愚慫空論

小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉

私はここのところ、「折り合い」という言葉に惹かれている。

民主主義は闘争の果ての「平和条約締結」。この「平和条約」も「折り合い」である。
ただし、これは大きな「折り合い」だ。闘争も「大きな折り合い」であるという思想である。

〈世界〉は調和している。洋の東西を問わず、だれもがそのように考えている。
調和は「折り合い」。つまり〈世界〉は最終的には「折り合い」である。

ここで問うてみたいのは、「折り合い」の中身である。
「折り合い」の中身は闘争か。このように考えるのが「大きな折り合い」の思想だ。
対して、「折り合い」の中身もまた「折り合い」である、と考えることも出来る。
大きな「折り合い」は小さな「折り合い」から出来ているという思想。
これを「小さな折り合い」の思想と呼ぼう。

(以下「小さな折り合い」を〈折り合い〉、それに併せて闘争も〈闘争〉と表記する)。

現代社会で支配的なのは「大きな折り合い」の思想である。
民主主義然り。市場原理然り。自然観も「大きな折り合い」に拠っている。
「大きな折り合い」では〈個〉を〈闘争〉と定義づける。
「小さな折り合い」では、〈個〉もまた〈折り合い〉となる。

風の谷のナウシカ 〈個〉は〈闘争〉なのか〈折り合い〉なのか。
〈個〉は〈闘争〉であるべきなのか〈折り合い〉であるべきなのか。

私はここで、そのようなことを問いたいと考えているわけではない。
それ以前に、〈個〉が〈折り合い〉であるというのがどういったことなのか。「大きな折り合い」に思想が支配的になり、私たちは「小さな折り合い」の思想を見失っていると思う。
だから、〈折り合い〉である〈個〉とはどのようなものなのかを示してみたいと思う。それは「王蟲」である。

物語の中盤。戦争を始めた人間達は、戦争に勝つため、人類の生存を根底から脅かしている「瘴気」を兵器として使用する。 そしてその兵器開発の一環として生み出されたのが「粘菌」である。粘菌は突然変異を起こし、暴走する。これがナウシカが予知していた「大海嘯」だ。腐海の蟲たちは、粘菌を迎え撃つ。

ナウシカ00

ナウシカは粘菌を追いかける。そこで王蟲と再び出会う。

ナウシカ02

ここではまだ、ナウシカは自らを〈闘争〉と考えている。ゆえに王蟲も〈闘争〉と考えている。だから、粘菌には負けるいう理由で、ナウシカにとってかけがえのない存在である王蟲に帰れという。王蟲もまた、ナウシカを守るために帰れていうのだと思っている。

ナウシカはかけがえのない者の死を、自らの無力を悲嘆する。が、悲嘆に折れてしまいはしない。

ナウシカ04
ナウシカ06

かつて「引き出したもの」を、引き出したが意味がわからなかったものの「意味」を、ここで発見する。

ナウシカ07

ナウシカは、王蟲をはじめとする蟲たちが〈折り合い〉として生きていることを発見した。
森が「小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉」であるということを発見した。

ナウシカ14

そこでナウシカは、自らも〈折り合い〉であることを願望し、粘菌と蟲たちの〈折り合い〉のなかへ合流しようとする。
だがその願いは、果されなかった。王蟲に許されなかった。ナウシカは、人間社会に〈折り合い〉をもたらす使命を帯びた者として、人間社会に帰還していくことになる。


『ナウシカ』において、王蟲は〈折り合い〉への意志をもつ〈個〉として規定されいる。
だが、『ナウシカ』は架空の物語である。王蟲は実在しない。だが、王蟲が実在しないことは〈折り合い〉への意志を持つ〈個〉が存在しえないということを意味するわけではない。

実在の人間を除く生物は、〈個〉を持たないと考えてよいだろう。
〈個〉をもたない生命たちの〈世界〉は、ゆえに、〈闘争〉でもなく〈折り合い〉でもない。
〈個〉をもつ人間がどのように見るか、その「見方」の問題である。

食物連鎖ピラミッドという概念がある。
上位の者は下位の者を食物とするが、上位は下位と比較すると「生命量」は圧倒的に少数。
〈闘争〉と「生命量」のバランスで「調和=大きな折り合い」がとれていると考えるものだ。

だが、生物はほんとうに〈闘争〉をしているのか。
下位の種が多数の子を生むのは、種保存のための「戦略」なのか。
それは私たちの「見方」を反映したものでしかないだろう。

ならば〈折り合い〉を機軸とした「見方」から、世界観を組み立てることも可能なはずだ。
民主主義も市場原理といった社会統治の原理も、〈闘争〉ではなく〈折り合い〉を機軸にすることも可能なはずである。

