愚慫空論

憲法を改正せよ!?

TVばかり見ているとバカになると思いつつ、それでもヒマに飽かして夕方の関西ローカルニュースバラエティーを見てしまうのが日課になりつつある今日この頃。で、バカになった証に護憲派の旗印をかなぐり捨てて、憲法を改正せよ!と訴えてみる。

ただし、9条ではない。“憲法改正!”というと直ちに9条を思い浮かべてしまうのは護憲派の悪い癖。致し方のない面もあるが。
今回考えたいのは9条ではない。バカになったからといって9条を変えよと主張するほどバカにはなれない、残念ながら。槍玉に挙げるのは15条4項である。


昨日見たニュースバラエティーでは、先日たった1週間で自認した遠藤元農相が取り上げられていた。趣旨は、官邸のいわゆる「身体検査」を批判するもの。遠藤議員が農相に就任した際、遠藤議員の地元でも“大丈夫か?”との声があがっていたというのである。
番組曰く。金と政治の問題が大きく取り上げられている折、地元でさえもその潔癖度を危ぶむ声がでるほどの人物が、なぜ「身体検査」をパスしたのか。官邸の機能そのものが低下していると言わざるを得ない。その責任は官邸を率いる安倍首相にある...。

それはまったくその通りだと思う。週刊誌レベルの報道だと、現在官邸はある主席秘書官に牛耳られいるのだが、この男が無能で、こんな間違いばかり引き起こす。そんな男を信用している安倍首相はまったく危機管理ができない男だ。さらには、前首相の秘書官は凄かった...なんて記述もあったりする。

そうした指摘に肯首するのはやぶさかでないにせよ、ある違和感は拭いきれなかった。その違和感とは、遠藤議員を国会に上げた地元の責任である。


日本国憲法 第15条4項
すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

前半の機密投票の規定については、とりあえず文句はない。しかし、後半はどうだろう? 「選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない」。この規定は、選挙人にその投票責任を免責することで、その選択の自由を保障しているものと解釈されている(と思う)。しかし、その自由がもたらした結果は何か? 堕落である。大臣になるのは危ないような人物を国会に上げておいて、しれっと“大丈夫か?”なんて疑問を呈するような無責任を生んでしまう。これこそが民主主義を衆愚政治に陥れてしまう大本ではないのだろうか?
選挙人がその選挙結果に対して私的に責任を問われることは許されないだろうが、公的には何らかの形で責任を問われるような、そうした制度を検討すべき時期にさしかかってきているように思う。

ただ、選挙人に責任を問うことに関しては、ひとつ技術的なネックがある。それは秘密投票が保障できなくなるという点だ。責任を問おうとするなら、誰が誰に投票したかが明らかにされなければならない。そうでなければ責任を問うことが出来ない。15条4項の後半の無責任規定は、前半の秘密投票規定から必然的に導き出される結論でもある。後半を改定しようと思えば前半にも手を加えなければならない。しかし、秘密投票は間接民主主義の根幹ともいえる権利であって、これにむやみに制限を加えるわけにはいかない。ジレンマである。

このジレンマを解消するにはどうしたらいいか? 僭越ながら、私にひとつ提案がある。参考にすべきはアメリカの大統領選挙。直接投票ではなく間接投票である。

1.選挙の公示。議員や地方自治体首長への立候補者を受け付ける。
2.立候補者推薦人の公示。 各立候補者を推薦する推薦人の立候補者を受け付ける。
3.投票。有権者は議員等への立候補者ではなく、各立候補者への推薦人に投票する。(秘密投票)
4.開票。当選の判定は、推薦人を経由して集められた各立候補者の得票数で判定される。
選挙制度

この制度においても、候補者の当否は実質的には従来通りである。そこに推薦人というワン・クッションを置いて間接選挙にする意義は、その推薦人に選挙についての公的責任を負ってもらうことにある。
推薦人が推薦した候補者が議員等になり、その議員等が権力を濫用して何らかの不正を働いた場合、推薦人は参政権の一部に制約を受けるようになる。すなわち、議員等への立候補を一定期間禁じられるのである。

その前提として、一般有権者の参政権のあり方にも一部制限を加える必要がある。議員等に立候補できるのは、前回の選挙の推薦人に限るということにするのである。つまり、議員等への立候補を志す人間は、まず推薦人にならなればならない(こちらには当然、現在加えられている年齢制限以上の制約はない)。二段階立候補になるのである。
この二段階立候補は参政権の制約になるが、多くの一般有権者にとっては実質的な制約にはならないだろう。ほとんどの有権者が生涯行使する参政権は候補者への投票権のみであるからだ。

また推薦人には一般有権者と違った特別の責務が負わされるの引き換えに、特別の権利が与えられる。推薦した議員等の政治活動を監視できる権利である。議員等は、推薦人に政治活動の全てを開示しなればならない。政治活動で関わる一般には公表できないプライバシーも含めてである。そうした監視活動の結果、推薦人はその議員の推薦人であることを議員の任期途中で辞退する自由を認められる。

次回以降の選挙で立候補を期する推薦人たちは、議員等への監視活動を真剣に行うインセンティブをもつ。もし議員等になにか不正があれば、自分が立候補できなくなるからである。つまり議員と推薦人との間には常に緊張関係が生じる。こうした緊張関係こそ(「ねじれ関係」ともいう)民主主義に必要なものである。

本来ならば、こうした緊張関係の維持はジャーナリズムが果たすべき責任である。しかし、日本のジャーナリズムはそうした責任を果たし得ていない。これをジャーナリストひとりひとりの正義感に帰して非難することは簡単だが、その根っこには国民の総無責任体制、つまり15条4項の規定があるのではないかと考えるである。

国民総無責任体制の結果責任を負わされるのは、国民自身である。ゆえにこうした制度は必要がないという意見もあるかと思う。だが、こうした責任の負わされ方は、現在の政治・経済・報道の状況から見ると、甚だしい不公平があると言わざるを得ない。一般有権者は限られた情報、ときには歪められた情報を元に候補者を判断しなければならない。また正しい情報が与えられるにしても、候補者を選択するにあたって参考にしなければならない情報は膨大なものになる。やっとの思いで毎日の生計を支えている人たちに、そうした膨大な情報を処理せよというのは酷なことだ。そうした余力のなさが、情報処理余力のある者の一定のベクトルをもった情報を信用することになってしまう土壌が生んでしまっている。こうした状況が政治をよい方向に導いていないことは明らかだ。

このような
国民総無責任体制を是正するのに、上記のような制度は有効であると考えるのだが。

9月10日追記
上記制度を実現するのに、必ずしも憲法改正の必要はないとの指摘を頂いた。
http://d.hatena.ne.jp/Gedol/20070429
感謝。

コメント

目から鱗とはこれですね。折角の選挙が有効に働いていないこともある。ただ、選挙すればいい、投票すればいいというわけでもないのですね。政治が国民のために機能してこそ、選挙の意味があるのですものね。日本の国民性から記事のような方法はいいかもしれません。
「選挙はしたさ。後は先生がなんとかしてくれるわな。」みたいなあなた任せの国民性。熱しやすく冷めやすい国民性。これが克服できない限り何らかの手段が必要かもしれないですね。

ところで、私は樵さんのブログをもう一つ愛読しています。Yahoo!ブログで森の番人という熊本県の方のものです。愚樵さんが、少し前のコメントで「取り残された」というようなことを書いてらしたので、ちょっと心配になりました。インターネットを介して山彦さんたちが情報交換できたら、日本の林業政策も少しは変わっていくのではと思います。

間接民主主義を廃止せよ。

愚樵さん。かなり苦労の跡が見てとれますね。
代議員制度だから難しいんですよ。
直接民主制と間接民主制のどちらが、より民意を反映させられるかと言えば、言うまでもなく直接民主制に決まってます。
議論するまでも無い真理ですね。
『間接民主主義の廃止』と『直接民主主義の復興』此れで問題のほとんど解決します。

民主党の松下政経塾出身の坊ちゃま議員たちが比例区議員の縮小、廃止を提案していますが、そんなけち臭いことではなく代議員制度の完全廃止。
代議士を失くして、すべての国民を国会議員とする。
愚樵さんも国会議員、私も国会議員、みんなも国会議員、此れこそ本当の国民主権じゃないですか。

国会論議などの、技術的な問題はインターネットの利用で何とかします。
投票も代議員を選ぶ選挙ではなく,自分自身が直接討論に参加して法案に賛否を投票するので重さが全く違ってくる。モチベーションが違う。
直接民主主義なら国民意識が全く変わってくると思いますよ。
投票して其れでお仕舞いで済む、今までのような無責任は通用しない社会に変わります。

何故直接民主主義が廃れたか

より優れた民主主義の直接民主主義が何故廃れたかというと、インターネットの無い昔は大人数では運営が難しい。それで社会が大きくなると代議制になってしまった。
直接民主制こそデモクラシーの根本原理です。
昔のギリシャの都市国家は数百人規模で、アテネなんかの例外の大きな都市は問題が色々噴出。
僭主を防ぐためのオストラシズム(陶片追放)をやって民主主義を守った。(日本なら純一郎氏や慎太郎氏は間違いなく10年間の国外追放か)
スイスの田舎町で住民が全員集まって議決する等の直接民主制は、小さいことが成立条件。
日本は大きすぎるんですよ。
アメリカは日本より大きいように見えるが、実は全く違う。
USAは主権を持った州(States)の連合体で、憲法には勝手に紙幣を発行するな、勝手に外国と条約を結ぶな、勝手に戦争するなとか書いてある。
書いてあると言うことは、勝手にやった州が以前には沢山あったのでしょう。

日本も地方分権の必要があります。
なるべく小さくすれば民主主義に近づける。
後醍醐天皇の第三皇子の大塔宮護良親王ゆかりの大塔村が近頃の町村合併のあおりで無くなりました。
奈良県と和歌山県両方に在ったのですがそれぞれ五条市と田辺市に吸収合併されました。いくら歴史があっても人口700人程の村では平成の大合併に勝てなかったようです。
護良親王は南朝でもっとも有力な人材だったのですが見方に裏切られ北朝方に引き渡され足利尊氏の弟の直義に殺害されています。
美しい日本とか歴史とか言うのなら、歴史のある村が生き残れる政治でないと駄目ですね。

秘密投票という原則

ちょっと議論がずれるかもしれませんが、秘密投票というのは、近代民主主義に特有の原則なのですね。
投票というのは自己の意見を表明することであり、それを秘密で行うというのは、古代アテネの市民などにとってはたぶん想像もつかないへんてこな話のように聞こえることでしょう。
いうまでもなく秘密投票が必要なのは、投票の内容が明らかになることによって、その人が被る不利益を防止するためです。
スターリンがソビエト憲法を改正して秘密投票を導入し、ソ連の「民主化」を宣伝したとき、トロツキーは、それは「ソ連の国民は今日まだ自分で選びたいと思う人間に投票できないでいるということだ」(裏切られた革命)と言いました。
秘密投票が必要だということは、民主主義という理念にもかかわらず、実際には国民は国家の主人公ではない、国家と国民の間には現実として大きな乖離が存在しているということを告白しているようなものです。
むろん、だから秘密投票を廃止せよということではありませんが。
制度としての秘密投票は維持しながらも、政治という問題を公共性に関わる問題として、もっとオープンに議論できるような環境がとりあえずは必要なのだと思います。

追記:コメント一番乗りだと思っていたら、書き込んでいるうちに他の人に先を越されてしまいました。残念!

はじめまして、訪問履歴からきました(^^)

しょっぱな、憲法を改正せよ、ときたもんですから
そのまま立ち去ろうかと思ったのですが、
「ちょっと違うぞ」ということに気が付き、一言コメント残させていただくことにしました。

議院内閣制はただの票田相続安定制度ですね。
既存権力からの脱却なんぞできません。
そろそろ見直すのもいいんじゃないかと思います。

でも、9条は守り抜いていだたきたいですね。

市民としての意識

あつくさん>
>「選挙はしたさ。後は先生がなんとかしてくれるわな。」みたいなあなた任せの国民性
私自身はそうした国民性が好きなんです。好きというよりも、実はそうした性向は大切ださえ思っています。
でも、大切だからそれ一本槍でいけば言いかというと、それは違いますよね。政治に主体的に関わっていく市民としての意識も大切。要はバランスなんです。

日本からヨーロッパなどを見ていると、あちらはそうした市民としての意識が非常に高いように見えますね。ですから日本の市民はヨーロッパを見習えと盛んに言いますし、それはそれで正しいと思ってます。直接民主制であれ間接民主制であれ、市民ひとりひとりが主体的ない式をもってそれぞれの役割を自覚していれば、制度なんて2の次...、というと語弊がありますけど、どんな制度でもそれなりに民主主義は機能する。

ところが日本の場合、民主主義という政体を機能させるにはまだバランスが悪い。本文のような制度を考えるきっかけになったのはそこでして、制度改革が意識改革に繋がるのではないかと、そのあたりが出発点なんです。

「森の番人」

あつくさん>

あ、それから『森の番人』、とりあえず覗いてきました。折を見てコンタクトとってみたいと思います。ご紹介ありがとうございました。

直接民主制の限界

直接民主制というと古代ギリシャが代表例として取り上げられますけど、私はそれよりも日本の「寄合い」こそがその代表例だと思うんですよね。宮本常一の著作などにも出てきますが、多数決の原理は導入せず、皆の意見合意が得られるまで、徹底的に(ディスカッションではなく)ワークショップする。これこそ民主主義の真髄だと思うのです。
ただこの直接民主制には大きな限界があって、それが大きさの問題。こうした寄合いでは「わたしとあなた」という関係性(【private】領域での関係性)が重要ですから、大きなものにはなり得ない。ネット技術がどれほど進展しようとも、この限界は超えられないでしょうし、超える必要もないと私は思います。むしろそうした限界性を活用する方向で考えられないかと思うのです。

そう考えたとき、実は代議士制というのもそう捨てたものではありません。今、私が住んでいる集落でもそうですが、区長と言われる責任者は寄合いで決まります。本文の制度に即して言えば、区長を決めるように推薦人を決める。その本文では簡略化のために候補者・推薦人・有権者の3段階でしか書きませんでしたが、もっと複雑にしてもいい。つまりある推薦人が別の推薦人を支持するという構造も取れる。そうした階層構造のなかで、下からの意識が徐々に積みあがっていく。意識と言うより「納得」でしょうか(『T.N.君の日記』にそういう内容の記事がありますhttp://stenmark.exblog.jp/5890077/)。

ネット技術が進展すれば、布引さんの仰るような古代ギリシャ的直接民主制が現在の国家の規模か、それを越えた地球的規模で実現できなくはないと思います。だがその制度は、ひとりひとりに主体的に政治に参加する「市民」であることを強要するか、あるいは「市民」でない自由を認めるか、どちらかになってしまいます。
強要するのは自由に反するし、かといって自由を全面的に認めてしまえば堕落が起こる。これはギリシャ的直接民主制が「個」を前提にしているからそうしたことが起こってしまうのですが、そうではなく、共同体というワンクッションを置くことで、「個」がどの程度主体的に政治に関わるかを自由に幅を持って選択できる、そうした制度を設計できないか、そうした考えが基本にあるわけです。

尚、上記のような制度においての秘密投票は、「個」として主体的に政治参加する権利を担保するためのものです。共同体が政治主体になると、勢い、「個」には圧力がかかります。共同体に一部という形での政治参加を選択するか、あくまで「個」で政治参加をするか、そうした選択の決定権はあくまで「個」にあるべきだと思うので、その意志が侵害されないようにするためにも秘密投票は必要だと考えます。

もちろん、9条は護持です

ママちゃん、ようこそ。

そうです、9条は変えるわけにはいきませんよ。他にも変えてはならない規定はいっぱいあります。自民党草案で変わっていたところはみな、変えてはいけないところです。

投票の秘密

>日本の「寄合い」こそがその代表例
そうそう。日本では直接民主主義は伝統的に存在していた。
古代ギリシャの直接民主主義を取り上げたのは皆が知っているからで『日本の直接民主主義』を知らない人に説明するのは大変。
其れと地域地域によって名前が『結い』とか色々あり、制度運用も地域によって全く違ってくる。

今の代議員制度の一番の問題点は、代議員(代表)ではないことでしょう。
議員と言わずに代議員と言う方(民主主義的には)が正しい。
代議員と言わずに代表と言う方が正しい。そうです、一同代表であるべきでしょう。
今の保守(自民党)議員は一同代表ではなく,地域ボスでしょう。
戦前のように、大勢の小作人を一人の大地主が代表して民主主義と言えますか。?

それと、愚樵さん、田舎に投票の秘密が存在するなんて話を信じてはいけません。
昨日の晩に何を食べたかさえ秘密に出来ないところで投票の秘密が守れると思えますか。?
田舎の者が都会に憧れるのは秘密が曲がりなりにも守れそうだからでしょう。
誰が何を支持し、誰が誰に投票したかは皆が最も関心のある話で正確に記憶(記録)されています。
田舎で『投票の秘密』とは、其の天下周知の事実を絶対に表に出さない事を指しています。

Re:投票の秘密

かつさん>
>田舎に投票の秘密が存在するなんて話を信じてはいけません

いや、まったくその通りで、現に私の住む場所でも存在しません(笑)。

>投票の秘密とは其の天下周知の事実を絶対に表に出さない事
これも仰るとおり。で、あればこそ、秘密投票というフィクションも必要かと。

院政?

愚樵さん、こんにちは。「自由」と「堕落」の問題はなかなか難しいですね。制度改革で意識改革が出来るのかどうか、こと国政に関しては僕は疑問視しています。

一読させて頂いた率直な感想ですが、愚樵さんの提案された制度ですが、僕が選挙参謀だったら、「議員になる意志のない推薦人」に有力者を据え、意のままになる議員を推薦します。それこそ議員のプライバシーまで全てを監視出来るので、権力は実質推薦人が握れるようになります。結果的に国会議員の権力が薄まり代わりに地域の推薦人による院政が進むような気がします。地方分権の機運になるかもしれませんが、ヤクザ的共同体が跋扈し、決して民衆が主体になることはないだろうなーと感じました。ただ、愚樵さんの危惧しておられる「無責任」体制については、僕も同じ問題意識を持っており、今後も考えていきたいと思います。

 僕の田舎は人口2000人前後で、観光資源に恵まれているにもかかわらず、財政問題を理由に昨年市に吸収されました。大阪府でも唯一の村である千早赤阪村が河内長野市との合併を模索中です。僕は両村とも愛着があるだけに寂しい思いがします。

 なんとか再建の方策はないものかとニュースを見る度に思うのですが、自然とか共同体の価値とかで再建をと唱えるのを聞いても、そこで育った者としてはなんだかなーという思いも抱きます。一方で、自然とか共同体を齟齬にしては再建は出来ないという認識もあります。共同体自身が止揚する必要があるんだと思います。ではどうしたらいいのか?

 その一つとして、突拍子もありませんが、議員の無償化とインターネット(skypeなど)の積極的活用かなーなんて漠然と考えていました。
 議員の無償化は言うなれば、直接民主主義の導入です。時間空間的制約に対し、インターネットの双方向コミュニケーションシステムを積極的に活用する。また、インターネットには、共同体の枠(閉じた側面の利点)に個々人の開いた世界を内包した、新しい共同体を構築出来るのではないかという期待もあります。

 人間の活動の衝動は、いい意味でも悪い意味でも、情報をより多くより早く得ることで推進して来た側面があるように思います。インターネットである意味その目標に到達出来たのではないかと思いますし、地方はインターネット時代だからこそ復興出来ると僕は強く確信しています。
(話が大分ずれてしまいました。反省)
 

地方はインターネット時代だからこそ復興

pantherHさん

地方はインターネット時代だからこそ復興出来るというのは、私もそう思っています。ですが、その「復興」は下手をすると、地方としての特色を失った都市的な復興に終わる可能性を懸念しています。

>人間の活動の衝動は、いい意味でも悪い意味でも、情報をより多くより早く得ることで推進して来た側面がある
という認識は多くの人が共有するものでしょうが、実は私はここに疑問を抱いています。pantherHさんは、「いい意味でも悪い意味でも」という言葉を挟むことで辛うじてこうした認識に全面的に賛成でない旨表明されていますが、私は少なくとも“より多く”という点に関しては疑問視しています。

これは「情報」というものに対する認識の違いから出てくるのですが、思うに、人間の処理できる情報量というのはそもそも生物学的な限界があって(だから当然個体差はある)、どこまでも無限に情報処理できるものではないこと(これには同意してもらえるでしょう)、そしてある種の情報を多く処理するようになると、他の種類の情報処理が脇へ押しやられる結果になってしまう。そういう事態が起こると思っているわけです。

多くの人たちが、“より多くの”情報を処理できるようになったと錯覚しているのは、メディアの発達で“早く”というより無時間的な情報に接する機会が多くなったせいで、そのために時間をかけなければ処理できない情報の処理能力が低下している。昔は今よりも時間性情報を処理する比率が高かったのが、今は圧倒的に無時間性情報を処理する比率の方が高くなってしまっていて、そのことを「多くの情報に接している」と錯覚している。これが私の認識なんです。

インターネットで多くの情報を広く共有できる可能性が広がっていることは、素晴らしいことである反面、より時間性情報が脇へ押しやられる傾向を後押ししている。地域の復興という問題を考えたときには、時間性情報の重視という側面を無視できないと思うのです。それを無視してしまうと、地域は何の特性もない、ただ都市が過疎化したものに終わってしまいます(実際にそうなりつつありますね)。

pantherHさんは、政治に「納得」というものを持ち込むべきだと主張なさいましたが、この「納得」は時間性情報により醸成されるものです。時間性情報はメディアを通じて取得することは困難ですから(これは間違っているかもしれません)、リアルな人間対人間同士の触れ合いの仲で取得していく他ありません。そうした認識が出発点になって、「推薦人」制度なるものは発想されたわけです。

ご指摘のように「推薦人」制度がやくざ政治の温床になってしまう可能性はあると思います。ですが、これはどのような制度にも付き纏う運用の問題であると思います。結局鍵は、制度改革が意識改革を誘導できるかという点にかかっているのですが、歴史を俯瞰してみるとき、制度改革が意識改革を誘導したという例は皆無ではないと思います。

情報について

>昔は今よりも時間性情報を処理する比率が高かったのが、今は圧倒的に無時間性情報を処理する比率の方が高くなってしまっていて、そのことを「多くの情報に接している」と錯覚している。

 愚樵さんのこの認識に僕も強く同意します。無時間性情報処理を、t→0 (t(=時間)が限りなく0に近づく)という観点から、僕は「微分」ということばを使って説明しようとしています。「微分」は最終的に「定数(変化しないもの)」に帰着します。すると愚樵さんのおっしゃる無時間性情報処理の行き着く先もまた「変化しないもの(=無機的)」になります。だから「情報」を無時間性にハンドリングすればする程、必然的に「無感動」で「非人間的」なものになるのだと思います。

 ではなぜこれ程までに、無時間性情報処理が席巻してしまっているのか、愚樵さんは以前のエントリーで、「無時間性=等価交換」というコンテキストで、貨幣経済とのシンクロを指摘されていました。「お金」は交換に付随する「感情」をオミットするという作用を有することなどを思うと、まさにその通りだなーと納得致します。一方僕は「微分=次元を下げる」というコンテキストから、言語が無時間性にシンクロしているという点にこだわっています。決して「言語」の価値を否定するものではないし、「言語化」が先ず大前提であるとの捉え方をしていますが、その構造から「言語至上主義(=科学至上主義)」の行き着く先は「人間疎外」しかないと思えてならないのです。これは「金銭至上主義」が「人間疎外」に帰着することと相似形だと感じます。

 だから「言語」の無時間性へのアフィニティーゆえ、時間性情報(愚樵さん的”情”)について語ることが困難であり、”情”を語ることが「言語=科学性」に対する否定と捉えられてしまい、アレルギーを生んでしまうのではないかと感じています。まあ、「お金」についてはその通りだと思いますが、言語については、「言語至上主義」どころか「言語崩壊」の方がメインで、それこそ観念的だと一笑に付されるのが落ちですが・・・(笑)。

 愚樵さんのコメントに対する答えになっていませんが、「情報」に関する幻想がこの辺りにあるように思えてなりません。そしてインターネットは無時間性情報処理の最たるもにですが、人間の求めた「より早い=より重要」という「情報の錯覚」が、「充分に早い」がインターネットで普遍化してしまったことにより、その錯覚が崩壊する可能性があるのではないか、そういう方向になったらいいなという希望的観測と、もしそうなったら、時間性情報が豊富な地方は、それこそ両義的情報のメッカになりうるのではないかと期待しているという訳です。


 

微分があるなら積分もあるはず

微分という着眼点は面白いですね。その話の続きを是非とも聞いてみたいものです。

微分という作業は、方程式の次元を下げるだけでなく一次元の数値を切り捨ててしまいますね。その一次元を「風土」とか「個性」だとか「情」だとかと考えると、言語や貨幣が人間を疎外していくという図式を上手く説明できそうです。実は私も「言葉と貨幣のアナロジー」と題して文章を書きつつあるのですが、途中でうまくまとまらなくなって、今、保留中なんです。このあたりはpantherHさんにお任せした方がよさそうです。

ところで、私は前のエントリーで【personal】〈【private】【pubulic】の三要素を掲げた図を示しましたが、微分はその図に沿って言うと【personal】から【pubulic】への左巻きになると思うんです。ならば右巻き、積分のあるはずなんですよね。

『晴耕雨読』の早雲さんが「「理性的判断力が豊かとは想像力が旺盛なことである」 というタイムリーなエントリーをアップされていますが(http://sun.ap.teacup.com/souun/992.html)、積分を支えるの「想像力」なんでしょうね。私に言わせれば、「想像力」は「時間に育まれた情」に依存すると言うことになるのですが。
さらに積分の場合、微分では切り捨てられる定数Cが不確定なまま出現していくことになりますが、こうしたCを確定する役割を担うのが、たとえば「師匠」という存在だったりすると考えられるのです。また「師匠」という言葉で連想されるのが「修行」ですが、つまり「修行」とは積分をしようとするための営為であり、近代以降優勢となった頭脳優先の理性による科学的思考とは対極にあるものと考えることが出来そうです。

>「情報の錯覚」が、「充分に早い」がインターネットで普遍化してしまったことにより、その錯覚が崩壊する可能性
は、あると思います。これもいわば積分が起こるわけですが、その際定数Cを適切に定めないと、本文で私が提案した制度がやくざ社会の温床になる可能性があるのと同様、弊害の多い妙なことになってしまうかもしれませんね。

補足

上のコメント、少し舌足らずだったので補足。

言葉や貨幣は、必ずしも微分の方向にだけ作用するものではないということを細くしておきます。

言葉の分野において積分の方向性をもつ営為が文学です。なかでも短歌とは俳句のように、切り詰められた言葉で大きな世界を想像させるという技は、積分の典型例と言えるように思います。

貨幣は積分的方向性と馴染みにくそうですが、たとえばある著名なドラマの中で出てくる「泥のついた一万円札」などは(知っている人は知っている。説明は面倒だから略)、そうした例ではないでしょうか。

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「殴った警官にエール殺到」…なんだか情けねぇなぁ

 どうやら神奈川あたりでポリコが高校生を殴って逮捕されたらしい、ということをことを「お笑い道場」で知った。 で、gege師匠が収集した新聞の記事+αによると、マナーの悪かった高校生(車掌に注意されマナーを修繕後に)警官がとつぜん殴った、そのポリコを止めに入っ

“彼ら”とは議論できると思っています

マルハナバチさん:「たとえば今回下のような文があります。>地域の人たちは、ピラミッドの頂点にある支配層を意識することなく、その支配を支えている金融システムも空気のように気にかねないかもしれません。>地域の人たちがあれこれ文句をつけるのは、民主主義的に選出

[雑]違うと思う

ネット放浪で拾ったネタ。エントリの本旨は面白いし、理解できない事は無いのだが・・・。 日本国憲法 第15条4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。 前半の機密投票の規定について

9条を改憲するか否か!?

こんばんはー!?終戦記念日も間近ですが、今日は先日、弁護士さんに原宿露店で聞かれたこのお題。この弁護士さんもこの問題、いろいろと弁護士仲間で考えたり議論したりするんだけど、どうも着陸点が見えない。そんなお題に答えたんですが、結果は「スッキリ」して帰っても

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