・ウェーバーは官僚による合理的支配の理論を構築しましたが、それは理想論に過ぎません。 権力は自分達を守ることを第一目的としていますから、必要と判断すれば核を使用するはずです。

理想は神話

・もえおじさん

そもそも「お上」というのは何なのでしょう? 現代日本人の一般的な認識では、「お上」という感覚は江戸時代の「士農工商」の身分制が由来のようになんとなく思われていますが、本当にそうなのでしょうか? 江戸時代の民衆は、「お上」に隷属してなどいなかったはずですが。

権力が権力自身を維持することを本分とするというのは、真実です。ですがそれは、権力者を守ることとは違う。十分に理性的な者は、その違いをわかるはず。中国は最も古い中央集権国家すなわち官僚制が発達した場所のひとつですが、そこで権力の継承の理想型が禅譲とされているのはその好例でしょう。

ですが、現実は理想とは違う。中国の禅譲が神話にしか過ぎないように、ですね。権力者は必要とあれば権力を弄ぶでしょう。その本質は、たとえ民主主義国家へ「進化」したところで変わらないということでしょうか。

国家権力の中枢としての官僚組織

お上とは端的に言うと国家権力ですが、現実的には「そこから派生する行政組織全般」のことです。 これは基本的に原発問題の話題なので、話を広げさせて頂きます。

(いきなり国家予算の話ですが)年間一般会計・特別会計の合計は280兆円ですが、これはつまり、日本の国民総生産の60%を官製・公益事業が占めるということになります。 これを裏付ける証拠として、日本の合計税率は約55%( http://0dt.org/000867.html )であり、足りない数パーセント分を、国が毎年国債を発行して穴埋めをしています。 日本の権力の中枢は、この280兆円を管理している官僚であり、日本は官僚統制国家(役人天国)なのです。

原発が依って建つ電源三法(エネルギー特別会計)は、その特別会計の一つです。 日本の原発政策を批判しても、政治的に原発推進派を打倒できなければ何の役にも立ちません。 原発推進は国策ですから、脱原発を考えることは「国家権力に対抗するにはどうすればよいか」を考えることに他なりません。 国による原発推進の背後には、政官産学報による既得権益の「鉄の五角形」が形成されているので、これに対抗できる市民勢力を形成する必要があります。

お話はよくわかります

・もえおじさん

日本の合計税率は55%だなんて、「五公五民」か「六公四民」を想起してしまいますよね。 カンリョウソシキは合法的な収奪集団でしかない。近代国家の基本的な機能の一つは所得の再分配があるわけですが、カンリョウソシキが関与すると「逆分配」になってしまう。領民は一揆をおこすべし! 主張はよくわかりますし、支持もします。

ですが、それはやはり〈闘争〉なのですね。〈闘争〉だからダメだと退けるわけではないが、どうも日本人は〈闘争〉は苦手らしい。事実「一揆を起こせ!」はまことにスジの通った主張であるにも関わらず、ふつうの日本人はあまり関心を寄せません。嘆かわしいといえばそうなのですが、ね。

江戸時代に話を戻しますと、「五公五民」「六公四民」は事実ではあったらしいが、事実の全てではなかった。「五公五民」「六公四民」はいうなれば「表」の話であって、百姓達は「表」以上に裏経済で潤っていた。だから、国家の中枢を締めていたはずの武士階級よりも町人の方が一般的には裕福だった。武士が「裏」に立ち入ることは、百姓たちの反発だけでなく彼らの倫理的な抵抗感もあって、なかったといってよい。「土俵が違った」んですね。

現代日本合計税率は55%という話は、これは同じ土俵での話です。〈闘争〉になるのも土俵が同じだから。現代社会は経済がグローバル化かつ全域化、つまり、全世界が「ひとつの土俵」になりつつある。そしてその視座から見ると、日本は未だ経済大国とはいえど、そのGDPは“たったの”600兆円でしかない。無国籍の「強欲マネー」が6京円あまりも行き交っているといわれる「土俵」のなかでは、とうてい勝負にならないわけです。

もちろん、だからといって合計税率55%はどうでもいいということではない。それは重要な問題です。特に原発問題に関しては、カンリョウソシキの問題は避けて通れない。ですが、マネーという「土俵」において、そrが最もプライオリティが高い問題かというと、そうではないと思っている。私が現在最も問題だと感じているのは、同じ「土俵」でいかに〈闘争〉するかではなく、別の「土俵」があり得るということに気がつかないこと。ここに気がつかず、同じ「土俵」で〈闘争〉することこそが近代における「隷属」のあり方だと考えているのです。

〈折り合い〉などといったものを持ち出す真意も、ここいらにあるわけです。

余りにも日本人的な発想

もえおじさんの、
>『・・・権力は自分達を守ることを第一目的としていますから、必要と判断すれば核を使用するはずです。』
の判断に賛成したい。
愚樵さんの 『核を所持していたところで何ら問題はない。使わなければよいのですから。』は根本的に間違いですよ。
アメリカは使うために持っているのですよ。
勿論アメリカ以外の国でも事情は同じで、いざとなれば使うために持っているし、使う決断の出来ないものが持つべきではない。
そして現実に66年前に2回も使っている現実の歴史を一時も忘れるべきではないでしょう。
また、歴代アメリカ大統領は『国益が損なわれる事態には躊躇無く使う』と例外ないく断言している。
そして、愚樵さん自身も、『使わなければ核を所持していたところで何ら問題はない』との前提条件に『理性が万全でありさえすれば』と、迂闊だったのか狡猾だったのか、それとも最初から別の隠された思惑があるのか、最初に付け加えている。
この、
『理性が万全でありさえすれば』
は、今の日本の政治状況を冷静に判断すれば到底成り立たないのは明らかなのですよ。
ブッシュ前アメリカ大統領に万全の理性を求めるなど亀に腹筋を強要する以上の無理筋です。

タモ神や石原慎太郎に理性がありますか。
理性が万全な指導者を日本人が得ているなら、これ程皆さんが困ることはないのですよ。
万全どころが理性の欠片さえ無いのではないだろうかと疑う連中が、『核を所持したいと熱望しているから』大問題なのです。
しかもこの連中には核兵器を実際に使うとの根性も覚悟も信念も、何も無い。
(この部分だけの限定なら愚樵さんの空論が成り立つから愉快)
逆の言い方をすれば、石原慎太郎と愚樵さんの核兵器に対する発想がこの部分だけは同じなのですが、これは十分に恥ずかしいことですよ。
それにしても何故こんな『使わないが(恰好だけ)持つ』との余りにも日本人的な間違いを(お馬鹿で見栄っ張りの慎太郎なら当たり前で、当然だが)よりによって愚樵さんまでが犯すのか、考えてみたら実に興味深い。
今回の原発事故ですが、日本の原発のベントは、まさに『有るが、(放射能が外部に漏れるので)決して使う予定は無かった』ので、本当に使わざるを得ない状態に追い込まれた時に東京電力は大騒ぎになってベントに失敗している。
ベントの実施には東電最高幹部の承認が必要であったらしいのですよ。
ところがアメリカではベントは使うために用意していて、その実施も現場の作業員の判断に委ねられている。
それで現在アメリカの原発は地震での全電源喪失で盛大にベントを行っているのです。
そもそもの根本的な考え方が違うのですよ。
アメリカの警官は人を撃つ為に各自が拳銃を所持しているのですが、日本国では愚樵さんの今度の論と同じで警官は全員拳銃を各自『持っているが使わない』のが大原則なのです。
(何度でも強調しておきたいが)使う覚悟も心構えも無い者が、そもそも持つべきではない。
それでは単に『危ない』(危険性が増える)だけ。
これは核兵器でも同じなので、だから恐ろしいのですよ。
核保有国が、核を所持している目的とは、将来の使用を真剣に考えてのことなのです。
アメリカの警官の拳銃所持の話と同じで、もしもソ連が先制攻撃でアメリカの司令部を破壊しても現場の末端の司令官の判断で核兵器が使える仕組みがあるらしい。スタンレーキューブリック監督の『博士の異常な愛情』では現地司令官が勝手にB52戦略核爆撃機に攻撃命令を出して仕舞い第三次世界大戦に成る話ですね。

民主主義とは何なのか

・宗純さん おはようございます。

いつものことですが、私の論旨を理解しておられないコメントですね(苦笑)。私の主張は、宗純さんの言い方でいうと「観念論」なんですよ(笑) そこへ「現実論」で反論されても...。神学論争になるだけですよ? まあ、私は神学論争ウェルカムですが。

でも、せっかくですからコメントにお答します。あくまで「観念論」の立場で。

愚樵さんの 『核を所持していたところで何ら問題はない。使わなければよいのですから。』は根本的に間違いですよ。

「現実論」でみれば間違いですね。しかし私は「理性が万全であるなら」という仮定を前提に論を組み立てているわけですから、その反論は私には意味を為しません。それに、その答えはすでにもえおじさんに提示済みです。

しかし。

アメリカは使うために持っているのですよ。

この指摘は考えてみる価値はある。その通りでしょうし、実際アメリカは(公式に)唯一の「核攻撃国」でもあるわけです。ここから“民主主義とは何なのか”を観念論的に考えること出来る。そもそも民主主義というのは理念なのですから、観念論的考察も有効なはずですよね?

民主主義とは「〈闘争〉を前提にした上での平和条約締結」だと定義しましたよね。民主主義国家とは平和条約締結のためのルールを整備した組織だといえる。

ここで疑問です。民主主義は、国家という枠のなかでのみ有効な理念なのか? それとも国家としての枠組みを超えるものなのか? 

「現実論」でいけば、“国家という枠のなかでのみ有効”というのが正解でしょう。しかし、それには「いまのところ」という但し書きがつく。つまり、現実はいまだ国家の枠の中に留まっているが、民主主義者一般は、民主主義は国家の枠組みを超えると考えている。これもまた現実なんですね。そして現実に、アメリカは自らを民主主義の代表と任じて、たとえば中国などをことある毎に批判する。もっともこれもダブルスタンダードだというのは周知の事実なんですがね。サウジアラビア「王国」を批判することはありませんからね。

しかしです。私たちはアメリカのダブルスタンダードは批判しても、アメリカが民主主義国家であることには疑念を抱いていません。事実、国家という枠組みのなかではアメリカは民主主義ではある。が、民主主義者の一般的な認識では、民主主義は国家の枠を超える。ならば、真に民主主義国家であるか否かの判断は、その対外的行動をも視野に入れなければならなくなる。

そこで、宗純さんの「アメリカは核攻撃の意志あり」です。そのように認定するならば、アメリカは平和条約締結への意志はない、と判断するのが妥当でしょう。つまり、アメリカは民主主義国家ではないという結論になってしまう。そしてさらに、宗純さんが“あまりに日本人的”というその発想こそが、真に民主主義的ということになるわけです。

まさに「空論」ですね。でも、それが目的でやっているわけですから、理解してくださいね。

あとはもう一カ所だけ、宗純さんの誤りを指摘させていただきましょう。

逆の言い方をすれば、石原慎太郎と愚樵さんの核兵器に対する発想がこの部分だけは同じなのですが、これは十分に恥ずかしいことですよ。

いやはや、これぞ観念論と現実論の混同の見本、といったところです。

私の発想はあくまで観念論です。だから、それが現実論になると「核兵器はダメ」ということなる。“理性が万全であれば”という仮定はあくまで仮定であり、現実にはありえない。原発に反対する理由も同じです。“原子力は安全です”は「神話」にすぎない。観念論として神話を議論することはありでしょうが、それを現実とするのはバカです。私が観念論と現実論とを区別できていないなら、バカで恥ずかしいことですが、実はそれは宗純さんなのですね。

私の石原、田母神、石破らへの批判は"観念論から言えば正しいが、オマエたちにはその観念を現実にできるだけの心構えがない、だから言う資格はない”というものです。

自身は権力の果実だけを味わい、ゴミは国民へ押しつけたい。

権力とは何か。観念を現実に変換する「力」のことです。そして権力者とは、“観念を現実へ転換するが、自身だけは観念の枠外に置く"者のこと。理想でいえば"自身も観念の内側に置く”でなければならないが、理想は神話でしかない。もえおじさんへのコメントで示した通りです。

『観念論』と『唯物論』

愚樵さんと宗純さんの、それぞれのご言い分…どちらが正しく、どちらが正しくないかの判断はつかないですね…。
『観念論』は、観念的もしくは精神的なものが外界とは独立した地位を持っているという確信を表すものである。つまり、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定される、という考え方ですね。それに対し、『唯物論』は、事物の根源は物質や物理現象であり、心や精神は脳髄の所産・働きであるとみる考え方。 社会の発展は、その社会のもつ物質的条件や生産力の発展に応じて引き起こされる。 と、Wikipediaに記されておりました。やはり、愚樵さんと宗純さんの、それぞれの立脚される理論的お立場が異なるが故の、齟齬(そご)ではないかなぁ…。などと、わたしなりに考えております。 いつも、おふかたの理論には、感服させられ、知的好奇心が刺激させられ、感謝しています…。わたくしの勝手な解釈ですので、悪しからずご容赦の程…。
愚樵様…今後ともわたくしめの知的好奇心を刺激してください。

Re:『観念論』と『唯物論』

・青い鳥さん

私と宗純さん、どちらの言い分が正しいのか判断がつかない。

通常、“どちらが正しいか判断がつかない”といった状態は「知性が不足している」と判断されがちですよね。確かにそういったことは多いし、今回のケースも青い鳥さんご自身そのように判断されているのではないかと推測します。

でも、判断がつきかねるのが知性の不足でない場合もあります。問題の捉え方の差異が感性の違いに由来している場合は、どちらが正しいか否かの判断は知性には無理です。知性に出来ることはそれぞれの感性を相対化すること。その上でどちらが正しいかを判断するのは、判断する者自身の感性を参照して、判断を下すしかない。

私と宗純さんの差異も、そのようなケースではないか考えています。

常識的にどちらが正しいのかといえば、宗純さんが正しいと言っておけばよいと思います。もっとも、この「常識」というのは世間一般でいう常識とはかなり異なる。社会を構成している「正しい(と広く共有されている)原理原則」といったような意味です。宗純さんの視点は世間一般の常識を「正しい原理原則」によって解析するもの、ということができるでしょう。

お分かり頂けると思いますが、私の視点はそれとは異なります。「正しい原理原則」に対して違和感を抱いていて、それゆえに「独自の原理原則」を提出しようとする。独自とはいってもオリジナルではなく、適当なところから借用してきたものなんですけどね。その、「適当なところ」を選ぶ基準が私の感性という意味で、独自なわけです。

宗純さんは私が変調を来していると仰いますが、ま、それはその通りです。「正しい原理原則」に叛旗を翻して独自の原理を提出するなんて、「正常」に出来るものではありません。ただし、今の社会で健全な感性を持つ者は「正常」感にこそ違和感を抱いているのも事実です。

そんなわけですから、青い鳥さんが私と宗純さんの間で「正しい」の判断を下せないというのは、感覚的にはまことに健全なことだと思います。

どうかこれからも「適当に」お付合いくださいませ。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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