【追記】

〈闘争〉〈折り合い〉は、『るいネット』で「私権原理」「共認原理」と呼ばれている概念と同じなのかもしれない。

コメント

本筋とずれた話になりますが。

『ナウシカ』を読んだことがないのですけれど、記事を読んで思い出したことがあるので少々書かせていただきます。エントリの内容とずれていて申し訳ありません。

以前住んでいた部屋の中で、大きなハエトリグモが小さいハエトリグモを追いかけているのを見たことがあります。
一瞬、交尾行動かと思ったものの、ハエトリグモの仲間は概して雌雄の形に特徴的な差があるのでどちらも雌だとわかりました。
また、徘徊性の蜘蛛ははっきりとしたテリトリーを持たない上に他種の蜘蛛を食べることがあります。
そこで、捕食行動だと理解しました。

ハエトリグモは視覚が非常に発達しているので、視野の中に獲物を捉えて、狩りをするのです。
大きいのがとことこ歩いて間合いを詰めると、小さいのが後ろを振り向いて様子を窺い、とことこ歩いて詰まった分の間合いを開ける。
すると大きいのがまたとことこ歩いて間合いを詰める。
小さいのが間合いを開ける。

そんな、鬼ごっこみたいな真似を蜿蜒繰り返している。
面白いので暫く眺めていました。
所用がありその場を離れてしまったので結末は分かりません。

ハエトリグモは、しおり糸を足場に貼って、相当な距離を跳躍することが出来ます。離れた獲物に一瞬で襲い掛かることも出来れば、天井からダイブして床におりて一気に逃げることも出来るのです。
しかし追う方も追われる方も共にそれをせず、淡々と追いかけっこをしている。それが面白かった。

それで思ったのが、「生存への脅威」に対する認識が人間とかなり異なるのではないかということです。
蜘蛛や、綱が異なるものの昆虫などは「恐怖」というものが希薄なのかも知れない。人間の感情を他の生物に当てはめること自体が間違いといってしまえばそれまでですが。
ハエトリグモは指を伸ばせば近づいて上に乗ってくることがありますし、ミツバチやオオスカシバなども掌を差し伸べると寄ってくることがあります。
彼らは恐れが少ない。

「脅威」に対する恐れが大きく、強力な殲滅兵器や防衛システムを創り出して結果的に己の生存を脅かしている人間に比べ、恐れの少ない生物が遥かに長い悠久の時を生き抜いてきたことは、一種の皮肉のようにも思えます。

人間は、自分自身の恐怖や不安との「折り合い」を付けなければいけない時を迎えているのかもしれません。
どれだけ強大な力を持っても、それで恐れを減らすことが出来ないのであれば。

『ナウシカ』、是非読んでみてください

・黒い時計の旅さん

動物は基本的に脅威を感じる能力を持っている。対して植物は持っていないと考えられる。昆虫やクモといった“下等な”動物は脅威を感じる能力が小さい。これは、最も脅威に敏感な私たちヒトの「見方」ですね。脅威は生存を脅かすものですから、この「見方」はヒトの世界観の大元を支えていると考えて良いでしょう。

また同時に、そんなふうに考えてみることができれば、では、クモや植物はどのように〈世界〉を見ているのか、理解出来るはずはありませんが想像してみることくらいは出来る。「死」が脅威でないならば? それは贈与になるでしょうか。

植物それに“下等な”動物は、多数の「子孫」を残します。脅威からくる「見方」によれば、それは種保存のための「戦略」です。が、贈与とみればどうか。〈世界〉の見方は一変します。

人間は脅威に敏感、というより過敏と言った方が良いでしょう。肥大した脳の能力のおかげで脅威を想像(創造)できてしまう。人間が非人道的な行為を行なってしまうのは、想像によって膨らまされた脅威に駆り立てられるから。そういう恐慌状態は理性が足りないから起こる。その理性は、いまや肌の色や風俗の違いを超えて、人間は同じ仲間なんだという共通諒解を導き出している。それは確かに「進歩」と言ってよいと思います。

ですが、この「進歩」は一方で生命を贈与と見る「見方」を退歩させてしまっています。〈折り合い〉というのはこちらの「見方」なんですね。そしてそれはおそらく、黒い時計の旅さんのような「気づき」から生まれてきたのだろうと私などは想像するんです。

一神教を信奉する人たちは超越的な絶対神を想定し、生命はそこから贈与されたものであると捉える。よく砂漠の宗教といわれますけれども、砂漠では生命の絶対量が少ないことから考えると、自分自身が生きていることは奇跡のように感じられるのは当然。生命の希少性への「気づき」ですね。一方、生命が豊かな森林では「気づき」は「生命の差異」に向かう。黒い時計の旅さんの「気づき」がまさにそれ。「生命の差異」から自身の価値を組み立ていく。日本人の無常観を伴う自己確立はここからきているのだろうと思っています。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/499-fb03f02e

バイアスの見直し

「光るナス@らくらく塾」の方へ、過去の記事「生命ってスゲー!」をリアップしたので、それに絡めて少々。 僕らは、自分が「わたし」だと思ってる「わたし」が生きていると思っ ...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード